2018年9月25日火曜日

2018年9月9日

2018年9月9日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨
  「身の回りに」 桝田翔希伝道師
   マルコによる福音書 14:1~9節
先日、テレビが4Kの最新式になり、あれこれ録画できるようになりました。そんな折、相模原障害者施設殺傷事件を扱った番組がありました。その中で、小児科医である熊谷晋一郎さんが今日の社会を「だれもが自分がどれほど能力があるのか証明しようと躍起」になり「自分に能力があることを証明するために他人の能力のなさを見つける社会」と説明されていました。
さて、今日読んでいただきました聖書箇所はイエスを殺そうとする緊迫した状況で始められています。そこに女性が突然入ってきて非常に値段の高い油をイエスにかけ、弟子たちはそれを強く非難しました。私たちの価値観からすれば7500人分の食事を用意できる価値に当たるような油を、イエスにかけるという行為はなかなか賛成できるものではありません。貧しい人たち困っている人たちを助けなさいともありますから、弟子たちが怒った理由は一方では間違ったものではありません。
イエスにとって香油をかけられた瞬間は、緊迫した状況で「受難」が理解された瞬間でありました。しかし受難がわからない弟子たちにとっては、「間違った行いをする女性を見つけた」瞬間であったのではないでしょうか。この女性を批判した弟子たちの姿は、競争社会で生きて他人より上に立とうとする人間の姿が映し出されているのかもしれません。そしてイエスは続けて、貧しい人たちに施せと言うがいつでもできるではないか、と語っています。弟子たちは今までどのようにしてイエスにつき従っていたのでしょうか。困っている人を目の前にしつつも癒すことが出来ず、律法学者との議論に熱中してしまうこともありました。
ここでイエスは様々な事を指摘しますが、その中で弟子たちの姿だけを見るならば、私たちと重なる部分があるように思うのです。私たちは様々な視点を持つ社会に生きています。そして競争社会と言われる厳しい社会で生き、相手の出来ない部分を見つける、批判することで自分の能力を優位にすることに陥っているかもしれません。しかしイエスは、施しはしたいときに出来ると語るのです。身の回りをよく見なさいと語るのです。

2018年9月18日火曜日

2018年8月26日

2018年8月26日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨
  「泣きながら、後ずさりしつつ神の国」 髙濱心悟牧師
   ルカによる福音書 14:15~24節
◇苦しいことや辛いことから遠ざかることができるように、我々は自然と「無難」を祈り願うものです。しかし、思い通りになることはほとんどない、というのが、6年間の牧会で得た学びでした。様々な欠乏や困窮を抱えながら生きる私たちは、不足を満たしたいですし、出来る事なら何ものにも困らず生きて行きたいという願望を持つのです。
◇教会も一緒です。教会が財政難なら、お医者さんや社長さん、お金持ちのたくさん献金してくれる人が来てほしいものです。働き手がいなければ、若い人たちにたくさん来てほしい。でも、それは、「私」の願望であって「神の国」ではないのです。私たちのいう事を何でも聞いてくださる神様は、神様ではありません。
◇「神の国」というのは、そういった、我々の願望の延長線上にあるのではありません。むしろ、その願望や、わたしの思いというものが断絶される場所です。それを私たちは拒否するのです。言い訳する。そして、後ずさりして、そんな所に行くのは嫌だいやだと言い、泣きながら強引に連れられて行かれるところが神の国です。自分の意志や良心や正義感で、そこに行ったり、形作ったりするのではなくて、むしろ、失敗や、悲しみや、様々な挫折の結果として招き入れられていく先に、神様のみ旨があるのです。そこに本当に良いものがあるのだ、そこが、一番素晴らしい宴の席だ。そう信じ、自分の願いや希望とはかけ離れたところに立たされるとしても、それが「この身になりますように」と祈ることが、我々に求められている、主イエスへの応答の業ではないでしょうか。
◇泣きながら、後退りしつつ、それでも引きずられるようにして連れて行かれる所、そこが、神の国です。神様が私たちのために用意しておいてくださる宴席なのです。私たちはそこに、呼ばれ、招かれているのです。

2018年9月3日月曜日

2018年8月19日

2018年8月19日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨
  「神の国の情報は信仰によって」 佐藤博牧師
   ヨハネによる福音書 2:1~11節
 私たちはヨハネ福音書の初めに登場する奇跡物語によって「神の国」とは何かを教えられます。イエス様は、私たちの営み生活の只中に足を踏み入れて下さいまして、そこに必要な物、無くてはならない物を与えてくださいます。今日も「神の国」は近づいた(マルコ1:15)と語って下さって、その恵みと救いに与らせようと招いて下さっています。私たちはこの「神の国」の情報を教会も信じる者も、あまりにも知らなさすぎるのではないでしょうか。逆に「人の国」の情報のみが溢れているという現実に教会は「神の国」の無知、その恵みに生かされ、神の与えて下さる喜び、命が余りにも貧弱である現実に見舞われています。
 このイエス様による水をブドー酒に変えられる神の国の奇跡は、唯「水がめに水をいっぱい入れなさい」(7節)のお言葉に、マリアの勧め(5節)もあって、その家の「召使たち」(7節)は大変な困難の中、黙々と従いました。困難や課題に直面した時、私たちはイエス様の前に出て、イエス様よりのお言葉を聞こうとするでしょうか。自分や教会の手の中にお金や力を数えるか、人や国が助けてくれるかどうかで、終わってしまうのではないでしょうか。百人隊長が僕の癒しを願って「ただひと言おっしゃってください」(マタイ8:8)とのイエス様のお言葉をひたすら求める信仰を持たせていただきたいものです。信仰(ピスティス)はペイソー(説得する)からきています。イエス様のお言葉により、本当に救われた、助けられた、喜びを与えられたという、お言葉の真実に説得されるまでイエス様のお言葉に近づきたいものです。
 「この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」(11節)とありますように、今日も私たちの生活の場、教会の営みの場に、イエス様の栄光が現れ、イエス様の「しるし」は継続しています。ただイエス様とそのお言葉への信仰、即ちカール・バルトが残しています「神の言葉に対する聴従」が希薄になっているようです。