2017年5月2日火曜日

2017年4月16日

2017416日 復活日礼拝説教要旨
   「もう泣かなくてもよい」 宇野稔牧師  
    ヨハネによる福音書 201118
空虚な墓の前でマリアが経験した復活のイエスとの出会いとは何だったのでしょうか。
 ヒントになるのはイエスが行った「マリア」という呼びかけです。マリアはこの言葉で自分の話している相手が復活のイエスだと判った事からも明らかなように、この名前を呼ぶ行為は決定的な出来事でありました。
 古代文学では名前はその人の全人格・全人生を表すと考えられていました。イエスが「婦人よ」ではなく「マリアよ」と名前をもって呼びかける時、そこには「私はお前の全てを知っている。すべてを理解している。」という意味があります。神と出会う人は皆個人です。「アブラハムよ」「モーセよ」というふうに一人の人間として神の前に立たされるのです。一人になる時に初めて神とその人との関係が生まれてくるのです。イエス自らが呼びかけるということは、その人に依頼したいことがあるわけです。即ち「あなたを必要としている。私の目的のためにつかわす。」というメッセージだったのです。マリアが復活のイエスに出会った出来事は、自分にかけられている神の愛を知り、期待を知ったということでなのしょう。今まではマリアがイエスを必要として来たのですがイエスは全てを与え尽くされたのです。それが十字架によってこれ以上ないものを「すでに」与えられたのです。
ところが人間はそれに気づかないのです。マリアのようにさらに与えられることを望みます。私たちが十字架に気づくために、そして、自分という存在がそれほどまでに神に愛されており、神が必要としてくださっているということに気づくために主は「よみがえり」私たちと出会って下さるのです。私たちはその出会いによって、十字架は神の愛であり、自分たちが愛されている存在であり、つかわそうとされていることを知るのです。
イエスの呼びかけに答えて私たちが振り返る時、私たちの心の視線を神に向ける時、そのことが私たちの前で現実となり、復活の主との出会いが出来事として生じるのです。次の一歩へ歩みだす力となります。主は蘇られました。私たちの名を呼び、涙をぬぐって、遣わして下さるのです。    イースターおめでとうございます。

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