2021年12月25日土曜日

2021年12月19日

 2021年12月19日 降誕節第1主日礼拝説教要旨

 「クリスマス。感謝の歌を歌いたい。」 小笠原純牧師

   ルカによる福音書 1:39ー56節

 クリスマスおめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。

 わたしが今年見た一番印象的なドキュメンタリーは、NHK特集の「エリザベス この世界に愛を」です。ナイジェリア人のエリザベスという女性が、入管施設に収容されている人たちを励まし続けるというものでした。エリザベスの祈りを聞きながら、マリアの讃歌を思い出しました。「神の奇跡を起こしてください。強い力でお守りください。彼らを愛していただき、心から感謝します。・・・。あなたの愛でこの家を包んでください。あなたの光で闇を取り払ってください。神よ、あなたに感謝します。崇拝します。賛美します」。思いどおりにいかないことがたくさんあるけれども、エリザベスは神さまを賛美するのです。

 マリアは高らかに、マリアの讃歌を歌うわけですが、しかし現実というのはなかなかきびしいものです。マリアが歌うとおりにそうそうすぐになるというわけでもありません。現実がつらいものであると、私たちはつぶやくことや不平や不満がこころのなかから出てきます。どうしてわたしがこんな目にあわなければならないのだろう。

 しかしマリアは讃歌を歌います。困難な中にあっても、不安な気持ちに陥ってしまいそうになっても、マリアは神さまを讃美します。【「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです】。

 たとえわたしが小さな者であったとしても、神さまはわたしに目を留めてくださる。わたしのことを忘れることはない。いつも神さまはわたしのこと心に留めてくださり、わたしを祝福し、わたしを守ってくださる。わたしの魂は神さまをほめたたえずにはいられない。そのように、マリアは歌いました。クリスマス。イエス・キリストはその証しとして、私たちの世に来てくださいました。

 エリザベス、そしてマリア、そして私たちは神さまを賛美する者として、神さまによってつくられています。神さまは私たちを愛してくださり、ご自分の独り子であるイエスさまを、私たちの世に送ってくださいました。私たちは神さまの大きな祝福の中に生かされています。

 クリスマス。私たちは感謝の歌を歌いたいと思います。つぶやきや不安、心配事でこころが一杯になって、不平や不満が口から出てしまうことが多いですけれども、クリスマス、私たちは感謝の歌を歌いたいと思います。


2021年12月18日土曜日

2012年12月12日

 2021年12月12日 待降節第3主日礼拝説教要旨

 「でこぼこだけど、道を整える。」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 1:1ー8節

 英米文学者の阿部公彦さんは、料理本について分析をし、興味深いことを言っています。日本の料理本には命令形が使われることがなく、現在形が使われる。料理を作るという利他的な行為を反映したものとして、料理本の文章も「善意と愛の形」を反映したものになるのだそうです。(「kotoba」、2021.No.44)。

 今日の聖書の箇所は「命令形」が印象的な聖書の箇所です。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』。洗礼者ヨハネは命令形で話す印象があります。「悔い改めにふさわしい実を結べ」というような感じです。それに対してイエスさまはあまり命令形で話されません。「サタンよ退け」というような感じで話されるときも、もちろんあります。しかし洗礼者ヨハネが、わたしは水で悔い改めの洗礼を授けるが、わたしのあとからくる人は聖霊による洗礼を授けられると言われたように、イエスさまは聖霊による祝福を人々に届けたのでした。洗礼者ヨハネは悔い改めを迫り、イエスさまは神さまからの祝福をもたらすのです。イエスさまは、「罪人であるあなたも、神さまの民として、神さまの祝福のうちにあるのだ」と、私たちを祝福してくださいます。

 救い主イエス・キリストをお迎えするにあたって、私たちが用意する主の道、私たちが整える主の道というのは、そんな大きくりっぱなものではないかも知れません。悔い改めて、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言われても、イエスさまをお迎えするのにふさわしいりっぱな道を用意することはできないかも知れません。

 私たちの歩みは、でこぼこがあったり、石があったり、曲がっていたり、ゆがんでいたりします。人のことをうらんだり、人に冷たくあたったり、自分勝手な思いでこころのなかがいっぱいになったりします。やさしい気持ちになることができなかったり、人のことをうらやんでみたり、恥ずかしい思いがこころの中をぐるぐるとめぐったりします。そうしたでこぼこがあり、石ころがあり、曲がっていて、ゆがんでいる私たちですけれども、それでも救い主イエス・キリストをお迎えするにあたって、私たちの歩みを整えたいと思います。

 救い主イエス・キリストが私たちのところに来てくださいます。ふさわしくないものですけれども、神さまにこころから感謝をして、謙虚な思いになって、イエスさまをお迎えいたしましょう。


2021年12月10日金曜日

2021年12月5日

 2021年12月5日 待降節第3主日礼拝説教要旨

   「神様の分」 入 治彦牧師

     マタイによる福音書 1:18〜25節

 本日は平安教会創立145周年おめでとうございます。主の特別の祝福をお祈りいたします。 

 さて、昔の教会や修道院には、迷路の庭園をつくっていたところもありました。迷い悩むことに深い意味を見出していたのでしょう。聖書を読んでいてああでもない、こうでもないと思い巡らすことは誰でも経験していることだと思います。

 クリスマス物語の中にも、イエスの誕生に際していろいろと思い悩んだ人たちがいました。しかし、最も思い巡らしたのはヨセフとマリアでしょう。「母マリアはヨセフと婚約していたが二人が一緒になる前に、聖霊によってみごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことが表沙汰になるのを望まず、ひそかに縁を切ろうとした」当時ユダヤでは婚約期間は1年間とされていましたが、そんな時に最愛のマリアが、男性との関係もないのに身ごもってしまったのです。

 これは当時のユダヤでは一大事でした。よその男と交渉をもった場合は姦淫罪に問われ、石打ちの刑に服さなくてはならない。しかし、それはいくら律法的にいくら正しいヨセフといえども、彼の愛情がゆるさない。かと言ってお腹の子を認知してよその男の子を育てることは、彼の正義がゆるさない。その板挟みで彼は悩みました。そして、律法を裏切らず、しかも彼女をさらしものにしないで済む、離縁という唯一の考えに至ったのです。ところが、マリアの顔には一点の曇りも見えず、彼は自分の考えは根本的に誤っていたのではないかと自分を責めました。

 それに対する解答は夢の中で与えられたのです。天使が「彼女の懐妊は、聖霊による。その子は民を救う者となるのだから、心配しないで彼女をあなたのそばに受け入れなさい」と勧めました。そのマリアを受け入れた時、二人の間に生まれたのがインマヌエルでした。神、我らと共にいます。それは神がナザレのイエスとなって、私たちの体験するであろう労苦や挫折、その苦しみも喜びもすべて、なめつくしていてくださっているということに他なりません。誰にも言えないことも神はお見通しであり、わかっていてくださる。そこにインマヌエルの主が共におられるのです。

 セルビアをはじめとして東欧には、クリスマスのしきたりに「神様の分」というのがあります。クリスマスのケーキを切り分ける時に、そこにいる人数分、プラス一人分を切り分けます。「それはだれの分か?」と聞かれれば「それは神様の分だ」と答えるのです。また、予期しないお客さんがやってきた時にも、神様の分を分けることができます。インマヌエルの主は、このように見えない客となって私たちと共にいてくださいます。

 今年もコロナ感染に脅かされた1年でありましたが、私たちのこの間にいつも神様の分があることに想いを馳せつつ、主のご降誕をお迎えしたいと願っています。


2021年12月2日木曜日

2021年11月28日

2021年11月28日 待降節第2主日礼拝説教要旨

   「心静かに信じて待て」 小笠原純牧師

     マルコによる福音書 13:21ー37節

 アドヴェントに入り、ローソクに1本の灯りがともりました。イエス・キリストがお生まれになられたことをお祝いするクリスマスまで、大切にすごしたいと思います。

 世の終わり・終末というのは、裁きの時ですから、なんとなく私たちは不安になります。私たちは自分たちが神さまの前にふさわしくない者であることを知っているからです。私たちは罪深い者です。神さまから裁かれたら、どうしたらいいのだろうと思ってしまいます。天地のように、私たちも裁かれ、滅びてしまうのだろうかと思います。しかしイエスさまは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われます。

 「わたしの言葉」、イエス・キリストの言葉とは、何なのでしょうか。ヨハネによる福音書1章1節以下にこうあります。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は神と共にあった。】。イエスさまは世の罪を取り除く神の小羊として、私たちの世に来てくださいました。イエスさまは私たちを裁くために来られたのではなく、私たちを救うためにこられました。

 使徒パウロはテサロニケの信徒への手紙(一)4章13節以下で、終末について語っています。【神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです】とあります。「終末に際して、裁きのことに気をとられて脅えるのではなく、神さまに救われた喜びに満たされなさい」と、使徒パウロは私たちに言っています。

 十字架につけられたイエスさまが最後に話されたのは、共に十字架につけられていた犯罪人でした。イエスさまは、高慢なヘロデ王とは口を利かれませんでした。しかし罪を悔いて、イエスさまに救いを求める罪人には、「今日わたしと一緒に楽園にいる」と言ってくださいました。イエス・キリストは私たちの罪を赦し、私たちを救うために、十字架についてくださったのです。

 アドヴェントに入りました。クリスマス、私たちの救い主イエスさまが、私たちのところにきてくださいます。心静かにして、私たちを憐れんでくださる神さまの愛を信じましょう。アドヴェントのとき、一日、一日を大切にして、救い主イエス・キリストをお迎えする準備をいたしましょう。

 

2021年11月26日金曜日

2021年11月21日

 2021 年 11 月 21 日 待降節第1主日礼拝説教要旨

   「天に宝を積む」 小﨑 眞牧師

     マルコによる福音書 10:17-22 節

 収穫感謝の起源は、英国からの入植者(ピューリタン)が先住民に助けられ、豊かな収穫を神に感謝したことにあると言われる。しかし、入植者と先住民の友好関係を裏付ける史料はなく、むしろ先住民の犠牲を伴う歴史が刻まれた。先住民のシアトルは、土地や大気や水を私的所有する入植者の姿勢に疑義を呈した(J・ツィンク『美しい大地』)。1970 年から先住民たちは、収穫感謝の時を「全米哀悼の日(National Day of Mourning)」と定め、過去の悲劇を想起し抗議の歩みを築いている。

 福音書(聖書日課)に描かれる「財を所有する男」の姿は、ユダヤ社会の座標軸(十戒などの律法遵守)の中だけに自分の生活を位置づけ、自身の幸福を実現してくれる「善い先生」としてイエスを見ていた。私たちも「良い信仰生活」、「正しい教会生活」と称し、自身を始め私たちが勝手に作り上げた正しさの尺度(敬虔さ、献身、温和、人柄の良さなど)に縛られ、イエス以外を拠り所にする傾向へと陥っている。

 このような現実の只中で、主イエスは私たち自身が拠り所としている事柄を手放し、「従う」ことを提示した。「従う」ことは「ついていく(マルコ 1:17)」と同義であり、今の場から離れることを意味する。私たち自身の意思を越えた働きに委ねた姿勢でもあり、それは、「この世にありながら、もう一つの世界へとも繋がる日常」への提案と言える(若松英輔『日本人にとってキリスト教とは何か』)。この視座の転換を遠藤周作は生涯のテーマとし、『深い河』の中で、「生活」と「人生」という言葉を使い分け、「人生」の豊かさを探求している。私たちは「信仰生活」の恵みではなく、「不可視な人生」の富を大切にする姿勢を養いたい。「人間にできることではないが、神にはできる(マルコ 10:27)」との招きに応じ、自らの不完全さや弱さを顕にすることを恐れず歩みたい。「自分の願いや意図を鎮め、魂に余白を生み、神が働く場所を作らねばならない(『エックハルト説教集』田島照久編訳)」との言葉に傾聴したい。

 収穫感謝にあたり、『柿ごよみ』の一節を紹介する。「師走の風に吹かれて色づいた実も葉もすっかり姿を消し、静けさが戻ってくると『ご苦労様』の声と共にお礼肥が播かれます」とある。自らが獲得した収穫の喜びではなく、その背後に働く力へ敬意を払いたい。自らが築こうとする「善い」信仰生活(教会生活)から解放され、心の余白・隙間(不完全さ・不十分さ)を「愛」という不思議さで埋める主イエスに出会う歩みへと招かれたい。

2021年11月14日

 2021年11月14日 降誕前第5主日礼拝説教要旨

   「不安よ、さようなら。」 小笠原純牧師

     マルコによる福音書 13:5ー13節

 「スタンダードブックス 河合隼雄」(平凡社)を読みながら、27年前といまでは、貧困ということの意味が違っていることに気づかされます。【ここで食生活が貧困だと言うのは、栄養が悪いという意味ではない。心のこもった味わいのある食事を食べる機会が少ない、ということなのである】(河合隼雄)とありますが、いまの時代は、食生活の貧困というのは、まさに貧困問題として語られます。お金がなくて、子どもに十分に食事を与えることができないということです。よくこども食堂なども話題になります。私たちの社会はすこし前に比べて、困った世の中になっているような気がします。新型感染症もあり、何となく不安を感じるという人も多いことと思います。

 世の終わり・終末の前には、地震や飢饉などの天変地異が起こり、またいろいろなところで戦争が起こる。そして偽預言者がたくさん出てきて、みんなを不安にさせる。また神さまのみ旨に従って生きていこうと思う人たちは迫害を受ける。力の強い者が自分勝手な政治を行ない、そして力の弱い者たちを顧みようとしない。神さまの御心に従って生きていこうとすると、力ある者たちによって裁かれ、牢屋に入れられることになる。そのようにイエスさまは言われました。

 なんとも不安な話であるわけです。イエスさまの時代のあとのクリスチャンたちは、世の終わり・終末を経験することはありませんでしたが、しかしここで書かれてあるような迫害を実際に受けることになりました。そしてイエスさまを信じ、神さまを信じて、最後まで耐え忍んだのでした。

