2019年9月30日月曜日

2019年9月22日

2019年9月22日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨
   「わたしたちの十字架」 桝田翔希伝道師
     ルカによる福音書 14:25~35節
 10月22日は天皇の即位儀礼が行われるため、いわゆる「祝日」になるということを最近知りました。元号が変わったことにより、関心度が高まっているように思うと同時に、日本における血縁による意識のあり方を捉え直す時が来ているように感じています。
 この聖書箇所は、イエスの後を付いて来た群衆がいたことを伝えています。「ついてくる」という言葉からは野次馬のような印象を受けそうになりますが、ここでは「旅をする」とも解釈できる単語が使われています。もしかすると、「なんとなくついてきた」のではなく、それ相応の覚悟や情熱を持った人たちがイエスの後にはいたのかもしれません。しかしイエスは「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」を捨てるよう彼らに言い放っています。私たちにとっても「家族」はとても大切で捨てられるようなものではありません。様々な解釈ができる言葉かと思いますが、当時の社会背景においてはどのような意味がある言葉だったのでしょうか。血縁関係に起因する様々な利権があったのではないかと思います。今日の日本ではどうでしょうか。歴史は違いますが、やはり血縁関係は重要視されているように思います。しかしこのような意識に裏付けられる「立場」にどれほどの意味があるのでしょうか。
 パウロはコリントの共同体に向けて書いた手紙の中で、共同体で起きた分裂を指摘しています。商業都市として栄えていたコリントの共同体は「私はパウロにつく、私はケファにつく」などの事を言いあい、それぞれの階層が生まれていたようです(犬養光博、2018年)。私たちも様々な方法で自分の立場を表明しているのではないでしょうか。しかし「どこに立つのか」という問いが私たちには迫っているのです。
 イエスは「あなたの十字架は何か」と問われました。私たちは何を背負い、どのような立場にいるのでしょうか。止揚学園の福井達雨先生は「生命は重たい。生命を担ぐ人間は、コンクリートを担ぎ、鉄を担いで猛スピードで走る人間について行けない。それが自分の実感だ。」と語っておられたそうです。生命が軽視される今日にあって、いわれのない意識に依るのではなく生命に向き合いながらイエスの後を従うものでありたいと思います。





2019年9月23日月曜日

2019年9月15日

2019年9月15日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨
   「みんなで生きる」 小笠原純牧師
     ルカによる福音書 14:7~14節
「やどりぎは宿主には益がない」ということです。まあふつうは「人生持ちつ持たれつやないか」というわけですが、「やどりぎは宿主には益がない」のです。それでも宿主は、やどりぎを受け入れているわけです。まあ木のことですから、「わしに手があったら、やどりぎをのけるがな」と言うかも知れませんが・・・。
 招かれたときには「宴会では上席に座るな」と、イエスさまは言われました。また招くときには、お返しのできない人を招きなさいと言われました。箴言25章にも「身分の高い人々の場に立とうとするな。高貴な人の前で下座に落とされるよりも上座に着くようにと言われる方がよい」という言葉があります。
 しかしイエスさまは今日の箇所で、処世術を越えて、どのように生きるのかということを、私たちに問うておられます。処世術というのは、「このように生きれば、かどがたたない」という作法の極意というようなものです。「宴会では上席に座るな」というのは、処世術であるわけです。しかしイエスさまはその「宴会で上席に座るな」ということを、私たちに教えたかったわけではないのです。そうではなくて、私たちの心の中にある、「人よりも少しでも上にいて、下の者を見下してやりたい」というあさましい思いについて、「それはよくないだろう」と言われたのでした。イエスさまは処世術ではなくて、根本的な生き方に対する問いを、私たちに与えて下さっているのです。
 私たちは人生の中で、失敗をしたり、お世話になったすることがあります。また人の失敗を補ったり、また人のお世話をすることもあるでしょう。そうしたことをいちいち、「益だ、損だ」、「借りだ、貸しだ」というようなことを考えるのではなく、もっと大らかに、どちらにしても、【正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる】と思えるような歩みでありたいと思います。迷惑をかけてしまったときは、神さまがあの人に報いて下さるようにと祈る者でありたいと思います。また何かしてあげたときは、「復活するとき報われるから、得したなあ」と思えるような歩みでありたいと思います。
 互いに思い合って、祈りながら歩んでいきましょう。あまりこだわらず、神さまが良き道を備えてくださることを信じて、神さまにおまかせして歩んでいきましょう。神さまは大きな御手でもって、私たちの歩みを支えていてくださいます。









