2022年12月29日木曜日

2022年12月25日

 2022年12月25日 降誕節第1主日礼拝説教要旨

 「クリスマス、すべての人への良き知らせ」 

               小笠原純牧師

  ルカによる福音書 2:1ー20節

 フェリクス・ホフマンは「クリスマスのものがたり」(福音館書店)という絵本を描いています。フェリクス・ホフマンにしか描けないすてきな絵です。アネット・チゾン、タラス・テイラー夫妻は、「バーバパパのクリスマス」(講談社)という絵本を描いています。バーバパパは小さな子どもでもかくことができるようにとの思いで作られたキャラクターです。フェリクス・ホフマンの「クリスマスのものがたり」と、アネット・チゾン、タラス・テイラー夫妻の「バーバパパのクリスマス」を見ながら、「ああ、クリスマスらしいなあ」と、わたしは思いました。いろんな人がクリスマスをお祝いするのです。これが正しいクリスマスのお祝いということではなく、みんながそれぞれにクリスマスをお祝いします。

 主の天使が言ったように、イエスさまの誕生の出来事は、「民全体に与えられる大きな喜び」の出来事です。すべての人に開かれている出来事です。特定の人に対してもたらされた喜びの知らせではなく、すべての人にもたらされた救いの出来事です。どんな小さな子どもも、バーバパパの絵を描くことができるように、クリスマスもどんな小さな子どももお祝いすることができます。

 イエスさまは馬小屋、家畜小屋で生まれたと言われます。馬小屋・家畜小屋であれば、人だけでなく、馬や羊や山羊も、イエスさまの誕生をお祝いすることができるのです。イエスさまの誕生をお祝いしにきた馬や羊や山羊は、イエスさまを見てどのように思ったでしょうか。「あっ、寝てる。私たちは生まれてすぐ立ったのに、イエスさまはまだ寝てるんだ」と思ったと思います。イエスさまは飼い葉桶で眠っています。人はだれでも赤ちゃんで生まれてきて、そして人に助けられて生きていくのです。人はそのように創られているのです。

 私たちはイエスさまを囲んで、クリスマスをお祝いいたします。飼い葉桶の中で眠っているイエスさまは、私たちの社会が支え合いの社会であり、わかちあいの社会であることを、私たちに教えてくれます。すべての人がクリスマスをお祝いすることができるようにと、救い主イエス・キリストは馬小屋・家畜小屋で生まれ、飼い葉桶の中で眠るのです。

 あなたたちの社会のすべての赤ちゃんが、わたしのようにすやすやと眠ることができるようになる。そういう平和でわかちあいの世の中がやってくる。神さまの御心に叶う平和な世の中がやってくる。救い主イエス・キリストは、私たちに告げ知らせ、飼い葉桶の中で眠るのです。

 救い主イエス・キリストが、私たちの世にきてくださいました。神さまにこころから感謝をして、世のすべての人々と共に、イエスさまのご降誕をお祝いいたしましょう。


2022年12月23日金曜日

2022年12月18日

 2022年12月18日 待降節第4主日礼拝説教要旨

  「神さまの愛に包まれて」 小笠原純牧師

    ルカによる福音書 1:26ー38a節


 マリアがイエスさまの母になるということは、マリアにとって大きな恵みでありました。しかしマリアはこのことのゆえに、大きな悲しみを経験します。イエスさまは私たちの救い主として、十字架につけられるために、この世に来られたのです。マリアはわが子が、十字架につけられて、人々にののしられながら殺されるという悲しみの経験をするのです。マリアの戸惑いや不安は、取り越し苦労ではなく、もともとマリアへの祝福と一体になっていることでした。しかしマリアはそうしたことも含めて、神さまからの祝福を受け入れたのでした。

 経済学者の暉峻淑子さんは、『サンタクロースってほんとにいるの?』(福音館書店)という絵本を書いています。暉峻淑子さんは難民を支援するNGOの活動を通して、多くの現代のサンタクロースに出会ったと言います。多くの善意に出会ったわけです。それは大きな恵みであったと思います。でもまた同時に悪意に出会うこともあったようです。

 マリアのところにもたらされた祝福は、戸惑いと共にやってきました。私たちの住んでいる世界は、いろいろなことがあります。私たちはいつもいつも順風のなか、にこにこと歩むことはできないでしょう。悩みがあったり、戸惑いがあったり、悲しみを経験したり、人に裏切られたり、人から誤解されたりすることがあるでしょう。マリアの生涯もやはりそうでした。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と天使ガブリエルから祝福を受けた、マリアの生涯は、絵に描いたような幸せな生涯ではありませんでした。しかしマリアは、そのときどきの戸惑いのなかで、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」という信仰に生きたのでした。そうしたマリアを、神さまは豊かに祝福してくださいました。

 マリアを祝福してくださった神さまは、私たちをも豊かに祝福してくださいます。神さまは私たちのために、イエスさまを送ってくださいました。イエスさまはいつも私たちと共におられます。

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。

 「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」。

 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。

 私たちは神さまの愛に包まれています。力ある方が、私たちを守り、祝福してくださっています。神さまの愛に包まれて、イエスさまと共に、こころ平安に歩みましょう。


2022年12月16日金曜日

2022年12月11日

 2022年12月11日 待降節第3主日礼拝説教要旨

 「さみしさに寄り添われる神」小笠原純牧師

  ルカによる福音書 1:5-25節

 もう一度オートバイに乗ってみたいと思う気持ちと、もう危ないので止めたほうが良いという気持ちがあります。そして乗れないと思うと、ちょっと切ないなあという思いがあります。みなさんも、そうしたことがあるのではないでしょうか。登山に行くのが趣味だったけど、やっぱりもうあぶない感じがして止めたという方もおられるかも知れません。なんか自分の中では納得しているのだけれども、なんかちょっとさみしいなあと思えることがあります。

 ザカリアとエリサベトの間にこどもがいないということは、それはもう二人にとっては納得しているけれども、さみしいと思えることでした。ザカリアもエリサベトももう年をとっていますし、もうこのことについては、ある意味、心の整理をしていたのです。ザカリアもエリサベトも神さまの前に正しい人として、周りの人々から信頼を受けて生きています。「ザカリア、あの人はとても立派な人ですよ。そしてエリサベトもとっても立派な人」。そのようにみんなから言われて生きています。子どもを授かることはなかったけれども、神さまの前に良い人生を送ることができました。でもふと思うと、こどもを授からなかったことは、さみしい気がするのです。そのことはもう納得しているけれども、さみしい気がするのです。

 ザカリアとエリサベトの話を読むとき、私たちはザカリアとエリサベトの願いが叶って、ほんとうによかったと思います。叶えられることのない願いを抱えながら、ザカリアとエリサベトは生きてきました。もう叶うことはないだろうと思っていた願いが叶えられたのです。私たちもまた叶えられることはないだろうと思える願いをもって生きています。なんかちょっとさみしいという思いをもって生きています。だからザカリアとエリサベトの願いが叶えられて、ほんとうによかったねと思うのです。そうした思いをもつ人々が、このザカリアとエリサベトの物語を語り伝えてきたのだと思います。わたしの願いは叶えられるかどうかはわからないけれども、ザカリアとエリサベトの願いが叶えられてよかったねと思うのです。

 ザカリアとエリサベトが子どもを授かるという話は、さみしさに寄り添ってくださる神さまがおられるということを、私たちに教えてくれます。私たちの神さまは、私たちのさみしさに寄り添ってくださる方なのです。こころの底に押し込めている、だれにも見せることのない私たちのさみしさに、神さまは寄り添ってくださり、そして私たちに平安を与えてくださるのです。


2022年12月9日金曜日

2022年12月4日

 2022年12月4日 待降節第2主日礼拝説教要旨

 平安教会創立146周年貴意年礼拝

  「主の恵みの時」 

    洛南教会 井上勇一牧師

  ルカによる福音書 4:14−21節


 平安教会創立146周年おめでとうございます。

 本日の課題聖句、ルカによる福音書4章をみると、イエスの福音宣教の開始場面がある。イエスはイザヤ書61章1節の言葉をもって、福音への神の召命と宣教の目的を語る。

 「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が油を注がれた」と召命を語り、「人を解放し、希望と自由を満たすために」と福音の目的を語る。

 ルカは貧しさ、厳しい社会で排除され、苦しむ者への福音とし、自由と解放とをもって新しい世界の到来をつげるのである。そして、これが神の福音であると宣言するのである。

 しかも、イエスは実際に福音宣教において、貧しき者への福音を示し、苦しむ者へ寄り添い、希望をもたらすのである。召命と行動とがブレない。しかも、最後には十字架の死と復活を以って、貧しきものが神の恵みに与かる道を示すのである。

 このイエスの示した福音に夢と幻とをもって信じた人によって、教会が作られていく。「キリストを主とする」、「キリストの証人となる」ことをブレずに証ししたのが教会である。

 今教会は大きな転換の時を迎えている。今後もブレずに「キリストを主とする、キリストの証人になる」ことは宣教の柱として在り続けると思うが、何かが満たされていない。それが今の教会である。何が足りないのか、キリストを主と告白する「力」、キリストの証人となる「行動」ではないだろうかと思う。

 教会は、このままでいくと、多くの教会が自立性を失い、キリスト信仰の実態を失っていく。「このままでいいのか」と思う時、まず、わたしが祈り求めること、行動を起こしていくことが大切であると信ずる。


2022年12月2日金曜日

2022年11月27日

 2022年11月27日 待降節第1主日礼拝説教要旨

 「自由に解き放たれ」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 21:25-36節

 私たちにとっては、世の終わりというものが、良い悪いは別にして、すぐに起こることとしては、なかなか考えることができません。しかしイエスさまの時代や弟子たちの時代は、世の終わりについての確かな確信というものがありました。世の終わり、終末は、もうすぐそこに来ているというふうに、当時の人々の多くは考えていました。

 終末の出来事、世の終わりの出来事というのは、たしかに恐るべき出来事であるわけです。しかしそれはただただ恐れるべきものであるということではありません。聖書は「あなたがたの解放の時が近いからだ」と言っています。そしてまた、「神の国が近づいていることを悟りなさい」とあります。それはいたずらに恐れたり、あわてたりするのではなく、しっかりと出来事を見据えることが大切だということです。

 終末において、私たちに求められていることは、平静さを失わないということです。それは終末においてだけではなく、私たちの日常の生活のなかでも、同じことです。いたずらにこころを騒がすのではなく、しっかりと出来事を見据えるということが大切です。

 イエスさまは言われました。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。それは「主にあっては、恐れはない」ということなのです。私たちはイエスさまにつながっている限り、何ものからも自由であるのです。びくびくする必要はない。たとえ天地が滅びるとしても、私たちは滅びることはないのです。私たちはそうした平安のなかに導かれています。私たちはイエスさまにつながっている限り、何ものからも自由なのです。私たちは自由に解き放たれて生きることが許されているのです。

 私たちの世の中は、私たちの不安をあおり、私たちの憎しみをあおる、そんな雰囲気に満ちています。私たちは何に依り頼んでいるのかを思い起こしたいと思います。私たちは自分のプライドのために、生きているのでしょうか。私たちは人を憎むために生きているのでしょうか。私たちは、主イエス・キリストによって生きているのです。

 今日はアドベントです。ローソクの灯がひとつ点きました。私たちの心のなかにも、憎しみの炎ではなく、愛のローソクの灯をひとつ灯したいと思います。


2022年11月25日金曜日

2022年11月20日

 2022年11月20日 降誕前第5主日礼拝説教要旨

 「なんで、私が天国に」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 23:35-43節

 地下鉄にのっていますと、予備校の案内を見ることがあります。「なんで、私が東大に!?」「なんで、私が京大に!?」「なんで、私が医学部に!?」というキャッチコピーに多くの人が魅かれていきます。しかし私たちはそろそろ、そうしたこの世でのことだけでなく、「なんで、私が天国に!?」ということに関心を寄せたほうが良いのではないかと思います。

 イエスさまは十字架につけられます。ユダヤの議員たちも兵士たちも、一緒に十字架につけられた強盗のひとりも、イエスさまをあざけります。しかしもう一人の強盗は悔い改め、イエスさまに「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。

 最後の最後に、悔い改めることができた強盗は幸せであると思います。人はなかなか悔い改めたり、自分のことが悪かったと認めることはできません。ですから悔い改めることのできた強盗はとても幸せだと思います。人はなかなか悔い改めることができないですし、わたし自身もそうですから、悔い改めなかったほうの強盗を、「あいつはだめなやつだ。あいつはおろかな奴だ」と言うことも、わたしにはできません。ただ最後に悔い改めることができた強盗は幸せだと思います。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、イエスさまに言っていただけるなんて、とても幸せだと思います。

 この悔い改めた強盗の気持ちを表す言葉が今日の説教題であります、「なんで、私が天国に!?」ということです。強盗であるわたしが天国にいるなんて信じられない。「なんで、私が天国に!?」。

 神さまの憐れみによって人は救われるのです。その人がりっぱな行ないをしたから救われるのではありません。ですから人はみな、「なんで、私が天国に」という思いをもって、天国に行くのです。

 今日は収穫感謝日です。収穫の実りも恵みとして与えられています。私たちが住んでいる地球では、農作物が育つ土地があり、適度な気温があり、さまざまな条件が合って、作物は実りをもたらします。それら神さまが備えてくださっているものです。私たちは神さまからの多くの恵みを受けて生きています。

 私たちが生きていることも、また私たちが天に召されることも、神さまの御手のうちにあります。神さまは私たちに多くの祝福を備えてくださり、そして私たちの歩みを守り導いてくださっています。神さまにお委ねし、安心して歩んでいきましょう。


2022年11月18日金曜日

2022年11月13日

 2022年11月13日 降誕前第6主日礼拝説教要旨

 「イエスは生きておられる」 古郝荘八牧師

   ローマの信徒への手紙 5:12-21節

 11月13日の説教題は「キリストとアダム」でしたが、この説教要旨では「イエスは生きておられる」にさせていただきました。実際にした説教にはあまりとらわれずに書かせていただきます。わたしは、長い間、創世記第3章の記事に取り組んできました。ドストエフスキーによって、目を向けさせられたのです。わたしは、長い間、「アダムのせいで、世の中が悪くなった」だと考えて悲観的になっていました。「アダムのせいで」と書きましたが、わたしは、特にアダムが歴史上の実在の人間かどうかについては、関心を持ったことはありません。むしろ、自分が生きている時代の中で、罪を犯しつつ生きている人類、その中にわたしも含まれているのですが、その人類の祖としてのアダムの堕罪の記事が関心の対象になっていたのでした。しかし、やがて、わたしの関心の中心は、イエス・キリストに移り、イエス・キリストを神の子と信じて、29歳の時に受洗しました。その後、牧師になったのですが、ローマ人の手紙5章12節から21節のところが、牧師生活最後の1年ぐらい前から気になり始め、そこから説教したいと思いつつ、できないで終わりました。それで、平安教会の説教のテキストとさせていただきました。

 まず特に、強調しつつ言いたいのですが、パウロが、ここで「キリスト」と書いた時、パウロは、復活したキリストが自分にも現れてくださった、という経験を後にしていました。十字架につけられて死なれたキリストは三日目に復活され、パウロにも姿を現してくださったのです。ですから、この手紙を書いた時、パウロはもちろん、イエス・キリストは今も活きておられ、もはや死なれることのない方だと思いつつ書いているのです。そして、今もイエスは生きておられます。さて、パウロは、復活したキリストに会うことをゆるされたのですが、アダムに会ったことはないというのは言うまでもないでしょう。しかし、パウロは、自分がアダムの末裔であり、自分が「古い人」「罪人」であることを知っていました。罪人であることは、やがて死ななければならない者であるということですが、パウロは、自分に現れたイエス・キリストは、全人類の罪を背負って死なれたことを知ることになりました。「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(21節)