 最後まで耐え忍ぶことができるのは、聖霊の働きがあるからだと、イエスさまは言われます。いろいろな不安に出会い、どうしたら良いのかわからないというようなことがあるだろう。しかし大丈夫なのだ。困ったとき、行き詰まったときは、神さまの霊である聖霊があなたを助けてくれる。だから恐れずに生きていきなさい。

 私たちは「不安よ。さようなら」と言いたいと思います。神さまにお委ねしなさい。神さまがあなたを守ってくださる。神さまが良き道を整えてくださる。聖霊があなたを導いてくださり、そしてあなたのやるべきこと、語るべきことを整えてくださる。神さまにお委ねして、神さまが守ってくださることを信じて、安心して行きなさい。そのようにイエスさまは言われました。

 イエスさまの招きに応えて、神さまにお委ねして歩んでいきましょう。


2021年11月7日

 2021年11月7日 降誕前第6主日礼拝説教要旨

   「神さまから与えられた命を生きる。」 小笠原純牧師

     マルコによる福音書 12:18ー27節

 今日は召天者記念礼拝です。平安教会に連なる人々が共に集い、神さまを賛美する礼拝です。私たちの教会のメンバーの方々は、ご家族の方々が思っておられる以上に、教会の礼拝に出席してくださることをとてもうれしいことと思っておられると思います。みなさんの教会だと思って、またぜひ教会の礼拝にいらしてください。お母さま、お父さまの信仰を受け継いで、神さまにより頼んで歩んでくださればと思います。

 イエスさまの時代は、ファリサイ派とかサドカイ派というような宗教的なグループがありました。サドカイ派の人々は「復活」はないというふうに考えていました。イエスさまの時代は、レビレート婚というのがありました。夫が亡くなったときに、その兄弟と結婚をするという結婚です。7人の兄弟の妻となった女性は、復活のとき誰の妻となるのか。サドカイ派の人々は、この制度の話をすることによって、復活はないのだと言うわけです。サドカイ派の人々はイエスさまを論破することにだけ心を向け、高慢になってしまい、大切なことを忘れてしまっていました。

 イエスさまは「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか」と言われました。神さまが私たちひとりひとりを愛してくださっている。神さまはアブラハムを愛してくださり、命を与え、その人生を祝福してくだった。神さまはイサクを愛してくださり、命を与え、その人生を祝福してくださった。神さまはヤコブを愛し、命を与え、その人生を祝福してくださった。神さまはその七人の夫の妻となった女性を愛し、命を与え、祝福してくださる。その女性は復活があるかどうかを証明するための道具として存在しているわけではない。

 神さまがあなたに命を与え、神さまがあなたに能力を与え、神さまがあなたに安心して生活できる環境を与えてくださっているということを忘れてしまっている。あなたは神さまが与えてくださった命を、神さまの思いにそって、誠実に生きていくことを、忘れてしまっている。イエスさまはサドカイ派の人々にそのように言われました。

 私たちは神さまによって命を与えられ、そしてその命を生きています。神さまによって愛され、かけがえのない大切な人として、私たちは生かされています。そのことにしっかりとこころを向けて歩んでいきたいと思います。


2021年10月31日

 2021年10月31日 降誕前第7主日礼拝説教要旨

   「今日の宗教改革」 山下毅牧師

     ルカによる福音書 12:49-53節

 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」。神の権威のもとに、主はこのような言葉を宣たまいました。イエスの言葉に従い、地上に火を投じた人として、マルティン・ルターを覚えます。

 10月31日は、宗教改革記念日です。ルターの闘いは、ウィッテンベルク城教会の扉に95ヶ条のテーゼを張り付け贖宥状批判の公開討論を呼びかけたとことに始まりました。その反響は、大きく全ヨーロッパを包むに至ります。色々の経過の後、ルターはウォルムスの帝国議会に召喚されます。そこで、「聖書の証言は正しく、自分が書いた書物は、取り消すことが出来ない」と証言し「わたしはここに立っている」と述べます。――その精神は、第二次大戦での教会闘争にも受け継がれ、現代の私たちキリスト者も学ぶべきものがあります。その後ルターはワルトブルク城にて、ドイツ語訳聖書の翻訳を完成します。

 宗教改革における最も重要なことは、私たち自身がみ言葉により、造り変えられることです。それにはどうすれば良いか。ルターは「聖書の読み方」を明快に教えます。第一に聖書を読む時は、神に聖霊を与えて下さるように求め、祈りつつ読むこと、第二に、黙想し、聖書を繰り返し読み、聖霊が語られることを熱心に聞くべきです。第三に、人生において、試練に出会う時、試練の中でこそ、聖書を読むべきです。その時、聖書が人生にとってすばらしいものであることが分かります。――ルターはいろいろなことを語りますが、「神は愛であり、その愛にとどまるものは、神にとどまり、神がその者にとどまります。神の燃えさかる愛は、すべての不純物を燃やします。」「神は私たちの罪を赦して下さり、それと関連して、パウロの『義人は信仰によって生きる』の「義」は裁きの意味でなく、赦しに値しないものを赦し、立ち直らせるものです」「神の前では悩みをすべて打ち明けなさい。神は喜んで、聞き、助け、諭を与えてくださいます」「キリストは復活されました。そのことを深く信じ、信仰を堅くしなさい」と述べています。「キリストを信じること」をとおして全く違う形で聖霊があなたの生の中に入って来られます、私たち自身の中で生命――神の生命であると同時にあなたの生命となられます。そのことを通して私は新しく変えてくださいます。そのことをルターは述べています。


2021年10月24日

 2021年10月24日 降誕前第8主日礼拝説教要旨

   「祝福された人生を歩む」 小笠原純牧師

     マルコによる福音書 10:2ー12節

 NHKの大河ドラマの「青天を衝け」の主人公の渋沢栄一は『論語と算盤』という本を書いています。渋沢栄一は恋愛関係という面では、現代の私たちからみれば、あまり感心できないこともあります。妻以外の女性とのおつきあいもたくさんあったと言われます。渋沢栄一の妻は、「父様も論語とは旨いものを見つけなすったよ。あれが聖書だったら、てんで教えが守れないものね!」と言ったそうです。

 一般的にイエスさまの時代は申命記の24章の規定の解釈に基づいて、離縁状を渡したら離縁することができるというふうに考えられていました。しかしイエスさまは簡単に離縁するということに反対でした。それは離縁状を書いたら離縁できるとなると、立場の弱い妻が簡単に離縁されるということになるからです。

 今日の聖書の箇所は、イエスさまが離縁について言われた言葉が記されてあるので、その言葉が絶対的な教えとなって、「キリスト教は絶対に離縁したらだめなんだ」というようにとらえられることがあります。でもイエスさまの時代と、私たちが暮らしている現代の日本の状況というのは同じではありませんから、「キリスト教は絶対に離縁したらだめなんだ」ということでもありません。現代の日本ではドメスティックバイオレンスというように、家庭内暴力が原因で、「このままでは殺される」というような状況で、夫から逃げ出して、離婚をしたいと思っているというような場合も出てきます。イエスさまが問題にされたのは、離縁できるとか、離縁してはならないということではなく、「だれかによって強制的につらい思いをさせられるとか、不幸にさせられるというようなことはだめなんだ」ということです。

 イエスさまは天地創造のときから、神さまの大切な人として、人は創造されたのだと言われます。【天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった】。わたしは神さまの大切な人として創造されています。そしてわたしの隣にいる人も、神さまの大切な人として創造されています。このことを抜きにして、人が勝手なことをするということはあり得ないと、イエスさまは言われます。

 私たちはみんな神さまから愛されている。そして大切な人として、その人生を歩んでいます。互いに助け合い、互いに尊敬しあって、神さまが祝福してくださる歩みでありたいと思います。


2021年10月21日木曜日

2021年10月17日

 2021年10月17日 降誕前第9主日礼拝説教要旨

 「大切な一日と思って生きる」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 25:1ー13節


 イエスさまの時代の人たちは、世の終わりが近いというふうに思っていました。イエスさまの時代からすこし年数がたった、マタイによる福音書の著者の時代になると、すこし感じ方が変わっています。「終末が来る、世の終わりが来ると言われていたけど、なかなか来ないなあ」というふうに思う人たちが出てきました。今日の聖書の箇所はそうした事情が反映されています。【花婿の来るのが遅れたので】というのは、世の終わりがくるのが遅れているということです。

 花婿がなかなかやってこないので、賢いおとめも愚かなおとめも眠ってしまいます。しかし突然、花婿はやってきます。愚かなおとめたちは予備の油を用意していませんでした。それで愚かなおとめたちは賢いおとめたちに、「油を分けてください」と頼みます。賢いおとめたちは愚かなおとめたちに、『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』と言いました。

 この「油を分けてあげるほどはありません」というのは、終末、世の終わりの時には代わってあげることができないことがあるということです。私たちは一人で神さまの前に立たなければならないということです。それは分けてあげたり、代わってあげたりすることはできないということです。

 終末はいつやってくるかわらないわけですから、毎日、毎日を、大切な一日と思って生きたいと思います。神さまは私たちに一日一日,命を与えてくださり、私たちに「生きよ!」と言ってくださるのです。朝、今日一日の命を与えてくださる神さまによって、私たちは目覚めるのです。そして目覚めたら、「大切な一日と思って生きる」のです。

 まあ、人のすることですから、花婿を待っていたいおとめたちのように油断をしてしまって、眠り込んでしまうということもあるでしょう。私たちにとって失敗はつきものです。失敗をしてしまう愚かなものであるからこそ、私たちは神さまを慕い求めて生きています。誇りえるものはないけれども、「神さま、ごめんさない」ということも多いけれども、それでもなお、私たちは神さまを慕い求め、そして神さまから与えられる一日を「大切な一日と思って生きる」のです。

 天地創造のときに人に命の息を吹き入れられた神さまは、今日も私たちに命の息を吹き入れられ、そして「大切な一日と思って生きよ」と、私たちの一日を祝福してくださっています。


2021年10月15日金曜日

2012年10月10日

 2021年10月10日 聖霊降臨節第21主日礼拝説教要旨

   「神様が望むこと」 梅田玲奈神学生

     テサロニケの信徒への手紙(1) 5:16ー18節

 今年の7月から、派遣神学生として平安教会に通っています。梅田玲奈と申します。

 テサロニケの信徒への手紙(一)5章16節~18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」この箇所は、私の愛唱聖句です。  しかし私たちは、いつも喜び、祈り、感謝することが出来ているでしょうか。

 このテサロニケの信徒への手紙(一)を書いたパウロという人物は、当初パリサイ派としてキリスト者を迫害する立場にありました。しかしイエスからの呼びかけによって、イエスこそが救い主であるという信仰を持ちました。そしてイエス・キリストの福音を宣べ伝えるため、伝道旅行を行います。

 テサロニケという地も、パウロが伝道旅行の際に立ち寄った町です。港町として様々な文化を持った人々が混在する地でした。パウロから福音を聞いたテサロニケの人々の中には、信じた人々もいましたが、反抗した人たちもいました。反抗した人たちによって暴動が起こされ、パウロはその地を追われています。(使徒言行録17章)パウロは短い期間しかテサロニケに滞在していません。しかし伝道は実を結び、テサロニケにいる信仰者によって教会が出来ました。そのテサロニケ教会に宛てたのが、このテサロニケの信徒への手紙(一)です。

 「神様は私たちに喜び、祈り、感謝することを望んでいる」とあります。今、神様は私たちに期待を託した状態なのです。つまり、現状は完了していません。神様は、私たちに「イエスにおいて=イエスと共にある」ことで喜び、祈り、感謝する姿勢を求めておられます。同時に神様は私たちが、弱くて脆いということも知っておられます。だからこそ、望み、期待を託すという形を示してくださっているのです。

 私たちの生きる社会は、状況によって価値や判断が変動します。しかし神様が私たちに望んでいる、キリスト者としての姿勢というのはパウロの時代でも、今私たちが生きる時代、これからの時代においても変わらないのです。


2021年10月8日金曜日

2021年10月3日

 2021年10月3日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨

 「やっぱりイエスさま、信じます。」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 21:18ー32節

 イエスさまは、二人の息子のたとえを祭司長たちに話されます。ある人に二人の息子がいた。兄に「ぶどう園で今日、働いてくれ」というと、そのときは「いやだよ」と言ったけれども、後から考え直して、ぶどう園に働きに出かけた。弟にも「ぶどう園で今日、働いてくれ」と言うと、弟は「わかりました」と言ったけれども、実際は働きに出かけなかった。徴税人や娼婦たちの方があなたたちよりも先に神さまの国に入るだろう。あなたたちは洗礼者ヨハネの言うことを信じず、彼の言葉に耳を傾けることはなかった。しかし徴税人や娼婦たちは洗礼者ヨハネの言葉に耳を傾け、悔い改めたのだから。しかしあなたたちはその様子を見ても、後で考え直して、洗礼者ヨハネを信じようとはしなかった。

 悔い改めるということは、なかなかむつかしいことです。とくに自分は正しいと思っているときに、自分が悪いことをしているということに気づくということは、とても困難なことです。私たちもよく自分が正しいと思って、人を裁きます。自分が正しいと思っているわけですから、なかなか悔い改めることはありません。自分は立派な信仰者だと思っています。しかしイエスさまは、あなたたちに信仰があると思うのであれば、あの山に向かって、「立ち上がって海に飛び込め」と言ってみればわかると言われます。

 私たちも祭司長たちと同じように、自分が正しいと思い込んで、自分が悪いということなど、頭の隅にも思い浮かばないということもあるわけです。なかなか信じることができない。神さまから「わたしのことを信じなさい」と言われても、「いやです」としか言えない私たちがいるのです。しかしそうした私たちにも「後から考え直す」機会が備えられるのです。

