2021年11月26日金曜日

2021年11月21日

 2021 年 11 月 21 日 待降節第1主日礼拝説教要旨

   「天に宝を積む」 小﨑 眞牧師

     マルコによる福音書 10:17-22 節

 収穫感謝の起源は、英国からの入植者(ピューリタン)が先住民に助けられ、豊かな収穫を神に感謝したことにあると言われる。しかし、入植者と先住民の友好関係を裏付ける史料はなく、むしろ先住民の犠牲を伴う歴史が刻まれた。先住民のシアトルは、土地や大気や水を私的所有する入植者の姿勢に疑義を呈した(J・ツィンク『美しい大地』)。1970 年から先住民たちは、収穫感謝の時を「全米哀悼の日(National Day of Mourning)」と定め、過去の悲劇を想起し抗議の歩みを築いている。

 福音書(聖書日課)に描かれる「財を所有する男」の姿は、ユダヤ社会の座標軸(十戒などの律法遵守)の中だけに自分の生活を位置づけ、自身の幸福を実現してくれる「善い先生」としてイエスを見ていた。私たちも「良い信仰生活」、「正しい教会生活」と称し、自身を始め私たちが勝手に作り上げた正しさの尺度(敬虔さ、献身、温和、人柄の良さなど)に縛られ、イエス以外を拠り所にする傾向へと陥っている。

 このような現実の只中で、主イエスは私たち自身が拠り所としている事柄を手放し、「従う」ことを提示した。「従う」ことは「ついていく(マルコ 1:17)」と同義であり、今の場から離れることを意味する。私たち自身の意思を越えた働きに委ねた姿勢でもあり、それは、「この世にありながら、もう一つの世界へとも繋がる日常」への提案と言える(若松英輔『日本人にとってキリスト教とは何か』)。この視座の転換を遠藤周作は生涯のテーマとし、『深い河』の中で、「生活」と「人生」という言葉を使い分け、「人生」の豊かさを探求している。私たちは「信仰生活」の恵みではなく、「不可視な人生」の富を大切にする姿勢を養いたい。「人間にできることではないが、神にはできる(マルコ 10:27)」との招きに応じ、自らの不完全さや弱さを顕にすることを恐れず歩みたい。「自分の願いや意図を鎮め、魂に余白を生み、神が働く場所を作らねばならない(『エックハルト説教集』田島照久編訳)」との言葉に傾聴したい。

 収穫感謝にあたり、『柿ごよみ』の一節を紹介する。「師走の風に吹かれて色づいた実も葉もすっかり姿を消し、静けさが戻ってくると『ご苦労様』の声と共にお礼肥が播かれます」とある。自らが獲得した収穫の喜びではなく、その背後に働く力へ敬意を払いたい。自らが築こうとする「善い」信仰生活(教会生活)から解放され、心の余白・隙間(不完全さ・不十分さ)を「愛」という不思議さで埋める主イエスに出会う歩みへと招かれたい。

2021年11月14日

 2021年11月14日 降誕前第5主日礼拝説教要旨

   「不安よ、さようなら。」 小笠原純牧師

     マルコによる福音書 13:5ー13節

 「スタンダードブックス 河合隼雄」(平凡社)を読みながら、27年前といまでは、貧困ということの意味が違っていることに気づかされます。【ここで食生活が貧困だと言うのは、栄養が悪いという意味ではない。心のこもった味わいのある食事を食べる機会が少ない、ということなのである】(河合隼雄)とありますが、いまの時代は、食生活の貧困というのは、まさに貧困問題として語られます。お金がなくて、子どもに十分に食事を与えることができないということです。よくこども食堂なども話題になります。私たちの社会はすこし前に比べて、困った世の中になっているような気がします。新型感染症もあり、何となく不安を感じるという人も多いことと思います。

 世の終わり・終末の前には、地震や飢饉などの天変地異が起こり、またいろいろなところで戦争が起こる。そして偽預言者がたくさん出てきて、みんなを不安にさせる。また神さまのみ旨に従って生きていこうと思う人たちは迫害を受ける。力の強い者が自分勝手な政治を行ない、そして力の弱い者たちを顧みようとしない。神さまの御心に従って生きていこうとすると、力ある者たちによって裁かれ、牢屋に入れられることになる。そのようにイエスさまは言われました。