2022年11月10日木曜日

2022年11月6日

 2022年11月6日 降誕前第7主日礼拝説教要旨

 「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」 小笠原純牧師

   ルカによる福音書 3:1-14節

 洗礼者ヨハネはなかなか恐ろしい言葉で、人々に悔い改めを呼びかけます。悔い改めて洗礼を受けようと思っている人々に対して、洗礼者ヨハネは「洗礼を受けることで、神さまの怒りを免れるというようなことを考えてはいけない」と言いました。そんな簡単なことではない。しっかりと悔い改めるのでなければ、それは悔い改めにはならない。悔い改めにふさわしく、神さまの御心にそって生きるということをしなければならない。斧はもう木の根元に置かれていて、悔い改めてしっかりと生き直さない人たちは、切り倒されて、地獄の火に投げ込まれてしまう。

 それを聞いた群衆は、「私たちはどうしたらよいのですか」と素直に洗礼者ヨハネにたずねました。洗礼者ヨハネはとても具体的にこうしたら良いよということを答えます。洗礼者ヨハネは群衆たちにできないことをしなさいと言ったわけではありません。できることを言っています。とくに徴税人や兵士に対してはそうです。規定以上のものを取り立てたり、金をゆすったりすることは、それはいけないことです。しかしそうしたことが世の中に蔓延し、悪いことではあるけれども、みんな「まあいいか」というふうになっていたということです。

 倫理的でない社会は、どんどんと貧しくなっていきます。倫理的でない社会は、滅んでいきます。人が倫理的でないのを見ていると、だんだんと自分も倫理的でなくて良いのではないかと思い始めます。洗礼者ヨハネの時代もそうしたことがあったと思います。「規定以上のものを取り立てている」徴税人をみて、「おれもしようかなあ」と思った徴税人がいただろうと思います。「金をゆすり取ったり」する兵士をみて、「おれもしようかなあ」と思った兵士がいただろうと思います。しかしそうした世の中にあって、洗礼者ヨハネは人々に、神さまの御心にかなうように、「倫理的に生きていこう」と呼びかけたのでした。

 【人は皆、神の救いを仰ぎ見る】。人はそんなふうにつくられているのだ。自分勝手な思いに引きずられてしまうような気がするときもあるけれども、しかし思い直して、神さまの救いを仰ぎ見ながら、みんなで歩んでいく。あなたが望んでいるような神さまの国が必ずくるから、あなたの思いにかなったすてきな世の中に必ずなるから。そのように洗礼者ヨハネは人々に呼びかけました。

 私たちも神さまの救いを仰ぎ見る歩みでありたいと思います。希望を持って、神さまの愛を信じて、歩んでいきましょう。


2022年11月5日土曜日

2022年10月30日

 2022 年 10 月 30 日 降誕前第8主日礼拝説教要旨

 「神を知る道」 山下毅牧師

   マタイによる福音書 4:1-11 節

 この荒野の誘惑の物語は、ロシアの作家ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』という作品の「大審問官」という箇所で取り上げています。イエス・キリストを試みた悪魔は、実は私どもではないか、と問うているのです。ここにおける中心問題は、私どもが救われるというのはどういうことかという問題です。

 第一の誘惑において、神が本当の神ならば、石をパンに変えることぐらいあたりまえではないか。私たちが、不幸にぶつかるたび、悲しみにぶつかるたび、神に文句を言ったことはないでしょうか。イエスは『人はパンだけで生きるのではない、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。』と述べられます。

 第二の誘惑において、「悪魔はイエスの宮の頂上に立たせて言った。神の子なら飛び下りたらどうだ。天使たちが来て捕らえてくれる」と詩編91編を引用しつつ、試みます。この主を試みる出来事は、出エジプト17章1節以下の故事に由来します。エジプトから導き出されたイスラエルの民は、飢えと、渇きにとまどい信仰を失います。神が生きておられるかどうかわからない状況であったのです。現在の私たちもどんようにしばしばそのような状況に追い込まれるでしょうか――そのとき申命記6章16節の言葉を述べられます『あなたの神である主を試みてはならない。』大切なことは、神を信頼しきることです。従い続けることです。その時道は開けます。

 第三の誘惑において、悪魔はこの世の栄華を見せ、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これを皆与えよう」と言った。イエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主にのみ仕えよ』」と述べられます。ただ主なる神を礼拝し続けることが大切です。

 ルターは「悪魔の正体は何でしょうか。人間だった。悪魔を呼び出すのは、人間の罪だ」と述べています。

 荒野の誘惑の物語で、イエスは奇蹟(しるし)を拒否なさいました。マタイによる福音書12章38節で、律法学者、パリサイ人はイエスに奇蹟(しるし)を求めます。しかし、イエスは「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう」と述べられます。主はむしろ墜落する道を選ばれ、三日三晩地の中に横たわるという道、十字架において犯罪者として殺される道を選ばれます。ヨハネによる福音書3章16節「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それはみ子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」死のどん底から、神さまはイエスを甦らせるみちをお開きになりました。それが<愛のしるし>だからです。

 復活されたイエスは、私たちと共に在って、共に歩んでくださいます。

 4年前に亡くなられた、信仰の友、浜野一也さんも主が共にいます、豊かな生涯を全うされました。

2022年10月29日土曜日

2022年10月23日

 2022年10月23日 降誕前第9主日礼拝説教要旨

 「神の前に豊かになる」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 12:13-31節

 ピーター・ノーマンは、1968年オリンピックメキシコシティー大会で、陸上男子200メートルで、第2位になったオーストラリアの選手です。ピーター・ノーマンはクリスチャンの一つの派である「救世軍」に属する両親のもとに育ちます。お父さんはピーター・ノーマンに、「肌の色など関係ない。人間はみんな平等なんだ。それを忘れてはいけない」と言っていました。そうした信仰のもと、ピーター・ノーマンは、トミー・スミスとジョン・カーロスと行動を共にしました。「ブラックパワー・サリュート」(黒人の力を示威する敬礼)という事件です。ピーター・ノーマンは、自分のために富みを積むことよりも、神の前に豊かになることを選んだのでした。

 人は取り去られる命を生きています。私たちがいつ天に召されるかはわかりません。お金持ちも、貧しい人もみんな、取り去られる命を生きています。自分勝手に生きて、周りの人々のことを考えないで生きていると、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われるのです。

 「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と、イエスさまは言われます。だれしも天に召されます。そしてお金を持って、神さまのところに行くことはできません。人はみな神さまから与えられた命を生きています。神さまから与えられた能力をもって、この世での生活を送ります。私たちはみな神さまによって与えられた者によって生きています。ときどき、人はそのことを忘れて、すべてのものを自分の力で得たかのように勘違いしてしまい、周りの人たちに対して冷たくあたったりすることがあります。

 私たちはみな神さまのところに帰ります。神さまのところに帰るのですから、やはりそのとき神さまにできれば誉めていただきたいなあと思います。ですから自分だけのことを考えて生きるのではなく、倫理的な生き方をしたいと思います。

 だれからみてもりっぱな生き方はできないかも知れないけれども、やはり私たちクリスチャンは神さまの前に誠実な生き方でありたいと思います。神さまは私たちを見てくださっています。すべての点でりっぱではないかも知れないけれども、しかしやさしい気持ちを大切にして、周りの人々の幸せを祈りながら生きている、私たちの歩みを、神さまは見ていてくださいます。神さまの前に豊かになる歩みを、これからも大切にして歩んでいきましょう。


2022年10月22日土曜日

2022年10月16日

 2022年10月16日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨

 「涙をぬぐってくださる方」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 5:1-12節

 向田邦子の『阿修羅のごとく』のなかで、印象的だった言葉は、「10年たったら笑い話だよ」というお父さんの言葉です。10年たったら笑い話になるようなことも、そのときはとても腹が立って、とりかえしのつかないことをしてしまうということもあります。私たちは将来どのようなことが起るのかということを、先の先まで知ることはできません。ですからできればあまりその場限りの激情に流されるのではなく、すこし落ち着いて、周りの人が幸せになる道を探るということも大切ではないかと思います。

 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」。この言葉はこの『幸い』という個所を全体的に考える上で、典型的な言葉です。それは「幸い」である理由というのが、「神さまがおられるから」だからです。「心の貧しい人々は、幸いである」のも、「悲しむ人々は、幸いである」のも、「柔和な人々は、幸いである」のもそれは神さまが私たちと共にいてくださるからなのです。

 私たちクリスチャンは、今だけを見て生きているわけではありません。今だけを見て生きているのであれば、「悲しむ人々は、幸いである」ということはできません。本当に辛く悲しいわけです。しかし私たちはたとえ苦しくても、たとえ辛くても、かならず救いの御手を差し伸べてくださる方がおられるということを信じています。どんなに辛いときも、どんなに悲しいときも、神さまが私たちと共にいてくださるということを、私たちは信じています。

 「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(ヨハネの黙示録21章3ー4節)。

 私たちには慰めてくださる方がおられる。私たちの涙をぬぐってくださる方がおられる。この方を信じ、この方を信頼して歩んでいこう。私たちの神さまはいつも私たちと共にいてくださり、私たちを愛してくださっている。イエスさまはそのように言われ、愛の神さまが私たちをしっかりととらえてくださっていることを教えてくださいました。

 私たちには慰めてくださる方がおられます。私たちの涙をぬぐってくださる方がおられます。神さまを信じて、歩んでいきましょう。


2022年10月14日金曜日

2022年10月9日

 2022年10月9日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨

 「自分の愚かさを知る」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 14:26-42節

 わたしのゼミの先生でした野本真也先生は、私たちを教会に送り出す時に、「あなたたちのことは信じていないけれど、あなたたちを教会に送り出す神さまのことを信じている」と言われました。新島襄は卒業生の前途を祝して、Mysterious Hand guide you!と言いました。神さまの不思議な御手があなたを導いてくれる。あなたは大した者ではないかも知れないけれども、神さまの不思議な御手があなたを守り導いてくださる。

 イエスさまのお弟子さんたちも、聖書を読む限りにおいては、そんなに大した人ではありませんでした。よく失敗もしますし、イエスさまから怒られることもあります。弟子たちは絶対にイエスさまを裏切ることはないと言いました。しかし弟子たちはイエスさまの十字架に際して逃げ出してしまうことになります。またゲッセマネでイエスさまから、「目を覚まして祈っていなさい」と言われても、みんな眠り込んでしまいました。

 弟子たちは愚かです。自分が愚か者であることに気づいていないのです。自分がだめな人間であることに気づいていないのです。わたしは愚か者でないと信じているので、イエスさまのことを裏切らないと言うのです。愚かな弟子たちは、イエスさまの小さな願いを聞くことができないのです。「目を覚ましていなさい」と言われても、弟子たちは目を覚ましていることができないのです。

 信仰は自分の愚かさを認めるところから始まります。イエスさまを裏切ることなく、イエスさまと一緒に死んでいくすばらしい人であれば、イエスさまを信じる必要はありません。イエスさまにより頼んで生きていく必要もないだろうと思います。イエスさまの小さな願いをきくことができず、眠り込んでしまう愚かな弟子たちだからこそ、イエスさまを信じる必要があるわけです。イエスさまのことを三度知らないと言う弟子たちだからこそ、神さまにより頼んで生きていく必要があるわけです。

 自分勝手な私たちをイエスさまは知ってくださり、私たちのことを愛してくださいます。わたしは「自分のことは信用ならない」と思いますが、しかしわたしを愛してくださる神さまを信じています。神さまは皆様、お一人お一人を愛してくださり、悲しい時もさびしい時も共にいてくださり、皆様のひと足ひと足を守ってくださっています。愛の神さまがおられます。神さまにすべてをお委ねして歩んでいきましょう。


2022年10月8日土曜日

2022年10月2日

 2022年10月2日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

 「涙の食事〜裏切る人と共に」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 14:10-25 節


 『現代ウクライナ短編集』(群像社)のなかに、「未亡人」(ワシーリ・ハーボル著)という短編小説があります。村長が若い未亡人のところを訪ねていくと、そこにいたのは自分の息子だったという、なんともなさけない話です。どの国に住んでいる人たちも、色々なさけないことを抱えながら生きているのだと思いました。

 イエスさまは食事の際に、弟子たちが驚くような話を始めます。こうしていま食事をしているあなたたちの中のひとりが、わたしを裏切ろうとしている。弟子たちは驚きます。そして「まさかわたしのことでは」と口々に言い始めます。イエスさまは「いま、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がわたしを裏切るのだ」。そして「わたしを裏切るその人は不幸だ」と言われました。

 「イスカリオテのユダ、あなたがわたしを裏切ろうとしている」と言えば、すっきりして言いような気がするわけです。しかしイエスさまがイスカリオテのユダを名指しで、「イスカリオテのユダ、あなたがわたしを裏切ろうとしている」とは言われませんでした。イスカリオテのユダに対するイエスさまの愛があるわけです。

 最後の晩餐は、涙の食事であるのです。イエスさまは裏切る者とともに食事をされ、そして裏切る者のために嘆かれ、そして裏切る者のために祈られたのです。最後の晩餐は聖餐式のひな形であると言われます。そういう意味では聖餐式というのは、私たちがイエスさまを裏切る者であり、罪深い者であり、いい加減な者であることを思い起こす儀式であるということです。そしてイエスさまを裏切る罪深い私たちが、イエスさまの憐れみの中に生かされていることを、感謝をもって受けとめるということです。

 聖餐に預かるということは、クリスチャンになった特権として聖餐に預かるということではありません。私たちがイエスさまの憐れみの中に生かされているということを受けとめるということです。私たちは依然として、こころもとない者であり、弱くいい加減な者です。神さまの憐れみなしには生きていくことのできない者です。

 しかしそうした私たちは憐れみ、導いてくださる神さまが、私たちにはおられます。神さまの深い愛に感謝して、神さまの民として、新しい一週間の歩みをはじめたいと思います。

2022年10月1日土曜日

2022年9月25日

 2022年9月25日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨

 「初めて手にした十字架」 平松譲二牧師

    ヨハネによる福音書 20:24-29節

◆ 復活の出来事から1週間、ようやくトマスが弟子たちとの交わりを再開したその時に、復活のイエスが現れました。そして、トマスに「あなたの指をここに当てて手をみなさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と語られました。トマスは、復活のイエスとの直接出会った驚きと喜び、また恐れを持って、「私の主、私の神よ」と、思わず叫び、告白したのでした。しかし、トマスを責めることはできません。私たちも実体験としてイエスの十字架と復活を目の当たりにしていません。十字架と復活の出来事を理解しているとしても、そのことをどのように理解し、私たちの信仰につなげていくのかを誰しも悩んだ経験があります。

◆ 今年の夏、妻と二人で南ドイツのオーバーアマガウを訪れました。オーバーアマガウは約400年前から10年に一度、村あげてイエス・キリストの受難劇を開催する人口約5400人の小さな村です。たくさんの村人が役者、オーケストラ、制作などの役割を担いながらこの受難劇にかかわり、約半年間(5月から10月)の受難劇を作り上げていきます。イエスの受難のシーン、まさに弟子の裏切り、イエスの逮捕、真夜中の裁判、ゴルゴタへの道、十字架上の受難などが、聖書の記述に沿った形でとてもリアルに描かれていました。思わず目を背けたくなるシーンもあり、様々な思いと共に約5時間の超大作を鑑賞させていただきました。