 謙虚な思いになって、「やっぱりイエスさま、信じます」と言う者でありたいと思います。信じるのに遅く、心の中に高慢な思いを持つことが多い私たちです。イエスさまから声をかけられても、「えー」とか「なんでー」というような思いになってしまうことの多い私たちです。イエスさまの御言葉に聞き従わず、自分勝手なことをして、迷子になってしまうことの多い私たちです。しかし後から思い直して、「やっぱりイエスさま、信じます」と言う者でありたいと思います。



2021年10月2日土曜日

2021年9月26日

 2021年9月26日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨

   「私たちの救い主」 山下毅牧師

    ヨハネによる福音書 1:1-18節

 キリスト者の作家三浦綾子さん著書『海嶺』は、尾張の船乗りあった、岩吉・久吉・音吉が遭難し、1年2か月太平洋上を漂流し、さまざまなつらい体験をし、ぐるりと世界を周って英国からマカオに連れてこられまして、日本に帰ろうとして、挫折する物語です。この三人がマカオに居ました時、ドイツ人のギュツラフ宣教師に出会い、共に力を合わせて、『ヨハネによる福音書』『ヨハネの手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』を日本語に翻訳します。――そして、「ハジマリニカシコイモノゴザル コノカシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル」と訳し始めました。この箇所(1節-18節)の中心は、14節です「カシコイモノワ ニンゲンニナラアタ ワタシドモ トモニオッタ ワタクシドモ ヒトノクライヲミタ クライハ チチノヒトムスコ オンゲイホントニイイパイ」です。この翻訳は、漁師の言葉であり、庶民の言葉であり、日本の最初のプロテスタントの翻訳であり、この翻訳には「生きて、命がある」と評価されています。イエス・キリスト私たち人間を救うためにこの世に来てくださいました。この歴史の中にイエスは私たちの罪を贖うために十字架を負い、死にて葬られましたが、復活を成し遂げられました。――私は毎週「朝祷会」に出席していますが、そのメンバーの中に、京都大学医学部教授である、高橋裕子先生が出席されています。高橋先生は7年前に、主の恵みにより、復活のイエスに出会われるという、誠に劇的な、恵みに溢れる体験をなさいました。本当に驚きました。先生はそれまで、キリスト教には関心がなかったのですが、その後洗礼を受け、熱心なクルスチャンになり、現在活躍されています。――ブールハルトは「――神に対して身を起こし、わが父よ、わが父よ、と呼び求める者に、わたしたちどんな人間であろうと、うちのめされていようと、神の国の支配が始まり、御心が行われる」と述べられています。

 イエス・キリストを見上げ、イエスを信じる者こそ、恵まれた存在であり、真実の世界を歩むことが出来ます。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。三浦綾子さんの小説『海嶺』の船乗り達も、大変は苦労をして、生き抜きました。わたしたちも、人生の中でいろいろな困難があります。しかしその時、私たちと共に、復活のイエス・キリストが歩んで下さいます。私たちは、主を喜びつつ、感謝しつつ、祈りつつ日々を歩みたいと思います。


2021年9月19日

 2021年9月19日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

   「神さまによって救われる。」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 19:13ー30節

 山本周五郎の『日日平安』の主人公の浪人は、お家騒動の手柄をたて、仕官できるだろうときに、逃げ出してしまいます。自分はもしかしたら仕官できるのではないかというさもしい考えで、このことにあたっているけれども、ほかの人たちは一生懸命に藩のことを考えて純粋な気持ちで行なっている。そのことを考えると、自分のさもしさが身にしみてきて、こんなことでは人間としてだめなのではないかと思い、そして逃げ出すのです。人は、自分は何のために生きているのか。お金のためだけに生きているのか。果たしてそれで良いのかというようなことを、立ち止まって考えるときが、ふいに訪れるということがあるわけです。

 若い時、お金のことが気になって、生活のことが気になって仕方がなかった人も、年を取ると、また少し変わってくるのではないでしょうか。「子供を祝福する」「金持ちの青年」ときて、私たちはどうなのかというところです。天の国は子供たちのものであると、イエスさまは言われました。そして青年のお金持ちを見ながら、イエスさまは「金持ちは天の国に入るのは難しい」と言われました。そしてだんだんと年を取ると、また私たちはどちらかというと、子供たちに近くなります。

 お金は天の国にもっていくことはできません。私たちは年を取り、本当に私たちが必要としているものを求める生き方へと戻っていきます。私たちに必要なのは、お金ではなく、イエスさまからの、神さまからの祝福です。私たちが求めるものは、イエスさまが私たちに手を置いてくださり、「あなたは神さまの子どもです」「あなたは神さまの子としての永遠の命を得ています」という祝福です。

 私たちは神さまによって救われています。神さまの大きな愛のうちに、私たちはあるのです。私たちがなにか善いことをしたから、私たちは救われるわけではありません。ただ神さまが私たちを愛し、神さまが私たちを憐れんでくださるので、私たちは救われるのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と、イエスさまは言われました。

 私たちは天の国に入り、そして私たちは永遠の命を得るのです。ただ神さまの憐れみによって、神さまの愛によって、私たちは大いなる祝福を得るのです。神さまが私たちを救ってくださる。このことを信じて、神さまのお委ねして歩みましょう。


2021年9月18日土曜日

2021年9月12日

 2021年9月12日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨

   「赦す、赦さない、赦す、赦さない。」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 18:21ー35節

 昔、人は恋する年齢になると、花や葉っぱのある枝を見つけると、手に取って「好き、嫌い、好き、嫌い」というふうに占いました。使徒ペトロは残念ながら、そういう日々をもう卒業していたのでしょう。彼に葉っぱのついた枝を渡すと、葉っぱを一枚ずつちぎりながら、こう言いました。「赦す、赦さない、赦す、赦さない」。実際、使徒ペトロがそんなことをしたとは聖書にはのっていませんが、そうしたような気がします。皆さんは葉っぱのついた枝を手渡されると、どうされますか?。「好き、嫌い、好き、嫌い」とされますか?。それとも「赦す、赦さない、赦す、赦さない」とされますか?。

 使徒ペトロはイエスさまに「何度まで赦したらよいのでしょう。七回までですか?」と尋ねました。しかしイエスさまは使徒ペトロに、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われました。それは「徹底して」とか「赦せるだけ赦して」とかいうのではなくて、「あなたの思っているところを越えて、もうずっっっっと赦してあげなさい」と言われたのでした。そして、イエスさまは自分は赦されたにも関わらず、仲間を赦すことができない家来のたとえをはなされました。

 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と、人を裁いたり、憎しみの側に引きずり込まれようとしている使徒ペトロに、イエスさまは神さまの愛に生きなさいと言われました。「赦す、赦さない、赦す、赦さない」と自分が赦されて生かされていることを忘れてしまっている使徒ペトロに、「神さまはどんなにあなたのことを赦してくださったか」を思い出しなさいと、イエスさまは言われました。

 私たちは神さまがとっても大きな愛と赦しをいただいている。このことに感謝して、このことを大きな喜びとして生きていこう。ほかのことは小さなことじゃないか。そんな小さなことにいちいちこだわっているよりも、神さまの大きな愛のなかにあることに感謝して生きていこうじゃないか。イエスさまは使徒ペトロにそのように言われました。

 使徒ペトロと同じように、私たちもまた神さまから大きな愛と赦しをいただいて生きています。まずこのことにこころを向けましょう。そして大きな喜びに満たされて、感謝して歩んでいきましょう。


2021年9月9日木曜日

2021年9月5日

 2021年9月5日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨

   「良き祈りをもって生きたい。」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 18:10ー20節

 夏のスーツを新しく買った時に、名前を入れてくれるようにお願いをしたのに、名前が入っていませんでした。わたしの心の中に意地悪な気持ちが起こってきます。スーツに名前を入れてもらうためには、わたしがスーツをお店に持っていかなければなりません。わたしの失敗でもないことで、わたしがわざわざお店に持っていかなければならないわけです。「それって、どうよ」という気持ちが沸き起こります。わたしが何も悪いことをしたわけではないのに、わたしの中に意地悪な気持ちが一杯になり、わたしはなんて意地悪な人間なんだということが明らかになるというわけですから、なんとも不幸な出来事であるわけです。しかし意地悪な気持ちに流されないようにしたいと思いました。

 イエスさまは「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と言われ、九九匹の羊と迷い出た一匹の羊のたとえを話されました。私たちは必ず自分が九九匹の側にいるという幸せな思い込みをもちます。しかしヨブ記のヨブのように、人はその人の善悪に関係なく、すべてのものが取り去られるというような苦境に立たされるということがあるわけです。

 またイエスさまは人に忠告するときは、配慮をもって行ないなさいと言われました。自分の怒りに引きずられて、みんなの前で攻め立てたりすることのないように。配慮をもって忠告をし、大切なのは、その人をやっつけることではなく、その人が悔い改めることであり、そして私たちが「兄弟を得る」ことなのだ。そのようにイエスさまは言われました。

 イエスさまは「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」「どんな願いごともかなえられる」と言われました。私たちはどのような願いをするのでしょうか。自分勝手な願い事をすることもできます。わたしだけが徳をする世の中であってほしいと願うこともできます。わたしの嫌いなあの人が、いやな目にあいますようにと願うこともできます。

 しかしそうしたことは、神さまの御心ではありません。「小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」のです。小さな者が大切にされ、やさしい配慮に満ちた世の中であることが、神さまの御心なのです。だから私たちは御国がきますようにと祈ります。神さまの御心にそう世の中になりますように。そうした良き祈りをもって生きていきたいと思います。


2021年9月4日土曜日

2021年8月29日

 2021年8月29日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

   「心踊らされて」 村上みか牧師

   マタイによる福音書 11:15ー19節

 コロナ禍のなか、私たちの生活は恐れや不安に包まれています。生活のさまざまな場面で生きにくさを感じ、悩んだり、落ち込んだり、また不満をもったり、怒ったりすることもあるでしょう。それはコロナ禍により大きくされた面がありますが、しかしそれはコロナ以前からもあり、しかも、その原因の多くは私たちの内側にあるように思われます。キリスト者として生きている私たちも、思っている以上に、この世の常識に合わせて生活し、それに縛られ、もがき苦しんでいるのではないでしょうか。私たちは、本当に日々、福音を生きているでしょうか。

 マタイによる福音書には、初期キリスト教徒たちが福音を宣教する中で周囲の常識にぶち当たり、葛藤する姿が垣間見られます。11章17節には、福音を宣教しても、人々に理解されず、それどころか迫害を受けるばかりの苦しみの中で、それを嘆き、悲しむ歌が歌われています:「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった。」ここには、福音を聞いても、常識や自分の思いに囚われ、なかなか大切なことが見えてこない人間の現実への批判が読み取れます。周囲の基準に自分を合わせる生活の中で、いつしか心がしぼみ、鈍くなり、美しい笛の調べを聞いても、心が踊らない。常識を批判し、神にある自由で豊かな交わりを教えるイエスの言葉を聞いても、心が開かず、理解できない。

 同時に、この歌には、福音は心を踊らせるものである、というメッセージを感じます。自分のことばかり考え、自分への執着が強い私たちが、その弱さや愚かさを知らされ、それを悲しみつつ、神に立ち帰り、豊かな愛と交わりの中を生きる、そのようなやり直しが許されているーこのような福音を受けたとき、私たちは様々な束縛や囚われから解放されて、自由にのびのびと生きてゆく、心踊らされて、軽々と生きていくことができるのです。

 そのような「とき」は、恵みにより与えられるものではありますが、すでにそれを経験し、確信している私たちは、そのための備えをすることもできます。自分の現実をよく見て、ダメだなと思い、やり直そうとすること、そしてそのような「とき」が訪れるよう祈り、相互に思いを寄せること、いろいろな備えが可能でしょう。そして、その備えを行うとき、心はすでに軽くなり始めているのだと思います。

 私たちの周囲には、コロナ禍をはじめ、様々な困難がひしめいています。その中で、しかし私たちはそれに押しつぶされることなく、心軽やかに身を捧げて生きてゆきたいものです。


2021年8月27日金曜日

2021年8月22日

 2021年8月22日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨


   「裁きは神に。あなたは人にやさしくしなさい。」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 13:24ー43節


 『どんぐり』は若くして亡くなった妻と寺田寅彦の思い出が書かれてある随筆です。妻の身の回りの世話をしてくれたのは、美代という女性です。寺田寅彦は、美代の気立てのやさしさや正直ものであることに目を向けて、いろいろな失敗をしたり、大変なことが起こったりしても、でもこの美代が妻のために一生懸命に働いてくれたことに対する感謝の気持ちは薄らぐことはないと言います。

 イエスさまの毒麦のたとえは、「人を裁くのは慎重にしたほうが良い」というたとえです。またイエスさまはからし種のたとえ、パン種のたとえをはなされ、天の国はどんどんと大きくなるのだと言われました。現実の世界はとてもさみしい出来事が起こり、人々の暮らしはよくないし、争いごとも多いけれども、でも神さまの御心が私たちの世界に一杯になり、天の国はどんどんと広がっていく。

 私たちはすぐに「わたしが正しくて、あの人は間違っている」と思いたがります。私たちはすぐに人を断罪したがります。人を断裁するとき、悪い人を断罪している自分は正しい人だと思えるからです。そしてすぐに腹を立てます。しかし腹が立った時、私たちが本当にしなければならないことは、自分に神さまの愛が足りないということに気づくことです。「人を裁いているわたしは悪い人だ」と悔い改めるということも大切なことですが、しかしその前に、自分に神さまの愛が足りていないと気づくことは、もっと大切なことだと思います。

 神さまの愛が自分に足りていないから、私たちは怒るのです。怒りで一杯になっている時、神さまから見れば、私たちは危篤状態なのです。神さまの愛が自分に十分に感じられるとき、私たちはやさしい気持ちになることができます。腹を立てているとき、私たちは「神さま、わたしをあなたの愛で満たしてください」と祈りたいと思います。

