2019年12月30日月曜日

2019年12月22日

2019年12月22日 待降節第4主日礼拝説教要旨
  「神さまの力と共に生きる」 小笠原純牧師
    ルカによる福音書 1:57~66節
 クリスマス、おめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕を心からお祝いいたします。「メレ・カリキマカ」というのは、ハワイ語で「メリー・クリスマス」という意味です。常夏のハワイでもクリスマスは祝われています。イエスさまがお生まれになられたことが、世界中で祝われているということは、とてもうれしいことです。
 ハワイで1970年代にはやった歌に、Mr.San Cho Leeという歌があります。ハワイに住んでいるいろいろな人種の人たちをからかっている歌です。でもこの歌の最後の歌詞にはこうあります。「私たちは多人種をからかいながら、でも同じところで暮らしている。これってすごいことだよね」。多民族社会ですからそれぞれの民族にはそれぞれの文化や伝統があります。それは簡単に理解し合えるわけでもない。でも私たちはそれぞれの民族をからかい合いながら、でもこのハワイで暮らしている。それはやっぱりとってもすばらしいことだし、すごいことだ。この歌はそのようにハワイの社会の寛容さを歌っています。
 ザカリアとエリサベトのところに、洗礼者ヨハネが生まれます。親族や近所の人が集まって、みんなでお祝いをしています。みんな勝手に名前を付けようとしますが、エリサベトとザカリアや、神の使いによって示されたヨハネという名前をつけました。
 わいわいがやがやとした聖書の箇所です。まさに、人間の営みだなあと思います。私たちと似ていると思います。ちょっとむつかしい人がいたり、ちょっとぼーっとした人がいたり、強引な人がいたり。でもみんなザカリアとエリサベトのことを祝福し、そして洗礼者ヨハネの誕生を祝うためにやってきたのです。「よかったねえ、エリサベト。ほんとに、よかったねえ」。「ザカリア、おれはほんとに、うれしい。うれしいぞ、ザカリア。こんなにうれしいことはない」。
 ザカリアたちはわいわいがやがやと、日常生活を送っていました。しかしこころはしっかりと神さまに向け、神さまの憐れみによって自分たちが生かされていること、そして神さまは必ず私たちを救ってくださるということを、こころにとめて生きていました。
 神さまは救い主イエス・キリストを送ってくださいました。イエス・キリストは私たちを照らし、私たちを平和の道へと導いてくださいます。新しい年も、救い主イエス・キリストと共に歩みましょう。

2019年12月26日木曜日

2019年12月15日

2019年12月15日 待降節第3主日礼拝説教要旨
  「救い主の誕生を待ち望む」 小笠原純牧師
   ヨハネによる福音書 1:19~28節
 クリスマスの定番曲に、マライア・キャリーの「All I want for Christmas is you」があります。クリスマスに、多くのものは望まない。クリスマスツリーの下にあるプレゼントも気にならない。雪も降らなくていい。サンタクロースもいらない。ただわたしが欲しいのは、あなただけ。「クリスマスにわたしがほしいのはあなただけなの」というような内容の「恋人たちのクリスマス」ソングです。
 わたしは今年、この歌を聴いていて、とても慰められました。7月に新しく平安教会の牧師に赴任をして、自分にいろいろなことが期待されているような気になり、これも、あれもできなければならないのではないかと、とても緊張していたからです。
 「クリスマスにわたしがほしいのはあなただけなの」と歌っているのは、マライア・キャリーですが、でもこの言葉はまさに、私たちに神さまが語りかけている言葉だと思いました。神さまは私たちに、「わたしがほしいのはあなただけだ」と言っておられます。何か特別なものを持っているあなたではなく、ただの「あなた」です。なにか優れたものをもっているとか、りっぱな肩書をもっているとか、とてもやさしいりっぱな人であるとか、クリスマスプレゼントをたくさん持ってきてくれるあなたとか、そうした「あなた」ではなく、「ただのあなた」が帰ってくることを、神さまは待っておられるのです。