◆ この受難劇を通して、やはり私たちの信仰の原点はイエスの受難と復活にあるのだということをあらためて教えられました。現代を生きる私たちは今も、戦争や貧困、病気や疫病などの問題に直面しています。人類はそれらの問題とどのように向き合い続ければよいのでしょうか。その答えは、十字架に向かうイエスの語る言葉にすべて入っているのではないでしょうか。そして、復活のイエスが弟子のトマスに語られた、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者は幸いである。」という言葉に、復活を信じる私たちの信仰の原点があります。

◆ 受難劇を鑑賞させていただいた次の日、劇場のすぐ裏の木彫り職人さん工芸店でこの小さな十字架を購入させていただきました。受難劇で使われた十字架の縮小版を木彫りされたものですが、息を引き取られたイエスが十字架から降ろされた後、イエスが身に付けていた白い布が十字架にかけられたものを再現されています。私自身初めて手にした十字架なのですが、この十字架を見るたびに、キリストの十字架と復活の意味を覚えたいと願っています。


2022年9月30日金曜日

2022年9月18日

 2022年9月18日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨

 「イエスさまは私たちを見ていてくださる」 

              小笠原純牧師

   マルコによる福音書 12:35-44節


 ことしは日中国交正常化50周年の年です。2202年9月29日がその日です。内山完造の『花甲録 日中友好の架け橋』(平凡社)を読んでいました。内山完造は中国の評論家であり小説家である魯迅を、いろいろな面で助けた人です。内山完造は京都教会で洗礼を受けたクリスチャンでした。花甲録という自伝の最後に、内山完造は讃美歌を引用して、自分の歩みを振り返っています。「ほむべきかな主のみなこそ 今日まで旅路を守り給えり」。讃美歌1ー534番の歌詞です。

 神さまが私たちの生涯を守ってくださっている。神さまが私たちに良いものを備えてくださる。私たちが天に召されるときも、神さまが私たちと共にいてくださる。神さまをほめたたえて、私たちは歩んでいく。そういう讃美歌です。いつも私たちを見守り、私たちを祝福してくださる方がおられることを、私たちもこころに留めて歩んでいきたいと思います。

 イエスさまは、救い主がダビデ王のような偉い人から出てくるというような考え方がお嫌いでした。「良い家柄ですね」とか「えらい人がなんとかしてくれるんじゃないか」という考え方が、イエスさまはお嫌いでした。。またイエスさまはえらそうにする人たちのことがお好きではありませんでした。律法学者たちは周りの人たちが、自分たちのことを偉い人として接してくれることを望みました。

 世の中はお金持ちや律法学者たちのように、力のある人たちに目を向けがちです。どれだけ稼いでいるのかを示す長者番付のようなものあったりします。自分の力を誇示するために、律法学者たちのように長い服を着て歩いて回ったりする人たちがいます。上席に誰が座っているか、上座に誰が座っているかというような順位付けが気になるという社会であったりします。力ある人が注目をされるという世の中です。しかしそうした社会の中にあって、イエスさまは貧しいやもめを見ておられました。

 貧しいやもめを見ておられたイエスさまは、私たちのことも見てくださっています。私たちの悲しみや私たちの苦しみ、私たちの小さな努力を、イエスさまは見てくださっています。私たちの小さな良き業を、イエスさまは見てくださっています。私たちはイエスさまのまなざしのなかで生きています。

 神さまのお守りのなか、私たちはすこやかに年を重ねていきたいと思います。


2022年9月16日金曜日

2022年9月11日

 2022年9月11日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

 「轍(わだち)のように」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 12:28-34節

 大漢和辞典を編纂した諸橋轍次の名前の「轍」は「わだち」という意味です。父親の安平は、中国北宋の文豪蘇轍にあやかって、息子の名前を轍次としました。だれも「これはすばらしいわだちですねえ。りっぱなわだちですねえ」と誉める人はいません。しかしいい働きをしています。そのように謙虚な歩みをしてほしいという思いを諸橋轍次の父安平はもっていました。

 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」という律法学者の問いに対して、イエスさまは大切なことは、「神さまを愛すること」、そして「隣人を愛すること」だと言われました。イエスさまは二つの掟が一つだと言われます。イエスさまの時代のファリサイ派や律法学者たちは、どちらかというと一生懸命に神さまを愛していたわけです。そして神さまを愛するがゆえに、人を裁いていました。神さまが与えてくださった律法を守ることができない人間は罪人だから裁かなければならないと思っていました。神さまを愛しすぎると、人を裁きたくなります。いまの世の中でも宗教的な原理主義者は神さまのゆえに人を裁こうとします。しかしイエスさまは罪人を愛され、そして神さまから愛されている人として、その人の隣人になられました。神を愛し、隣人を愛するということは決して切り離すことができないことなのです。

 信じて生きるということは、神さまの前に謙虚な思いになって生きるということです。私たちは自分の名誉であるとか地位であるとか、財産であるとか、この世で生活をしていると、そうしたもののことが気になることがあります。神さまの思いではなく、自分の思いが先に立ってしまうということもあります。自分が誉められたり、たたえられたりすることに気が向いてしまうこともあります。そして神さまの前に謙虚な思いであることを忘れてしまうことがあります。

 復活のイエス・キリストと出会った弟子たちは、イエスさまが歩まれた道を歩み始めます。それはあたかもイエスさまがその生涯を通して作られた「わだち」を歩んでいくかのようでした。イエスさまが残してくださった、神さまへと続くわだちを、弟子たちはそれることなく歩んでいったのでした。イエスさまがつくられたわだちは、地位や名誉に続く道ではありません。それは人から見れば、愚かな道であるかもしれません。しかしその道は、神さまへと向かう確かな道であるのです。私たちもまた、そのわだちを歩んでいきます。人は見てくれていなくても、神さまは見て下さっています。謙虚に自分らしく生きましょう。神さまは私たちの歩みを祝福してくださっています。


2022年9月10日土曜日

2022年9月4日

 2022年9月4日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨

 「なぐらない。」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 12:1-12節

 今年の9月1日は関東大震災が起こってから、99年の年でした。関東大震災のときに、日本で朝鮮人に対する虐殺が行なわれたと言われています。私たちの社会は暴力的な社会なのではないかと思え、怖くなります。いまなお、スポーツや学校という場に、意外に暴力というものが根強く残っているというようなことがあります。

 「ぶどう園と農夫のたとえ」は、どうしようもなく暴力的な話です。キリスト教の中では一般的に次のように解釈がされていました。ぶどう園の主人は神さまです。そしてぶどう園の農夫たちは、イスラエルの指導者たちです。そしてぶどう園に遣わされる僕は、預言者たちです。イスラエルの指導者たちは、神さまから遣わされる預言者たちの言うことを聞かず、をひどい目にあわせたり、また殺してしまったりします。そして最後に送られるのが、ぶどう園の主人の息子、すなわち神さまの御子イエスさまです。しかし神さまの御子であるイエスさまもまた、イスラエルの指導者たちによって殺されてしまいます。イエスさまは十字架につけられて殺されてしまいます。しかし神さまはイスラエルの指導者たちが捨てたイエスさまを隅の親石として用いられます。イエスさまが人々の罪をあがなってくださり、人々は神さまによって赦されるのです。

 イエスさまは暴力的なたとえを話されたわけですが、しかしイエスさまはそうした暴力的な社会の中にあって、暴力的な歩みを越えて、神さまの愛のうちを歩むことの大切さを、私たちに教えてくださいました。イエスさまはそのことをとくに、イエスさまの十字架と復活ということによって、私たちに示してくださいました。人々からののしられ、辱めをうけられ、イエスさまは十字架につけられました。しかしイエスさまは暴力で物事を解決することをなさいませんでした。

 私たちは神さまの愛のうちに生かされています。その愛を受けとめ、私たち自身が暴力的な解決を行なうことから避けて歩んでいきたいと思います。私たちの周りの小さな社会は、世界の有り様に結びついています。私たちが「なぐらない」という思いをもって生きていく時に、私たちの世界も「なぐらない」という社会になっていくのです。イエスさまの愛を知っている者として、愛でもってこの世を治めることを祈りつつ歩んでいきたいと思います。


2022年9月3日土曜日

2022年8月28日

 2022年8月28日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨

 「自分の十字架を背負って」 桜井希牧師

   マルコによる福音書 8:27-35節

 最初の受難予告でイエスは弟子たちに、自分が多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって殺され、三日の後に復活することを告げます。イエスは最後まで支配される人たち、不当な苦しみを受け、無念のうちに死んでいく人たち、言わば殺される側の人々と共に生きる道を選んだのでした。けれども弟子たちは、イエスが逮捕されるや否や、彼を見捨てて逃げ去りました。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったペトロも、大祭司の屋敷の中庭で「この人は、あの人たちの仲間です」と言われた時、彼は繰り返し「そんな人は知らない」と言ってその場から逃げ出しました。その姿は、私自身のこれまでの罪の数々を、どれほど人を裏切り、見殺しにしてきたかをいやおうなく思い出させます。

 受難物語は私たち自身の罪があらわにし、忘れようとしていたその罪を思い起こさせます。その度に私たちは悔い改めへと導かれながら、なおその罪と共に生きていくことが求められているように思います。罪を忘れることは神を忘れることになるのではないか。そうではなく私たちは、自分の弱さを自覚しているからこそ相手の弱さを受け入れることができ、自分が苦しいからこそ相手の苦しみに共感できるのではないでしょうか。罪は忘れるべきものではなく、自分と他者を和解させ、新しい出会いと生き方を示してくれる。これが赦されて生きるということではないかと思うのです。

 イエスはペトロに対する叱責に続けて、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言います。それは「今度はあなたの番なのだ」という励ましの言葉のように、私には思えます。イエスが生きたように、今度はあなたが生きていく番なのだと。そのようにして歩み出す時、自分の罪深さや弱さは相手を思いやる優しさとなり、相手の苦しみを共感する力へと変えられていく。そして、そのように生きることが自分にとって担うことのできる使命だと、私は信じたいのです。たとえその行く先が十字架の死であったとしても、「大丈夫、わたしはここにいる」と言って共に歩むイエスを信じて、これからも生きていきたいと思います。


2022年8月27日土曜日

2022年8月21日

 2022年8月21日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨

 「イエスさまは幼子を抱き上げた」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 10:13-16節

 若井克子さんの『東大教授 若年性アルツハイマーになる』は、若井克子さんの夫の若井晋さんが若年性アルツハイマー病になり、そして天に召されるまでのことについて書かれてあります。若井克子さんと若井晋さんはクリスチャンでした。若井克子さんと若井晋さんは、若井晋さんがアルツハイマー病になったことを、ご自分たちの信仰をよりどころにしながら、その出来事を受けとめていきます。「彼は若年性アルツハイマー病になって、知識を、地位を、職を失った。世間からは「天国から地獄に落ちた」ように見えるかもしれない。だが私には、むしろ、すべて失ったことで「あるがまま」を得て、信仰の、人生の本質に触れたように感じられるのだ。 ーー若井克子」。

 人々はイエスさまのところに、自分たちの子供たちを連れてきました。イエスさまに触れてもらって、神さまからの祝福をいただこうと考えたからでした。しかしイエスさまのお弟子さんたちは、イエスさまのところに子供たちを連れてくる人たちを叱ります。

 私たちの社会は助け合いによって作られている社会です。どんな人も病気になることがありますし、小さなこどもたちは自分の力で生きていくことはできません。小さいこどものときもそうですが、年を取るとやはり自分の力だけで生きていくことはできません。しかしどんなときも、どんな人もみんな、神さまから与えられた命を生きているのです。

 子供たちのように力の弱い人たち、立場の弱い人たちを、邪魔者扱いすることは、神さまの御心に反することだ。神さまの国は子供たちのような力の弱い人たち、立場の弱い人たちのものなのだと、イエスさまは言われました。

 「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と、イエスさまは言われました。あなたたちが見習わなければならないのは子供たちだ。あなたたちはこの世の力を頼りにして、自分の力で生きていると思い込んでいるけれども、それは大きな間違いだ。あなたたちは自分の力で生きているのではなく、神さまから与えられた命を生きているのだ。だから子供たちのように、素直に神さまを信じ、神さまにより頼んで生きていきなさい。神さまはあなたたちのことを愛し、あなたたちのことを守ってくださる。

 イエスさまは子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福されました。イエスさまは私たちをも祝福してくださっています。イエスさまを信じ、私たちの社会が分かち合いの良き社会でありますようにとの祈りをもって歩んでいきたいと思います。


2022年8月19日金曜日

2022年8月14日

 2022年8月14日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨

 「塩を持ち、平和に暮らす」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 9:42-50節

 「カルメン」で有名なプロスペル=メリメは、「マテオ・ファルコーネ」という短編小説を書いています。マテオの息子のフォルトナトはかくまっていたお尋ね者を、曹長の誘惑に負けて売り渡してしまいます。マテオはそのことのゆえに、フォルトナトを殺します。「どこにいるの、あの子は」。「谷のなかだ。これからほうむってやる。あの子はキリスト教徒として死んだ。あの子のためにミサをあげてもらおう」。なかなか衝撃的な話です。

 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」。今日の聖書の箇所は、新約聖書のなかでも、際立ってすごみのある聖書の箇所であると言えるでしょう。「片手があなたをつまずかせるのであれば、片手を切り捨ててしまえ」「片足が悪いことをするのであれば、片足を切り捨ててしまえ」「片目が罪を犯すのであれば、片目をえぐり出せ」「さもないと地獄へ行くぞ」「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」。

 旧約聖書は裁きの神さま、新約聖書は愛の神さま。そんなふうに言われたりもします。イエス・キリストによって救われた私たちは、神さまの憐れみの中にいて、そして神さまの愛に包まれ、守られている。そんなふうに私たちは一般的に考えています。それは確かなことであるわけですけれども、しかし新約聖書のなかにも、今日の聖書の箇所のように、強烈な言葉が記されています。

 私たちは神さまから赦されていると思って、自分自身に対して甘いことをしてしまうことがあります。私たちは信仰生活を送っていて、「いいよ、いいよ」というふうに流されていってしまうことがあります。しかしそれぞれ、折に触れて、自分が自分自身に対して「いいよ、いいよ」になっていないだろうかと、問うてみなければならないのだと思います。

 「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」と、イエスさまは言われました。アジア・太平洋戦争のことを思い出すとき、自分自身の内に塩を持たなければ、平和を造り出すことはできないと思います。クリスチャンとしての高い志を大切にしなさいと、イエスさまは言われます。イエスさまは小さな者、弱い立場にある人たちを大切にしなければならないといわれました。しっかりとした志をもち、そして互いに責め合ったり、傷つけ合ったりするのではなく、思いやりを忘れず、平和に過ごしなさい。イエスさまはそのように、私たちを招いておられます。


2022年8月12日金曜日

2022年8月7日

 2022年8月7日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨

 「神さまの平和が来ますように。」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 9:33-41節

 今日は私たちが属しています日本基督教団が定めた「平和聖日」です。「神さまの平和が来ますように」と祈りを合わせたいと思います。

 イエスさまのお弟子さんたちは、自分たちのなかで一番偉いのはだれかというような話をしたり、イエスさまの弟子でもないのに、弟子のように振る舞う人がいてはだめだ、私たちが正統なイエスさまの弟子なのだというようなことを考えていて、なんとなく高慢になってしまっていました。

 社会学者の岸政彦は『はじめての沖縄』という本のなかで、若いとき沖縄に出会って、自分は「沖縄病」にかかっていたということを記しています。何かに夢中になると、それに取りつかれたようになることがあります。沖縄に行って、沖縄に取りつかれて、沖縄のことばかりを考えているというような感じが、「沖縄病」ということでしょう。わたしは自分自身、ちょっと冷めたところがありますから、そんなに何かに夢中になるということもあまりないので、「沖縄病」というのはうらやましくもあります。ただ「病」とついているし、岸政彦が「そうとう気持ち悪い奴だったと思う」と言っていますから、悪い面もあるわけです。それは「沖縄のことはわたしがよく知っている」「自分は沖縄の人たちの気持ちがわかっている」という過剰な気持ちになることなのだろうと思います。