 あなたがいちいち、悪い人を探して、「こいつが悪い。あいつが悪い」と裁いていかなくても、天の国はどんどんと広がっていく。だから安心して、裁くことは神さまにお任せして、あなたは人にやさしくしなさい。イエスさまはそのように言われました。

 神さまの愛を一杯に受けて、安心して、小さな良きわざに励みたいと思います。

2021年8月20日金曜日

2021年8月15日

 2021年8月15日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨

   「兄弟姉妹そして母」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 12:43ー50節

 歌舞伎役者の世界は血縁で代々受け継いでいくということが多いですが、落語の世界は違います。落語家の親が落語家であるというわけではありません。桂ざこばは桂枝雀のことを「枝雀にいちゃん」と言いました。落語という志のなかの兄弟であるわけです。

 最近は、LGBTQというように、性的少数者(セクシャルマイノリティ)の主張がとりあげられるようになりました。レズビアン(女性の同性愛者)、ゲイ(男性の同性愛者)、バイセクシャル(両性愛者)、トランスジェンダー(「身体の性」と「心の性」が一致しないために「身体の性」に違和感を持つ人)というたちの生きづらさが語られます。そういうこともありますので、「兄弟姉妹」という言い方が、ふさわしいのかとか、男女にわけて名前を記すのが適当であるのかというような問いかけもなされます。ただ信仰の交わりとして、血縁の家族ではない家族のような交わりとして、教会は兄弟姉妹という関係を大切にしてきました。

 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。イエスさまの言葉はイエスさまの家族にとっては打ちのめされるような言葉だと思います。しかしこの言葉を聞いて、とても喜んだ人々もいたわけです。それは「わたしには家族がない」と思っていた人たちでした。「わたしには家族がない」というさみしくせつない思いをもっている人たちに、イエスさまは「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われました。教会の中で、「この人、わたしの弟」「この人、わたしの妹」と思う人を覚えて、いつも弟のこと、妹のことを覚えて、自分の祈りに加えるということは、とても大切なことだと思います。

 私たちはイエスさまの教えに、そのときは「そうだなあ」と思いつつも、すぐに汚れた霊が住み込んでしまうようなこころの弱さを持っています。七つの悪い霊が住み込んでしまっているのではないかと思えるようなときがあります。そんな私たちですけれども、しかしイエスさまは私たちの家族となってくださいました。私たちは神さまの愛に満ちた世界を願い求める家族です。敬愛する兄弟姉妹に囲まれて、神さまを慕い求めて歩んでいきましょう。


2021年8月13日金曜日

2021年8月8日

 2021年8月8日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨

   「蛇のように賢く、鳩のように素直に」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 10:16ー25節

 『<効率的な利他主義>宣言! 慈善活動への科学的アプローチ』(みすず書房)のなかで、ウィリアム・マッカスキルは、慈善活動を効率良くする方法について語っています。慈善活動をしている団体のことを詳しく調べ、ここに募金をすると、一番効率良く、世の中のためになるということを明らかにします。慈善活動も自分がその活動のために働くよりも、自分が効率良く稼いだお金で、その団体に募金をしたほうが効率良いというようなアドバイスをしています。ウィリアム・マッカスキルの言うことにすべて納得がいくというようなことでもないのですが、その冷静な論の進め方は、なかなかおもしろいなあと思いました。「蛇のように賢く」生きる知恵のような気がします。

 イエスさまは弟子たちを派遣するときに、弟子たちが迫害を受けることを語っています。そして「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われました。アジア・太平洋戦争中、クリスチャンは戦争に協力をし、そしてまたいろいろな迫害も受けました。『平安教会百年史』には、アジア・太平洋戦争のときの教会の様子として、次のような記述があります。【一九三七年から一九四五年にいたるこの期間は、軍国主義のもとにおける戦争の暗黒時代であった。教会には目立った抵抗運動もないまま、結果的には、皇道主義、軍国主義の国家体制の中で、従順にこれに従わざるをえなかったという歴史が深い傷跡のように残されている】(p.130)。国家が誤った歩みを始めると、それを止めることはなかなかむつかしいことです。そうなる前にとめなければなりません。

 「蛇のように賢く、鳩のように素直に」生きようと思うわけですが、実際問題、「蛇のように賢く」と言われても、世の中はきびしく、激しい迫害の前に、ただただ翻弄されて、どうしたら良いのかわからないというようなことが多いのだと思います。ですからイエスさまは結局、「鳩のように素直に」神さまに従って歩むということを大切にしなさいと言われました。

 私たちクリスチャンは、ただ神さまの方を向いて、「鳩のように素直に」神さまに従って歩むということを大切にしたいと思います。それは愚かなことに見えるときもありますが、しかし神さまに向き合って歩むとき、私たちの歩みは良き歩みであり、神さまから祝福された歩みであるわけです。素直に、神さまを信じ、神さまに依り頼んで、歩んでいきましょう。


2021年8月6日金曜日

2021年8月1日

 2021年8月1日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨


   「神さまの平和を届ける人に」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 9:35-10:15節


 ヒトラーのような人をどうしてドイツの人びとは支持したのかと思いますが、そのことについてはキリスト教が果たした役割というのは小さくはないようです。【なぜ人びとは反発しなかったのか。そのひとつの答えは、国民の大半がヒトラーの息をのむ政治弾圧に当惑しながらも、「非常時に多少の自由が制限されるのはやむを得ない」とあきらめ、事態を容認するか、それから目をそらしたからである。・・・。いまひとつは、プロテスタントとカトリックの両キリスト教会が、それぞれの宗教指導者の態度表明を通して、ヒトラーーへの支持を訴えたことである。プロテスタント教会の有力者、オット・ディベリウス主教は「ポツダムの日」に際してプロテスタント派国会議員のためにニコライ教会(ポツダム)でミサを行い、そこでヒトラーを民族の指導者として讚えた。一方、カトリック教会では、フルダ司教会議による「カトリック司教の声明」が、ヒトラーを頑なに忌避する信者の態度を変えさせた】(P.170)(石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』、講談社現代新書)。やっぱり宗教者がいいかげんなことをしていてはいけないのだと思わされました。

 「十二人を派遣する」という表題のついた聖書の箇所には、イエスさまが十二弟子たちに対して、宣教・伝道する際の細かい注意事項が記されてあります。いろいろと大切なことがあるわけですが、イエスさまは、家を訪ねて、その家に神さまの平和を届けるということが、弟子たちに託されたことだと言っておられます。【その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる】。

 戦後、76年を経て、「ナチス・ドイツも良いことをした」というふうに言い出す人々がいます。「戦争中の日本も良いことをした」と言い出す人々が出てきます。私たちはコツコツとそうした誤ったことを言い出す人たちに対して、「それはおかしなことだよ」と、伝えていきたいと思います。

 神さまの平和はすべての人々にとっての平和です。力によってもたらされる平和ではありません。国は自分たちの国にとって都合の良い平和を作り出そうとします。しかし神さまの正しさがあふれている平和でなければなりません。私たちは神さまの平和を届けていく者でありたいと思います。


2021年7月30日金曜日

2021年7月25日

 2021年7月25日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨

   「すべてのことは」 内山宏牧師

    ローマの信徒への手紙 8:26-30節

 私は出身教会の鳳教会で人生の5分の2を過ごしたことになります。その私にとって神学部大学院の2年間、派遣神学生として過ごした京都教会での経験はとても貴重なものでした。そこで出会った友人のY君から28節の御言葉を要約した「すべてのことは主にあって益となる」という言葉と、「クリスチャンは、意識している時だけではなく、意識していない時も、眠っている時だってクリスチャンなのだ」ということを教えられました。

 当時の私は自覚的であることをよしとし、「しなければならない」、「こうあるべき」という生き方を追い求めながら、しかし、そうではない自分に悩んでいました。そんな私にとって、彼の言葉とその言葉の通りに肩をはらず、しなやかに生きている友人の姿は実に新鮮であり、私の心を解き放つ出会いとなりました。

 彼のあり方自体が一つの信仰告白であり、証であったと思います。何故なら、信仰とは自分に何ができるか、どのような力があるかということが問題ではないからです。御言葉によるならば、聖霊が「弱いわたしたちを助けて」くださり、また「共に働いて」くださるからです。だから、私たちは「すべてのことを」、たとえ当面はマイナスに思えることも、取り除きたいと思う事を含めて、そのすべてが益となる、そのように変えられていきます。だから、私たちは神様がそのように働いてくださるという希望において、その時が来るまで、待つことができます。

 ただ、今はとても難しい時代です。本当に「すべて」ですかという問いを思わないわけにはいきません。けれども、御言葉はそれでもこう語るのだと思います。そうだ、すべてだ。万事が益となるように共に働く。神の歴史においてそうなのだと。

 今、目の前にある苦難、直ぐには解決できない困難な課題であっても、必ずそこに秘められた意味があるということを信じ、やがて神様ご自身が共に働いてくださり、すべてのことを益としてくださるという希望において、その場に踏みとどまりたいと思います。

 やがてはすべてを完成してくださる方がおられる、という信仰において、待ち望む。ここから今という困難な時代に向き合いながら、それでもしなやかに生きるあり方というものが現れてくるのではないでしょうか。


2021年7月23日金曜日

2021年7月18日

 2021年7月18日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

  「神さまのもとに生きている」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 8:5ー13節

 トマス・アクィナスは13世紀の中世ヨーロッパの神学者・哲学者です。『神学大全』を書きました。トマス・アクィナスはこう言います。【神が諸々の事物を存在にまで産出したのは、諸々の被造物に自らの善性を伝達し、これ(善性)をこれら(の被造物)を通じて表現するためであった】(P.212)。【すべての被造物は神の善性を分有していて、所有している善を他のものへと拡散させる。なぜなら、自らを他のものへと分かち与えることが善の特質に属しているからである】(P.213)(山本芳久『トマス・アクィナス 肯定の哲学』)。

 神さまは世界をつくられ、そして世界に神さまの善性を与えられた。だから世界は良きものであるのです。そして善というのは自ら善のままであるのではなく、善を広め、他の物と分かち合うという性質があるので、善はどんどんと世界に広がっていくのだと、トマス・アクィナスは言います。『世界は善に満ちている』わけです。なんとも幸せな気持ちになります。そこにも、ここにも、善が満ちあふれているのです。私たちは良き物を分かち合わずにはいられない神さまが作られた世界の中に生きています。そして善は世界に満ちあふれていく。私たちもまたそのためにつくられています。私たちは世界を治めておられる神さまの権威の下に生きているのです。

 イエスさまは自分の僕の病をいやしてほしいと願い出た百人隊長の願いをかなえられました。イエスさまは、「わたしは権威の下にある者だ」と言った百人隊長の信仰を誉められ、私たちが神さまの権威の下に生きていることをしっかりと受けとめるようにと願っておられます。私たちはだれのもとにいきているのか。私たちの中心軸はなんであるのか。私たちはだれにより頼んで生きているのか。そのことをしっかりとこころにとめることをしなければならないと、イエスさまは私たちに言っておられます。

 私たちは「神さまの権威の下に生きている」と言える者でありたいと思います。ついつい神さまのことを忘れてしまって、自分勝手なことばかりしてしまう、弱い私たちです。神さまから離れ、自分のことばかりに関心がいってしまう、私たちです。しかし神さまが私たちを愛し、私たちを導いてくださっていることを思い起こしたいと思います。


2021年7月11日

2021年7月11日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

  「神の御心を行う者になる」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 7:15ー29節

 ルーサー・バーバンクは『種の起源』で有名なイギリスの生物学者ダーヴィンが書いた『人間のそだてている動植物の変化』という本に感銘を受け、ジャガイモを種から育てて、たくさん収穫ができて、料理しやすく、保存もきく新しいジャガイモをつくりだそうとします。そうしてできたのが、「バーバンク・ジャガイモ」です。このジャガイモは、アメリカで爆発的に広まりました。のちに、このバーバンク・ジャガイモはアイルランドで起こった飢饉のときに、飢饉から人々を救うことになりました。(板倉聖宣著、楠原義一画『ジャガイモの花と実』、福音館書店)。

 ルーサー・バーバンクの話を読みながら、「わたしは努力や工夫や向上心が足りんなあ」と思わされました。わたしはすぐにあきらめてしまって、能力のなさや才能のなさを神さまに嘆くわけです。「主よ、主よ」と言いながら、じつは神さまを頼っているようで、ただ自分が努力をしていないだけではないかと思わされました。

 イエスさまはなかなかきびしいことを言われます。イエスさまは「良い実を結ぶ」ことにこだわっておられます。「わたしの天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」と言われます。いくら敬虔なふりをして、「主よ、主よ」と言っていてもだめだ。たとえ、御名によって奇跡を行っていたとしても、それが人から誉められるためであったり、人からすばらしい人だと認められるためにやっているのであれば、それはだめだと、イエスさまは言われました。

 使徒パウロは、「キリスト者というのはあきらめない人のことだ」と、コリントの信徒への手紙(二)4章8−10節でこう言っています「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」。使徒パウロは、イエスの死を体にまとい、イエスさまの御言葉を土台として、その生涯を歩みました。

 あきらめたり、嘆いたり、弱さを抱える私たちです。しかし私たちはイエスさまの御言葉という確かな土台に立っています。そのことを覚えて、神の御心を行う者になりたいと思います。私たちのできる業は小さな業でしかないかも知れません。しかしそれでも、一つずつでも小さなことでも、神の御心を行う者でありたいと思います。

 

2021年7月9日金曜日

2021年7月4日

 2021年7月4日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨

   「求めなさい。そうすれば与えられる。」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 7:1ー14節

 「いまの日本に必要なのは啓蒙です。・・・。それはおれの趣味じゃないから、と第一印象でひいていたひとを、こっちの見かたや考えかたに搦め手で粘り強くひきずり込んでいくような作業です。それは、人々を信者とアンチに分けていてはけっしてできません」(東浩紀『ゲンロン戦記』、中公新書ラクレ)。分断が進む社会にあって、「あなたは正しくない」と裁いているだけでは、だめなのだと思います。

