tag:blogger.com,1999:blog-48438609736709257572024-03-25T08:32:14.099+09:00 平安教会 説教アーカイブ 毎週の説教要旨を掲示しております。heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.comBlogger417125tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-58110367387184485132024-03-23T11:34:00.006+09:002024-03-23T11:34:47.872+09:002024年3月17日<p> 2024年3月17日 受難節第5主日礼拝説教要旨</p><p>「一粒の麦」 森田喜基牧師</p><p> ヨハネによる福音書 12:20-26節</p><p> 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。」イエスがなぜこのタイミングでこれを語られたのでしょうか。エルサレム入城で大歓迎を受け、フィリポとアンデレにギリシア人たちがイエスに会いたいので仲介してほしいと頼んできた時、彼はどれほど嬉しく、また誇らしかったでしょうか。ところがイエスは彼らの喜びや大きく膨らんだ期待を一蹴するかの如く、語り始めたのです。それがこの一節です。通常「一粒の麦」が「死んで」芽が出たとは言わず、「芽を出した」と言うでしょう。しかしイエスは、あえて「死」という言葉を用いて、ご自身の十字架の上の死を重ねて語られました。ここで「一粒の麦」が語られた理由は、これから歩まれる十字架への道が、弟子たちの抱く期待、人々の歓声とは全く違う方向に向かうものだったからです。多くの人々がイエスを歓迎し、期待する時、弟子たちはその人々の期待をイエスが裏切らないように望みました。イエスが弟子の足を洗われた際、ペトロは「私の足など決して洗わないでください。」と人々に仕える模範を示されたイエスを拒みました。ヨハネ福音書4章には、イエスとサマリアの女との交流が描かれますが、この女性との関わりは、ユダヤ人からは受け入れがたいものでした。イエスの歩みは、人々の期待に必ずしも沿うものではなく、むしろ受け入れがたい方向へと進み、皆から歓迎され、尊敬される立場に執着し、留まることをされませんでした。それが正に十字架への道であり、そのお苦しみの中で、イエスは皆から拒絶され、その結果、孤独の中に生きる人々と寄り添われたのです。ここに希望があります。25節「自分の命を愛する者は、それを失う」とは、自分の大事にしているものを手放さず、執着する生き方であり、神に支えられて生きよというメッセージに、自分を委ねることのない生き方です。26節「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」十字架へと歩まれたイエスの生き様に学びつつ、私たちが今、誰と出会い、誰と共に生きることが、真の命、永遠の命に生きることなのか、改めてこの受難節に自らの歩みを見つめたいと思います。そしてまた私たちがどんなに挫折し、苦悩することがあっても、一粒の麦として十字架の道を歩まれ、そして復活されたイエス・キリストが、私たちの前を十字架を背負って歩んでおられ、共にいてくださることに、全てを委ねて歩んでまいりましょう。に出会う歩みへと招かれたい。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-56534748681178321432024-03-15T20:00:00.006+09:002024-03-15T20:00:52.030+09:00 2024年3月10日<p> 2024年3月10日 受難節第4主日礼拝説教要旨</p><p>「わたしもイエスさまに香油を塗りたかった」 小笠原純牧師</p><p> ヨハネによる福音書 12:1-8節</p><p> 歴史学者である中島岳志は、『「利他」とは何か』という本のなかで、近代・現代社会は人間の意志によってすべての行為が行われているということが強調されすぎていると言います。しかし私の意志とは思えないような思いに駆られて、このことをしたいと思うということがあるわけです。「ヒンディー語では、「私はうれしい」というのは、「私にうれしさがやってきてとどまっている」という言い方をします。」・・・。「私はあなたを愛している」というのも、「私にあなたへの愛がやってきてとどまっている」。私が合理的にあなたを解析して好きになったのではなく、どうしようもない「愛」というものが私にやってきた」。</p><p> マリアが香油をイエスさまの足にぬったのをみて、イスカリオテのユダがマリアを叱ります。人の家のお金に使い方について、どうこういうというのは、現代であれば控えるべきことであるような気もします。