 イエスさまは自分たちが正統なイエスさまの弟子なのだと高慢になっている弟子たちを諭され、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と言われました。自分はこのことがよくわかっている、自分が正しいのだと思い込むのではなく、こころを開いて、互いに力を合わせるということを考えなさい。大切なことはあなたが正しいということではなくて、困っている人や悩んでいる人が安心できるということなのだと、イエスさまは弟子たちに言われました。

 私たちは、平和を求めつつ対立したり、良き社会になることを求めつつ争っているというようなことをしてしまいます。いつのまにか「平和」さえも、自分をえらく見せるための道具にしてしまい、自分の正しさを主張するようなことになってしまうときがあります。

 謙虚な思いになって、「神さまの平和が来ますように」と祈りたいと思います。自分をえらく見せようとしたり、力でもって人をやりこめようとするようなあり方ではなく、神さまの愛を届けていくことに喜びを感じる生き方ができますようにと祈りたいと思います。


2022年8月6日土曜日

2022年7月31日

 2022年7月31日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

 「信仰の生まれるところ」 山下毅牧師

  マルコによる福音書 9:14-29節

 イエスは3人の弟子を伴って高い山に登られます。そこで復活の姿の片鱗、栄光の姿に変わられ、素晴らしい霊的な時を、弟子たちは過ごします。そして山を下りられました。山の麓には9人の弟子が待っていました。イエスが不在のときに、「てんかん」の病を抱える父親と子が訪ねてきます。弟子たちは病を癒そうとしましたが、癒せません。途方にくれる弟子たち、その周りでは律法学者、群衆がとり囲み騒いでいます。その姿をイエスはご覧になり、「なんと信仰のない時代なのか、いつまであなたがた共にいられようか。あなたがたに我慢しなければならないのか」と述べられます。――しかしイエスが使われた「我慢する」という言葉は、「受け止める」、「寄り添う」とギリシャ語で訳すことが可能です、担ってあげている、耐えている私達に対するイエスの愛は変わらないという言葉でもあるのです。イエスは弟子たち、私達の不信仰を非難しつつも、何とかしして、その不信仰から、「信仰を生み出そう」なさいます。

 イエスに対して父親は「おできになるならば、わたしたち(親子)を憐れんで下さい」と語ります。「できれば」という、父親、私達の信仰生活に、条件を付け、制限を付けてしまう不信仰に対して、「わたしを信じなさい」「信じる者には何でもできる」とイエスは言われます。イエスの信仰の信頼の中に、父親を、私どもを呼び込まれます。

 「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」この信仰の告白は、多くの信仰者が大切にする言葉です。私達は神を信じるものですが、その信仰の不完全な点に目をとめられるならば、全く不信仰な者に等しいのです。しかし神はただ寛容をもって私達をゆるし、不完全な信仰の中にある、わずかばかりの信仰の故に、私達を信ずる者と見なして下さるのです。――自分の中には不信仰しかない自分を助けてくださいと言って、自分を主イエスにすべて預けてしまうのです。信じる確かさを、主イエス・キリストの中だけに置くのです。それが信じることです。

 この後主イエスは、「てんかん」の子を癒されます、その癒しは死んだ人間の状態から甦らせていただく(復活)の徴しでした。 パウロは「てんかん」と思われる病を抱えながら、主の真実のあまりの素晴らしさに感謝しつつ伝道に命をかけました。イエスは深い痛みをかかえつつ、私達を担い、耐えて、世の終わりまで運んでくださいます。「信じます、信仰のない私たちを助けてください。」この信仰の言葉を、私どもの共通のことばとして、日々感謝しつつ歩んで行きたいと思います。


2022年7月29日金曜日

2022年7月24日

 2022年7月24日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

 「はっきりと見える人に」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 8:22-26節

 わたしには大切にしている特別のうちわがあります。それは夏の暑い日に、妻がわたしにくれたうちわです。このうちわは、「絵が飛び出す!!、ステレオグラムうちわ」です。はじめは見えないのですが、やっているうちに見えない絵が、飛び出すような形でみえてきます。

 「見える、見えない」ということだけでなく、「わかった、わからない」ということも、ほんとうはとてもあいまいであったりするのです。自分には物事がすべてわかっているというふうに思えるときがあります。しかし何かの拍子に、今までそう思えていたことが嘘のように、まったく自分が何もわかっていなかったということに気づかされるということがあります。自分にははっきりと見えていたと思えていたのに、それは誤りでありぼんやりとしか見えていなかったということに気づかされるのです。たとえば、いろいろな差別の問題に対して取り組み、長い間そのことを考えて続けていても、差別されている人の言葉にはっとさせられて、今までわかっていたと思っていたのに、実際は何もわかっていなかったということに気づかされるということがあります。

 イエスさまは、はじめ唾をつけ、両手を盲人においていやされました。彼はそれによって、ぼんやりと見えるようになります。そしてイエスさまが、もう一度両手を目に当てられると、今度は「何でもはっきり」見えるようになります。このイエスさまによるいやしは、ひとりの盲人がいやされたという喜びの出来事であると同時に、多くの人々がイエスさまによって、新しくされるということを、比喩的に表わしています。

 イエスさまは弟子たちに、「目があっても見えない。耳があっても聞こえない。覚えていない」(マルコ8章18節)と言われました。私たちも同じようにイエスさまを信じられず、イエスさまから叱られてしまう者です。しかしイエスさまは弟子たちを叱り、くりかえしくりかえし導いてくださったように、私たちを導いてくださいます。私たちはイエスさまに出会ったことによって、必ず私たちはよき方向へ導かれるのです。

 私たちはいま、イエスさまと出会った盲人と同じように、ぼんやりと見えているということであるのかも知れません。はっきりとイエスさまのことがわかっているのではないかも知れません。しかしイエスさまは盲人にもう一度手をおかれ、「はっきりと見えるように」してくださったように、私たちをもイエスさまについて行く者へと、しっかりと導いてくださるのです。




2022年7月22日金曜日

2022年7月17日

 2022年7月17日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨

 「そんなに格好つけなくてもいいよ。」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 8:14-21節

 私たちは自分のことを良く見せたいという思いをもちます。プリクラもそうですし、ファッションなどもそうでしょう。自分の楽しみとか、自分の生活を生き生きするものにするということであれば、自分を良く見せたいという思いも、いい方向に働いていくことだと思います。『ジャパン ファッション クロニクル インサイトガイド』(講談社エディトリアル)という本を読んでいますと、わたし自身はそんなにファッションに興味のある人間ではないですけれども、なんとなく楽しい気がします。自分を生き生きと装っていくことの力強さというものを感じます。

 ただそうした自分自身のなかのことであれば良いですが、それが高じて、自分を良く見せたいがために、人を蔑むような気持ちになってくるのは、やはりよくないことです。ファリサイ派の人々やヘロデ派の人々がおちいった罠というのは、そういうものだと思います。とくにファリサイ派の人たちは、はじめは純粋に神さまのことを思っていたわけです。そして周りの人たちを神さまへと導きたいと思っていました。しかしそうした歩みがいつのまにか高慢な思いへと変わっていき、人を裁くことへと向かっていきました。人は弱いものですから、いろいろな誘惑に負けてしまい、気づかないうちに高慢な歩みになってしまうということです。そうしたことを、イエスさまは「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言葉で、戒められたのでした。

 イエスさまは「五千人に食べ物を与える」「四千人に食べ物を与える」という奇跡をとおして、私たちが神さまにより頼んで生きていくことの大切さを教えてくださいました。自分が格好良くなければならないのではなく、神さまにより頼んで生きることが大切なのだと、イエスさまは言われました。神さまはすべてのことに先立って、私たちを愛してくださっている。私たちがかっこいいから、神さまは私たちを愛してくださるのではありません。私たちがなんでもできる優秀な人であるから、神さまは私たちを愛してくださっているのではありません。神さまはただ、神さまの深い愛のゆえに、私たちを愛してくださっているのです。

 神さまが私たちを愛してくださっている。神さまの哀れみのなかに、私たちは生きている。ありのままのわたしを愛してくださっている。神さまに感謝しつつ、イエスさまに従って歩んでいきましょう。


2022年7月15日金曜日

2022年7月10日

 2022年7月10日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨

 「あきらめない」 堀江有里牧師

   マルコによる福音書 7:24-30節

 信仰生活の出発点である平安教会の礼拝に参加できますことを心より感謝いたします。

 日本基督教団常議員会で男性同性愛者が牧師になることを「簡単に認めるべきではない」という発言がありました。すでに性的少数者の牧師たちはいました。わたしも「レズビアン」であることを表明していましたし、トランスジェンダーであると表明して牧師になった人もいました。しかし、公の問題となったのは1998年だったのです。

 発言に対しては即座に「差別だ」、「撤回するべきだ」という声があがりました。そこで一貫して主張された内容はシンプルでした。「差別は人を殺す」。いくつもの教会で性的マイノリティだと自分を表明した人たちが牧師や長老から責められ、追い詰められ、自ら死を選ばざるをえない状況にあったからです。

 問題とされた男性は牧師になりましたが、「差別」だとの指摘は教団で話し合われることはありませんでした。しかし、そのプロセスで与えられてきたことも少なくはありません。ひとつはキリスト教の世界も少しずつ変わってきていること。「差別はいけない」という合意がつくられてきています。もうひとつは抗議と抵抗の闘いのなかで女性たちのつながりがその後も残されていったこと。担い手はそれまで性差別問題への取組を進めてきた女性たちでした。性的少数者がおもな担い手となった欧米の教会とは大きく異なります。わたしたちは激しく議論になっても、ちがいがあっても、対話を「あきらめない」と決断したからこそ、お互いを支え合っていけたのだと思います。

 今日の物語は幼い娘をもつひとりの女性とイエスの出会いです。この人だったら娘を助けてくれるかもしれないとやってきた女性に対し、イエスの対応はあまりに冷酷です。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」(27)。救いはイスラエルの民だけにもたらされると考えられていた時代、この女性は「対象外」です。しかし、女性は食い下がります。イエスはその言葉に心動かされたようです。「それほど言うなら、よろしい」。つまりは「わかった」ということです。そして娘の不調は癒やされたという物語です。

 この女性は引き下がらなかった。そこに対話の可能性を切り開く回路がみてとれます。一度は拒絶したイエスも応じて自らを省みるのです。「あきらめない」ことの希望を、わたしたちは、この物語から読みとることができるのではないでしょうか。


2022年7月9日土曜日

2022年7月3日

 2022年7月3日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨

 「落ち着いて宣べ伝える」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 6:1-13節

 「レヴィナスの『顔』という概念は、事象としてはこのような、私に道徳的対応を求めるものとしての他者の、対面の場での現出だといって良い。」(佐藤義之『レヴィナス』、講談社学術文庫)というのは、お互いに顔を合わすことによって、お互いに道徳的対応をすることができるということなのでしょう。

 わたしは電話で話しをしたときは、あまりいい印象をもたなかったけれども、会ってみるとふつうに話をすることができたという体験をとおして、いちいち過剰に反応することなく、穏やかな気持ちでいることの大切さを感じました。「あの人はいやな人だ」とすぐに思い込むのではなく、自分が落ち着いて、穏やかに生きていくことの大切さがあるような気がしました。

 イエスさまは弟子たちに、「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」と言われました。弟子たちも誤解を受けることもありますし、不本意な扱いを受けることがあります。しかしそうしたことにいちいち腹を立てるのではなく、もうだめだと思ったら、その地を去りなさいと、イエスさまは言われました。「足の裏の埃を払い落とし」というのは、すこし呪術的な感じがしますが、「あなたたちとはもう何の関係もないよね」ということだと思います。ただそうしたことをあしざまに、直接、言うということではなく、自分たちの意思表示として、たんたんと行なうということです。いろいろな不快な出来事も、それはもうそれは神さまにお委ねするということです。

 いつまでもいつまでも、「あいつのことはぜったいゆるさない」「思い出すだけで、めちゃくちゃ腹が立つ」「あいつのことは、これからも呪い続けていく」というようなことではなく、足の裏の埃を払い落として、「はい、もうこのことは、これで終わり」ということにしなさいと、イエスさまは弟子たちに言われました。いつまでもいつまでも、怒りに振り回されるのではなく、落ち着いて宣べ伝えなさいと、イエスさまは弟子たちに言われたのです。

 イエスさまは私たちに「落ち着いて生きていきなさい」と言われます。健やかな気持ちをもって、神さまの御言葉に従って歩んでいきなさい。神さまはあなたのことを愛してくださり、あなたに良き道を備えてくださいます。怒りに支配されることなく、神さまの愛を感じて歩んできなさい。

 イエスさまの御言葉に従って、健やかな気持ちになって歩んでいきましょう。


2022年7月1日金曜日

2022年6月26日

 2022年6月26日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨

 「やさしさと良識のある社会に」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 5:1-20節

 私たちは誤解とか思い違いに支配されることがあります。そして人を墓場に追いやってしまうというようなことがあります。ある意味、自分も含めて「人って、恐ろしいなあ」と思います。汚れた霊に取りつかれていた人が墓場へと追いやられていたのは、イエスさまの時代ですから、昔々の時代です。ですから「そんなのは昔のことだ」と思いたいところですが、そうでもありません。私たちの時代にあっては、ハンセン病の歴史というのは、ある意味「人を墓場に追いやった」歴史であると思います。ハンセン病が治る病気であることがわかったにもかかわらず、日本はハンセン病患者に対する隔離政策を取り続けました。 

 高山文彦『火花 北条民雄の生涯』(角川文庫)という本があります。北条民雄は『いのちの初夜』という小説を書いています。北条民雄はハンセン病を患いながら、小説を書き、そして二三歳の若さで天に召されました。北条民雄は川端康成に師事し、小説家になります。川端康成は北条民雄から送られてくる原稿に目をとおし、心を配りながら励ましていきます。北条民雄の書いた作品に対してだけでなく、その北条民雄の生活などについても、川端康成は心を配ります。

 汚れた霊に取りつかれた人が家族から離れて墓場に住んでいたように、ハンセン病を患った北条民雄は家族から棄てられ、ハンセン病の施設でその生涯を終えました。北条民雄の父や母は、自分の息子がりっぱな小説を書いていることを人に告げることもできません。ふつうであれば自慢することができるわけですが、ハンセン病のゆえに告げることができないのです。北条民雄の家族には家族の悲しみがあるわけです。自分たちの身内を守るために、息子を棄てざるを得なかったのです。社会全体が汚れた霊に取りつかれているような感じがします。

 北条民雄の生涯や汚れた霊に取りつかれた人のことを思う時に、悪霊にとりつかれたような社会にならないようにしなければと思います。人を墓場に追いやるような社会にならないようにしなければと思います。ときに私たちは「悪霊に取りつかれているのは、だれなのだろう。自分ではないのか」ということを考えてみなければなりません。

 やさしいこころをもって、そしてまた冷静に物事を見定める落ち着きをもって、歩んでいきたいと思います。イエスさまに汚れた霊を追い出してもらった人が、落ち着いて、イエスさまの愛を人々に我慢強く宣べ伝えていったように、私たちも良き社会を求めて、歩んでいきましょう。