 イエスさまは「裁くな」と言われました。人を裁いていると、その周辺の雰囲気は悪くなります。だれもが裁くようになり、まただれもが裁かれることになります。もちろん不正や悪事を裁くということは大切なことです。不正や悪事が行なわれていることに対して、何も言わず、ただただやり過ごしたほうが良いというようなことを言っているわけではありません。ただ小さなことにこだわり過ぎて、大きなことが見失われてしまうということがあります。

 イエスさまは裁くことにこだわり、周りのことが見えなくなっている人々に対して、もっと大切なことがあるのではないかと言われます。それは「あなたが探していたものを探す」ということだと言われます。あなたは人を裁くことに一生懸命になり、人のことが気になって気になって仕方がなくなり、自分のことを忘れてしまっている。あなたが探し求めていたものがあったのではないのか。人のことを気にしすぎている間に、本来自分がしようと思っていたことが忘れ去られてしまっているのではないのかということです。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。ファリサイ派の人々や律法学者たちのように、人のことを気にするのではなく、あなたが求めて生きていくということを大切にしなさい。それがあなた本来の生き方であり、神さまがあなたに託している大切なことなのだ。イエスさまはそう言われました。

 私たちは本来、神さまから私たち自身が求められている良き生き方を思い起こしたいと思います。私たちのできることは、ちいさなことかも知れません。しかし神さまが託してくださる良き業に励んでいきたいと思います。


2021年7月8日木曜日

2021年6月27日

 2021年6月27日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨

   「人間の救い」 山下毅牧師

    マルコによる福音書 15:33-41節

 ユルゲン・モルトマンというドイツの高名な神学者がいます。第二次大戦にヒットラー・ユンゲントとして参戦しました。大変な苦難に会い、イギリスの捕虜収容所で聖書に出会います。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」との受難のイエスの言葉が、自分に語られたものだと、確信し、共に苦難を歩まれるイエスに出会います。救いを確信するのです。これは詩編22編の引用と言われていますが、神から捨てられた、罪深い人間の叫びを、イエスが代わって私たちの十字架を負い、絶望と見える棄てられた状況のどん底において、なおも固く神の御手に支えられていることを信じうる最後の依り頼みであり、イエスのこの叫びにおいて、人間の救いの道が開かれたのです。

 私どもはどんなに絶望しても、イエスほど絶望することはないのです。私どもの心は罪のために鈍くなっていますから、私どもは神に棄てられてしまうことがどんなに恐ろしいことか、分からないのです。私どもは絶望しても、主イエスのように絶望することはもうないのです。そしてわたしほどもう苦しまなくてもいいのだと言ってくださいます。まさにそのような意味において、心に深く刻み、愛唱すべき言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」が与えられていることを感謝するのであります。

 モルトマンは語ります。「わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言う問いに対しては、本当にただ一つの回答は、復活だと述べます。「死は勝利に飲み込まれたのです」。自分から苦しんだことのある者のみ、苦しんでいる人を助けることができるのです。このことは、古くからある知恵です。

 情熱を持って愛して下さるキリスト、迫害されたキリスト、孤独なキリスト、神の沈黙に悩むキリスト、死に際し全く私たちのために、私たちのゆえに全く見捨てられたキリストこそ、すべてをゆだねることのできる兄弟・友人のようなお方です。キリストの十字架にあって、希望が暗闇から再び生まれてきます。人々がそのことを心に刻んだものは、もはや暗闇を恐れません。その希望は固くゆるがないものとされ、復活されたキリストが共にこの世の旅路を歩んで下さいます。主を喜びつつ、感謝しつつ、祈りつつ、この世の旅路を歩みたいと思います。     


2021年6月20日

 2021年6月20日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨

   「すなおにごめんって言えますか。」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 5:21ー26節

 保育園の園長をしていたとき、ときどき園児のいざこざの仲裁をするというようなことがありました。両方の園児の言い分を聞いて、仲裁をするわけですが、いざ悪かったほうが「ごめんね」と言う段になると、「ごめんね」ということに納得せず、まだまだ仲裁は続くというようなこともあります。小さい子どもでもやっぱり「ごめんね」というのは大変なのかと思ったことがありました。

 イエスさまは争いごとを解決することについて、たんに律法や法律に書かれてあることを行なうだけで良いということだけでなく、人の内面を問題にされました。法律において裁くのであれば、「殺すな」ということで、殺していないのであれば、それで良いわけです。しかしイエスさまは人の内面を問題にされ、「あなたのなかにあるその憎しみとか怒り、裁かれることがないのであれば、殺してやりたいと思うその気持ちはどうなのだ」と問われました。そして「バカ」とか「愚か者」と言う者も、火の地獄に投げ込まれるのだと、イエスさまは言われました。

 船橋洋一は、【国を愛することは、日本と日本の過去を美化することではない。和解とは究極的には、それぞれの個人の心からしみ出す悔悟と、心からにじみ出る赦しの交差するところに生ずる潤いを必要とする営為であるに違いない。・・・。自分たちがどのような国民でありたいのか、日本をどんな国にしたいのか、後世、私たちはどのような民族として記憶されたいのか、という志の領域の話である】(あとがき『歴史和解の旅』)と言っています。

 「すなおにごめんって言えますか」と言われますと、「まあ、言えないなあ」と思います。「なんでわたしがあやまらなければならないんだ。あいつのほうが悪いじゃないか」と思えます。たしかにあいつも悪いのです。ただあいつもわたしも、神さまの前では、欠けたところの多い、おろかな人間なのです。互いに責め合うのであれば、欠けたところが多いわけですから、責めるところはたくさんあるでしょう。しかしそうした欠けたところを持ちつつ、わたしもあいつも、神さまにとっては大切な大切な一人であり、また一人の罪人であるのです。

 私たちは神さまを信じる者として、互いに欠けたところのある者ことを受け入れつつ、歩んでいきたいと思います。神さまの前で、すなおに悪かったことを悪かったと認めて、健やかに歩んでいきたいと思います。


2021年6月17日木曜日

2021年6月13日

 2021年6月13日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨

   「あなたらしいすてきな人に戻る。」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 5:13ー16節

 アメリカの子どもはもともと恥ずかしがり屋ではないけど、両親からいろいろ言われて、良い子にならなくちゃと思っているうちに、恥ずかしがり屋になってしまう。だから学校では「恥ずかしがってはだめよ」と教える。中学校の英語の教科書に書かれてある話を読みながら、わたし自身、自分のことをダメだダメだと思い込まず、「いや、もともと、わたし、もっといい人間だったのと違うの」という思いをもった方がよいのではないかと思いました。

 イエスさまは「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言われました。そんなことを言われても、私たちにはちょっと荷が重すぎるのではないかと、私たちは思います。そんな人前で輝かせるようなものは何もないわ。こころのなかはどうしようもなくどろどろとしていて、悪いことばかりを考えてしまう。口を開くと人を傷つけてしまう。そんな「地の塩、世の光」とか言われても、「そんないいものじゃないわ。わたしは」。

 しかしイエスさまは、あなたたちは地の塩として、神さまから作られているのだ。あなたたちは世の光として、神さまから作られているのだ。イエスさまは私たちに「あなたたちはすばらしい人として作られているのだ」と言われるのです。

 イエスさまは「あなたらしいすてきな人に戻りなさい」と言われます。いつも怖い顔をして怒っているのは、あなたらしくない。いつも不機嫌そうな顔をしてぶつぶつといっているあなたは、あなたらしくない。人に冷たくあたったりするのは、あなたらしくない。

 イエスさまは「あなたらしいすてきな人に戻りなさい」と言われます。そのすてきな笑顔でほほえむあなたに戻りなさい。人が困っていると、すっと手を差し伸べることができる、そのすてきなあなたに戻りなさい。いつもやさしい気持ちで人と接している、すてきなあなたに戻りなさい。弱い立場の人の側にたって、配慮をすることができる、すてきなあなたに戻りなさい。ご飯をおいしそうに食べる、あなたらしいすてきな人に戻りなさい。

 わたしらしいすてきな人に戻って、わたしらしい豊かな歩みをいたしましょう。


2021年6月11日金曜日

2021年6月6日

 2021年6月6日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨

「悔い改めて、新しく始めよう」 小笠原純牧師

マタイによる福音書 3:1ー6節

讃美歌21の424番「美しい大地は」は、フィリピンの讃美歌です。「2.貪りの心が 正義を踏みにじり 貧しい人々の 大地を取り上げる。 喜びの歌声、 涙に変わりはて、 緑のこの土地は 灰色にかわる」。フィリピンはスペインやアメリカといった国々から支配をされた歴史をもっています。そして私たちの国もまた、フィリピンの美しい大地を踏みにじった国の一つです。フィリピンではナショナリズムは、「外国人によって踏みにじられた祖国の大地が泣いている」「正義が踏みにじられ、美しい大地が泣いている」という感じで表されます。讃美歌21の「美しい大地は」という曲は、ナショナリズムということを越えて、もう一歩進んで、「美しい大地は 私たちの神が 与えられた恵み、貴い贈り物」なのだということを歌っています。

洗礼者ヨハネは、人々に悔い改めを迫りました。洗礼者ヨハネやイエスさまの時代というのは、ユダヤがローマ帝国によって支配されていた時代です。乳と蜜の流れる地と言われた大地が、外国人によって踏みにじられている時代でした。苦しんでいる人々や貧しい人々がたくさんいる時代でした。そんな時代、洗礼者ヨハネは、神の国がもうそこまで来ていると告げ、人々に悔い改めを迫りました。神さまはこんなひどい世の中を、いつまでもこのままにしておかれない。この世の中の不正や苦しみや悲しみをつくりだしているのは、私たちが神さまのみ旨に反して生きているからだ。私たちの罪のためだ。洗礼者ヨハネは、そう言って、人々に悔い改めを迫りました。

新型コロナウィルス感染症のために、世界中がこの1年半、格闘しています。新型コロナウィルス感染症に打ちのめされたという気がします。そして持てる者(国)と持たざる者(国)との格差が、明らかになってきています。

いま、洗礼者ヨハネが私たちの世の中に現れたら、私たちに悔い改めを迫るだろうと思います。「新型コロナウィルス感染症のワクチンを打つことができる国と、十分に打つことができない国があるのは、どうしたことか」「貧しい国の人々にも同じようにワクチンを届けていくという世の中ではないのか」「お前たちの社会は、そんなにさみしい社会なのか」。

私たちの世の中が神さまの御心にかなった、良い世の中になりますようにと祈る者でありたいと思います。


2021年5月30日

 2021年5月30日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

「賢いものには見えない。」 小笠原純牧師

マタイによる福音書 11:25ー30節

人は自分の都合の良いように人を動かそうとしたりすることがあります。また自分の考えが正しいから、その考えを人々に知らしめたいと思うことがあります。そしてそのことのゆえに、とても激しい調子で、人を問いただしたりしてしまうことがあります。自分が知恵ある者だと思って、知恵のない人に教えてやらなければならないという思いにかられることがあります。

わたしはこころのなかに激しい思いがあるので、そうした思いに引きづり回されてしまいがちです。正しさを振り回して、人を傷つけてしまいそうになります。そうしたとき、神さまに祈り、そして心を落ち着けなければならないと思います。「穏やかに、健やかに」ということを大切にしたいと思うのです。

イエスさまは神さまのことは、知恵ある者や賢い者にはわからないのだ。それは隠されているのだと言われました。それでは神さまのことは、どういう人がわかるのかということですが、それは幼子のような者だと言われます。幼子のように、素直なこころを持つ者、また社会的な力がある者ではなく、力のない者、そういう人が、神さまのことがよくわかると、イエスさまは言われました。

イエスさまは「わたしに学びなさい」と言われました。自分が知恵ある者、賢い者と思って思い上がるのではなく、わたしに学びなさいと、イエスさまは言われました。そしてイエスさまはご自分のことを、「わたしは柔和で謙遜な者」と言っておられます。ですから、私たちも柔和で謙遜な者になりたいと思います。

あんまり一生懸命になりすぎると、ちょっと疲れてしまうのです。イエスさまは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われました。また「あなたがたは安らぎを得られる」と言われました。ですから私たちは健やかに、イエスさまに従っていきたいと思います。心の中に、「ちょっと、これ、いやな気持ちだなあ」と思うものが見つかった時は、少し、休みたいと思います。「イエスさま、ありがとう」「神さま、ありがとう」という気持ちが、心の中に一杯あるようなそうした歩みでありたいと思います。

 

2021年5月28日金曜日

2021年5月23日

 2021年5月23日 聖霊降臨節第1主日礼拝説教要旨

   「すてきな世の中にしようよ」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 12:14ー21節

 ハーバード大学の政治哲学者のマイケル・サンデルは、コロナ後の世界のために必要なこととして、次のようなことを言っています。「民主主義国の市民が分かち合う公共空間を作り直さなければなりません。民主主義国に相応しい暮らしに必要な市民のインフラを作り直し、階級が異なる人や生活条件が異なる人と出会えるようにするのです。市民社会を刷新して、活性化させていくのです。自分たちだけの狭い世界を壊して、ともに民主主義を実践していくのです」(『新しい世界 世界の賢人16人が語る未来』、講談社現代新書)。

 わたしは、「階級が異なる人や生活条件が異なる人と出会える」場所というのを聞いて、「ああ、それって、教会じゃないか」と思いました。これからの社会に対して、私たちクリスチャンはとても重大な責任を負っていると、わたしは思います。

 イエスさまはイザヤ書に書かれてある「主の僕」のような方であったと言われています。私たちの救い主イエス・キリストは、【傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない】人であったと、聖書は記しています。傷つき倒れそうな私たちのことを愛してくださり、私たちを救ってくださる。消え入りそうな私たちのことを守ってくださり、そして私たちを支えてくださる。イエスさまは大声で人を脅したり、暴力でもって支配しようとされたりなさいませんでした。小さな声に耳を傾けてくださり、私たちの思いを知ってくださる方でした。私たちはそうしたイエスさまに招かれて、教会に集っています。