2019年9月16日月曜日

2019年9月8日

2019年9月8日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨
   「自分のこととして考えてみようよ」 小笠原純牧師
    ルカによる福音書 14:1~6節
 わたしは昔、「病院ってお見舞いに行くところ」と思っていました。伝道師、2年目、わたしは甲状腺機能亢進症という病気で入院することになりました。わたしは自分が入院して、はじめて、病院って、だれしも病気になり、自分もまた入院するところであることに気づきました。なんかとても高慢な思いになっていたことに気づかされました。
 安息日に人や牛が井戸に落ちたときどうすればよいのかということについては、ユダヤの法律のなかで、いくつもの凡例があるそうです。イエスさまは「自分の息子か牛が井戸に落ちたら」と言っておられます。たんに人が井戸に落ちたときとか、牛が井戸に落ちたときの話をしているのではないということです。「あなた」の息子、「あなた」の牛が落ちたら、あなたはどうするのだ。安息日だからといって助けないのか。一般的な話のときは、自分の説を披露して、わたしの解釈はこうだというだろうけれど、「自分」の息子や牛が落ちたときは、やっぱり安息日であっても助けるだろうと、イエスさまは言われました。
 イエスさまは「自分の身になって考えようよ」と言われました。イエスさまは律法というのは、「人にしてもらいたいと思うことを、あなたが人にしてあげることだ」(マタイ福音書7章12節)と言われました。「これしてあげたら、あの人喜ぶだろうなあ」とか「あれしてあげたら、あの人うれしいだろうなあ」。そうした優しさの中にあるのが、律法に従って生きていくということだよ。律法に書いてあるから、これをしなければならない。やっていないあの人は律法に違反している悪い人だというようなのは、律法の正しい用い方ではないよ。イエスさまはそのように言われました。
 私たちもファリサイ派の人々や律法の専門家のように、ときに冷たい考え方や行ないをしてしまうことがあります。でもやっぱり私たちのこころの中にある優しさを大切にしたいと思います。
 イエスさまは私たちを愛して、私たちのために十字架についてくださいました。私たちはそのイエスさまの愛に包まれて生かされています。神さまは私たちに良き賜物を与えてくださり、その賜物いかして、世の人々と共に歩みなさいと言っておられます。神さまの愛に満たされて、私たちの中にある優しい気持ちを大切にして、思いやりをもって歩んでいきましょう。