2022年6月26日日曜日

2022年6月19日

 2022年6月19日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨

 「予想外の答え」 大林叡貴師

   ヨハネ9:1-3とローマ12:6−8 

 今年の4月に、京都教会の担任教師に就任いたしました、大林叡貴と申します。

 なぜ私がキリスト教徒に、そして牧師になったかお話をさせていただきたいと思います。

 2014年のことだったと思いますが、父が教会へ行ってみてはどうかと勧めてくれました。行ったのは日本基督教団豊橋教会でした。しばらくそこに通わせていただいているときに、教団が出している『心の友』に、今は廃止されてしまいましたが、「今月の説教」というコーナーがあり、ある牧師さんが『ヨハネによる福音書』の第9章1〜3節を取り上げ、「障害をどうとらえるか」と題して説教されておられました。

 私は全盲であり、光覚も全くありません。『ヨハネ福音書』の9章の彼同じく、生まれつきの視覚障碍者です。そこで、「自分が全盲ってどういうことなのだろうか」を問い直すことになったわけです。その答えを出すには、かなりの時間がかかりましたが、最終的には、イエス様がおっしゃっている通り、「神様の業が現れるため」だという結論に至りました。問題だったのは、私に対する神の業とは?というものでした。

 その答えは、『ローマの信徒への手紙』第12章6〜8節にありました。この手紙を書いたパウロという人は、相手先の教会員に対し、「あなた方は何らかの賜物を持っていますから」という言葉で始まる文を書いています。そのあとの個所も含めて、私はこう思ったのです。「神様は、誰にでも賜物をくださったわけだけれども、全盲の私には、見えないからこそのたまものを神様はくれたはずだ。そうであるのならば、私はそれをどう生かすべきか。そう、伝道ではないか。」と。つまり、今日の聖書個所の一つ、『ヨハネによる福音書』第9章1〜3節のうち、3節でイエス様がおっしゃっている言葉を伝えることだというわけです。

 『ヨハネによる福音書』第9章1〜3節は、イエス様が生まれつき目の見えない人に出会われるシーンですが、重要なのが弟子との問答で、弟子は当時のユダヤ教の考えに従って2節のような質問をしたのです。ところが、その考えを全否定する予想外の答えをイエス様は返され、それが3節の言葉です。「この言葉を伝えることを、神様はミッションとされた」と私は確信しております。まさに、2節のような疑問をいまだに持っている人に対して。

 障害のある人の生きる意味は、「神の業が現れるため」と考え、伝道をされた方として、今駒泰成牧師がおられ、私も彼と同じ考えを持っておりますので、引き続きこれについて考え、伝道してまいりたいと思います。


2022年6月18日土曜日

2022年6月12日

 2022 年 6 月 12 日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

 「わたしはだれ。あなたはわたしの愛する子。」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 1:9-11 節

 マリリン・モンロー主演の映画に「お熱いのがお好き」の題名は、イギリス童謡の「マザー・グース」に由来します。「お熱いのが好きな人もいれば 冷たいのが好きな人もいる 中には 9 日前から鍋に残っているのが好きな人もいる」。いろいろな人がいるということが良いことなのだということがあるのでしょう。マリリン・モンローは、「アメリカのセックスシンボル」というように言われ、いまでも

 偶像化されています。しかしマリリン・モンロー自身はいつまでも「アメリカのセックスシンボル」と言われることが嫌だったと言われています。

 私たちはよく人からどのように見られるのかということに、こころを惑わします。そしてできればよく見られたいと思います。自分を押し殺してでも、人からの評価に自分を近づけたいと思ったりします。しかし、あまり人の評価ばかりを気にしていると、いったい自分は何者であるのかということがわからなくなります。自分がどのように生きたいのか、自分は何を大切にしていきていきたいのか。そうした人生における大切な問いを見失ってします。

 「わたしはだれなのか」。人からの評価にさらされ、自分はだめな人間ではないかと沈みがちな、私たちに対して、神さまは言われます。「あなたはわたしの愛す

 る子、わたしの心に適う者」。私たちにとって大切なことは、私たちが神さまから愛されているということです。私たちが何かができることが大切なのではありません。私たちが神さまから愛されているということが大切なのです。私たちが神さまからの愛を受けて生きている、神さまの愛する子であることが大切なのです。

 使徒パウロは、「信仰による義」ということを言い、救いは私たちが何かをすることによって与えられるものではなく、神さまから無償で、神さまの憐れみによって、神さまの愛によって与えられるものだと言いました。使徒パウロは私たちがなにかできることが大切なのではなく、神さまが私たちを愛して下さっているということが大切なのだと言いました。

 「わたしはだれなのか」という問いに対して、私たちは「わたしは神さまの愛する子。神さまの御心に適う者」と答えます。私たちは神さまから愛されている一人一人、かけがえのない神さまの子です。神さまは私たちのことを愛してくださり、「あなたはわたしの愛する子」「あなたはわたしの心に適う者」と、私たちを祝福してくださっています。神さまの愛のうちを、安心して歩んでいきましょう。


2022年6月10日金曜日

2022年6月5日

 2022年6月5日 聖霊降臨節第1主日礼拝説教要旨

 「聖霊に満たされた私たちの歩み」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 3:20-30節

 ペンテコステおめでとうございます。

 一番最初のペンテコステの出来事のときも、聖霊を受けた弟子たちのことをあしざまにいう人たちがいました。「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた」と記されています。

 あざけったり、あしざまに言ったりと、私たちはこころないことをしてしまうときがあります。イエスさまは「国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない」と言われました。内輪もめをして争っていれば、立ち行かず、滅びてしまう。たしかにそうだと思います。正しいことを言っているつもりであっても、だんだんと周りの人々が離れ去ってしまうというようなことがあります。わたしが絶対に正しいと思っていることも、ほかの人からすればそんなに正しいことではないということもよくあることです。だからなんでも譲歩しなさいということではないのですが、ただあざけったり、あしざまに言ったりするのではなく、やはり愛をもって話し合うということを心がけるべきなのだろうと思います。

 今日はペンテコステです。さきほどお読みいたしました聖書のペンテコステの箇所にはこうあります。「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。聖霊に満たされた弟子たちは、自分の国の言葉で話し出したのではなく、ほかの国々の言葉で話し出しました。それは自分の都合ではなく、相手の都合で話すということです。自分勝手に話すということではなく、相手の立場に立って話すということです。

 「あの男は気が変になっている」「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「彼は汚れた霊に取りつかれている」。イエスさまはそのように人々からあしざまに言われました。イエスさまの弟子たちも聖霊を受けたとき、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っている」と人々からあしざまに言われました。そうしたことは、ままあるわけです。聖霊に満たされた私たちの歩みがあると、聖書は私たちに伝えています。それは人のことをあざけったり、人のことをあしざまに言ったりするのではなく、愛を持って話し合うということです。

 聖霊降臨日、ペンテコステの今日、私たちは聖なる霊を受けたのです。私たちには神さまの霊である聖霊が宿っています。神さまの祝福を受けて、愛をもって健やかに歩んでいきましょう。


2022年6月4日土曜日

2022年5月29日

 2022年5月29日 復活節第7主日礼拝説教要旨

 「栄光を表す時」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 17:1-13節

 人の祈りはうまく聞こえます。みんなの前で祈るのは苦手だと思う方がおられると思います。わたしも苦手です。辞典には「祈祷は賜物として神から与えられ、人は祈り得るものとさせられる」とあります。なぜ人の祈りはうまく聞こえるのかと言いますと、本来祈りというものは、神さまから与えられるものだからです。私たちは祈る時に、格好をつける必要はないのです。

 イエスさまは大祭司として、弟子たちのために神さまに対して執り成しの祈りを献げてくださっています。イエスさまは「彼らは、御言葉を守りました」「彼らはあなたのものだからです」というように、弟子たちが神さまのものであることを、一生懸命に神さまに祈っておられます。

 イエス・キリストの歩みを思い起し、イエス・キリストの大祭司の祈りを思うときに、私たちはとても励まされます。神さまのみ旨にしたがってキリスト者として生きていくとき、たとえ私たちの歩みがみじめな歩みであったとしても、私たちは栄光に包まれています。イエス・キリストもこの世から敗北と見える十字架の道を歩まれました。そしてそのイエス・キリストが、私たちのためにとりなしの祈りをささげてくださっているのです。

 格好のいい生き方、ソツのない生き方というものに、私たちはどうしてもあこがれます。わたしもそうです。姿形がかっこよくないのだから、せめて生き方くらいちょっとはかっこよくありたいと思います。「なんで自分はもっとかっこよくふるまうことができないのだろう」。そんな思いがどうしても私たちの心にはわきあがってきます。しかしそれは自分がよく見られたいという自分の栄光のためであって、神さまの栄光とは関係のないことです。

 「もっとかっこよく、もっとそつなく」というような気持ちがすべて悪いということはないと思います。しかし私たちは神さまと向き合うときくらい、そうした思いから解放されて、素直に自分を表わしたのでいいのです。神さまに向き合う祈りのときでさえ、私たちは自分の格好や自分の栄光ということのほうが気になったりします。しかしほんとうに神さまが私たちに求めておられることは、そうした私たち自身の格好の良さではなく、素直な気持ち、素直な祈りなのです。

 イエスさまは神さまの栄光をあらわすために、自分は十字架につかれました。私たちは自分の栄光を求めるのではなく、神さまの栄光があらわれるような生き方へと歩んでいきましょう。


2022年5月26日木曜日

2022年5月22日

 2022年5月22日 復活節第6主日礼拝説教要旨

 「ただ神さまを信じて、願い、祈る。」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 16:12-24節

 ロシアがウクライナに戦争を始めて、世界中の人々がこのことに心を痛めています。ウクライナに平和が来ますようにと、私たちは毎日お祈りをしています。ウクライナだけでなく、世界ではいろいろな迫害や争いがあります。多くの心配事のために、とても不安な気持ちがいたします。

 不安で不安でたまらず、イエスさまにいろいろと聞きたいと思っている弟子たちに対して、イエスさまは「大丈夫だ」と言われます。あなたたちは悲しみを経験するけれども、でもその悲しみは喜びに変わるから大丈夫だ。それは女性の出産のときのように、とても大変なことであるけれども、でも必ず苦しみ、悲しみは喜びに変わる。そしてその喜びを経験したあとは、苦しかったことも思い出すことがない。それくらい大きな喜びがあなたたちには約束されているから安心しなさいと、イエスさまは言われました。

 いまは理解でなくとも、ときが備えられて、理解することができるということがあります。ときが備えられて、良き方向へと導かれるということがあります。

 中国の作家のイーユン・リーの『千年の祈り』(新潮社)を読みました。イーユン・リーは小説を中国語ではなく、英語で書いています。イーユン・リーが育った時代は、中国もいろいろなことがあり、そうした体験と結びつく言語である中国語で表現するということがむつかしく感じるということがあるのでしょうか。しかし書いている内容は中国人の物語です。イーユン・リーはいろいろな経験をして、英語という言葉で、中国人の物語を書くことができたというのは、それはやはりときが備えられたということなのだろうなあと、わたしは思いました。

 イエスさまは「今、あなたがたには理解できない」と言われました。私たちには、いま、理解できないことがあります。しかしイエスさまは「しばらくすると」わかることがあると言われます。神さまの霊である聖霊の導きがある。いろいろな困難やわからないことが、私たちにはあるけれども、しかし私たちを導いてくださる神さまがいてくださり、私たちの悩みや悲しみを、喜びに変えてくださる神さまがおられると、イエスさまは言われました。

 イエスさまは「神さまを信じて、願い、祈りなさい」と言われました。私たちはただ神さまを信じて願い、祈りたいと思います。神さまが私たちに良きものを備えてくださることを信じて祈りたいと思います。


2022年5月19日木曜日

 2022年5月15日 復活節第5主日礼拝説教要旨

 「たゆたえども沈まず」 川江友二牧師

   列王記上 22:1-16節

 子どもも大人も、間違っているかもしれないと感づいていながら、それを止めることもできず、突き進んでしまうことがある。その最たる例が、ウクライナを侵攻するプーチン大統領の姿ではないか。これは良心の問題とも言える。良心は英語で「コンシャンス」。共にという「コン」と科学の「サイエンス」で、「共に知る」との意味がある。プーチン氏の悲劇は、共に知るための、仲間の声、自分自身の奥深くからの問い、そして神からの声を無視している点にある。しかし、そこに私たちに共通する人間の破れ、罪の姿を見る。

 今日の聖書箇所には、そんな人間の弱さをさらけ出したイスラエルの王アハブが登場する。この時、アハブ王と南ユダ王国の王ヨシャファトは領地を取り戻すべく、共同戦線を張ろうと相談していた。2人の王は預言者に神の言葉を求めた。預言者は国王が神の御心に背を向けている時、これを指摘し、正すことが本来の使命である。しかし、国王お抱えの預言者たちは、神の真実の言葉を語ろうとせず、国王が喜びそうなことを選んで語った。その後、預言者ミカヤが登場するのだが、彼が語ったのは、他の預言者たちと同内容だった。「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と。これに対するアハブ王の反応が興味深い。アハブ王は「真実を語っていない」と腹を立てたのだ。彼は自分の間違いと日頃のミカヤの正しさをどこかで理解していたのだろう。だから真実でないことを告げられた事が耐えられなかった。だが、真実を告げられることにも、耐えられなかった。そうしてアハブ王は、神の御心や自らの過ちに気づきながら、その声を振り払うように、戦争を始めてしまう。

 このアハブ王のとった姿勢に私たち自身の姿が浮かび上がってくる。そして、神の御心に背を向けてでも自分の思い通りに生きることを求め、亡びに向かって邁進する今の世界の姿を見る思いがする。

 かつて、この人間の弱さ、罪故に、イエスさまは十字架にかかられた。しかし同時に、終わりへと向かう私たちに対して、かつても今もイエスさまは復活し、共にいてくださる。復活とは、ギリシア語で「~に抗い立ち上がる」と言う意味がある。イエスさまは亡びや終わりへと向かわせる力からあなたを復活させる、立ち上がらせると声をかけてくださっているのだ。その罪の自覚と新しい命へと導かれる過程から、本当の意味での「良心」は生まれてくるのだと思う。

 私たちの目に映る現実には、ウクライナでの惨状をはじめ、良心の欠如、亡びや終わりを感じさせるものが多くある。しかし、その現実に抗い、立ち上がり、私たちのもとを何度でも訪ねてくださる方がいる。この神の赦しに支えられ、私たちは共に神の御心に聴き続けたいと思う。そして、目には見えない主に希望を与えられて、「たゆたえども沈まず」、今の現実に抗して主と共に立ち上がり、キリスト者として今できることを良心をもって、誠実になして生きたいと願う。


2022年5月13日金曜日

2022年5月8日

 2022年5月8日 復活節第4主日礼拝説教要旨

 「エビデンスではなく、愛をもって生きる。」 

               小笠原純牧師

 ヨハネによる福音書 13:31-35節

 わたしはどちらかというと合理的な考えが好きなので、ビジネスライクに物事を考えてしまうところがあります。しかしそれで失敗することも多いです。あまり合理的な考え方をしていると、ときに自分の中に愛がないと思うときがあります。エビデンスとは、「証拠」とか「根拠」ということです。しかしやたらと「ファクトは?」とか「エビデンスは?」と言われると、なんかもっと大切なことがあるのではないかというような気がします。

 内村鑑三は不敬事件」のため、天皇を冒涜したとして追求されます。内村鑑三は、国粋主義者からは拝礼しなかったと言って責められ、キリスト教の人たちからは拝礼したと言って責められるのです。そしてそんななか愛する妻の加寿子が病気のために帰天します。そうしたことで、内村鑑三は信仰的にも、ほとほと疲れ切ってしまっていました。