 なんとも不安な話であるわけです。イエスさまの時代のあとのクリスチャンたちは、世の終わり・終末を経験することはありませんでしたが、しかしここで書かれてあるような迫害を実際に受けることになりました。そしてイエスさまを信じ、神さまを信じて、最後まで耐え忍んだのでした。

 最後まで耐え忍ぶことができるのは、聖霊の働きがあるからだと、イエスさまは言われます。いろいろな不安に出会い、どうしたら良いのかわからないというようなことがあるだろう。しかし大丈夫なのだ。困ったとき、行き詰まったときは、神さまの霊である聖霊があなたを助けてくれる。だから恐れずに生きていきなさい。

 私たちは「不安よ。さようなら」と言いたいと思います。神さまにお委ねしなさい。神さまがあなたを守ってくださる。神さまが良き道を整えてくださる。聖霊があなたを導いてくださり、そしてあなたのやるべきこと、語るべきことを整えてくださる。神さまにお委ねして、神さまが守ってくださることを信じて、安心して行きなさい。そのようにイエスさまは言われました。

 イエスさまの招きに応えて、神さまにお委ねして歩んでいきましょう。


2021年11月7日

 2021年11月7日 降誕前第6主日礼拝説教要旨

   「神さまから与えられた命を生きる。」 小笠原純牧師

     マルコによる福音書 12:18ー27節

 今日は召天者記念礼拝です。平安教会に連なる人々が共に集い、神さまを賛美する礼拝です。私たちの教会のメンバーの方々は、ご家族の方々が思っておられる以上に、教会の礼拝に出席してくださることをとてもうれしいことと思っておられると思います。みなさんの教会だと思って、またぜひ教会の礼拝にいらしてください。お母さま、お父さまの信仰を受け継いで、神さまにより頼んで歩んでくださればと思います。

 イエスさまの時代は、ファリサイ派とかサドカイ派というような宗教的なグループがありました。サドカイ派の人々は「復活」はないというふうに考えていました。イエスさまの時代は、レビレート婚というのがありました。夫が亡くなったときに、その兄弟と結婚をするという結婚です。7人の兄弟の妻となった女性は、復活のとき誰の妻となるのか。サドカイ派の人々は、この制度の話をすることによって、復活はないのだと言うわけです。サドカイ派の人々はイエスさまを論破することにだけ心を向け、高慢になってしまい、大切なことを忘れてしまっていました。

 イエスさまは「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか」と言われました。神さまが私たちひとりひとりを愛してくださっている。神さまはアブラハムを愛してくださり、命を与え、その人生を祝福してくだった。神さまはイサクを愛してくださり、命を与え、その人生を祝福してくださった。神さまはヤコブを愛し、命を与え、その人生を祝福してくださった。神さまはその七人の夫の妻となった女性を愛し、命を与え、祝福してくださる。その女性は復活があるかどうかを証明するための道具として存在しているわけではない。

 神さまがあなたに命を与え、神さまがあなたに能力を与え、神さまがあなたに安心して生活できる環境を与えてくださっているということを忘れてしまっている。あなたは神さまが与えてくださった命を、神さまの思いにそって、誠実に生きていくことを、忘れてしまっている。イエスさまはサドカイ派の人々にそのように言われました。

 私たちは神さまによって命を与えられ、そしてその命を生きています。神さまによって愛され、かけがえのない大切な人として、私たちは生かされています。そのことにしっかりとこころを向けて歩んでいきたいと思います。


2021年10月31日

 2021年10月31日 降誕前第7主日礼拝説教要旨

   「今日の宗教改革」 山下毅牧師

     ルカによる福音書 12:49-53節

 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」。神の権威のもとに、主はこのような言葉を宣たまいました。イエスの言葉に従い、地上に火を投じた人として、マルティン・ルターを覚えます。

