2016年8月14日日曜日

2016年7月31日

2016年7月31日 主日礼拝説教要旨
  「神の選んだ器」宇野稔牧師
  (使徒言行録9章26〜31節)

 使徒言行録を読んでいると、ふと思うことがあります。「もしパウロという宣教者がいなかったら、キリスト教はせいぜい地中海沿岸地方に散在していたユダヤ教の一派にとどまっていた」、そんな仮説が立てられるくらに、パウロがキリスト教全体に及ぼした影響は大きいものがあります。
 パウロはローマの属州キリキアのタルソスで生まれ、ローマの文化も吸収し、学問を研き、精神的には一点の曇りもなユダヤ人として育ったのです。会堂においても律法教育を受けて育ち、アラム、ヘブライ、ギリシア語に精通していました。ローマの市民権を得ており裕福な家庭だったのです。
 パウロはキリスト教迫害運動に加わりダマスコを目指したのですが、到着するという所で彼は強烈な体験をします。それは主イエス・キリストとの出会いです。それによって回心し、キリスト教の宣教者になるのです。
 それで今日の箇所につながります。3年間ダマスコで宗教活動をしたのですが、まだ信頼されてなかったようで、そのパウロをエルサレム教会とつないだのがバルナバでした。パウロがまことのキリスト者であり、情熱の伝道者であることを知り、ペトロに紹介しました。主の兄弟ヤコブともつながります。バルナバはパウロを招き教会形成を共にします。そしてアンティオケア教会から世界宣教が始まっていくのです。
 パウロは主の選ばれた器でした。彼の働きは大きいものでした。しかし、器が働くためにどんな人々が必要だったでしょうか。周りで支える人、共に働く人がいなければパウロも存在しなかったのです。私たちも主に選ばれた器です。「自分はそんな器ではありません」と云うかもしれない、でも器が立派だから選ばれたのではありません。大切なのは「神が選んだ」ということの方です。神が選び用いて下さるのです。私たちが逃げ出しても追いかけて下さる。迷ったら探しだして下さる。傲慢になったら諌めて下さる。危険な時には守ってくださる・・・・それが選ばれたということです。
 これこそ私たちの喜びであり、希望なのです。その確信をもって生きて行きましょう。



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