2021年5月28日金曜日

2021年5月23日

 2021年5月23日 聖霊降臨節第1主日礼拝説教要旨

   「すてきな世の中にしようよ」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 12:14ー21節

 ハーバード大学の政治哲学者のマイケル・サンデルは、コロナ後の世界のために必要なこととして、次のようなことを言っています。「民主主義国の市民が分かち合う公共空間を作り直さなければなりません。民主主義国に相応しい暮らしに必要な市民のインフラを作り直し、階級が異なる人や生活条件が異なる人と出会えるようにするのです。市民社会を刷新して、活性化させていくのです。自分たちだけの狭い世界を壊して、ともに民主主義を実践していくのです」(『新しい世界 世界の賢人16人が語る未来』、講談社現代新書)。

 わたしは、「階級が異なる人や生活条件が異なる人と出会える」場所というのを聞いて、「ああ、それって、教会じゃないか」と思いました。これからの社会に対して、私たちクリスチャンはとても重大な責任を負っていると、わたしは思います。

 イエスさまはイザヤ書に書かれてある「主の僕」のような方であったと言われています。私たちの救い主イエス・キリストは、【傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない】人であったと、聖書は記しています。傷つき倒れそうな私たちのことを愛してくださり、私たちを救ってくださる。消え入りそうな私たちのことを守ってくださり、そして私たちを支えてくださる。イエスさまは大声で人を脅したり、暴力でもって支配しようとされたりなさいませんでした。小さな声に耳を傾けてくださり、私たちの思いを知ってくださる方でした。私たちはそうしたイエスさまに招かれて、教会に集っています。

 今日はペンテコステです。ペンテコステは教会の誕生日と言われます。社会が分断され、互いにののしりあい、蔑み合う場面の多い社会の中にあって、すべての人々が等しく神さまの前に一人の人として大切にされる教会は、とても大きな意味のある大切なところです。

 魂の安らぎを求める人たちが、私たちの教会に来て、安心して、神さまの愛を感じることができるようにと、私たちの教会を整えたいと思います。私たちは一人一人大切な人間として、神さまから愛されています。その神さまの愛を、神さまのことを知らない隣人に届けていきたいと思います。


2021年5月21日金曜日

2021年5月16日

 2021年5月16日 復活節第7主日礼拝説教要旨

   「生きた水を求めて」 生田香緒里牧師

    ヨハネによる福音書 4:7ー15節

 フォークダンスの「マイム・マイム」は、掘り当てた井戸の周りで輪になって踊り、「マイムマイムマイムマイム、ウ、マイム、べサッソン」と歌いながら井戸に向かって駆け寄っていく様子を表現しています。ヘブライ語で「マイム」は「水」、「べサッソン」は「喜びのうちに」という意味です。その歌詞には、『イザヤ書』12章3節の「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む」という言葉が使われています。

 イスラエルの土地は半乾燥の気候で降水量が少なく水は貴重でした。古代から、泉のある場所に街を作り、泉がなければ井戸を掘って水を得ていたようです。「マイムマイム」の歌詞は、神の恵みを水にたとえ、「神との出会い(恵み)は、砂漠の民が水を得るように喜ばしい」という神への感謝を表しています。

 今日の聖書では、井戸が舞台になります。その井戸はヤコブの井戸と呼ばれ、その昔、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあるシカルというサマリアの町にありました。サマリア人とユダヤ人とは宗教的・民族的なことで敵対関係にありましたが、イエスはサマリアに神さまの愛を伝えに行きました。イエスは旅の途中で疲れて井戸のそばに座り、水と食料を必要とした時に、サマリアの女が人目をさけるように正午に水汲みにやってきます。イエスはその女に水を飲ませてくれるよう頼みますが、女は躊躇します。そして、イエスが永遠のいのちの水について語ったことで立場が逆転し、女はイエスに水を飲ませてほしいというのです。

