2022年11月25日金曜日

2022年11月20日

 2022年11月20日 降誕前第5主日礼拝説教要旨

 「なんで、私が天国に」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 23:35-43節

 地下鉄にのっていますと、予備校の案内を見ることがあります。「なんで、私が東大に!?」「なんで、私が京大に!?」「なんで、私が医学部に!?」というキャッチコピーに多くの人が魅かれていきます。しかし私たちはそろそろ、そうしたこの世でのことだけでなく、「なんで、私が天国に!?」ということに関心を寄せたほうが良いのではないかと思います。

 イエスさまは十字架につけられます。ユダヤの議員たちも兵士たちも、一緒に十字架につけられた強盗のひとりも、イエスさまをあざけります。しかしもう一人の強盗は悔い改め、イエスさまに「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。

 最後の最後に、悔い改めることができた強盗は幸せであると思います。人はなかなか悔い改めたり、自分のことが悪かったと認めることはできません。ですから悔い改めることのできた強盗はとても幸せだと思います。人はなかなか悔い改めることができないですし、わたし自身もそうですから、悔い改めなかったほうの強盗を、「あいつはだめなやつだ。あいつはおろかな奴だ」と言うことも、わたしにはできません。ただ最後に悔い改めることができた強盗は幸せだと思います。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、イエスさまに言っていただけるなんて、とても幸せだと思います。

 この悔い改めた強盗の気持ちを表す言葉が今日の説教題であります、「なんで、私が天国に!?」ということです。強盗であるわたしが天国にいるなんて信じられない。「なんで、私が天国に!?」。

 神さまの憐れみによって人は救われるのです。その人がりっぱな行ないをしたから救われるのではありません。ですから人はみな、「なんで、私が天国に」という思いをもって、天国に行くのです。

 今日は収穫感謝日です。収穫の実りも恵みとして与えられています。私たちが住んでいる地球では、農作物が育つ土地があり、適度な気温があり、さまざまな条件が合って、作物は実りをもたらします。それら神さまが備えてくださっているものです。私たちは神さまからの多くの恵みを受けて生きています。

 私たちが生きていることも、また私たちが天に召されることも、神さまの御手のうちにあります。神さまは私たちに多くの祝福を備えてくださり、そして私たちの歩みを守り導いてくださっています。神さまにお委ねし、安心して歩んでいきましょう。


2022年11月18日金曜日

2022年11月13日

 2022年11月13日 降誕前第6主日礼拝説教要旨

 「イエスは生きておられる」 古郝荘八牧師

   ローマの信徒への手紙 5:12-21節

 11月13日の説教題は「キリストとアダム」でしたが、この説教要旨では「イエスは生きておられる」にさせていただきました。実際にした説教にはあまりとらわれずに書かせていただきます。わたしは、長い間、創世記第3章の記事に取り組んできました。ドストエフスキーによって、目を向けさせられたのです。わたしは、長い間、「アダムのせいで、世の中が悪くなった」だと考えて悲観的になっていました。「アダムのせいで」と書きましたが、わたしは、特にアダムが歴史上の実在の人間かどうかについては、関心を持ったことはありません。むしろ、自分が生きている時代の中で、罪を犯しつつ生きている人類、その中にわたしも含まれているのですが、その人類の祖としてのアダムの堕罪の記事が関心の対象になっていたのでした。しかし、やがて、わたしの関心の中心は、イエス・キリストに移り、イエス・キリストを神の子と信じて、29歳の時に受洗しました。その後、牧師になったのですが、ローマ人の手紙5章12節から21節のところが、牧師生活最後の1年ぐらい前から気になり始め、そこから説教したいと思いつつ、できないで終わりました。それで、平安教会の説教のテキストとさせていただきました。

 まず特に、強調しつつ言いたいのですが、パウロが、ここで「キリスト」と書いた時、パウロは、復活したキリストが自分にも現れてくださった、という経験を後にしていました。十字架につけられて死なれたキリストは三日目に復活され、パウロにも姿を現してくださったのです。ですから、この手紙を書いた時、パウロはもちろん、イエス・キリストは今も活きておられ、もはや死なれることのない方だと思いつつ書いているのです。そして、今もイエスは生きておられます。さて、パウロは、復活したキリストに会うことをゆるされたのですが、アダムに会ったことはないというのは言うまでもないでしょう。しかし、パウロは、自分がアダムの末裔であり、自分が「古い人」「罪人」であることを知っていました。罪人であることは、やがて死ななければならない者であるということですが、パウロは、自分に現れたイエス・キリストは、全人類の罪を背負って死なれたことを知ることになりました。「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(21節)