 そんなとき、加寿子の墓で、内村鑑三は、細き声を聞きます。「一日余は彼の墓に至り、塵を払い花を手向け、最高きものに祈らんとするや、細き声ありー天よりの声か彼の声か余は知らずー余に語って曰く」(内村鑑三『基督信徒の慰』)。「路頭に迷っている老婆は私です。その人に尽くしてあげてください。貧しさのために売春宿に身を置いている少女は私です。その人を救ってあげてください。私のように早く両親を失い、頼る人のいない娘は私です。その人を慰めてあげてください。どうぞ愛と善の業を行ってください」(中島健二『出家』)。

 内村鑑三はほとんど死んだような感じになっていたわけですが、この加寿子の墓の前の出来事によって、生き返ります。加寿子の愛によって、内村鑑三は生き返るのです。「わたしがあなたに尽くしたように、あなたも困っている人のために尽くしてください」。わたしがあなたを愛したように、あなたも困っている人々を愛して、愛と善の業を行なってください。愛をもって生きてください。そのような細き声を、内村鑑三は聞き、そして生き返るのです。

 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と、イエスさまは言われました。私たちはイエスさまの愛の交わりの中に生きています。私たちはときに正義を振りかざし、自分の正しさを証明しようとしたりします。論理的なことや合理的なことは、それはそれでとても大切なことだと思います。しかし同時に、私たちはイエスさまの愛のうちに生きていることを、しっかりと受けとめて歩みたいと思います。


2022年5月5日木曜日

2022年5月1日

 2022 年 5 月 1 日 復活節第3主日礼拝説教要旨

 「イエスさまは私たちを守ってくださる」 

              小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 10:7-18 節

ウクライナの19世紀の詩人に、タラス・シェフチェンコという人がいます。シェフチェンコは良き社会が来ますようにとの祈りをもち、農奴制に反対をして捕らえられました。シェフチェンコは、新約聖書の福音書を読むのが好きだったと言われています。シェフチェンコは、だれに従って生きていくべきなのかということを知っていました。

ヨハネによる福音書において、イエスさまは「わたしは○○である」ということをよく言われます。ヨハネによる福音書 11 章 25 節では【わたしは復活であり、命である】とあります。またヨハネによる福音書 14 章6節では【わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない】とあります。

イエスさまは「わたしは良き羊飼いである」と言われました。イエスさまは羊飼いであり、そして私たちはイエスさまの羊です。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言うように、イエスさまは私たちのことを知っていてくださり、そして私たちもイエスさまのことを知っています。イエスさまが私たちのために、命を捨ててくださった方であることを、私たちは知っています。イエスさまは私たちの罪のために、十字架についてくださいました。私たちはイエスさまの十字架の贖いによって、神さまから罪赦されて生かされています。イエスさまが私たちの罪を担ってくださり、イエスさまが私たちの代わりに、十字架についてくださったのです。

イエスさまは「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言われました。イエスさまは私たちのことを知っていてくださいます。このことが私たちにとってとても大切なことです。私たちにとって大切なことというのは、「私たちが知られている」ということなのです。もちろん私たちがイエスさまのことを、神さまのことを知っているということも大切なことなのです。しかしあえてどちらが大切なのかと言われると、「私たちが知られている」ということが大切なのです。

良き羊飼いがおられます。私たちのことをすべて知っていてくださり、私たちの弱さも、私たちのなさけなさも、私たちのこころの中のとげも、私たちの罪も知っていてくださり、そしてその上でイエスさまは私たちのことを愛してくださっています。良き羊飼いであるイエスさまに導かれて歩みましょう。


2022年4月28日木曜日

2022年4月24日

 2022 年 4 月 24 日 復活節第2主日礼拝説教要旨

 「あなたがたに平和があるように」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 20:19-31 節

 デジタル技術は進歩して、いまはとても簡単に嘘のビデオがつくれる時代になりました。報道されていることを、どうやって嘘かホントかを判断するのかというと、

 極端な言い方をすれば、「個人の倫理が真実を保証する」ということだと思います。言い換えれば、「この人は嘘をつかない」ということです。

 イエスさまは弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われ、互いに信じ合うことのできない弟子たちに、神さまの聖霊を受けて、互いに赦し合いなさいと言われました。人も信じられない。自分も信じられない。互いに傷つけあう世界にあって、赦し合って生きていきなさいと、イエスさまは言われました。そしてイエスさまは「疑うことに支配されるな」と言われました。

 あいつが悪い。こいつが悪い。あいつは嘘をつくに違いない。たしかに人間のすることですから、あいつが悪いとか、こいつが悪いということはあるわけです。そしてあいつが悪いのと同じように、自分も悪かったりします。そして互いに傷つけ合って、世の中は悪意でいっぱいになります。しかしイエスさまは「そうした悪意に支配されるな」と、私たちに言われます。私たちは赦し合って生きていくのだと、イエスさまは言われます。

 イエスさまは「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」と言われます。あなたが、あなたがたが赦せば、その罪は赦されるのだ。まさにこの世から悪意を消すことができるのは、「あなた」「あなたがた」なのだと、イエスさまは言われます。だれかが良い世界にしてくれるのではなく、「あなた」「あなたがた」が赦すことによって、私たちの世界は赦しあいの、神さまの愛で満ちあふれた世界になるのだと、イエスさまは言われました。

 イエスさまは「あなたがたに平和があるように」と言われました。人を愛し、人を信じて生きていきなさい。あなたもそうだが、人は弱く、嘘をついたり、人を傷つけてしまったりすることがある。傷つけられて、とても悲しい気持ちになることもあうだろう。だけど、私たちは赦し合い、そして人を愛し、人を信じて、神さまの平和のなかに生きていこう。そのようにイエスさまは言われました。

 私たちは神さまの平安のうちに行かされています。神さまを信じて、イエスさまに従って歩んでいきましょう。


2022年4月22日金曜日

2022年4月17日

 2022 年 4 月 17 日 復活節第1主日礼拝説教要旨

 「安心だね。よかったね」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 16:1-8 節

 イースター、おめでとうございます。主イエスのご復活を、こころからお祝いいたします。

 小説家の芥川龍之介は「蜜柑」という短編を書いています。この「蜜柑」は、芥川が経験したちょっと恥ずかしい出来事です。自分が尊大になっていたことが明らかにされる出来事でした。しかし芥川はその出来事を書き記しています。

 【婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである】(マルコ16章8節)。この文章は私たちを不安にさせる迫力のある文章です。なんでこんなことを書いているのだろうかと思わせる文章です。そしてそのあとに続く出来事も、イエスさまの復活を信じることができなかったという出来事です。マルコによる福音書は、信じることのできない弱い弟子たちを描いています。それは人間とはそういうものだからです。信じることのできない弱い存在が人間であるのです。

 そのことをマルコによる福音書は隠そうとしませんでした。マグダラのマリアや弟子たちからすれば、恥ずかしい話であり、「ちょっと書かんといてほしい」と思える出来事です。マルコによる福音書は、私たちを不安にさせ、なおかつマグダラのマリアたちや弟子たちにとって恥ずかしい話があえて書き記しています。そしてイエスさまの復活の出来事が、私たちの恐れや不信仰、私たちの愚かさを越えて、私たちに働く神さまの出来事であることを告げています。

 私たちはいろいろなことで恐れたり、不安になったりします。神さまのことが信じられなくなることがあります。悲しい出来事やつらい出来事を前にして、どうしようもなく不安に思えるときもあります。しかしそうした弱さを抱える私たちのところに、イエス・キリストは来てくださり、私たちに「大丈夫だよ。わたしがあなたと共にいるから」「わたしは復活して、あなたのところに帰ってきたから」。そのように、イエスさまは私たちに告げてくださるのです。

 私たちの恐れや不安、私たちの弱さを越えて、イースターの出来事は私たちを平安と希望へと導いてくれます。イエスさまが死に打ち勝って、よみがえってくださった。私たちのところに帰ってきてくださり、私たちに平安と希望を与えてくださった。だから私たちは「安心」なのです。「ああ、よかった」。そのように思えるのです。

 イースター、「安心だね。よかったね」との思いをもちつつ、よみがえられたイエスさまと共に歩んで行きましょう。

2022年4月14日木曜日

2022年4月10日

 2022 年 4 月 10 日 受難節第6主日礼拝説教要旨

 「人に言えない悲しい出来事を越えて」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 14:32-42 節

 今日は棕櫚の主日です。受難週、イエスさまの御苦しみを覚えて過ごしましょう。

 受難週にふさわしい言葉として語られる言葉に、17世紀の哲学者であるブレーズ・パスカルの言葉があります。「イエスは世の終わりまで苦悶されるであろう。そのあいだ、われわれは眠ってはならない」(『パンセ』)。

 イエスさまは十字架につけられる前に、ゲッセマネで祈られました。イエスさまから「目を覚まして祈っていなさい」と言われるわけですが、しかし弟子たちは何度も眠ってしまいます。

 ゲッセマネでの出来事は、イエスさまの弟子たちにとっては、とてもつらい出来事であったと思います。後悔の残る出来事でした。「あのとき、どうして目を覚まして祈ることができなかったのだろう。

 そうした後悔の残る出来事であったと同時に、やはり弟子たちにとっては恥ずかしい出来事であったと思います。もちろん、やろうと思ってもできなかったわけですから、仕方のないことです。しかしのちの人たちは、「どうしてイエスさまが苦しんでおられるのに、弟子たちは眠りこけてしまったんだ。信仰がないからではないか」「ほんとにだらしのない、ろくでもない弟子たちだ」と責め立てるのです。

 「わたしがその場にいたら、イエスさまのために、必死でお祈りしたのに。ほんと、イエスさまがかわいそう」と言うのです。

 そうしたことをわかっていたと思うのですが、弟子たちは自分たちにとって都合の悪い、恥ずかしい出来事を、人々に伝えました。なさけない、欠けの多い私たちだけれども、イエスさまは私たちのことをいつも愛してくださった。愚かなことをしてしまう私たちだったけれども、イエスさまは私たちのことを導いてくださった。イエスさまは深い愛で、いつも私たちを包み込んでくださった。イエスさまの弟子たちは、人に言えない悲しい出来事を越えて、自分の愚かさを受けとめ、悔い改めつつ歩み始めました。

 人は失敗をしたり、恥ずかしいことをしてしまったり、神さまの前に立つことのできないような歩みを繰り返したりすることがあります。「わたしだめな人間だ」「わたしは必要とされていない人間だ」。そのような思いになってしまうようなときも、私たちにはあります。しかし神さまは私たちを愛してくださり、私たちに新しく生きなおす道を備えてくださいます。


2022年4月8日金曜日

2022年4月3日

 2022年4月3日 受難節第5主日礼拝説教要旨

 「あなたの信仰があなたを救った」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 10:32-52節

 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3章6節)。この言葉は、初代のクリスチャンたちの基本的なあり方です。わたしには金や銀はない。でもわたしには持っているものがある。わたしはイエス・キリストを信じる信仰をもっている。そしてこの方により頼んで生きている。ただナザレの人イエス・キリストの名によって、わたしは生きている。そのように使徒ペトロは言いました。

 今日の聖書の箇所は「イエス、三度自分の死と復活を予告する」「ヤコブとヨハネの願い」「盲人バルティマイをいやす」という表題のついた聖書の箇所です。今日は受難節第5週で、来週は棕櫚の主日になります。イエスさまはいよいよ十字架につけられるために、エルサレムにやってこられます。

 今日の聖書の箇所の「イエス、三度自分の死と復活を予告する」の前の聖書の箇所は「金持ちの男」という表題のついた聖書の箇所です。お金では人は救われないのです。そして「ヤコブとヨハネの願い」という表題のついた聖書の箇所は、地位や名誉の話です。ヤコブやヨハネ、イエスさまの弟子たちは地位や名誉を求めました。しかし地位や名誉では人は救われないのです。そしてそのあと「盲人バルティマイをいやす」という話になります。ここでイエスさまは「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。私たちにとって大切なことは信仰であるということです。

 多くのものは過ぎ去っていきます。もちろんお金が大きな働きをしてくれるときもあります。あるいは地位や名誉がとても大切に思えるときもあります。しかしあれほどあのとき大切に思えたものが、いまはそうではないと思えるときがあります。人間が作り出したものは過ぎ去っていきます。そうしたものはいつまでも私たちにとって確かな道しるべとなるわけではありません。

 多くのものは過ぎ去ります。しかし信仰が残るのです。私たちはいずれ神さまのところに帰ってきます。それはだれしもそうです。私たちはみな神さまのところに帰っていくのです。

 私たちの人生を導き、私たちの人生を豊かに祝福してくださるのは、神さまです。神さま私たちの罪を赦し、私たちのために御子イエス・キリストを私たちの世に送ってくださいました。私たちは御子イエス・キリストのゆえに、罪赦されて、平安に生きています。信仰をもって生きていきましょう。神さまの祝福のなか、心平安に歩んでいきましょう。


2022年4月1日金曜日

2022年3月27日

2022年3月27日 受難節第4主日礼拝説教要旨

 「イエスさまだけが一緒におられた」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 9:2-10節

 人は「大きな物語」に心ひかれて行くということがあります。そして「大きな物語」に心を奪われてしまうと、人は真実な出来事を見失ってしまうということがあります。使徒ペトロも「大きな物語」に目を奪われ、真実な出来事を見失いそうになりました。

 イエスさまの山上の変容にまつわる話は、イエスさまの受難と復活とに密接に関係しています。それは復活のあと、はじめてすべてのことが理解できるということです。それまでは隠されているのです。イエスさまが「山上の変容の出来事を復活するまでだれにも話してはいけない」と弟子たちに対して言うのは、イエスさまの復活の出来事がなければ、今日の出来事がだれにも理解することができないということです。イエスさまの受難、死、復活を通して、イエスさまの変容の出来事の意味が明らかにされるということです。しかしそうしたことがわからず、使徒ペトロはこの出来事をみて、まいあがってしまっています。使徒ペトロはイエスさまがエリヤとモーセと話をしておられるのを見て、このときがいつまでも続くようにと願い、仮小屋をたてようというふうに言ったのでした。

 イエスさまの復活の出来事まで、使徒ペトロは輝かしいものにだけ目がいってしまっていました。しかし、イエスさまの復活の出来事を知ることによって、その受難の歩みがじつは自分にとって重要なことであり、そしてそのみじめなイエスさまの受難の歩みこそ、じつはイエスさまが輝いていた歩みであったということに気づかされたのでした。「人の子は苦しみを重ね」。この重ねてくださった苦しみこそ、ひとつひとつが輝きの出来事です。

 なにげない言葉でありますが、マルコによる福音書9章8節の言葉は、なかなか示唆的な言葉であると思います。「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。エリヤもモーセも結局は消えてしまいます。華やかな宴のあと、弟子たちと一緒にいたのは、イエスさまだけでした。

 華やかなときだけでなく、つらいとき、かなしいとき、そして絶望の中にさえ、イエスさまは弟子たちと一緒におられるのです。イエスさまは消えることがないのです。いつも一緒にいてくださる。イエスさまの十字架への歩みは、私たちがどんなに苦しいときであっても、いつもイエスが一緒にいてくださるということを、私たちに告げています。


2022年3月26日土曜日

2022年3月20日

 2022年3月20日 受難節第3主日礼拝説教要旨

 「謙虚にイエスさまに従いたい。」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 8:27-33節

 オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』は、ディストピア小説と言われますが、そこで描かれる世界は苦しみもなく楽しい世界です。ただその社会は人為的に作られています。そこには真実というものがないのです。

 人は自分の真実を守るために戦い、そして苦しみを受けるということがあります。たとえ苦しみをうけたとしても、手放してはならない真実があるのだということがあるわけです。初期のクリスチャンたちは、イエスさまを信じているがゆえに迫害を受け、苦しみました。しかし初期のクリスチャンたちは、たとえ迫害を受けても、真実を手放すことはできないと思っていました。また一方で、人は弱いですから、苦しみを受けることは、どうしても避けたいと思うこともあります。