しかしイスカリオテのユダの言った「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」という言葉も、そんなにおかしなことでもないような気がします。合理的な正しい意見のような気がします。</p><p> しかし正しい意見であるからこそ、そこに愛がないことに配慮をしなければならないのだと思います。イスカリオテのユダの言ったことは、正しいけれども、愛がないのです。そしてまた先のことは、私たちにはわからないのです。イエスさまが十字架につけられたあと、みんなあとから思ったのです。「ああ、あのとき、マリアがイエスさまの足に香油を塗ってさしあげて、葬りの備えをしてあげることができて、ほんとによかったよね」。そのようにみんなあとから思ったのです。「わたしもイエスさまに香油をぬってさしあげたかった」とみんな思ったのです。「合理的に考えるとなんかちょっと変だよねと思えることだったし、イスカリオテのユダがそのことをはっきりと口に出して、マリアを叱ったけど、でもなんかマリアは何かに突き動かされるように、イエスさまの足に香油を注いだんだよね。いまから考えると、あのとき、マリアがイエスさまに香油を塗って差し上げて、ほんとによかったよね。神さまの導きとしか思えないね。聖霊の働きだよね」。</p><p> 私たちもまたイエスさまに仕えるマリアであるのです。イエスさまのために良いものをおささげしたいという思いをもっています。自分の思いとも思えないほど、きれいな思いが私たちのこころのなかにあるのです。神さまが私たちにくださる愛による思いなのです。神さま、どうか私たちを、あなたの良きことのために用いてくださいと祈りつつ、このレント・受難節のときを過ごしたいと思います。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-47347699407381247022024-03-15T20:00:00.000+09:002024-03-15T20:00:01.191+09:00 2024年3月3日<p> 2024年3月3日 受難節第3主日礼拝説教要旨</p><p>「人は去っても、われらは信ずる」 小笠原純牧師</p><p> ヨハネによる福音書 6:60-71節</p><p> 私たちの教会が属しています日本基督教団は、1941年6月24日に30数教派の教会の合同によってできました。アジア・太平洋戦争の時代です。日本基督教団は国家による宗教団体管理の流れのなかで、国家によって合同させられたという面があります。ナチス・ドイツまたもドイツの教会を国家の管理下に置こうとしました。そうしたなかでこうした国家主義的な教会の動きに反対する告白教会と言われるグループが出てきます。告白教会の人々は迫害にさらされながらも、ナチス政府を批判し、神さまの言葉に教会が固く立つことを求め続けました。</p><p> ヨハネによる福音書は、ヨハネの教会がとても大きな危機的状況の中にあるときに書かれてあります。ユダヤ教から異端として追放されるという状況の中で、自分たちの信仰を確立するか、あるいは会堂から追放されることを恐れてユダヤ教にとどまるのかということが問われたのでした。そして実際にヨハネの教会に残る者とヨハネの教会から去っていく者が出てきました。</p><p> 信仰というものは、とても不安定なものです。イエスさまから離れていかないような強い人には、信仰は必要ないのです。イエスさまから離れていく弱い者に、信仰は必要なのです。でも弱い者が持っている信仰ですから、その信仰は強いものではないでしょう。私たちは使徒ペトロのように信仰を告白しながらも、一方で自分の中にイスカリオテのユダを抱えて生きているわけです。私たちは「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と告白しながら、心の中にイスカリオテのユダを抱えているのです。しかしもう一方で、私たちは「イエスさまから離れたくはない」という思いを持っています。この弱い信仰しかもっていない、弱く惨めなわたしを救ってくださる方は、イエスさましかおられないという思いを持っています。</p><p> ヨハネによる福音書は「人は去っても、われらは信ずる」という信仰に立って書かれています。しかしそれは自分たちがりっぱな信仰をもっているということではありません。「わたしはりっぱな人間だから、たとえ人は去っていっても、わたしはイエスさまを信じます」ということではありません。「自分は弱く惨めな者で、自分の中には確かなものなどない。だからこそ、永遠の命の言葉をもっておられるイエスさまにすがるしかないのだ」ということなのです。</p><p> 信仰生活の中で私たちは自分たちの信仰の弱さに出会います。ちっぽけな信仰しか持ち合せていない自分に出会います。しかし弱く惨めな私たちだからこそ、イエス・キリストは私たちを憐れみ、御手でもってしっかりと支えてくださっています。