2022年11月10日木曜日

2022年11月6日

 2022年11月6日 降誕前第7主日礼拝説教要旨

 「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」 小笠原純牧師

   ルカによる福音書 3:1-14節

 洗礼者ヨハネはなかなか恐ろしい言葉で、人々に悔い改めを呼びかけます。悔い改めて洗礼を受けようと思っている人々に対して、洗礼者ヨハネは「洗礼を受けることで、神さまの怒りを免れるというようなことを考えてはいけない」と言いました。そんな簡単なことではない。しっかりと悔い改めるのでなければ、それは悔い改めにはならない。悔い改めにふさわしく、神さまの御心にそって生きるということをしなければならない。斧はもう木の根元に置かれていて、悔い改めてしっかりと生き直さない人たちは、切り倒されて、地獄の火に投げ込まれてしまう。

 それを聞いた群衆は、「私たちはどうしたらよいのですか」と素直に洗礼者ヨハネにたずねました。洗礼者ヨハネはとても具体的にこうしたら良いよということを答えます。洗礼者ヨハネは群衆たちにできないことをしなさいと言ったわけではありません。できることを言っています。とくに徴税人や兵士に対してはそうです。規定以上のものを取り立てたり、金をゆすったりすることは、それはいけないことです。しかしそうしたことが世の中に蔓延し、悪いことではあるけれども、みんな「まあいいか」というふうになっていたということです。

 倫理的でない社会は、どんどんと貧しくなっていきます。倫理的でない社会は、滅んでいきます。人が倫理的でないのを見ていると、だんだんと自分も倫理的でなくて良いのではないかと思い始めます。洗礼者ヨハネの時代もそうしたことがあったと思います。「規定以上のものを取り立てている」徴税人をみて、「おれもしようかなあ」と思った徴税人がいただろうと思います。「金をゆすり取ったり」する兵士をみて、「おれもしようかなあ」と思った兵士がいただろうと思います。しかしそうした世の中にあって、洗礼者ヨハネは人々に、神さまの御心にかなうように、「倫理的に生きていこう」と呼びかけたのでした。

 【人は皆、神の救いを仰ぎ見る】。人はそんなふうにつくられているのだ。自分勝手な思いに引きずられてしまうような気がするときもあるけれども、しかし思い直して、神さまの救いを仰ぎ見ながら、みんなで歩んでいく。あなたが望んでいるような神さまの国が必ずくるから、あなたの思いにかなったすてきな世の中に必ずなるから。そのように洗礼者ヨハネは人々に呼びかけました。

 私たちも神さまの救いを仰ぎ見る歩みでありたいと思います。希望を持って、神さまの愛を信じて、歩んでいきましょう。


2022年11月5日土曜日

2022年10月30日

 2022 年 10 月 30 日 降誕前第8主日礼拝説教要旨

 「神を知る道」 山下毅牧師

   マタイによる福音書 4:1-11 節

 この荒野の誘惑の物語は、ロシアの作家ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』という作品の「大審問官」という箇所で取り上げています。イエス・キリストを試みた悪魔は、実は私どもではないか、と問うているのです。ここにおける中心問題は、私どもが救われるというのはどういうことかという問題です。

 第一の誘惑において、神が本当の神ならば、石をパンに変えることぐらいあたりまえではないか。私たちが、不幸にぶつかるたび、悲しみにぶつかるたび、神に文句を言ったことはないでしょうか。イエスは『人はパンだけで生きるのではない、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。』と述べられます。

 第二の誘惑において、「悪魔はイエスの宮の頂上に立たせて言った。神の子なら飛び下りたらどうだ。天使たちが来て捕らえてくれる」と詩編91編を引用しつつ、試みます。この主を試みる出来事は、出エジプト17章1節以下の故事に由来します。エジプトから導き出されたイスラエルの民は、飢えと、渇きにとまどい信仰を失います。神が生きておられるかどうかわからない状況であったのです。現在の私たちもどんようにしばしばそのような状況に追い込まれるでしょうか――そのとき申命記6章16節の言葉を述べられます『あなたの神である主を試みてはならない。』大切なことは、神を信頼しきることです。従い続けることです。その時道は開けます。

 第三の誘惑において、悪魔はこの世の栄華を見せ、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これを皆与えよう」と言った。イエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主にのみ仕えよ』」と述べられます。ただ主なる神を礼拝し続けることが大切です。

 ルターは「悪魔の正体は何でしょうか。人間だった。悪魔を呼び出すのは、人間の罪だ」と述べています。

 荒野の誘惑の物語で、イエスは奇蹟(しるし)を拒否なさいました。マタイによる福音書12章38節で、律法学者、パリサイ人はイエスに奇蹟(しるし)を求めます。しかし、イエスは「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう」と述べられます。主はむしろ墜落する道を選ばれ、三日三晩地の中に横たわるという道、十字架において犯罪者として殺される道を選ばれます。ヨハネによる福音書3章16節「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それはみ子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」死のどん底から、神さまはイエスを甦らせるみちをお開きになりました。それが<愛のしるし>だからです。

 復活されたイエスは、私たちと共に在って、共に歩んでくださいます。

 4年前に亡くなられた、信仰の友、浜野一也さんも主が共にいます、豊かな生涯を全うされました。