 イエスさまはご自分が長老、祭司長、律法学者たちによって殺される。いろいろな苦しみを受けることになっている。長老、祭司長、律法学者たちによって殺されるけれども、三日目によみがえることになっていると、弟子たちに言われました。それを聞いたペトロはイエスさまをいさめました。そしてペトロはイエスさまから、「サタン、引き下がれ」と言われます。

 イエスさまのお弟子さんたちは、イエスさまがユダヤのリーダーになって、長老・祭司長・律法学者たちもイエスさまにひれ伏すことになる。イエスさまはメシア・救い主として、ユダヤ社会を収められ、そしてイエスさまの弟子である私たちも、イエスさまを支える者として取り立てられるのだと思っていました。「わたしはみんなから『ペトロさま、ペトロさま』と呼ばれる、ペトロ様になるのだ」と、ペトロは思っていたのです。ペトロだけでなく、イエスさまのお弟子さんたちはみんな、神さまのことではなく、立身出世のような「人間のこと」を思っていたのでした。

 罪深く、悩みの多い私たちのところに、イエスさまは来てくださいました。神さまは弱く崩れ去りそうな私たちのところに、イエスさまを送ってくださり、私たちを慰め、励ましてくださいました。そしてイエスさまは人間のことを思うのではなく、神さまのことを思いなさいと、私たちを招かれました。

 私たちは人間のことではなく、神さまのことを思って生きたいと思います。苦しみやなげきを抱えて生きていく私たちのところに、神さまは御子イエス・キリストを送ってくださったことに、こころを向けて歩みたいと思います。


2022年3月18日金曜日

2022年3月13日

 2022年3月13日 受難節第2主日礼拝説教要旨

 「我らは神と共に働く者なり」 梅田玲奈神学生

   コリントの信徒への手紙Ⅰ   3:7-9節

 昨年の7月より、派遣神学生として平安教会でお世話になっております、梅田玲奈と申します。約9か月という短い期間でしたが、平安教会の皆様にはとてもお世話になりました。子どもの教会を通して、みんなで働くこと、時には子どもたちにも動いてもらいながら物事を進めていくことの楽しさを学びました。

 今日お読みいただきました「コリントの信徒への手紙一」は、パウロがコリントの地に立てられた教会の人々へ宛てたものです。パウロはコリントの人々に福音を宣べ伝え、コリント教会が建てられました。その後、パウロはコリントを発ち、新たな伝道の地へと向かいました。パウロと入れ違うようにしてやって来たのは、聖書に詳しいアポロという人物でした。アポロによって、コリント教会はより大きなものとなりました。しかし教会の内部では、パウロ派やアポロ派のように分裂が起きていました。その対立を聞いたパウロが、「コリントの信徒への手紙一」を書きました。

 私たち人間は、誰が偉いのか、正しいかに心を奪われることがあります。しかし、本当に大切なことは、人間の成長を導く神様を信じて歩むことなのです。ヨハネによる福音書15章5節でイエス様は、“私たち人間がイエス様につながっていることの大切さ”を語っておられます。この言葉は信仰的に強い弟子たちに向けられた言葉ではありません。むしろ、これからイエス様を裏切ることになる弟子たちに向けられました。つまりイエス様は、私たち人間が弱いものであることを承知の上で、それでも「わたし(イエス様)につながっていなさい」と仰っています。

 私たちは、こうして教会に集い、これから一週間を歩むための、福音の糧を報酬として神様から受け取っています。私たちは信仰者として強いものではなく、弱さを抱えた存在です。ですが、それでも神様はここにおられるお一人おひとりを、導き、そしてイエス様と共に歩む者として、用いてくださっています。

 これから、私は横須賀学院中学高等学校という地で、伝道の働きの一端を担わせていただきます。平安教会の皆様とは、物理的な距離がありますが、どこにいてもイエス様に連なる者であり、神のために共に働く者でありたいと思います。


2022年3月10日木曜日

2022年3月6日

 2022年3月6日 受難節第1主日礼拝説教要旨

 「私たちを救ってくださるイエスさま」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 1:12-15節

 スマートフォンを多くの人がもつようになり、ビデオ電話ができるようになりました。しかしビデオ電話はあまり普及しません。音声だけの電話のほうが、人にとってはなんとなく都合が良いからです。音声だけの電話は、「聞いてくれている」ということが前提で、相手が話をしてくれているわけです。ビデオ電話になると、明らかに聞いていない顔の自分が映ってしまうわけです。ひとはいいかげんであるという前提を互いに受け入れ合って、電話は使われています。私たちはみんないろいろな弱さを抱えていきています。いつもいつも真剣勝負をされると、それはちょっとむつかしいことがあるわけです。人はやはり頼りないところがあるわけです。自分勝手であったり、誘惑に陥る弱さがありますし、思わぬことでつまずいてしまうことがあります。「どうしてこんな誘惑に陥ってしまったのだろう」と嘆くことがあります。

 イエスさまが神の国の福音を宣べ伝えるまえに、サタンから誘惑を受けます。それはすべての人がこの世にあって、いろいろな誘惑を受けて、揺れ動きながら生きているからです。神さまの御子としてこの世に来られ、人となられたイエスさまも、私たちと同じように誘惑を受けられるのです。そして誘惑に打ち勝たれます。

 「時は満ち、神の国は近づいた」というイエスさまの言葉は、一般的には、イエスさまが伝道・宣教を始められるときの言葉です。しかしこの聖書の箇所を受難節のときによむときに、この「時は満ち」の時とはいったいいつのことなのかということに、私たちは心を向けて読むのです。それはイエス・キリストが十字架につけられ、私たちの罪をあがなってくださる、その「時」なのです。

 多くの人は弱さを抱えていきています。良き人として生きようと思っても、そのようにし続けることができず、思いやりのない自分勝手なことをしてしまうこともあります。イエスさまがゲッセマネで祈っておられたとき、弟子たちは誘惑に負けて、眠り込んでしまいます。

 そうした弱く、なさけない私たちのために、主イエス・キリストは十字架についてくださいました。私たちの罪をあがない、そして私たちを神さまのもとに連れ帰ってくださいます。イエスさまは私たちを愛してくださり、私たちを救ってくださいます。レント・受難節のとき、自らのこころの弱さをしっかりと見つめながら、歩みたいと思います。そして私たちがどんなに弱くとも、力強い御手でもって、イエスさまが私たちを守り、導いてくださっていることに、こころから感謝をしたいと思います。 


2022年3月5日土曜日

2022年2月27日

 2022年2月27日 降誕節第10主日礼拝説教要旨

 「救ってくださいと、なぜ言えないんだろう。」 

                小笠原純牧師

   マルコによる福音書 4:35-41節


 川上弘美の『センセイの鞄』は、37歳の女性と67歳の男性の恋愛小説です。30歳、年が離れていて、元教師と教え子という設定です。素直に「大好き」と言うことができれば、まあ良いわけですが、なかなかそういうわけにもいかないというようなことが、恋愛には起こってきます。恋愛だけでなく、素直に自分の気持ちを明らかにするということは、いろいろな場面でむつかしいということが出てきます。気恥ずかしかったり、もっと自分のことをわかってほしいと思ったり、口から出てくる言葉が、素直な思いとは違って、相手を非難する言葉として出てくる場合もあります。

 ガリラヤ湖で舟が沈みそうになったときに、弟子たちは「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(マルコ4章38節)と言います。マタイによる福音書8章25節では「主よ、助けてください。おぼれそうです」となっています。わたしはマタイによる福音書で弟子たちが語った「主よ、助けてください」のほうが良いと思います。しかしマルコによる福音書は「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」となっています。「私たちが滅びるのを、あなたは気にならないのか」というような感じです。

 現代の日本人は神仏に頼ることが苦手なだけでなく、人に頼ることも苦手であると言われています。あまりに自己責任が強調されるために、「助けてほしい」という声をあげづらい社会になっています。困っているときに、「助けてください」と言うことのできない社会は、やはりさみしい社会だと思います。

 「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。「先生、助けてください」と素直に言うことのできない弟子たち。そうした私たちの弱さを知りつつ、イエスさまは私たちを助けてくださいます。イエスさまはわたしのように心の狭い方ではないですから、「助けてください」と言うことのできない私たちであっても、イエスさまは大いなる御手でもって、私たちを助けてくださいます。

 私たちは大いなる力のある方の御手のうちを歩んでいます。風や湖さえも従わせることができるイエスさまが私たちと共におられます。素直でもない、つぶやくことも多く、邪な思いをもつ私たちですけれども、私たちを愛し、私たちを救ってくださるイエスさまがおられます。安心して、私たちの救い主イエス・キリストにお委ねして歩んでいきましょう。


2022年2月25日金曜日

2022年2月20日

 2022年2月20日 降誕節第10主日礼拝説教要旨

 「心の中の悪しき思いに戸惑う」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 2:1-12節

 2月14日(月)はバレンタインデーでした。わたしもチョコレートをいただいたりしました。教会というところは、だれにでも分け隔てなく、ちょっとしたものをあげるというようなところがあったなあと思わされました。バレンタインデーのチョコレートということでもないですが、クリスマスの行事にこどもにちょっとしたお菓子を渡してあげるというような感じです。だんだんと世知辛く、さみしい世の中になってきているような感じがするので、こうした誰にでもあまり深く考えることなくやさしくするというようなことは、とても大切なことのように思えます。

 イエスさまは中風を患った人をいやされました。四人の男性たちが中風を患った人を連れてきたのです。彼らは屋根をはがして、床ごとイエスさまのところにつり下ろしました。イエスさまは「その人たちの信仰をみて」、いやしのわざを行われました。その交わりを祝福されたのです。

 「こいつが、イエスさまにいやしてもらえてよかったよね」「ほんと屋根まで上ってたいへんだったけどね」「でもまあよく考えたら、もっと早く来てたらよかったよね」「おまえがいつまでも朝ご飯を食べていたから遅くなったんだよ」「えへへ、そうでした」「てへぺろ(・ω<)」というような交わりがあったのだろうと思います。

 そのあとイエスさまに対して心の中でつぶやく律法学者たちは、彼らのようなやさしい気持ちを忘れ去っていました。律法学者たちは、病気でつらい目にあっていた人がいやされたことを、「よかったね」と思うことよりも、イエスさまが言った「子よ、あなたの罪は赦される」という言葉のことが気になるのです。

 わたしはこの律法学者たちの態度をみるときに、「ああ、わたし自身もこんな感じのことよくあるよなあ」と、いやな気持ちがするのです。自分自身がそうであるからこそ、律法学者たちの態度が気になるのです。そしてその心の冷たさに、自分自身で戸惑うのです。どうしてこんなに冷たい気持ちが、わたしのなかにあるのだろうか。神さまの前に、どうしようもない自分を見いだし、この「死に至る病」から、だれがわたしをいやしてくださるのだろうと思うのです。

 しかしそうしたどうしようもないわたしだけれども、イエスさまはわたしをいやし、救ってくださるのです。イエスさまは私たちの救い主であり、私たちを慰め、私たちを励まし、導いてくださるのです。私たちの救い主イエス・キリストともに、すこやかな歩みをいたしましよう。




2022年2月17日木曜日

2022年2月13日

 2022年2月13日 降誕節第9主日礼拝説教要旨

  「種を蒔く」 横田明典牧師

    マルコによる福音書 4:1-9節

 種を蒔く人の譬えの解説が13節以降にあります。種というのは神の言葉で、落ちた場所とは御言葉を聞く人を取り巻く状況を表していると解説されています。したがって「神様の御言葉に対してサタンや迫害や誘惑に負けずに、御言葉を受け入れるものになろう」というような倫理的な勧めとして、この譬えが説明されています。このためこの箇所を読む人は「自分は良い土地だろうか」、「誘惑に負けて実を結べずにいるのではないか」と自分自身のことを考えさせられることも多いでしょう。

 確かに蒔かれた側の人間の状態を戒めることも大切なことかと思いますが、その前に遡って、種を蒔く側のこと、その種そのものについて考えてみたいと思います。

 この種を蒔く人は、ずいぶん大胆な、いい加減な、効率の悪い種の蒔き方をしています。実りを期待して種を蒔くのですから、良い土地に蒔くべきなのにそうではありません。道端や石だらけの土地や茨の中など、お構いなしに種を蒔いています。何故こんないい加減な蒔き方をしているのでしょうか。

 種を蒔く人、これは神様でありイエス・キリストであり、また弟子たちであったと言えます。私たちがまず感謝したいのは、そういう大胆な種の蒔き方をしてくださる神様だった、ということです。イエス・キリストによって蒔かれる種は土地を選びません。どんな土地であろうと無差別にその種が蒔かれます。ユダヤ教の文献によると、パレスチナ地方の農業では、種を蒔いてからその土地を耕す方法もあったようです。ということは、無差別に蒔かれた種ですが、その土地が後から耕される可能性は十分にあったということです。つまりどんな土地であろうとお構いなしに種を蒔くのは「どんな土地であろうと、その全ての土地で種が芽を出し実を結ぶ可能性がある」ということです。神様は「耕された相応しい良い土地」だけに種を蒔くのではなく「全ての土地が耕され、実り多いものになるように」と、種を蒔いておられます。

 しかもその種は30倍、60倍、100倍にもなる力を持った種です。神様の御言葉はそれほど大きな力を持っているのです。その種の力を信じればどんな土地であろうと、種を蒔くことができるのです。

 もう一つ考えたいのが、この譬えは、種を蒔く側に向けて語られたのではないか、ということです。

 現実の問題として、なかなか伝道や宣教の具体的な成果というものが見えていない状況があったとも考えられます。種を蒔くのは確かに自分たちに与えられた役割ですが、しかし蒔かれた後のことは、神様任せにせざるを得ないのであって、自分たちに責任があるのではない、そのようなことを伝えたかったのではないでしょうか。私たちも神様と同じように、人を選んで種を蒔くのではなく、ただ種を蒔く。それが大切なのだと思います。種の力に信頼して、私たちも大胆に絶えず種蒔く人でありたいと願います。



2022年2月10日木曜日

2022年2月6日

 2022年2月6日 降誕節第8主日礼拝説教要旨

 「主イエスの秘密」 山下毅牧師

   マルコによる福音書 1:40-45節

 ユダヤでは、救い主、メシアこそ、「重い皮膚病」を癒すことが出来る、という言い伝えがありました。そのことが、この話の基本に流れています。

 重い皮膚病を患っている人が、イエスの所へ来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」 この言葉を聞いたとき、イエスは眉をひそめたことでしょう。何故ならこの人の悲惨な身の上を思わざるを得ないのです。重い皮膚病の規定は、レビ記13章、14章です。判定を下すのは、祭司の仕事です。儀式的に汚れているか否かの判定です。宣告を受けた人は、レビ記13章45節にのべられているように、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です」叫んで歩き、宿営の外での暮らしとなります。イエスの顔は苦痛に歪んでいたと思います。41節の御言葉、「深く憐み」、他者への同情のために心が痛められた言葉です。古い写本では、「激しく憤られて」とあります。43節「厳しく注意して」は、馬が荒々しく鼻息をたてるありさまを示す言葉で、イエスの心は激しいものであったことを示します。――ここでのイエスの姿は、人知を超えた愛の姿であり、神の満ちあふれる豊かさのすべてがあります。

 この重い皮膚病患者は、律法の規定にそむいて、イエスに接近して来ました。見つかれば殺害されるかも知れません。イエスはその汚れに触れてはならぬという掟を無視して、ためらうことなく手で触られ、癒されたのです。その男に触れることによってレビ記中の律法に定められた汚れを受けられたのです。