イエス・キリストを信じて、この方により頼んで歩んでいきましょう。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-45750655462446337362024-03-02T20:48:00.004+09:002024-03-02T20:48:28.389+09:002024年2月25日<p> 2024年2月25日 受難節第2主日礼拝説教要旨</p><p>「わたしに注がれる神さまの愛がある」 小笠原純牧師</p><p> ヨハネによる福音書 9:1-12節</p><p> 青木優牧師は、ヨハネによる福音書9章3節の御言葉に出会い、クリスチャンになり、牧師になりました。「ただ神のみわざが彼の上に現れるためである」。青木優『行く先を知らないで』(日本基督教団出版局)の中にかかれてあります。「私は、イエスが「お前の失明を通して、お前でなければなしえない神の仕事をするのだ」と語りかけておられるのを感じた」(P.32-34)。</p><p> 私たちの生きている日本社会は、ここ数十年、ゆとりがなくなり、自分のことだけを考える人たちが増えてきました。自己責任ということが過剰に言われるようになり、弱い立場の人たちを攻撃して、悪者探しをするようなことがよく行われました。悪者を探し続けましたが、あまり良い社会になりませんでした。</p><p> イエスさまのお弟子さんたちは、生まれつき目の見えない人を見て、イエスさまに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と言いました。弱い立場の人を見て、その人や家族の人たちに罪を見いだそうとして、自己責任の世界にありがちな、犯人探しをしたわけです。</p><p> しかしイエスさまは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われました。私たちの神さまは、困っている人や立場の弱い人たちをおとしめたりするような社会を望んでおられるはずがない。神さまは愛に満ちた方であるから、困っている人や立場の弱い人が健やかに生きていくことができるために、私たちをお遣わしになっているのだ。「神の業がこの人に現れるために」、だれしも神さまの愛の内を歩んでいて、神さまの業がその人のうえに働くのだ。私たちはだれも神さまの愛の中に生きている。すべての人に神さまの愛が注がれているのだ。そのようにイエスさまは言われました。</p><p> いろいろな出来事の中で、不安になったり、行き詰まったりすることが、私たちにはあります。「どうしてわたしがこんな目にあわなければならないのか」。そうした出来事に、私たちは出会うことがあります。神さまの祝福から、わたしは外れているような気がする。そうした気持ちにさえなることが、私たちにはあります。</p><p> しかし生まれつき目の見えない人が、イエスさまによっていやされたように。イエスさまから「神の業がこの人に現れるためである」と声をかけられたように、私たちにもまた神さまの愛が注がれているのです。</p><p> わたしに注がれる神さまの愛があるのです。恐れることなく、神さまを信じ、神さまを信頼して歩みたいと思います。神さまを見上げつつ、こころ平安に歩んでいきましょう。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-80600307544400249982024-02-24T10:45:00.005+09:002024-02-24T10:45:26.195+09:002024年2月18日<p> 2024年2月18日 受難節第1主日礼拝説教要旨</p><p>「罪人らしく連帯しようよ」 熊谷沙蘭牧師</p><p> ルカによる福音書 16:1-13節</p><p> 神学者のケネス・E・ベイリーはこの箇所の直前にある「放蕩息子のたとえ」と重ねて読むことができると解釈しています。「不正な管理人のたとえ」と「放蕩息子」にはいくつもの共通点があります。1つ目は身勝手な人が登場して、それを驚くほど寛大に受け止める人がいること。2つ目はお金を浪費する人が登場すること。3つ目は、お金を浪費した人はそのことを父や主人に受け止めてもらうことで新しい道が切り開かれていくこと。4つ目は、お金を浪費した人の運命は父や主人が握っており、父や主人の憐れみにすがることによって生きることができていることです。</p><p> このたとえは、主人が神を表し、管理人が人間を表しています。管理人は主人のお金を横領して好き勝手している姿は、神から与えられているものを好き勝手して生きる人間の姿です。断罪される時が来た時に、不正な管理人は真剣に生き残る道を考えました。その生き残りを賭けた方法が他者の借金を棒引きするという驚くべき方法でした。借金は神への罪を表します。好き勝手してきた人間は生き残るために、他者の罪を勝手に赦すという、他者と共に連帯して生きていく方法を取るのです。