 今日はペンテコステです。ペンテコステは教会の誕生日と言われます。社会が分断され、互いにののしりあい、蔑み合う場面の多い社会の中にあって、すべての人々が等しく神さまの前に一人の人として大切にされる教会は、とても大きな意味のある大切なところです。

 魂の安らぎを求める人たちが、私たちの教会に来て、安心して、神さまの愛を感じることができるようにと、私たちの教会を整えたいと思います。私たちは一人一人大切な人間として、神さまから愛されています。その神さまの愛を、神さまのことを知らない隣人に届けていきたいと思います。


2021年5月21日金曜日

2021年5月16日

 2021年5月16日 復活節第7主日礼拝説教要旨

   「生きた水を求めて」 生田香緒里牧師

    ヨハネによる福音書 4:7ー15節

 フォークダンスの「マイム・マイム」は、掘り当てた井戸の周りで輪になって踊り、「マイムマイムマイムマイム、ウ、マイム、べサッソン」と歌いながら井戸に向かって駆け寄っていく様子を表現しています。ヘブライ語で「マイム」は「水」、「べサッソン」は「喜びのうちに」という意味です。その歌詞には、『イザヤ書』12章3節の「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む」という言葉が使われています。

 イスラエルの土地は半乾燥の気候で降水量が少なく水は貴重でした。古代から、泉のある場所に街を作り、泉がなければ井戸を掘って水を得ていたようです。「マイムマイム」の歌詞は、神の恵みを水にたとえ、「神との出会い(恵み)は、砂漠の民が水を得るように喜ばしい」という神への感謝を表しています。

 今日の聖書では、井戸が舞台になります。その井戸はヤコブの井戸と呼ばれ、その昔、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあるシカルというサマリアの町にありました。サマリア人とユダヤ人とは宗教的・民族的なことで敵対関係にありましたが、イエスはサマリアに神さまの愛を伝えに行きました。イエスは旅の途中で疲れて井戸のそばに座り、水と食料を必要とした時に、サマリアの女が人目をさけるように正午に水汲みにやってきます。イエスはその女に水を飲ませてくれるよう頼みますが、女は躊躇します。そして、イエスが永遠のいのちの水について語ったことで立場が逆転し、女はイエスに水を飲ませてほしいというのです。

 イエスは人格を尊重し、相手を信頼します。女は人間に対する信頼と愛を失い、彼女自身、自分が他者から愛されたり、信頼されたりすることが出来るとは思っていませんでした。イエスがもう一度水を飲ませてほしいと言うことによって、彼女は隣人に愛を与えることのできる者とされ、そうなるように期待されていることに気づくのです。弱く助けが必要な姿でイエスが女に接した時に、彼女に新しく立ち直る機会が与えられたのです。

 私たちは、自分が傷つき苦しんでいる時、心に壁を作って、心を閉ざしてしまうことが多くあります。それは、心を開くことによって、また傷つけられるかもしれないという恐れから、そうしてしまうのかもしれません。私たちの心の壁を取り払い、私たち一人一人を愛し、大切にしてくれるのがイエスです。その愛に触れた時に、私たちは凍った心を解凍し、人にやさしくすることが出来るのです。イエスの愛で満たされた時、私たちの心から愛があふれ出ます。イエスに向かって、一人一人が心を合わせる時、何事でもできるのです。本当に大切なものを見いだし、平和を作り出すことができるのです。そのような生きた水であるイエスの愛を求め続けて、歩んでいきたいものです。


2021年5月14日金曜日

2021年5月9日

 2021年5月9日 復活節第6主日礼拝説教要旨

    「あなたの良き業を神さまが見ていてくださる」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 6:1ー15節

 18世紀のイギリスの詩人のウィリアム・ブレイクの詩に「小さな放浪者」というのがあります。その詩の最初は、「お母さん、お母さん、教会は寒い でもビヤホールは健全で、気持ちがよくて暖かい それに、ここならぼくも歓迎してもらえると言える 天国でもこんなに歓迎されるとは思えない」です。昔の教会はきびしくて、なかなかこどもに居心地の悪いところであったようです。「天国でもこんなに歓迎されるとは思えない」と言われるような教会でありたいと思いました。

 わたしは礼拝のときに、いつも「御国が来ますように」とお祈りしますが、やっぱり神さまが望まれるような世の中になってほしいと思います。そして自分はろくでもない心をもった者であるけれども、少しでも神さまから喜んでいただけるような歩みでありたいと思います。

 そうしたことを思う時、今日の聖書の箇所は「ああ、そうすればいいんだ」と思わされる聖書の箇所です。イエスさまは良いことをするときは、隠れてしなさいと言われました。良いことをしているのを知らせてしまうと、この世の人たちから報いを受けたことになるので、神さまから報いを受けることがなくなってしまう。また、イエスさまは施しをするときだけでなく、お祈りをするときも、隠れてしなさいと言われました。

 イエスさまは「隠れたことをみておられる父が、あなたに報いてくださる」と言われます。「ギブ・アンド・テイク」というように、したことに対して相応のものが返ってくるのを前提にして、私たちの社会は成り立っています。ただ「これしたら、どうなる」という問いばかりの世界では、ちょっとさみしいと思います。しかし同時に、この「むくいを望まで 人に与えよ」(讃美歌21−566番)というのは、わたしのもっとも不得意とするところだなあと思わされます。

 イエスさまは言われます。大切なのは、神さまが喜ばれることをするということなのだ。その業を人が見ているとか、人が評価してくれるとかではない。あなたたちの良き業を、神さまはしっかりと見ていてくださり、かならずあなたを祝福してくださる。どんなに小さな業であっても、神さまはあなたを祝福してくださる。

 神様に向かって、良き思いをもって、小さな良き業に励みたいと思います。神さまは私たちの小さな小さなわざを祝福してくださり、そして私たちの世界を良きものへと導いてくださいます。


2021年5月5日水曜日

2021年5月2日

 2021年5月2日 復活節第5主日礼拝説教要旨

    「イエスの名によって願うこと」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 14:1ー11節

 17世紀の作家シャルル=ペローの童話に、「おろかな願い」『ぺロー童話集』(天沢退二郎訳、岩波書店)というのがあります。貧しいきこりにジュピターが、「おまえが抱く最初の三つの願いを、完全に、聞き入れてやる」と言います。この民話を聞いた人はみんな、わたしなら何を願うだろうというふうに考えるだろうと思います。でも現実ではなく、民話の話だからなあと思います。しかしイエスさまは、私たちに「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」(ヨハネ14章13節)と言っておられます。

 今日の聖書の箇所はイエスさまの訣別説教です。この聖書の箇所は、教義的にみればイエス・キリストの十字架と復活、そして再臨ということが書かれてあります。しかし死を前にした人の言葉として読んだときに、ひとつのユーモアのような気がします。「わたしは死んでしまうけど、さきに天国にいって、あなたたちの場所をとっといてあげるから、心配するな。そして場所をとったらまた帰ってくるから、一緒に天国で楽しくしよう」。イエスさまもまた弟子たちに自分の死をユーモアで語ることによって、弟子たちの不安を静めようとされました。

 そしてイエスさまは言われました。「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」。みなさんならこのイエスさまのユーモアに対してどう応えられますか。わたしならこう答えます。「イエスさま、それなら、上等な焼肉を食べさせてください」とか言います。するとイエスさまは「いいよ、焼肉をたべたあと、ケーキもつけてあげる」と言われるのではないかと思います。

 しかしそうしたユーモアの会話の中にあって、私たちはほんとうにイエス・キリストが望んでおられたことを知っているのです。イエス・キリストの名によって願うということは、自分勝手な願いをするのではないということを、私たちは知っています。イエス・キリストの名によって願うということは、イエスさまが望んでおられた願いを受け継いで、私たちが歩んでいくということです。しかしその歩みは悲愴感や先行きの見えない絶望の歩みではなく、ユーモアをもった希望に満ちた歩みであるのです。

 私たちはイエス・キリストが願われたように、「御国がきますように」という祈りを持ちながら、ユーモアと希望をもって歩んでいきたいと思います。


2021年5月1日土曜日

2021年4月25日

 2021年4月25日 復活節第4主日礼拝説教要旨

    「死を越えてわたしの隣にいてくれる方」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 11:17ー27節

 北条裕子の『美しい顔』は東日本大震災を背景にして書かれた小説です。主人公は高校生の女性で、母親の死を受け入れることができず、自分をごまかして生きています。そうした主人公を、小さい頃から彼女を知っている近所のおばさんが、おそろしいくらいに彼女を激しく諭すのです。「元にはもどれないの!」「あなた自身が、ひたすら悲しんで苦しんで怒って、そのあとで、だんだんと納得するしかないの。代わりなんて何もない。誰も、何も、あなたの代わりにはならない」。

 ラザロの死に際して、姉妹のマルタはイエスさまにラザロを生き返らせてほしいと願います。イエスさまが「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言います。「そんな教義的なことは知っているんだ」というわけです。「そんなことを言っているんじゃないんだ。わたしの兄ラザロが死んだのだ。わたしのこの悲しみ、この怒り、この喪失感をどうにかしてほしい。わたしの兄を生き返らせてほしい」。そのようなマルタに対して、イエスさまは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」というように信仰の本質を問うのです。

 マルタはイエスさまに兄ラザロを生き返らせてほしいと願います。そして結果的には、イエスさまはラザロを生き返らせます。しかしたとえラザロが生き返ったとしても、ラザロはいつかは天に召されます。そのあいだ、人生ですから、いろいろなことが起こります。つらいこと、悲しいこと、それは人間の人生のなかで避けようのないものです。そして私たちは信仰の本質的な問いに向き合うことになります。悲しみ、苦しみ、嘆きの中で、私たちを救ってくださる方がだれであるのかという問いです。どんなときもわたしの隣にいて、わたしを支え導いてくださる方はだれであるのかという問いです。死を越えてわたしの隣にいてくださる方はだれであるのかという問いです。

 すべてのことをイエスさまにお委ねして歩みましょう。イエスさまはいつも私たちを支え、導いてくださいます。


2021年4月23日金曜日

2021年4月18日

 2021年4月18日 復活節第3主日礼拝説教要旨

   「しるし」 木村良己牧師

    (元同志社中高キリスト教科教諭・紫野教会副牧師)

   マタイによる福音書 12:38ー42節

(1)「しるし」

 ■現代は「不信の時代」と呼ばれる。人間という存在が如何に信頼できないか!という前提で、「しるし・証拠」が位置づけられている。だから「しるしを見せろ!」「証拠を見せろ!」と息巻く。しかし、あらゆる問題は「信頼を寄せる」「信じる」ことでしか解決できないような気もするし、信頼を寄せた者だけが希望を捨てずに、その一瞬先をこじ開けることが出来るようにも思う。           

(2)マタイ12章38~42節:「人々はしるしを欲しがる」

 ■見出しは太字で「人々はしるしを欲しがる」と記されている。16章1~4節にも全く同じ太字の見出しがあり、いずれも当時の宗教的指導者たち=本来は対立関係にあったはずの三者が、共通の敵「イエスを試そうと」する。相手を信頼しない者たちから「しるしを見せろ!」とのやり取りが投げかけられるという、当時の権力構造の中にいる宗教的指導者たちとの対決こそが著者の意図なのだろう。   

 ■イエスはその「しるし」として、「預言者ヨナ」(旧約p1445~1448ヨナ書)、「南の国の女王」(旧約p546~p547列王記上10章1節~13節)を指し示す。

 ユダヤ人宗教的指導者たちが「聞く」ことをせずに目に見える「しるしを見せろ!」と息巻き、一方彼らが日頃から蔑視する異邦人「ニネベの人」「南の国の女王」が「聞いて悔い改めた」という「しるし」を示す所に、イエス一流の皮肉がある。

(3)「湖西線旧型車両の4人掛けBOXシート」=「後ろ向きに前進!」

(4)隠されている未来に向かって!