 イエスは人格を尊重し、相手を信頼します。女は人間に対する信頼と愛を失い、彼女自身、自分が他者から愛されたり、信頼されたりすることが出来るとは思っていませんでした。イエスがもう一度水を飲ませてほしいと言うことによって、彼女は隣人に愛を与えることのできる者とされ、そうなるように期待されていることに気づくのです。弱く助けが必要な姿でイエスが女に接した時に、彼女に新しく立ち直る機会が与えられたのです。

 私たちは、自分が傷つき苦しんでいる時、心に壁を作って、心を閉ざしてしまうことが多くあります。それは、心を開くことによって、また傷つけられるかもしれないという恐れから、そうしてしまうのかもしれません。私たちの心の壁を取り払い、私たち一人一人を愛し、大切にしてくれるのがイエスです。その愛に触れた時に、私たちは凍った心を解凍し、人にやさしくすることが出来るのです。イエスの愛で満たされた時、私たちの心から愛があふれ出ます。イエスに向かって、一人一人が心を合わせる時、何事でもできるのです。本当に大切なものを見いだし、平和を作り出すことができるのです。そのような生きた水であるイエスの愛を求め続けて、歩んでいきたいものです。


2021年5月14日金曜日

2021年5月9日

 2021年5月9日 復活節第6主日礼拝説教要旨

    「あなたの良き業を神さまが見ていてくださる」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 6:1ー15節

 18世紀のイギリスの詩人のウィリアム・ブレイクの詩に「小さな放浪者」というのがあります。その詩の最初は、「お母さん、お母さん、教会は寒い でもビヤホールは健全で、気持ちがよくて暖かい それに、ここならぼくも歓迎してもらえると言える 天国でもこんなに歓迎されるとは思えない」です。昔の教会はきびしくて、なかなかこどもに居心地の悪いところであったようです。「天国でもこんなに歓迎されるとは思えない」と言われるような教会でありたいと思いました。

 わたしは礼拝のときに、いつも「御国が来ますように」とお祈りしますが、やっぱり神さまが望まれるような世の中になってほしいと思います。そして自分はろくでもない心をもった者であるけれども、少しでも神さまから喜んでいただけるような歩みでありたいと思います。

 そうしたことを思う時、今日の聖書の箇所は「ああ、そうすればいいんだ」と思わされる聖書の箇所です。イエスさまは良いことをするときは、隠れてしなさいと言われました。良いことをしているのを知らせてしまうと、この世の人たちから報いを受けたことになるので、神さまから報いを受けることがなくなってしまう。また、イエスさまは施しをするときだけでなく、お祈りをするときも、隠れてしなさいと言われました。

 イエスさまは「隠れたことをみておられる父が、あなたに報いてくださる」と言われます。「ギブ・アンド・テイク」というように、したことに対して相応のものが返ってくるのを前提にして、私たちの社会は成り立っています。ただ「これしたら、どうなる」という問いばかりの世界では、ちょっとさみしいと思います。しかし同時に、この「むくいを望まで 人に与えよ」(讃美歌21−566番)というのは、わたしのもっとも不得意とするところだなあと思わされます。

 イエスさまは言われます。大切なのは、神さまが喜ばれることをするということなのだ。その業を人が見ているとか、人が評価してくれるとかではない。あなたたちの良き業を、神さまはしっかりと見ていてくださり、かならずあなたを祝福してくださる。どんなに小さな業であっても、神さまはあなたを祝福してくださる。

 神様に向かって、良き思いをもって、小さな良き業に励みたいと思います。神さまは私たちの小さな小さなわざを祝福してくださり、そして私たちの世界を良きものへと導いてくださいます。


2021年5月5日水曜日

2021年5月2日

 2021年5月2日 復活節第5主日礼拝説教要旨

    「イエスの名によって願うこと」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 14:1ー11節

 17世紀の作家シャルル=ペローの童話に、「おろかな願い」『ぺロー童話集』(天沢退二郎訳、岩波書店)というのがあります。貧しいきこりにジュピターが、「おまえが抱く最初の三つの願いを、完全に、聞き入れてやる」と言います。この民話を聞いた人はみんな、わたしなら何を願うだろうというふうに考えるだろうと思います。でも現実ではなく、民話の話だからなあと思います。しかしイエスさまは、私たちに「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」(ヨハネ14章13節)と言っておられます。

