2020年11月28日土曜日

2020年11月22日

 2020 年 11 月 22 日 降誕前第5主日礼拝説教要旨

「わかちあいの世界にようこそ」 小笠原純牧師

 マタイによる福音書 25:31 ー 46 節

 世の終わり、終末のときに、神さまから私たちは自分たちが歩んできた歩みについて問われます。そしてできることであれば、神さまの前で、自分の歩んできた小さな良き歩み、それは本当に小さな歩みに過ぎないかも知れないですけれども、でも神さまにお伝えしたいと思うのです。

 イエスさまは【わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。】と言われました。わたしに直接してくれたことではないけれども、あなたたちの世の中で苦しんでいる人、困っている人、つらい思いをしている人、悲しんでいる人、そういう最も小さな者の一人に、なにか手を差し伸べるということは、わたしにしてくれたことになるのだ。この最も小さい者の一人を大切にしてほしい。そういう世の中であってほしい。わかちあいの世界であってほしい。イエスさまは私たちにそのように言われました。

 最近、「自助、共助、公助」という言葉をよく見かけます。東八幡キリスト教会の牧師で、NPO 法人抱樸の理事長である奥田知志牧師は、菅総理大臣の言われる「まずは自分でやってみる」ではうまくいかないと言います。【「私(自助)」が決壊する前に、「共助」、いや、なによりも「公助」が活用できること。それが、ほんとうの意味で、菅氏が言う「自助」の尊重となる】と言われます。

 私たちはここ数十年の間に、「自己責任」という奇妙な言葉に振り回されて、私たちの世の中が、さみしい世の中になってしまったような気がいたします。私たちクリスチャンは自己責任の世界に生きていません。私たちは私たちの罪の問題を、自己責任として解決することができないからです。私たちの罪は、主イエス・キリストが十字架によって取り除いてくださったのです。

 神さまが育ててくださり、神さまが養ってくださっている。収穫を感謝するこの日、私たちは「わかちあいの世界に生きている」ということを、もう一度思い起こしたいと思います。

 神さまが私たちを愛してくださり、私たちの罪を許してくださいました。イエスさまが私たちの罪のために、十字架についてくださいました。私たちは神さまの溢れる愛の中に生きています。神さまに愛され、赦されている者として、イエスさまが喜ばれるわかちあいの歩みでありたいと思います。


2020年11月20日金曜日

2020年11月15日

 2020年11月15日 降誕前第6主日礼拝説教要旨

    「見つけてしまう」 浅野献一牧師

      マタイによる福音書 13:44-44  節

 この神の国のたとえで一番に伝わってくるものは驚きと喜びです。偶然お宝を発見する驚き。そして本当に嬉しくて飛んで帰り畑を買ってしまう雇われ農夫。「宝」事体がいのちの言葉と愛、解放の姿。またこの見つけた人の心躍る姿・驚き躍動しながら帰っていく様が、まさに「天の国(愛の基本の世界)」の在りようを指し示しているたとえです。

 ここでは、自分の功績や業績、わたしの努力とは、全く別に、生の歩みの中に、宝=愛が隠されていると言われます。

 この宝箱を見つけてしまった農夫は、大喜びで今まで彼の生活の支えていたすべてのものを売り払って、その畑を買います。その意味は今まで頼ってきたいのちの基盤・人生でよって立つ基(もとい)を換えたということに他なりません。それは、わたしを支え、安心をもたらすと思っていたモノ(家・お金・土地・保証など)からの脱却・解放です。さまざまな縛り、思いわずらいから解き放たれて、新しい愛の埋まっている新しい土地で生きていく。信じあい、望みあい、愛しあうことを基本の世界に生きようとする。その内容は、信じることの平安さであり、望むことの明るさであり、愛することのまことの喜びといのちに他なりません。その解放は、またわたしの人生をわたし自身のものとして取り戻すことも意味しています。人生・いのちの主人は、組織や物やお金、保証ではなく自分自身です。

 わたしの人生も、わたしの目・人間の目からすれば、痛み多く、みすぼらしい、恥ずかしいばかりの人生にしか見えないかも知れません。土くればかりで、何も良いものはない貧相な地にしか見えないかも知れません。しかし、その地に、いや、わたしの人生にこそ、宝=愛=いのちが埋められていて、ある時輝きだすのです。

 むしろ人生の困難な痛む時にこそ、宝を見つけて、まことのいのちの道へと、本当の自分の道へと向かうことが出来るのかもしれません。その土くれに中にこそ、いのちは芽吹いてくる。いえ、もう既に「神の国」「愛の支配」は始まっている。