 洗礼者ヨハネは「裁き」を語りました。人は神さまの前に裁かれる存在であるということを語りました。そして人々に悔い改めを迫り、水で洗礼を授け、「悔い改めにふさわしい実を結」ぶことを求めました。洗礼者ヨハネが語ったことは「これをしなければならない」ということでした。「裁き」を語った洗礼者ヨハネに対して、イエスさまは「愛」を語りました。神さまがどんなに私たちを憐れんでくださっているか。神さまがどんなに私たちを愛してくださっているか。神さまがどんなに私たちの罪のことで心を痛めておられるか。イエスさまは私たちに、あなたたちは神さまの愛に包まれ、神さまが守ってくださるのだから、あなたたちは安心して生きて良いのだと教えてくださいました。
 神さまは「クリスマスにほしいのはあなただけだ」「ただそのままのあなたでいい」と、私たちを招いてくださっています。救い主イエス・キリストが、私たちのところにきてくださいます。みんなでお祝いする準備をいたしましょう。

2019年12月8日

2019年12月8日 待降節第2主日礼拝説教要旨
  「最後の一人にまで」 宇野稔牧師
   マタイによる福音書 20:1~16節
 本日はおめでとうございます。牧会を退いた者が又招かれて皆様と一緒に礼拝を守れますことは喜びであり感謝であります。
 教会の暦は待降節に入っていますが、今朝は創立記念日という点を大事に捉え聖書から聞きたいと思います。創立記念日の礼拝は、これまでの歩みを振り返り、新しくさらに希望をもって進むことを確認するためにあるのだと受け止めています。
 さて、本日示されたテキストの前半から考えて結論的に述べますと、このたとえ話を聞いていた人全員がいまなすべきことは何であるかということを認識し、出かけるべきだったのです。
 しかし、実はそうなれなかった諸々の事柄が山積し、また教会の現実を深く思いながら、もう一度、人々に聞いてもらいたいと思うのでこのたとえ話が語られています。
 また、マタイは時間の書き方に深い意味をもたせています。ポイントは最後の5時(第11時)の人たちにも……というところです。主人自ら第11時になっても迎え入れるために出かけるのです。即ち、神の愛が第11時にも働き続けられているのです。主人の関心は終わりの1時間前にも未だ立ち続けている人に向けられているのです。
主イエスご自身が出かけられ救いの開始の時が、既に始まっているのです。
 ぶどう園で働いている人々、即ち、仲間や私たちが同じであったように、「尚、外にいる」人々に寄り添い、先に招かれた者が「私たちを遣わして下さい」と云い、外に立っている人々にも自分たちと同じように神の恵みを分かち合いたいのです。そのために最後の一人に到るまで励むのです。
 平安教会は目の前の150年に向かってさらに働きを続ける教会であるように、新しく迎えられた教師を中心に着実に進んでくださるよう祈っています。