 ■イエスは「しるし」そのものを否定はしない。「しるし」を求める人々の態度を拒否する。「神の国=すべての人々と共存しうる世界」を目指すキリスト者にとって、イエスの言葉・振る舞いこそが神の国を指し示す「しるし」である。「しるしを見たら信じてやろう!」という態度に、神が「しるし」を見せることはない。求めないではいられない己の貧しさを知る人にこそ、神は「しるし」を見せる。そのイエスの言葉・振る舞いと直接的に出会い、神が為された過去をしっかりと見つめながら、隠されている未来に向かって「後ろ向きに前進」して行きたい。


2021年4月15日木曜日

2021年4月11日

 2021年4月11日 復活節第2主日礼拝説教要旨

   「信じられない弱さを抱えて」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 28:11-15節

 イエスさまがよみがえられたことを記してある復活の記事は、四つの福音書にそれぞれの形で記されてあります。マタイによる福音書は、復活の出来事を素直に信じて、そしてその喜びを謙虚に伝えていくということの幸いを、私たちに教えてくれています。

 イエスさまが十字架につけられたあとの弟子たちの歩みを考えるときに、それはイエスさまの復活がなかったとは考えられない歩みです。イエスさまが十字架につかれたとき、イエスさまを裏切り、ばらばらになった弟子たちが、キリスト教を広めていったのです。そういう意味において、復活は確かにあったと言えるわけです。けれどもだからといって、復活を証明できたということにはなりません。復活を証明することは不可能なのです。

 わたしは、マタイによる福音書28章17節の聖書の箇所が好きです。【そしてイエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた】。ひとつにはこの聖書の箇所を読むと、「おー、わたしが出てきた」というふうに思うからです。「わたしのことが聖書に記されているなんて、光栄だ」というふうに思います。そしてもうひとつには、「なんや、わたしのような信仰の弱い人は昔からおったんや」と、妙に安心するからです。

 復活は神さまの出来事です。神さまの出来事は、私たち人間を越えて働きます。私たちが信じようと信じまいと、そんなことには関係なく、神さまの出来事がなされるのです。弟子たちがイエスさまの復活を信じることができたのは、イエスさまが弟子たちのところにやってきてくださったからです。弟子たちもまた「信じられない」という弱さを抱えて生きていました。しかしイエスさまからのお働きによって、信じる者とされたのです。そしてなかなか信じられない人々もいたのです。しかしそうした人間の側の弱さを越えて、神さまの働きはなされるのです。

 自分の不信仰を嘆くのではなく、不信仰な私たちを憐れみ、愛してくださる神さまに希望をおいて歩んでいきましょう。私たちは神さまのことを忘れてしまうかも知れませんが、しかし神さまは私たちのことを忘れることはありません。


2021年4月8日木曜日

2021年4月4日

 2021年4月4日 復活節第1主日礼拝説教要旨

    「希望に変わる朝」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 20:1ー18節

 イースター、おめでとうございます。主イエス・キリストのご復活を心からお祝いいたします。イースターの出来事は人間が負け、そして神さまが勝利された出来事です。人間は負けたのです。人を辱めることによって、自分をはずかしめ、力を合わせて生きていくのではなく、人をおとしめることによって生きていく道を、人間は選んでいくのです。しかしそうした希望のない人間に対して、神さまはイエスさまを復活させてくださり、そして私たちの希望の光としてくださったのです。

 受難物語や復活物語をよむときに、「人間って、だめだな」ということを思わされます。復活物語は、イエスさまがよみがえられたことを弟子たちがすぐに信じたというようなことが記されているわけではありません。信じられない人間の姿が描かれています。しかしこの「人間って、だめだな」ということがとても大切なことなのだと思います。

 将棋やチェスのようなボードゲームには、最後までゲームをするのではなく、「投了」という形で負けを認めるということがよく行なわれます。負けている側が「負けました」と言って、ゲームを終えるわけです。そして将棋などではそのあと「感想戦」があるわけです。行なわれたゲームをふりかえるのです。しっかりと負けを認めて、そしてどのような負けであったのかということを振り返ることによって、新しい歩みが始まるのです。

 イエスさまの遺体がないことに混乱し不安になったマグダラのマリアは泣くしかありませんでした。しかしそののち、天使たちに出会い、そして園丁のように見えたイエスさまに出会い、そしてイエスさまから「マリア」と声をかけられ、よみがえられたイエスさまに気がつきます。そして最後にはっきりと、マグダラのマリアは「わたしは主を見ました」と弟子たちに告げたのです。

 その「わたしは主を見ました」とのきっぱりとしてマグダラのマリアの声に、私たちは希望の朝があることを知るのです。イエス・キリストが私たちのためによみがえってくださり、希望の朝をもたらしてくださるのです。私たちを赦し、私たちを励まし、そして私たちをもう一度立ち上がらせてくださるのです。

 イースター、よみがえられたイエスさまと共に、安心して歩んできましょう。主イエス・キリストは私たちを見捨てることなく、私たちと共に歩んでくださいます。


2021年4月2日金曜日

2021年3月28日

 2021 年 3 月 28 日 受難節第6主日礼拝説教要旨

    「いやな私がここにいる。」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 27:32 ー 56 節

 今日は棕櫚の主日です。棕櫚の主日から、イエスさまが十字架につけられる受難週が始まります。

 今期、芥川賞に選ばれた、宇佐美りんの「推し、燃ゆ」を読みました。宇佐美りんは受賞者インタビューのなかでこんなことを言っています。【よく、「明けない夜はない」というようなことを言う人がいますよね。もちろんそれはその人にとっての真実だと思うのですが、私は「明けなさ」もあると思っていて。私は、少なくとも三年の間「夜が明けない」状況で出口が見えなかった。だから「明けない夜はない」とか、そういうことは言えません。自分にとって本当に大切だった人や時間が壊れていく喪失感や痛みにどうやって耐えるか、耐えられなくても続く現実とはどういうものか、そういうことに関心があります】(文藝春秋 3 月号)。マタイによる福音書の著者は、イエスさまの苦しみや、イエスさまを取り巻くイエスさまの弟子たち、ユダヤの指導者たち、ヘロデ王、総督ピラト、十字架の下の兵士たち、十字架の上の強盗たちについて、「明けない夜」の様子を丁寧に描いています。

 受難物語を読むとき、「いやな私がここにいる」と思います。私たちは生活の中で、出会いたくないいやな自分に出会うことがあります。大きな声で人をどなっていたり。悪いとわかっているのに「自分は悪くない」と言い訳をしたり。自分より立場の弱い人にいじわるをしてみたり。卑怯なことをしているとわかっていても、恐くて恐くてたまらなくなり逃げ出してしまったり。人をおとしめることで、どうにか自分の立場を守ってみたり。そうした自分に出会うとき、自分のことがとてもいやな気がします。

 そして私たちは私たちの悪しき歩みが、イエスさまを苦しめ、イエスさまを十字架へとおいやっていくことを知るのです。自分の心の中にある悪しき思いを見つめることは、とても苦しいことです。しかし私たちの中にある悪しき思いを深く深く見つめることによって、それでも私たちを愛し、そして救ってくださる神さまの愛に出会うことができるのです。どんなに愚かで、どんなにいい加減な人間であったとしても、わたしを愛し、わたしを救ってくださる神さまがおられるのです。その神さまの愛が、私たちの希望であるのです。


2021年3月25日木曜日

2021年3月21日

 2021年3月21日 受難節第5主日礼拝説教要旨

   「敵でも味方でもない」 山下壮起

     マタイによる福音書 5:38ー48節

 昨年11月、大阪都構想をめぐる住民投票とアメリカ大統領選挙が行われました。この二つの結果は決して手放しで喜べるものではないと思います。なぜなら、大阪市もアメリカも半々に分断されてしまったからです。吉村府知事は「負けたから間違っていた」と語りましたが、数による勝敗は物事の正しさを証明するものであってはなりません。多数の人が選択したことが正しいことになるのであれば、群衆がイエス様を十字架に架けろといって殺した、あの出来事も正しいことになってしまいます。

 また、バイデンの「一致・結束」の呼びかけに対して、インターネット上で多くの黒人たちが「バイデンが勝った。これで通常の人種差別に戻るんだな」と書き込んでいました。白人男性であるバイデンの言う「分断の克服」が以前の社会を「一致・結束」したものと見るなら、それはこれまでずっと差別によって分断されてきたマイノリティの存在を無視するものだからです。

 今日の聖書箇所の背景にあるのは、ローマ帝国の植民地支配によってユダヤの人びとが虐げられ、搾取されていた状況です。この状況のなかで、イエス様は「手向かうな(武装抵抗するなの意)」「敵を愛せ」「徴用されたらそれ以上歩くように」と語ります。これらの言葉は支配を受け入れろというものでは決してなく、自分たちの人間としての尊厳を奪うことはできないことを示すものです。そして、尊厳をもって生きることを諦めないために「敵を愛する」生き方をイエス様は示しました。それは人びとを敵と味方に分断し、暴力によって支配する統治の在り方から離れることです。

 そして、そこには民衆を敵と味方に分断する政治によって見えなくされ、敵にも味方にもされず、社会から隔絶された人びとへの眼差しがあります。その人びとの視点に立つことから、分断を利用する支配の政治に翻弄されることから脱け出し、神の国を目指す歩みが始まるのだとイエス様は指し示しています。それゆえに、「貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人」は幸いであるという言葉が5章の冒頭に記されるのだと思います。

 目の前にいる人は敵でも味方でもない。神様に愛された一人の尊厳ある人間である。ただそれだけ。そのことを信じて生きていく。そのような信仰に立って生きていきたいと思います。


2021年3月19日金曜日

2021年3月14日

 2021 年 3 月 14 日 受難節第4主日礼拝説教要旨

    「この方についていく。」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 17:1 ー 13 節

 冬の終りから、すうっと新鮮に素朴に美しく現れてきて、まるで流行や商売や政治の手練手管など何ひとつ存在しなかったかのように、じっと守られていた草むらの陽あたりのいい片隅からー曙のように無垢で金色で穏やかに春の初咲きのタンポポが、その信頼しきった顔を見せる。「初咲きのタンポポ」(「ホイットマン詩集」より)初咲きのタンポポのような、素朴で、うつくしく、穏やかに、そして人を信頼した歩みができれば良いなあと思います。イエスさまは初咲きのタンポポのような方だったような気がします。律法学者やファリサイ派の人々などの手練手管のある人たちに囲まれながら、それでもイエスさまはそうしたものに流されることなく、神さまの愛を素朴に語られました。頼りになる弟子たちではないですが、それでも弟子たちを信頼し、自分のあとを弟子たちに託されました。人を愛し、人を信頼し、そして神さまが計画された十字架への道を、イエスさまは歩んでいかれました。

 「イエスの姿が変わる」という表題のついた今日の聖書の箇所は、人間の考える栄光と、神さまが示された栄光について語っています。使徒ペトロたちは神々しいイエスさまの姿が栄光だと思いました。しかし神さまが示される栄光は、そうしたものではありませんでした。神さまが示された栄光は、イエスさまの十字架です。洗礼者ヨハネが人々から苦しめられて、ヘロデ王によって殺されたように、イエスさまもまた人々から蔑まれ、私たちの罪のために十字架につけられる。

 使徒ペトロたちは光り輝く雲に包まれたとき、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」との御声を聞きます。そしてその言葉どおり、モーセとエリヤは去り、イエスさまだけが使徒ペトロたちの傍らにおられるのです。人間の栄光は消え去り、神さまの栄光だけが残るのです。聖書は私たちに「これに聞け」と言います。わたしの愛する子、わたしの心に適う者である、イエスさまの言葉を聞きなさい。

 御声に聞き従い、イエスさまについて行きましょう。


2021年3月12日金曜日

2021年3月7日

 2021年3月7日 受難節第3主日礼拝説教要旨

    「与える幸い」 桜井希牧師

     使徒言行録 20:34ー35節

 使徒言行録の2,4,5章には初期の教会の様子が描かれています。弟子たちは出かけて行って病人を癒したので、多くの人々が病人を連れて集まり、そして病人は一人残らず癒されたと言います(5:16)。また弟子たちは罪人を招いて一緒に食事をし、自分の持ち物や財産を差し出して、必要な人に分け与えました。そのため教会には貧しい者が一人もおらず、飢えることもなかったことが報告されています(2:44-47,4:32-35)。一見すると、幸せそうな教会生活のようにも思えます。けれどもこのような教会の根底には、十字架へと向かうイエスを裏切って逃げ去った弟子たちの姿があるように思うのです。

 イエスを見捨てた彼らは、今度は自分が逮捕されるかもしれないという恐怖におびえながら身を潜ませていた。そしてイエスが処刑されたとのニュースを伝え聞いたとき、彼らは自分の罪深さを責めてやまなかったのではないか。イエスは殺され、見捨てた自分たちはこうして生きている。おそらく弟子たちは、今の自分に何の価値も認められず、これから何を目的としていきていくべきかもわからない、いわば生きながら死んでいるような状態だったのではないでしょうか。

 そのような弟子たちに、イエスはガリラヤに行くように告げています。ガリラヤは彼らが初めてイエスと出会った場所です。おそらく彼らは故郷に帰り、自分たちがイエスの弟子になった時のことを思い出したに違いありません。マタイによる福音書によれば、イエスは弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じています。つまり、彼らにはもう一度人間をとる漁師となる人生が与えられる。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とは、「今度はあなた方の番ですよ」という、イエスからのエールなのではないか思うのです。弟子たちは今度こそ逃げることをやめ、イエスとともに生きていく人生を選びました。イエスの復活は弟子たちの復活に他なりません。彼らにとって教会はイエスとの共同生活の再現であり、生き直すための場ではなかったかと思うのです。

 こうした教会の交わりから私たちはそれぞれの現場へ、家庭や職場、地域社会へと遣わされていきます。私たちに託された使命の一つは、そこで教会と同じような交わりを築いていくことではないでしょうか。今日読んでいただいた聖書箇所はその指針となる言葉だと言えます。「受けるよりは与える方が幸いである」と言われると、私たちはこうあらねばならないと身構えてしまったり、今の自分にはそんなことはできないと思ってしまうこともあります。けれども振り返ってみますと、私たちは自分が辛くて苦しくて助けを求めていた時、孤独の中で打ちひしがれていた時に、寄り添ってくれた人、手を差し伸べてくれた人、共に泣いてくれた人がいたことを思います。そして今度は自分もそのような人でありたいと思わされたのではないでしょうか。与える幸せは尽きることがありません。もしも与えることによって人生が行き詰まったり、生きづらくなるようなことになれば、神は教会の交わりを通して必要なものを与えてくださる。そのような信仰をもってこれからも歩んで参りましょう。


2021年3月4日木曜日

2021年2月28日

 2021年2月28日 受難節第2主日礼拝説教要旨

   「イエスさまと一緒に働く喜び」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 12:22-32節

 イエスさまはファリサイ派の人々から、「イエスは悪霊の仲間だ。悪霊の力で悪霊を追い出している」というふうに言われました。それに対してイエスさまは言われました。悪魔が悪魔を追い出すというのであれば、それは内輪もめになってしまう。そうしたら悪魔の国は成り立たないだろう。悪魔は私たちのように愚かではないから、内輪もめなどしない。

 私たちの教会が属しています日本基督教団は、いろいろな教派が合同した、合同教会です。京都教区は比較的同じ教派・伝統の教会が多いですが、わたしが以前いました大阪教区はいろいろな教派・伝統をもつ教会があり、考え方も同じではありませんでした。でもいろいろな教派・立場の人たちがいるということの豊かさというのもあるわけです。