 10月31日は、宗教改革記念日です。ルターの闘いは、ウィッテンベルク城教会の扉に95ヶ条のテーゼを張り付け贖宥状批判の公開討論を呼びかけたとことに始まりました。その反響は、大きく全ヨーロッパを包むに至ります。色々の経過の後、ルターはウォルムスの帝国議会に召喚されます。そこで、「聖書の証言は正しく、自分が書いた書物は、取り消すことが出来ない」と証言し「わたしはここに立っている」と述べます。――その精神は、第二次大戦での教会闘争にも受け継がれ、現代の私たちキリスト者も学ぶべきものがあります。その後ルターはワルトブルク城にて、ドイツ語訳聖書の翻訳を完成します。

 宗教改革における最も重要なことは、私たち自身がみ言葉により、造り変えられることです。それにはどうすれば良いか。ルターは「聖書の読み方」を明快に教えます。第一に聖書を読む時は、神に聖霊を与えて下さるように求め、祈りつつ読むこと、第二に、黙想し、聖書を繰り返し読み、聖霊が語られることを熱心に聞くべきです。第三に、人生において、試練に出会う時、試練の中でこそ、聖書を読むべきです。その時、聖書が人生にとってすばらしいものであることが分かります。――ルターはいろいろなことを語りますが、「神は愛であり、その愛にとどまるものは、神にとどまり、神がその者にとどまります。神の燃えさかる愛は、すべての不純物を燃やします。」「神は私たちの罪を赦して下さり、それと関連して、パウロの『義人は信仰によって生きる』の「義」は裁きの意味でなく、赦しに値しないものを赦し、立ち直らせるものです」「神の前では悩みをすべて打ち明けなさい。神は喜んで、聞き、助け、諭を与えてくださいます」「キリストは復活されました。そのことを深く信じ、信仰を堅くしなさい」と述べています。「キリストを信じること」をとおして全く違う形で聖霊があなたの生の中に入って来られます、私たち自身の中で生命――神の生命であると同時にあなたの生命となられます。そのことを通して私は新しく変えてくださいます。そのことをルターは述べています。


2021年10月24日

 2021年10月24日 降誕前第8主日礼拝説教要旨

   「祝福された人生を歩む」 小笠原純牧師

     マルコによる福音書 10:2ー12節

 NHKの大河ドラマの「青天を衝け」の主人公の渋沢栄一は『論語と算盤』という本を書いています。渋沢栄一は恋愛関係という面では、現代の私たちからみれば、あまり感心できないこともあります。妻以外の女性とのおつきあいもたくさんあったと言われます。渋沢栄一の妻は、「父様も論語とは旨いものを見つけなすったよ。あれが聖書だったら、てんで教えが守れないものね!」と言ったそうです。

 一般的にイエスさまの時代は申命記の24章の規定の解釈に基づいて、離縁状を渡したら離縁することができるというふうに考えられていました。しかしイエスさまは簡単に離縁するということに反対でした。それは離縁状を書いたら離縁できるとなると、立場の弱い妻が簡単に離縁されるということになるからです。

 今日の聖書の箇所は、イエスさまが離縁について言われた言葉が記されてあるので、その言葉が絶対的な教えとなって、「キリスト教は絶対に離縁したらだめなんだ」というようにとらえられることがあります。でもイエスさまの時代と、私たちが暮らしている現代の日本の状況というのは同じではありませんから、「キリスト教は絶対に離縁したらだめなんだ」ということでもありません。現代の日本ではドメスティックバイオレンスというように、家庭内暴力が原因で、「このままでは殺される」というような状況で、夫から逃げ出して、離婚をしたいと思っているというような場合も出てきます。イエスさまが問題にされたのは、離縁できるとか、離縁してはならないということではなく、「だれかによって強制的につらい思いをさせられるとか、不幸にさせられるというようなことはだめなんだ」ということです。

 イエスさまは天地創造のときから、神さまの大切な人として、人は創造されたのだと言われます。【天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった】。わたしは神さまの大切な人として創造されています。そしてわたしの隣にいる人も、神さまの大切な人として創造されています。このことを抜きにして、人が勝手なことをするということはあり得ないと、イエスさまは言われます。

 私たちはみんな神さまから愛されている。そして大切な人として、その人生を歩んでいます。互いに助け合い、互いに尊敬しあって、神さまが祝福してくださる歩みでありたいと思います。