2019年12月1日

2019年12月1日 待降節第1主日礼拝説教要旨
  「私たちの救い主イエスさま、ありがとう」 小笠原純牧師
   ヨハネによる福音書 7:25~31節
 毎年、アドヴェントのときに、12月8日、開戦記念日はやってきます。岩波書店から「福音書」などの本を出しています塚本虎二は、内村鑑三の弟子で、絶対非戦論者でありました。しかし12月8日の開戦記念日について、次のように書いています。【特に開戦第一日の快勝を耳にした時は、痛快とも思い、「それ見たことか」とさえ感じられた】(長部日出雄『桜桃とキリスト もう一つの太宰治伝』)。時代の闇は深いものだと思います。
 エルサレムの人々は、「この人がどこの出身かを知っている」という形式的なことにこだわって、イエスさまが救い主であるということを受け入れようとはしませんでした。彼らはイエスさまが神さまの御心に従って歩んでおられるという決定的なことを知ろうとしませんでした。エルサレムの人々はもう暗闇に同化してしまって、神さまのことがよくわからなくなってしまっていたのです。
 わたし自身も日常生活の中で、自分の暗闇に出会い、反省させられることがあります。少し前、人と話をしていて、あとから考えると「なんであのときあんな話し方をしてしまったのだろう。もっとほかの言い方があっただろうに」と思うことがありました。それで気を付けなければならないと思っていたのですが、先日もまた同じようなことがありました。自分自身ではどうすることもできない自分の暗闇の入り口に立っていたような気がして、わたしはとても不安な気持ちになりました。
 【光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった】と、ヨハネによる福音書は記しています。光が暗闇の中で輝いているのであれば、その光に気づきそうなものであるわけですが、しかし暗闇の世は、その光に気づかなかったのです。だからそこの暗闇であるのだと思います。それは不思議なことではなく、暗闇の中にあるということは、そのようなことなのです。
 イエス・キリストはそうした暗闇の世に、私たちのために光となってきてくださいました。自分が暗闇の中にあることに気づかない愚かな私たちのところに、イエスさまは来てくださったのです。神さまの独り子であるイエス・キリストのご降誕をお祝いする準備をするアドヴェントのとき、私たちの罪深い歩みを振り返るときとしたいと思います。イエスさまは罪深い私たちを救ってくださり、私たちと共に歩んでくださいます。

2019年11月24日

2019年11月24日 降誕前第5主日礼拝説教要旨
  【収穫感謝日 合同礼拝】
   「よく食べ よく眠る」 桝田翔希伝道師
     マタイによる福音書 25:14~30節
 神さまに与えられた恵みを感謝する収穫感謝の時にあって、私たちはどのように食べているのかを考えさせられます。食べ物とは、叩いたり刻んだり炙ったりした生き物の死骸なわけですが、「祈りにも似た物語がなければ美味しく食べられない(藤原辰史、2014年)」のかもしれません。しかし、市場において売れるための「肥大化した物語」ばかりがもてはやされ、過剰なまでの清潔さを求め、生命を頂いているという感覚を感じることは難しくなっています。生産の現場と消費の現場には大きな開きがあるように思います。
 「タラントンのたとえ話」では、主人が僕たち(奴隷たち)に財産を預けて旅に出ています。僕たちはそれを元手に商売をし、金額を倍にして主人を喜ばせますが、当時の慣習に従い預かったものを土に埋めた僕は叱られてしまいます。神さまから授かった才能を活用しなくてはいけないという解釈がよくされるたとえ話でありますが、1タラントン(一生分の給料)という金額とイエスが生きた当時の農民の状況に注目すると、また違った問いかけをされているように思います。この主人が扱っている金額というのは、あくどい商売をしなければ得ることができない金額でありました。そして当時のイスラエルでは、金持ちにより土地が次々と買い上げられ、土地を無くした農民は小作人として輸出用の作物を育てざるを得ない状況がありました。すなわち、少ない賃金で厳しい生活を余儀なくされた人たち、お金儲けのための作物を育てさせられるけれど、自分たちは食べるのに困ってしまう人たちが多くいました。イエスはこのような厳しい状況に置かれた人たちに、このたとえ話を語りかけていたのかもしれません。また、1タラントンを土に埋めた僕は、種は土にまかれると恵みをもたらすが、お金は土に埋めても何も実らせないという批判を、絶大な富と権力を持つ主人に訴えた「いのちをかけた内部告発者(山口里子、2014年)」だったのかもしれません。富と権力、搾取を前に生活が厳しくなっていく現実が突き付けられます。
 今日の状況を見てみると、富と権力を前に多くの不条理に触れながら私たちは生きています。海外の環境を壊しながら生産される食べ物、命を食べる実感を無くしかけている消費者。どこかで後ろめたさを感じながら、私たちは「肥大化した物語」を信じているのかもしれません。しかし、恵みにより私たちは生かされているということを忘れてはいけないのです。富と権力を前に、「恵み」を感じながら、私たちは食べ物にどのような物語を添えることができるのでしょうか。