2018年3月13日火曜日

2018年2月25日

2018年2月25日 受難節第2主日礼拝説教要旨
  「霊の力に満ちて」 宇野稔牧師
    ルカによる福音書 4:14~15節
 イエスは宣教を始める前、荒野で祈りつつどのような仕方で人々を救うか考えられ、徹頭徹尾神の愛によって人を救うという結論に至り、その宣言の箇所です。ポイントは「霊の力に満ちていた」という言葉をどう理解するかでしょう。イエス・キリストに従うのがキリスト者なのですから「霊の力に満ちている」という表現もイエスの姿として描かれると同時に、キリスト者がどのようなものであるかを語っている所と云えます。
 教会の中には非常に熱心な伝道活動をする教会があります。しかし、多くの教会は「聖霊を受ける」ことを強調されているように思えます。「霊」というものは、聖霊のことで「見えないけれど私たちに働きかける神の力」のことです。さらにもっとも重要な決定的な霊の働きとしては神と人間を結びつけることです。不思議なことに今まで何でもなかったキリストの言葉が今の自分自身への神のメッセージとして響いてくることがあるのです。ある時は決断を促す言葉として、ある時は忍耐を求める言葉として迫ってくるのです。それこそが聖霊の最も大きい働きなのです。モーセはエジプトで奴隷であったイスラエルを導いてエジプトから脱出し約束の地に人々を導いた時、とても苦しい状況の中で神は必ず民を救って下さると確信し何事にもうろたえなかったのです。パウロは獄中にとらえられていつ殺されるかわからない状況の中で「喜びの手紙」を書き「感謝」「恵み」という言葉が出て「霊の力に満ちて」いるからと云うのです。
 この二人は死と隣り合わせの毎日を送っているのですから、心の中には焦燥が生まれ、不安と闘っていたことでしょう。その思い当たるのがキリストは十字架の死に至るまで徹頭徹尾耐えられたし、へりくだられ、愛して下さったという事実でした。その恵みを私たちは信じているのですから、苦難の中でも喜び感謝して生きているのです。それが「霊の力に満ちる」という生き方です。

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