 日本での教会合同の話は、新島襄の時代にもありました。新島襄は、当時の教会の合同については消極的であったと言われています。ただ新島襄はこんなことも言っています。「教派や教義に相違があることは望ましいことかもしれない。しかし教派・教義は魂の救いのための主たる手段ではない。我らの救い主がなさったように、罪人たちに真理を与えること、これこそが先ずなされなくてはならない。真の敬虔さをもってそれをなす人は誰でも、教派、教義以上の存在だ。教派や教義に心奪われて、本質を見落とさないようにしよう」(P.237)(『新島襄365』)。

 私たちはこころの弱い者ですから、いつのまにか高慢になってしまい、人を傷つけてしまったりします。バカにされたような気になってしまい、思わず大きな声をあげてしまうというようなことがあったりします。また熱心のあまりに、その人の気持ちを考えることなく、「これが正しいのだ」と押し付けるようなことをしてしまうときもあります。謙虚な思いを忘れてしまい、自分だけが正しいとの思いに取りつかれてしまうこともあります。

 そうした弱さもある私たちですが、私たちはイエスさまと共に、神さまの愛を、神さまの御言葉を、世の人々に届けたいと思います。私たちはそのことのために、神さまによって教会に招かれているのです。私たちと同じように、神さまの愛を、神さまの慰めの御言葉を必要としている人々がおられます。慰めを待ち望み、心の平安を求めておられる人々がおられます。そうした人たちのところに、神さまのことを伝えていきたいと思います。


2021年2月25日木曜日

2021年2月21日

 2021年2月21日 受難節第1主日礼拝説教要旨

   「誘惑も命の言もあなたの近くに」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 4:1-11節

 イエスさまは荒れ野で悪魔の誘惑にあわれます。「荒れ野」「40」という数字から分かるように、この悪魔の誘惑という話は、出エジプトの出来事を背景にして語られています。イスラエルの民は神さまを信じることができず、出エジプトのあと、荒れ野で40年間を過ごすことになります。イエスさまは悪魔の誘惑に打ち勝ってくださり、私たちを悪魔から守ってくださいます。

 「誘惑を受ける」という聖書の箇所は、悪魔もまた聖書の言葉を用いて誘惑しているということを、私たちに教えてくれます。困ったものです。イエスさまと手をつないで歩いているつもりで、「ねえ、イエスさま」と声をかけると、振り向いた顔が悪魔の顔だったというようなことが起こってしまいます。でも私たちの世の中はそういう世の中なのだと思います。「誘惑も命の言もあなたの近くに」あるのです。誘惑は私たちから遠くにあるのではありません。

 私たちはいかにして、いろいろなことを吟味すればいいのでしょうか。わたしは信仰において、ひとのことが妙に気になるときは、自分が神さまから離れているのではないかと考えてみなければならないと思います。自分の心の中に「あの人は・・・」とか「あいつは・・・」という思いが妙に出てくるときは、心を静かにして自分の信仰について考えてみるべきだろうと思います。また自分の心の中に「わたしは正しい」「わたしは絶対正しい」という思いが妙に出てくることは、心を静かにして神さまに祈るべきだろうと思います。そして妙に「聖書にこう書いてある」と思う時は、鏡をみて自分の顔がサタンになっていないか、あるいはお尻にしっぽが生えていないか、注意しなければならないのだと思います。といいつつ、わたしは自分のお尻がとっても気になります。

 イエスさまは悪魔の誘惑に打ち勝ってくださいました。私たちは弱く、すぐに誘惑に負けてしまう者かも知れません。しかし私たちにはイエスさまが共にいてくださいます。恐れることなく、安心して歩んでいきましょう。悔い改めの心を大切にして、歩んでいきましょう。

 イエスさまは言われました。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。私たちは神さまを見つめて歩みたいと思います。人を見つめるのではなく、自分の罪を見つめて歩みたいと思います。


2021年2月12日金曜日

2021年2月7日

 2021年2月7日 降誕節第7主日礼拝説教要旨

    「常識を打ち破った「この女」は立派だ。」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 15:21-31節

 世の中いろいろなことが変わっていきます。Googleが策定した「Googleが掲げる一〇の事実」の中の九番目に「スーツがなくても真剣に仕事はできる」という項目があるそうです。いまはビジネスマンではなく、プロスポーツ選手がスーツをカッコよく着て登場するのがはやっています。(中野香織「スポーツとファッション」)

 「カナンの女の信仰」の話は、とても印象的な話です。イエスさまの弟子たちはカナンの女をけぎらいしています。「この女を追い払ってください」と弟子たちは言っています。カナンの女は「この女」呼ばわりされています。しかしカナンの女はそうした扱いに負けることなく、イエスさまに頼み込み、そして娘をいやしてもらい、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」という祝福を、イエスさまからいただくのです。カナンの女は、いまはやりの「わきまえない女」です。

 「良きことをあきらめない」というのは、やはりとても大切なことだと思います。世の中は差別に満ちていたとしても、やはり世の中に差別があるのは良くないです。「そんなこと言ったって、変わらないよ」という思いになってしまいそうになりますが、でもやはり「良きことをあきらめない」。世の中、意外に変わるものです。ビジネスマンはスーツを着なくなり、スポーツ選手がスーツを着るのです。

 神さまの救いは異邦人にも広がっていくということの始まりは、カナンの女の「とんち」だったということが聖書に記されているというのは、なかなか興味深いことだと思います。弟子たちにも従わず、イエスさまにも従わなかった女性の話を、「でもこの話、よく考えたらいい話よね。笑えるし」と思って語り伝えた人たちがいたのです。それは女性だけでなく、男性もそのように思って語り伝えたのだと思います。

 「良きことをあきらめない」「良きことを求めて生きていく」「良き社会を願いつつ生きていく」。そうしたことはとても大切なことです。イエスさまは私たちに語っておられます。「あなたの願いどおりになるように」。イエスさまから祝福されるような「願い」をもちつつ、イエスさまを信じて歩んでいきましょう。


2021年2月4日木曜日

2021年1月31日

 2021年1月31日 降誕節第6主日礼拝説教要旨

   「愛に生きる」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 5:17ー20節

 インターネットのニュースなどを見ていますと、よく「苦言を呈した」とか「持論を展開」とか出てきます。【自民・A氏、審議前の修正協議に苦言 新型コロナ】【(お笑い芸人)Bが政権批判のテレビメディアに苦言「強制的に経済止めるといったら放送止めますか?」】。まあやはり人は「自分が正しい」という思いをもつものです。

 福音書などを読みますと、イエスさまの時代、ファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派というようないろいろな派の人々がいたことがわかります。イエスさまのところに「わしが正しい」と思っている人々が、イエスさまに論争をしかけにやってくるわけです。

 【「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである】と、イエスさまは言われました。もともと律法や預言者は人々に神さまの愛を知らせるものであるのに、ファリサイ派の人たちが人を裁くための道具にしてしまっていることに対して、イエスさまは憤りをもっておられました。イエスさま御自身は律法や預言者を大切なものだと思っておられました。そしてそれを大切なものとして守り、もともと律法が持っていた愛の力が満ちあふれるような世の中であってほしいと願っておられました。

 「正しさが先に立つと愛が消える」ということがあります。正しさばっかりが主張されるところでは、愛が消えてしまいます。それは社会運動などでもそうでしょうし、会社でもそうでしょうし、教会のなかでもそうでしょう。使徒パウロは【知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる】(1コリント8章1節)と言いました。【自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならないことをまだ知らないのです】(1コリント8章2節)と言いました。

 私たちは「自分が正しい」という思いに取りつかれたとき、自分が何かを大切なものを落としていないか、周りをよく見回してみなければなりません。もしかしたら私たちの足によって踏みにじられた神さまの愛が落ちているかも知れません。

 「正しさが先に立つと愛が消える」。私たちは愛に生きるということに、こころをとめたいと思います。小さくてもいいから愛に生きる者でありたいと思います。


2021年1月28日木曜日

2021年1月24日

 2021年1月24日 降誕節第5主日礼拝説教要旨

   「悔い改めよ。天の国は近づいた。」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 4:12ー17節

 年末は紅白歌合戦をみるのを楽しみにしていました。まあ一年に一度は、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」か「天城越え」を聞きたいというのもあるのですが、もうひとつはその一年間ではやった歌をいくつか聞くことができるからです。ことしは、「NiziU」の『Make you happy』と、「瑛人」の『香水』も初めて聞きました。

 私たちの時代にはやりすたりがあるように、イエスさまの時代にもはやっているものがありました。それは「世の終わり・終末」ということです。神さまの前に自分の歩みを悔い改めて、神さまのところに帰ってくる。世の終わり・終末は近づき、神さまの国は近づいている。

 洗礼者ヨハネも、イエスさまも「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言うわけですから、同じことを言っているようではありますが、しかし微妙に違っています。洗礼者ヨハネが語る世の終わり・終末は「裁き」の傾向が強いですが、イエスさまは神さまの愛を語られました。

 イエスさまが言われる「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉は、良き知らせです。「天の国は近づいた」。私たちはその祝福に預かることができるということです。「天の国が近づいている。その喜びに私たちは預かることができる」。私たちはそうした幸いのなかに生きている。悔い改めて、神さまのところに帰ろう。そのようにイエスさまは人々に宣言なさいました。はやりすたりを越えて、やはり大切なことがあるのだと思います。そしてイエスさまが私たちに伝えてくださったことは、そういうことです。イエスさまが語られた「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉は、いまも私たちにとっては救いの御言葉です。

 私たちの苦しいこと、悲しいことを知ってくださり、私たちに慰めを与えてくださる神さまがおられる。私たちがつらさのゆえに、神さまから離れさり、どうしようもない人間になったとしても、それでも私たちを探し出して、神さまのところに連れ帰ってくださるイエスさまがおられる。悔い改めの気持ちをもって、神さまのところに帰ろうと思うとき、神さまは私たちをやさしく受け入れてくださる。私たちの苦しみ、悲しみ、つらさを知っておられる神さまが、私たちを天の国へと招いてくださっている。「天の国は近づいた」。さあ、神さまのところに帰ろう。

 イエスさまの招きに応えて、私たちもまた神さまの愛のうちに帰っていきたいと思います。

2021年1月22日金曜日

2021年1月17日

 2021年1月17日 降誕節第4主日礼拝説教要旨

   「「神の国」考」 竹内宙牧師

     ヨハネの黙示録 10:8ー11節

 聖名讃美

 新年を迎えました。昨年から引き続いてのコロナ禍による「不安」が世界を覆っている中での2021年の営みがスタートします。

 堅田教会は近江ミッション(現近江兄弟社)直轄の伝道拠点として築かれ、90年の歴史を刻んできました。ヴォーリズの生涯は、「神の国を求めて」「祈りつつ前進」するものでした。ヴォーリズのイメージした「神の国」は、マルコ4:30-32(「からし種」のたとえ)にあります。

 今日与えられた聖書箇所(黙示録10章8-11節)を通じて、「神の国」を再考したいと思います。

 イェス様が活動されていた時代は、ユダヤ教内で終末思想が渦巻いていた時代でした。終末(神の支配=神の国)はすぐ目の前に迫っている、「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と。

 ユダヤ教的終末論(ダビデ王朝再現に導くメシア待望論)に対するイェスの冷ややかな立場(マルコ4:26-32)。この両者の異なった考えをより明確に受け継いだ内容が黙示録に描かれています。黙19:11-16(11/22)と黙21:1-4,22-27(10/25)です。生まれたばかりのキリスト教は厳しい迫害の時代へと向かいます。皇帝ネロによる迫害、ドミニアス帝による大迫害を経験した著者の思い描いた来るべき世界(神の国)。真逆の世界が示されています。キリスト教世界にはこの真逆の考えが同居しています。私たちはどちらの考えの信仰者となるのでしょうか。今日与えらせた聖書箇所にある「苦さ」を考えたいと思います。


2021年1月9日土曜日

2021年1月3日

 2021年1月3日 降誕節第2主日礼拝説教要旨

   「嘆き悲しむ者と共に」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 2:13ー23節

 莫言の『中国の村から 莫言短編集』の中に「片手」という短編小説があります。中越戦争で負傷し、片手を失った帰還兵の物語です。青年は戦争で片手を失ったけれども、祖国の英雄として迎えられ、いい仕事にもつけて、村の美しい娘と結婚できると思っていたのですが、実際はそうではありませんでした。日中戦争、朝鮮戦争、ベトナムとの戦争など、お国の戦争にかりだされて帰還兵となって故郷の村に帰ってくる。しかし保障があるわけでもなく、農村の暮らし向きはそんなにいいわけでもない。政治に翻弄され、困難を抱えながらも、それでも中国の農村の民は生きてきました。

 為政者に翻弄され、大変な目に合いながら生きてきたというのは、中国の人々だけではありません。内戦状態のシリアなどもそうでしょう。そして昔々のユダヤもそうでした。ヨセフ、マリア、そしてイエスさまは為政者に翻弄されながら生きていきます。イエスさまは生まれて間もなく、難民となり、エジプトへ逃げていかれます。残忍な王さまがいるために、国に帰ることができない。残忍な王さまが亡くなったので国に帰るけれども、でもまだ残忍な支配者がいるので安心できない。なかなか辛い時代です。

 でもそうした辛く悲しい時代にあっても、神さまはイエスさまたちを守られ、そしてイエスさまたちを導かれると、聖書は記しています。【それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった】。聖書は【実現するためであった】【実現した】【実現するためであった】と記しています。いろいろな大変なことがあったけれども、しかし神さまのみ旨が実現していくと、聖書は記しています。つらく悲しい時代にあっても、神さまの御守りの中、イエスさまは成長されたのだと、聖書は記しています。神さまは嘆き悲しむ者を忘れることはないということです。

 イエスさまは私たちと共にいてくださり、私たちを守ってくださいます。私たちに道を示してくださり、私たちの歩みを整えてくださいます。私たちの救い主イエス・キリストは嘆き悲しむ者と共に歩んでくださり、私たちに神さまの愛を教えてくださいます。

 2021年になりました。新しい年も、イエスさまと共に歩みましょう。