 今日の聖書の箇所はイエスさまの訣別説教です。この聖書の箇所は、教義的にみればイエス・キリストの十字架と復活、そして再臨ということが書かれてあります。しかし死を前にした人の言葉として読んだときに、ひとつのユーモアのような気がします。「わたしは死んでしまうけど、さきに天国にいって、あなたたちの場所をとっといてあげるから、心配するな。そして場所をとったらまた帰ってくるから、一緒に天国で楽しくしよう」。イエスさまもまた弟子たちに自分の死をユーモアで語ることによって、弟子たちの不安を静めようとされました。

 そしてイエスさまは言われました。「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」。みなさんならこのイエスさまのユーモアに対してどう応えられますか。わたしならこう答えます。「イエスさま、それなら、上等な焼肉を食べさせてください」とか言います。するとイエスさまは「いいよ、焼肉をたべたあと、ケーキもつけてあげる」と言われるのではないかと思います。

 しかしそうしたユーモアの会話の中にあって、私たちはほんとうにイエス・キリストが望んでおられたことを知っているのです。イエス・キリストの名によって願うということは、自分勝手な願いをするのではないということを、私たちは知っています。イエス・キリストの名によって願うということは、イエスさまが望んでおられた願いを受け継いで、私たちが歩んでいくということです。しかしその歩みは悲愴感や先行きの見えない絶望の歩みではなく、ユーモアをもった希望に満ちた歩みであるのです。

 私たちはイエス・キリストが願われたように、「御国がきますように」という祈りを持ちながら、ユーモアと希望をもって歩んでいきたいと思います。


2021年5月1日土曜日

2021年4月25日

 2021年4月25日 復活節第4主日礼拝説教要旨

    「死を越えてわたしの隣にいてくれる方」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 11:17ー27節

 北条裕子の『美しい顔』は東日本大震災を背景にして書かれた小説です。主人公は高校生の女性で、母親の死を受け入れることができず、自分をごまかして生きています。そうした主人公を、小さい頃から彼女を知っている近所のおばさんが、おそろしいくらいに彼女を激しく諭すのです。「元にはもどれないの!」「あなた自身が、ひたすら悲しんで苦しんで怒って、そのあとで、だんだんと納得するしかないの。代わりなんて何もない。誰も、何も、あなたの代わりにはならない」。

 ラザロの死に際して、姉妹のマルタはイエスさまにラザロを生き返らせてほしいと願います。イエスさまが「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言います。「そんな教義的なことは知っているんだ」というわけです。「そんなことを言っているんじゃないんだ。わたしの兄ラザロが死んだのだ。わたしのこの悲しみ、この怒り、この喪失感をどうにかしてほしい。わたしの兄を生き返らせてほしい」。そのようなマルタに対して、イエスさまは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」というように信仰の本質を問うのです。

 マルタはイエスさまに兄ラザロを生き返らせてほしいと願います。そして結果的には、イエスさまはラザロを生き返らせます。しかしたとえラザロが生き返ったとしても、ラザロはいつかは天に召されます。そのあいだ、人生ですから、いろいろなことが起こります。つらいこと、悲しいこと、それは人間の人生のなかで避けようのないものです。そして私たちは信仰の本質的な問いに向き合うことになります。悲しみ、苦しみ、嘆きの中で、私たちを救ってくださる方がだれであるのかという問いです。どんなときもわたしの隣にいて、わたしを支え導いてくださる方はだれであるのかという問いです。死を越えてわたしの隣にいてくださる方はだれであるのかという問いです。

 すべてのことをイエスさまにお委ねして歩みましょう。イエスさまはいつも私たちを支え、導いてくださいます。