2016年4月4日月曜日

2016年3月20日

2016年3月20日 棕梠の主日礼拝 説教要旨
  「荷を負う子ろばにのって」宇野稔牧師
  (マタイによる福音書21章1〜11節)
 
 
 今日は棕梠の主日です。エルサレムに入城するイエスを群衆が歓呼のことばで迎えたと云います。イエスの人生の中で最も華やかな情景です。人々はイエスがローマからユダヤを解放してくれるメシアだと期待してお祭り騒ぎを始めたのです。イエスはその真ん中を通り抜けてエルサレムへと進みます。まさに王を迎えるような行為だったのです。
 この歓迎の嵐の中をイエスは子ろばに乗って行くことは滑稽のようですが、マタイはイエスが旧約の預言の成就を行動で訴えたのだと云っています。ろばに乗るのは力の王ではなく、高ぶらない王だと云いそれを「柔和」と記しています。
 つまり真のキリストは人々が求めているような「力の王」ではなく、むしろ外面的には自ら痛み、傷つき、惨めに思えるが内面では激しい闘いをしている、そんな道を歩むというのです。人間の罪を担うため本当のメシアなのだということをイエスは子ろばに乗って示したのです。
 ろばは、持っている力を他者を倒すためではなく、他者の荷を担うという力として用いられるように躾けられたのです。
 イエスは十字架につけられました。真実を生きつつ策謀と誤解の中で死ななければなりませんでした。しかしそのような状況の中でもイエスは生き方を決して変えなかったのです。人間の弱さを担い、人に愛を示すために生きつづけられたのです。外面的には恐ろしい政治の力に翻弄されたように見えます。力弱く志し半ばに倒れたように見えます。
 人々が熱狂してり冷めたりする中で、厳しい闘いが続けられたのです。イエスは十字架の死に至るまで愛する戦いを止めることはありませんでした。強い意志と祈りとが必要としていたからです。優しいということは、真の意味で強いのです。その優しさに私たちは支えられているのです。自らが強いのでなく、支えて下さる方優しく強いのです。その方を信頼しその方に委ねて歩みたいのです。
 

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