2020年5月14日木曜日

2020年5月10日

2020年5月10日 復活節第5主日礼拝説教要旨
  「イエスさまを証し、イエスさまに従う。」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 15:18-27節
 NHKの朝の連続テレビ小説「エール」の主人公のモデルになっている、古関裕而についての本を読みました。辻田真佐憲「古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家」です。古関裕而は関西では、「六甲颪」で有名な作曲家です。古関裕而はたくさんの軍歌をつくったために、戦後、「それはあまりいいことではなかったのではないか」ということが言われています。古関裕而がその時代の雰囲気に流されてしまって、なんとなく戦争に協力をしていくというのは、なかなか考えさせられます。
 なんとなく世の中の流れに流されていくと、よくない方向へと向かっていくということがあります。私たちクリスチャンは戦争中に迫害をされたという歴史をもちます。また迫害をされるのが恐ろしくて、戦争に積極的に協力をしていったという歴史もあります。
 初期のクリスチャンたちは、イエスさまのことを、神さまのことを宣べ伝える時に、人々から迫害を受けるということがありました。ローマ帝国という国家から大迫害を受けるということもありましたし、またイエスさまを信じているということで、日常生活においても嫌がらせを受けるというようなことがありました。そうしたなか、初期のクリスチャンたちは、世の中が神さまのみ旨から離れているということを世の人々に伝えていきました。
 イエスさまは【あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである】と言われました。イエスさまはあなたたちが世の人々から迫害される理由ははっきりしていると言われました。それはあなたたちが世に属しているのではなく、わたしに属しているからだ。
 私たちは主の祈りのなかで、「御国が来ますように」と祈ります。神さまの国が来ますように。神さまがのぞまれる世の中に、私たちの世の中も近づいていってほしい。神さまが望まれるような世の中になりますようにとの祈りをもちつつ、私たちはイエスさまのことを信じて、イエスさまに従って歩んでいきましょう。

2020年5月7日木曜日

2020年5月3日

2020年5月3日 復活節第4主日礼拝説教要旨
   「神さまがわたしを用いられる」 小笠原純牧師
     ヨハネによる福音書 21:15-25節
 そのときはとても良いことであったとしても、あとから考えると、ちょっとあまり良いことではなかったかもしれないというようなことも起こってきます。私たちはこうしたことを、「人間万事塞翁が馬」「禍福はあざなえる縄の如し」「沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり」と言ったりします。そして「しかしまあ、人生、沈んだり、もぐったり、沈んだり、もぐったりやな」「それ、ずっと沈んで行ってます」というような冗談を言いながら、慰めあって私たちは生きていきます。
 ペトロはイエスさまから三度、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と問われています。それはペトロが三度、「イエスを知らない」と言ったからでした。一度目も、二度目も、三度目も、ほぼペトロの答えは同じです。何もかもご存じの方がおられる。わたしの弱さを、わたしのなさけなさを知っていてくださる方がおられる。そしてそのうえで、わたしを赦し、わたしを救ってくださる方がおられる。その方にわたしはすべてをお委ねする。そういう意味で、ペトロは「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と応えます。
 「うまくいかない」「思うようにならない」「なんかだめだ」と思っているあなたを用いてくださる神さまがおられると、聖書は私たちに告げています。聖書は、【ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである】と記しています。ペトロも、自分の天への召され方が、神さまの栄光を現すことになるとは思っていなかっただろうと思います。
 周りの人を見回すと、りっぱな働きをしているから、神さまに愛されて、もしかしたら神さまから特別に愛されているので、あの人は死なないのではないかと思えるときがあります。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」。そんな感じで、自分は取るに足らないつまらない者であるように思えるときがあります。しかし、イエスさまは言われます。「あなたの生涯は祝福されている」「あなたの生涯は、神さまの栄光を現すものである」。
 私たちは、一喜一憂するのではなく、淡々と、神さまの大きな祝福のうちにあることに感謝をして歩んでいきたいと思います。神さまが私たちを神さまの御用のために用いてくださいます。神さまの大きな御手のうちにあることを信じて、感謝をしつつ歩んでいきましょう。

2020年5月2日土曜日

2020年4月26日

2020年4月26日 復活節第3主日礼拝説教要旨
   「恥かしがらずに生きる」 小笠原純牧師
     ヨハネによる福音書 21:1-14節
 その場にふさわしい服装というのがあると言われます。今日の聖書の箇所は「上着をまとって湖に飛び込んだ男の人」のことが語り継がれています。上着を着て湖に飛び込むわけですから、あんまりふさわしい服装ということでもないようです。
 シモン・ペトロが服を着たまま湖の中に飛込んだのは、イエスさまと出会ったからでした。ペトロは裸であったのをわざわざ、上着を着て、湖の中に飛込んだのでした。やはりイエスさまのところにいくのに、裸でいくわけにはいかないと考えたからです。ここにペトロのイエスさまに対する敬虔な気持ちが、よく現われているのです。
 ペトロのそうしたイエスさまに対する敬虔な気持ちというのは、とても大切な気持ちだと思います。そうしたイエスさまに対する敬虔さを忘れたところでは、私たちは自分が傲慢になってくるからです。でもペトロはやはり裸でイエスさまのところにかけつけてもよかったのではないかという気がします。
 ペトロたちは湖からあがって、イエスさまと食事をします。弟子たちはイエスさまから「子たちよ、何か食べるものがあるか」と言われています。イエスさまの気遣いに対して、弟子たちは素直に「ありません」と答えています。自分たちに力がなかった、努力したけどできなかったということを素直に認めています。聖書は「イエスさまに対してへんな遠慮や痩せ我慢をするな」と教えてくれています。自分たちでできなかったら、「一生懸命やったけれども、やっぱりできなかった」と、はっきり言えばいいと教えてくれています。
 ですから、ペトロは裸でイエスのところにかけつけてもよかったのです。私たちも、私たちの中にあるいろいろな弱さや恥かしさをみんなもって、イエスのところに集まってくればいいのです。私たちはこんなことは「恥かしい」というふうに思い、無理をして生きるのではなく、イエスさまにすべてを委ねて、恥かしがらないで生きてゆけばいいのです。
 私たちのことをすべて受けとめて、私たちを愛してくださる方がおられます。弱い私たちを招き、私たちを導いてくださる方がおられます。私たちはイエスさまにすべてのことをしっかりとお委ねし、希望を持って歩んでいきましょう。