  主イエスは言われました。その「畑に宝が隠されている。」

2020年11月11日水曜日

2020年11月8日

 2020年11月8日 降誕前第7主日礼拝説教要旨

   「力強い神さまの選び」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 3:7ー12節

 「あしたのジョー」で有名な漫画家のちばてつやは、「浦沢直樹の漫勉 NEO」のなかで、「脇役を描くのが好きだ」と言っています。ちばてつやは「教会は、ぼくのマンガに大きな影響を与えている」(「信徒の友」)と言っています。ちばてつやは洗礼を受けたクリスチャンではないのですが、日曜学校に通い、教会の中の交わりの中で大きくなりました。神さまが一人一人を愛してくださっているということをが、なんとなく染みついているのです。だから漫画で描く登場人物、一人一人に愛情があるのだと思います。一人一人に個性があり、そしてその人生があるということが染みついているのだと思います。

 洗礼者ヨハネはユダヤの人々に、悔い改めを迫り、洗礼を授けていました。【『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな】という言葉は、なかなか激しい言葉です。ユダヤの人たちは、自分たちの先祖であるアブラハムが神さまから特別の祝福を受けたということを信じていました。そしてその子孫であるということが、神さまからの祝福の源であると思っていました。しかし洗礼者ヨハネは、「アブラハムの子孫であるということなど関係ない」と言いました。「自分たちが特別である」などと思って、高慢になってはいけないと、洗礼者ヨハネは言いました。

 洗礼者ヨハネが、強い言葉で人々に悔い改めを迫るのは、必ず救ってくださる方がおられるという確かな信頼の裏返しでもありました。どんなにだめな私たちであったとしても、私たちを赦し、私たちを愛してくださる神さまがおられる。洗礼者ヨハネはこのことを信じていました。

 神さまは私たちを愛してくださっている。私たちもまたこのことを信じています。一人一人、神さまは私たちを選び、私たちを神さまの愛で充たしてくださいます。私たちは、神さまの愛を受けるべく選ばれ、一人一人、愛を受けるべく作られています。

 イエスさまはこのことを、「迷い出た羊のたとえ」として話されました。私たちの神さまは、迷い出た一匹の羊を大切にされる方です。一匹くらいいなくなってもかまわないと思われる方ではありません。迷い出た一匹の羊を大切にされるのです。私たちはそうした力強い神さまの選びの中に生きています。「ぜったいにこの人を救う」という神さまの選びの中に生きています。


2020年11月7日土曜日

2020年11月1日

 2020年11月1日 降誕前第8主日礼拝説教要旨

   「永遠の命にあずかる。」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 23:25-36節

 今日は召天者記念礼拝です。毎年、召天者記念礼拝は多くのご親族の方々と共に礼拝を守っています。平安教会に連なる人々が共に集い、神さまを賛美する礼拝です。キリスト教は天上と地上の両方で礼拝がもたれていると信じています。今日もまた天に帰られた私たちの信仰の先達は、天上の礼拝で神さまを賛美しています。そしてご家族の皆さんが、地上の礼拝で共に、神さまを賛美しておられるのをとても喜んでおられると思います。

 イエスさまは律法学者たちやファリサイ派の人々に対して、「蛇よ、蝮の子らよ」と言われます。律法学者たちやファリサイ派の人々は、聖書の中で、イエスさまのことを悪く言ったり、イエスさまをとらえて殺そうとしたりします。ですから私たちはイエスさまから律法学者たちやファリサイ派の人々が「蛇よ、蝮の子らよ」と非難されると、ついつい「そうだ。そうだ。悪いのはあなたたちだ」と声をあげてしまいそうになります。私たちはいつのまにか、イエスさまの側につこうとしてしまいますけれども、実際は、イエスさまを十字架につける側の人間です。律法学者たちやファリサイ派の人々に語られている非難の言葉は、私たち自身に対してかけられている言葉です。

 イエスさまは「杯の内側をきれいにせよ」と言われました。私たちはこころのなかにどろどろとした思いを抱えて生きていく者です。私たちのなかに、どうしてこんなに思い上がった気持ちがあるのだろう。こんなさもしい気持ちがあるのだろう。そうした恥ずかしい思いがいたします。しかしそうした弱さをもつ愚かな私たちを愛してくださいました。そして私たちに永遠の命につながる者としてくださいました。

 あなたたちには永遠の命が与えられている。天に帰られた信仰の先達である方々も、このことを信じて歩まれました。イエスさまを信じ、イエスさまに付き従って、その生涯を歩まれました。その人生の中で、戸惑うような出来事、つらい出来事もあったことと思います。また自分の弱さを抱えて、どうしたら良いのかわからないというような魂の悩みに向き合うこともあったことと思います。しかしそうした中にあっても、イエスさまがわたしのことを愛してくださり、わたしに永遠の命を与えてくださるということを信じて歩まれました。そして天に帰られ、そして神さまから豊かな祝福を受けておられます。私たちもまた天に帰られた信仰の先達の歩みを受け継いで、イエスさまを信じて歩んでいきたいと思います。