決して褒められたやり方ではないですが、好き勝手な生き方をしてきた人間がここでようやく、誰かと共に生きる道を探し出すのです。主人(神)はその方法を褒めました。罪深い人間の打算的な行動であっても、他者と共に生きるという道を神は褒められたのです。</p><p> 私たちが神を信じて生きることも、不正な管理人と同じではないでしょうか。「隣人を愛せよ」と言われるイエスの言葉を、どこか打算的に自分の保身を計算しながら行おうとします。また自分も罪深い人間でありながら、人の罪を赦してあげようとします。私たちはどうやってもイエスの憐れみにすがらなければ、信仰を持って生きていると言える人間ではないのです。私たちが誰かと共に生きるということは、打算も身勝手さも引きずりながら、それでも神様、互いを助け合い生きていきますよと神の前に立つことなのではないでしょうか。美しくも綺麗でもないこの姿を神は褒められています。そこにこそ神の救いと憐れみが表れているのです。</p><p> 罪人であることは開き直ることでも、諦めることでもありません。互いが神・イエスの憐れみを得て生きるということなのです。信仰生活とはそのことを通して他者と連帯していくことなのです。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-60144697995636005372024-02-17T11:28:00.005+09:002024-02-17T11:28:30.845+09:00 2024年2月11日<p> 2024年2月11日 降誕節第7主日礼拝説教要旨</p><p>「小さきわたしを用いられる神さま」 小笠原純牧師</p><p> ヨハネによる福音書 6:1-15節</p><p> 美学者の伊藤亜紗は初めてアイマスクをして伴奏者と走る経験をすることによって、人を信頼することがなんと気持ちの良いことであるのかということと、そしていままで自分がいかに人を信頼していなかったかということに気づきます。(伊藤亜紗の『手の倫理』、講談社選書メチエ)</p><p> この伊藤亜紗の経験は、私たちが信仰ということを考える時に、「ああ、たしかにこういうことってあるよね」と思える経験です。はじめは神さまを信じ始める時、ちょっとおどおどしながら信じているわけですけれども、しかし「やっぱりわたしは信じたい」という思いで信じます。するといままでになかった安心感を得ることができます。神さまを信じて生きていくことの幸いを、私たちは感じます。もちろんときに信じられなくなったり、不安になったりすることもあるわけです。しかしそれでも私たちは神さまが私たちを守ってくださり、良き道を備えてくださることを信じて歩みます。</p><p> この「五千人に食べ物を与える」という物語は、とても具体的な話です。悩みは具体的なものであり、そしてとても切実なものです。そして切実なるがゆえに、また「ほんとうにその望みは叶うのだろうか」という疑うこころも私たちの中に起こります。弟子たちはイエスさまの奇跡をいままで経験しているわけです。それでも弟子たちの中には、信じきれない気持ちがあります。</p><p> しかしイエスさまは、少年の持っていた大麦のパン五つと魚二匹を用いてくださり、五千人に食べ物を与えるという奇跡を行われます。弟子たちからすれば、「何の役にも立たないでしょう」と思えるものを用いて、イエスさまは五千人の人々を満腹にされました。</p><p> 小さな者である私たちを愛し、そして私たちを用いてくださる神さまがおられます。私たちは神さまの祝福のなかを歩んでいきたいと思います。そしてまた神さまに用いていただきたいと思います。私たちのわざは小さな業かもしれません。しかし神さまは私たちのその小さなわざを喜んでくださり、私たちを豊かに用いてくださいます。神さまにお委ねして歩んでいきましょう。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-87686133257042009082024-02-10T17:48:00.005+09:002024-02-10T17:48:43.424+09:00 2024年2月4日<p> 2024年2月4日 降誕節第6主日礼拝説教要旨</p><p>「神さまのお守りの中にある。」 小笠原純牧師</p><p> ヨハネによる福音書 5:1-18節</p><p> 沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史』(岩波ブックレット)には、全国のハンセン病療養所に建てられている貞明皇后の歌碑について書かれてあります。「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて」という短歌です。国家によって隔離政策がとられ、家族から棄てられ、以前の友だちに連絡を取ることもできず、孤独を味わった人たちにとって、この歌は、慰めの歌であったのでした。