 「行って祭司に体を見せ、モーセが定められたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」とイエスは述べられました。この男を励まし、社会復帰を促されました。

 「彼はそこを立ち去ると、大いなるこの出来事を人々に告げ、言い始めた」。この男は、出て行って「出来事を告げる」のです。「告げる」という言葉は、39節の「宣教し」と訳されている言葉と同じ言葉です。「言い広めた」という言葉も、主イエスが、神の国は来た、神の支配が始まっていると伝道したのです。

 私たちの教会は、この主イエスの暖かい愛、憤りの厳しい力、そして深い痛みを伴う憐みの心を讃えつつ、私どもが聞いた神の御言葉、神の支配を宣べ伝えてやまない、教会でありたいと思います。


2022年2月3日木曜日

2022年1月30日

 2022年1月30日 降誕節第7主日礼拝説教要旨

 「あなたが大事」 一木千鶴子牧師

   ルカによる福音書 19:1−10節

 小学4年生か5年生の頃、「クォヴァディス」という小説を読みました。クリスチャンを激しく迫害したネロ皇帝時代のローマが舞台の小説です。そのような時代にローマの青年貴族が、クリスチャンの女性に恋をする、その恋愛を中心に物語は進みます。今はもう主人公の名前もうろ覚えですが、それでも鮮やかに心に残っている場面があります。それはペトロが激しい迫害の都ローマから逃れてきた旅の途中で、復活のキリストに出会う場面です。ペトロは「クォヴァディス・ドミネ」(主よ、いずこへ)と尋ねます。すると主イエスは「あなたが逃げ出してきたローマへ、もう一度十字架にかけられるために。」と答えられました。それを聞いたペトロは来た道をローマへと帰って行く、そんな場面です。その場面は、中学生になって教会に行くようになってからも、洗礼を受けてからも、ずっと私の心にありました。特に牧師になってからは「クォヴァディス・ドミネ」(主よ、いずこへ)という問いは、私の切実な問いとなりました。

 関西労働者伝道委員会の専従者は、長く日雇い労働者の町釜ヶ崎での支援活動を続けてきました。釜ヶ崎での支援活動は、労働者の「俺たちも人間や」という叫びに呼応して行われています。イエスが、無視され、差別され、疎外されている一人ひとりに出会い「あなたは大事な人」と、神の愛を伝え、その人の人間性を回復してくださったように、この時代の中で「あなたも大事な人」と伝えることは、教会の伝道そのものだと考えています。

 ザアカイは、そんなイエスとの出会いを経験した一人でした。徴税人の頭であったザアカイは、憎いローマの手先であり、裏切り者と思われていました。また不正な取り立てをしていたようです。そんなザアカイが住むエリコの町にイエス一行がやって来られました。一目見ようと多くの人たちが沿道に集まっていました。群衆に遮られて見ることができないザアカイは、いちじく桑の木に登りました。木の上からイエスを見下ろすザアカイ、そんなザアカイにイエスは下から声をかけられました。「ザアカイよ、降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい。」と。喜んでイエスをもてなすザアカイは自ら言いました。「財産の半分を貧しい人たちに寄付します。もし誰かからだましとっていたらそれを4倍にして返します」と。イエスが、一人の人間として向き合ってくださったこと、友だちとして接してくださったこと、それがザアカイにとってどんなに大きな喜びだったか、そのことが、ザアカイの本来の優しさや人間性を引き出したのでしょう。今日、出会う一人ひとりに「あなたが大事」と伝えることができますように。


2022年1月27日木曜日

2022年1月23日

 2022年1月23日 降誕節第6主日礼拝説教要旨

 「力強い方の導きに応えて」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 1:21-28節

 『カッコーの巣の上で』を書いたケン・キージーは、精神病院を舞台に小説を書いているわけですが、当時のアメリカの若者たちは、アメリカが管理社会として自由を失っていくことに対抗する小説として、この小説を読んだのだと言われています。社会がいつのまにか人の自由を制限して、おかしな方向へと流れていくというようなことがあります。それは社会自体が悪霊に取りつかれているような感じです。そして社会が悪霊に取りつかれているような感じになっていることに、そのときは気がつかず、破滅的なことが起こったのちに、あとからそうだったと気づくのです。ナチス・ドイツの時代がそうでした。

 イエスさまが男性から汚れた霊を追い出されたことは、人々にとってはとても驚きであり、こんなことができるのはただの人ではないと思えたことだろうと思います。そしてそれゆえに律法学者のようではなく、権威ある者のようだと思えたというのも、そうだろうと思います。力強い神さまの御子イエスさまとして、人々の心に刻まれた出来事でした。

 力強い神さまの御子としてのイエスさまの働きを、私たちは同じように行うことができるというわけではありません。しかし汚れた霊に取りつかれているような社会を、良き社会へと変えていくということは、私たちにもできることです。病で苦しんでいる人々を、あの人が病に苦しんでいるのは、なにか悪いことをしたからだと責める社会のありようがあります。あの人が貧しいのは、あの人が怠け者だからなのだ。あの人は努力が足りないから、あの人は貧しいのだ。それは自己責任なのだ。しんどい思いをしている人や困っている人に対して、追い討ちをかけるようにひどい言葉をあびせる社会は、汚れた霊に取りつかれている社会のような気がします。そうした暖かみのない社会を、神さまの愛に満ちた社会へと招いていくことは、私たちにもできることです。

 「神の国は近づいた」「御国が来ますように」。イエスさまはそうした思いをもって、権威ある者としてお教えになりました。神さまの愛に満ちた国がやってくる。だから私たちは御国を待ちつつ、神さまの愛にふさわしく歩んでいこう。病気を患っている人に対して、あの人は神さまから罰を受けているのだと言う、やさしさを失ったこころをもつのではない。しんどい思いを感じられる人間らしい歩みをしようよ。神さまはあなたを愛し、あなたをやさしいすてきな人としておつくりになられたのだから、神さまの愛にふさわしく歩んでいこう。

 イエスさまの招きに応えて、やさしい思いになって歩んでいきましょう。



2022年1月22日土曜日

2022年1月16日

 2022年1月16日 降誕節第5主日礼拝説教要旨

 「招いてくださる方がいる幸い」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 1:14-20節

 ジブリの映画にもなりました、角野栄子の「魔女の宅急便」は、主人公の魔女であるキキが住む街を決める話から始まります。自分の住むところを自分で決める。わたし自身はそうしたことがありませんでした。わたしは牧師という仕事につきましたので、赴任した教会に住むことになります。牧師は招かれてその教会に赴任します。辞令が出て「ここに行きなさい」ということではなく、招いてくださる方々がおられるところに行くということの喜びがあるような気がします。それは住む街を自分で決めるのとは、また違った喜びのある歩みだと思います。

 四人の漁師を弟子にする」という、イエスさまの弟子選びの話の基本は、「イエスさまは招き、弟子たちは応える」ということです。弟子たちが、わたしはあなたの弟子にふさわしいから、あなたの弟子になると言ったわけではありません。イエスさまが弟子たちを招かれ、そして弟子たちはその招きに応えたのです。

 わたしはここに、「招かれている幸い」ということがあると思います。就職活動をしている学生が落ち込むメールに、「お祈りメール」というのがあります。不採用通知を知らせるメールのことです。最後に「心よりお祈り申し上げております」とあるので、「お祈りメール」と言われます。お祈りされているけど、招かれてはいないわけです。入試の合格不合格電報も「サクラサク」「サクラチル」とかありました。世の中は、合格不合格というようなことが多いわけです。

 しかしイエスさまは弟子たちを招かれました。イエスさまは「お前は要らない」と言われませんでした。イエスさまはすべての人を招かれます。イエスさまの弟子である12弟子には、イスカリオテのユダがいます。イスカリオテのユダは、イエスさまを裏切って、ユダヤの指導者たちに引き渡し、イエスさまは十字架につけられることになります。しかしイエスさまは自分を裏切ることになるイスカリオテのユダを招かれ、自分の弟子としたのです。イエスさまは罪人と言われ、人々から嫌われている人たちを招かれました。イエスさまは罪人を招き、一人一人が神さまの愛のうちにあることを伝え、祝福をされたのでした。

 弟子たちを招かれたイエスさまは、私たちひとりひとりを同じように招いておられます。「あなたは大切な神さまの子なのだ」「神さまあなたのことを愛しておられる」「わたしについて来なさい」。イエスさまの招きに応えて、神さまの愛のうちを歩んでいきましょう。



2022年1月13日木曜日

2022年1月9日

 2022年1月9日 降誕節第4主日礼拝説教要旨

 「あなたはわたしの愛する子」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 1:9−11節

 わたしがクリスチャンになったのは、まだ18歳の青年でした。クリスチャンになるということに、ある種の気負いがあったように思います。「りっぱなクリスチャンにならないといけない」。しかしいまはそうした気負いというものがなくなって、いい意味で、ただのクリスチャンという気がします。わたしはとくに敬虔なクリスチャンになることもできませんでした。でもわたしはクリスチャンになってほんとうによかったと思います。わたしはクリスチャンになって、神さまに委ねて生きるということの確かさを味わうことができました。たぶん自分を頼りにして生きていたら、わたしは大変だっただろうと思います。困難にぶつかった時、わたしは人生を投げ出してしまったかも知れません。しかしわたしは幸いなことにクリスチャンだったので、神さまにお委ねして生きるということを心においています。わたしはとても幸いだと思います。

 W.H.ウィリモンというアメリカの神学者は、『洗礼 新しいいのちへ』(日本キリスト教団出版局)という本の中で、洗礼についてこう記しています。「キリスト者は、洗礼を通して、しかも最終的に、自分が誰であるのかを学ぶのです。洗礼は、アイデンティティを与える式です。洗礼は、あなたが誰であるのかということについて、論じるのではなく断言し、説明するのではなく宣言し、要求するのではなく断定し、ほのめかすのではなく行為によって明らかにし、描き出すのではなくそのように生きよと働きかけます」(P.35)。

 神さまはイエスさまに語られたのと同じように、私たちに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と語りかけてくださっています。私たちはりっぱであるわけでもありません。どちらかと言えば、崩れ折れてしまうような弱さを抱えて生きています。もちろんできれば良き人でありたいと思います。りっぱな人でありたいと思います。しかし弱さを持ち、どうしたらいいのかわからない不安を抱えるときもあります。到底、神さまの御心に適う者として生きているとは思えません。しかしそれでも、私たちは神さまにとって、「わたしの愛する子」なのです。私たちがどんな者であったとしても、神さまにとって私たちは「愛する子」なのです。私たちは愛の神によって、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という恵みの中に入れられています。

 神さまは「さあ、わたしと共に歩もう。わたしの愛する子よ」と、私たちを招いてくださっています。2022年の歩みが、あなたの人生にとって新しい歩みとなりますようにとお祈りしています。


2022年1月7日金曜日

2022年1月2日

 2022年1月2日 降誕節第3主日礼拝説教要旨

 「神と人とに愛されて」 小笠原純牧師

   ルカによる福音書 2:41−52節

 クリスマス、イエスさまをお迎えして、新しい年の歩みを始めました。

 佐高信さんの『日本国憲法の逆襲』(岩波書店)には、佐高信さんと、落合恵子さんの対談がのっています。落合恵子さんは「むすんでひらいて」が大切だといっています。【落合「私たち、より声の小さいほうにいる側は、「どれだけ手を柔らかく握り合うことができるか」が大切ですよね。ギュッと強く握り合い、自由に動けなくなるのは、いま声の大きい側の人たちがやっている。そうではなく、「むすんでひらいて」ができるような柔らかさをもって個人としてどれだけつながっていけるかが問われているような気がします」】。

 ルカによる福音書2章52節の【イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された】という言葉を聞くと、なんかとってもほっとします。イエスさまは神の子として、神さまから祝福され、そして人々に愛されて育たれたのでした。このイエスさまが迷子になられたという話も、マリアやヨセフたちはあわてたでしょうが、なんかとってもあたたかみのある話です。

 しかしまたほっとするのと同時に、私たちはこれからのイエスさまの歩みに思いをはせます。イエスさまは「小さくても神の子」です。イエスさまは神の子としての歩みをなさいます。「神と人とに愛される」というのは、とても意味深長な言葉だと思います。イエスさまは神さまから愛されていました。しかし神さまは私たちの罪のために、イエスさまを十字架につけられたのです。そして神の子として歩み始められたイエスさまを、はじめこそ人々は歓迎したわけですが、人々はののしりながら、イエスさまを十字架につけたのでした。

 私たちはイエスさまによって、自らの罪をあがなっていただき、罪をあがなわれた者として生きています。罪をあがなわれた者として生きるということは、人を信頼して生きていくということだと思います。もちろん人は罪人の集まりですから、裏切られることもあるかも知れません。しかし同じ罪人として、それでも信頼して生きていくということなのです。

 私たちは「むすんでひらいて」生きていくことが大切だと思うのです。凝り固まって人を裁いたり、ぎゅっと手をにぎって自分の方に引っぱっていくのではない。私たちが手を開いても、神さまはいつもその人と共にいてくださいます。神さまのお守りのうちに、新しい年も健やかに歩んでいきましょう。


2021年12月26日

 2021年12月26日 降誕節第2主日礼拝説教要旨

 「喜びの中のクリスマス」 山下毅牧師

  マタイによる福音書 2:1-12節

 私の信仰の友である牧師さんから、年末にお手紙を頂きました。それは「クリスマスのお祝い」、「年賀状」、「喪中につきの挨拶」という内容でした。日本の習慣では、年賀状を控えるという習慣が未だ残っていますが、そのような習慣を乗り越えて、自分は進むという内容でした。「自分は愛する兄が亡くなって悲しいけれども、その悲しみを強い力で喜びに変える力が、クリスマスにはある、私はいつでもクリスマスの喜びの中に立ち得る、そういうものがクリスマスではないか」と記されていました。――本当に教えられるものがあります。

 マタイ2章1-12節の聖書箇所は本当に喜びの少ないところです。10節に「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と記されているこの箇所だけが喜びがあるのです。しかも、マタイ2章全体は「殺意」、「恐れ」、「悲しみ」に満ちています。しかも、「喜びにあふれた」のは、ユダヤの民にとっては、捕囚の地バビロンから来た、禁じられている占いを業とする、占星術の学者達でした。異邦人でした。--ユダヤの民は、ベツレヘムで救い主の御子が、旧約聖書「ミカ」の預言で生まれることを知っていながら、誰も会いに行きませんでした。――ここに考えさせるものが有ります。私たちは本当にクリスマスを心から喜んでいるでしょうか。喜んでいても薄っぺらな喜びであるのではないでしょうか。――神は、星占い自体は間違っており、学者たちが異邦人であることも承知しておられました。三人の学者をお立てになりました。これは神のなさることです。――学者達は、星を頼りに、険しい道のりを旅して来たのです。分からなくても尋ねたのです。そして彼らの求道の旅に、神が答えて下さったのです。「東方で見た星が、先立って進み、ついに幼子のいる場所で止まった」のです。本当の王がおられることを、星がついに指し示すことが現実となったのです。学者達は、自分らが大切にしていたささげ物をささげました。――救い主は人間の罪の墓に生まれ、墓に葬られましたが、三日目に墓の内からよみがえられました。私たちの立つ位置は神から遠いように思う思いは私たちの思いです。――しかしその遠さは、神にとっては、ものの数ではありません。神ご自身が私どもに近づいてくださるのです。どんな自分の不信仰に逆らっても、「されど」、「神は私たちの父」と叫ぶことのできるのです、クリスマスの喜びの歌声が生まれるのです。