2019年9月10日火曜日

2019年9月1日

2019年9月1日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨
 「愛のない世界に生きたいですか」 小笠原純牧師
   ルカによる福音書 13:10~17節
法律で罰せられるか、罰せられないかということが唯一の基準であり、倫理的なことはあまり関係がないかのような、愛のない振る舞いをする政治家が増えてきたような気がします。わたしはどうしてそんな感じになったのかなあと思うときに、世の中自体が、神さまのことを忘れてしまっているからではないかと思います。そしてもっともっと神さまのことを宣べ伝えていかなければならないと、牧師としてわたしは思います。
イエスさまは安息日に18年間苦しんでいた女性を癒されました。会堂長は「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」と言って、イエスさまを非難しました。しかしイエスさまは会堂長を偽善者とののしり、反論しました。
安息日はもともと毎日働かざるを得ない人々が、一日、休むことができるための日として定められたものでした(出エジプト記20章8−10節)。安息日は神さまが与えてくださった愛に満ちた休息の日でした。だから神さまが喜ばれるようなことをしてあげたら良いのだ。18年間病気で苦しんでいた人をいやしてあげるのは、神さまが喜ばれることであり、安息日にふさわしいことだ。会堂長の言葉には、それは合理性があるかもしれないけれども愛がないと、イエスさまは言われました。
わたしはものごとを合理的に考えることがどちらかと言えば好きで、そしてそれゆえに自分のなかに愛が少ないということを感じることが多いです。ですからわたし自身もこの会堂長のように考えがちだなあと思わされます。「愛がない」のです。「愛がない」。しかし私たちは愛のない世の中には生きていけないのです。
ただこの会堂長たちはとてもえらいなあと、わたしは思います。イエスさまから「あなたたちには愛がないのだ」と言われ、そのことに対して会堂長たちは皆そのことを恥じました。彼らは恥じ入る素直さを持っていました。
讃美歌21の493番は「いつくしみ深い」という賛美歌です。私たちのイエスさまは「いつくしみ深い」方です。深い愛でもって、私たちを包んでくださる方です。私たちはイエスさまの愛によって生かされています。私たちはイエスさまが教えてくださった愛のある世界に生きたいと思います。私たちのこの世界が神さまの愛に満ちあふれた世界となりますようにと祈りつつ歩みましょう。







2019年8月25日

2019年8月25日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨
  「救われる人と」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 12:35~48節
 この箇所では、自分の職務をきっちりと守り主人を待つ僕のたとえ話などを通して、終末が訪れるまでにどのように生活するべきなのか語られています。当時のイスラエルで婚宴とは、現代とは違い数日にわたって行われるものでした。ですので、婚宴に出かけた主人が何時・何日に帰ってくるかわからないものでありました。またイエスは「主人が僕に食事の世話をする」と終末を説明します。私たちは終末をどのように捉えるべきなのでしょうか。
 当時のパレスチナは、ローマ帝国による厳しい支配下にありました。苦しい状況の中で、ローマ帝国ではなく「神による支配」を多くの人たちが求めました。しかしその考えは次第に、宗教的敬虔さを求めることとなり、聖書の決まり事を守ることだけが重要視され、ユダヤ人は「義人」と「罪人」へと分けられていきました。神の支配を求めながらも、宗教的敬虔さという思い込みにより、当たり前のように差別は正当化されたのです。イエスの活動はそのような「終末を待ち望む社会」でないがしろにされた〈いのち〉に向き合う、「見せかけの宗教的敬虔さゆえに〈いのち〉を損なっているあり方をみいだした」ものであったのかもしれません(上村静、2011年)。
 私たちも神が支配する平和な世の中を求めながら、見せかけの価値観を抜け出せていないのかもしれません。「食べへんかったら大きいなれへんで!」と小さい時によく言われました。この歳になって、同じことを教会で子どもたちに言っている自分に気づきました。そんな中、「ちお・おは」という言葉を先日知りました。これは「ちいさい・おおきい」、「おそい・はやい」を縮めた言葉だそうです。「大きいことはいいこと」、そんな考えは昔からあるように思います。しかし、小さいこともいいことです。スポーツでは長所になることがあります。「大きいことはいいことだ」という価値観が様々な差別に関係しているのではないでしょうか(山田真「(ち・お)ってなんだ?」)。
 この聖書箇所で、ペトロがイエスに問うています。ペトロもまたイエスに従っていながら、求めていた救い主のイメージは当時の世間で流布してた力強いメシア像でした。そんな見せかけの価値観は、イエスの死を前に、イエスとの関係性を偽りながら否定し、涙の中で打ち砕かれていきました。終末とは、私たちの見せかけの価値観や二元論とは違う、人々を「救われる人」と「そうでない人」に分けてしまうような価値観ではない、と聖書は語っているのではないでしょうか。