</p><p> エルサレムの羊の門のそばにベトザタという池がありました。その池にときどき天使がやってきて、池の水が動く時に、一番先に水の中に入ることができると、どんな病気であってもいやされるというふうに言われていました。そのため病気の人たちは、近くの回廊に横たわって、水の動く時を待っていました。そのなかに38年もの間、病気で苦しんでいる人がいました。</p><p> このベトザタの池も、なかなかしんどいところです。いつ水が動くということがわかっていないわけですから、まあそれまでは病人同士で、「こうしたらちょっと痛みが和らぐよ」というような話がなされ、いたわりあいがあるのではないかと思います。でも水が動いたら、そうしたいたわりあいなどなかったかのように、我先にと水の中に飛び込まなければなりません。そうでなければ、自分の病気は治らないのです。38年間病気であった人は、38年間、自分も含めた病気の人たちの争いを見続けてきたのです。こころもすさんでくることになります。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」という彼の言葉は、そうした絶望の叫びの言葉であるのです。</p><p> イエスさまはこの病気の人を癒やされました。安息日の出来事でしたので、ユダヤ人たちは安息日違反だと、イエスさまを非難します。イエスさまは「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と言われました。神さまは憐れみ深い方で、苦しんでいる人、悲しんでいる人を、見過ごされる方ではないと、イエスさまは言われます。あなたがいくらお祈りしても、今日は安息日なので、あなたのお祈りを聞くことができないのだと、神さまは言われない。神さまは悲しみの中にある人、苦しみの中にある人のために、いつも働いておられる。だからわたしも神さまと同じように、安息日であろうと、病気で苦しんでいる人々を癒やすのだと、イエスさまは言われました。</p><p> 私たちの神さまは、私たちの悩みや苦しみ、またやるせない気持ちをご存知です。そして私たちを愛してくださり、私たちに良き道を備えてくださいます。神さまが私たちのために働いてくださっている。このことを信じて、私たちもまた神さまの御心にそった歩みでありたいと思います。共に祈りつつ、共にこころを通わせ合いつつ歩んでいきましょう。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-31848539309540626802024-02-02T17:50:00.006+09:002024-02-02T17:50:54.891+09:00 2024年1月28日<p> 2024年1月28日 降誕節第5主日礼拝説教要旨</p><p>「神の国を目指して」 老田信牧師</p><p> マタイによる福音書 20:1〜16節</p><p> イエスは天の国の一つのイメージをとして、「ぶどう園の労働者のたとえ」を語られました。しかし、私たちはこのたとえにつまずきます。というのも、私たちの多くがこの話の中で、夜明けから丸一日働いた人と5時から働いた人が同じ賃金であることに不公平さを感じるからです。結果、このイエスのたとえが腑に落ちず、歓迎できません。</p><p> しかし、このたとえには次のようなことが書かれてあります。「午後5時ごろにも…人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『誰も雇ってくれないのです』と言った」。明け方から働ける人というのは、誰が見ても申し分のない働き盛りの男性であり、「役に立つ」人です。午後5時になっても雇ってもらえない人は、反対にどこの雇い人も雇いたいとは思わなかった人だということです。彼らは決してサボっていたわけではありません。</p><p> 雇い人が雇いたいと思わない人とはどのような人なのか考えてみると、障がい者、高齢者等、少なくとも働き盛りの健康な男性ではありません。つまりマイノリティです。</p><p> マジョリティとマイノリティは、「多数派」「少数派」に加え、「特権側」と「従属側」あるいは「周辺側」という意味を持ちます。</p><p> 午後5時まで職探しに明け暮れていた彼らは、明らかに周辺に置かれた者です。イエスは中央のエルサレムではなく、ガリラヤのナザレでお育ちになり、自らもそのような存在となりました。またまずガリラヤで伝道し、周辺の人たちに向けて福音を宣べ伝えたのでした。このようにして社会が後ろに置きがちな人のところへと先に来たのです。しかし全ての人が1デナリオンをもらっているように、神は誰一人として不足な状態に追いやるのではなく、満たしています。そしてそのようなところを「天の国」と言っているのです。</p><p> 私たちはこのような神の国の実現を待ち望む者として、教会に集まっています。最も良いところとして、主イエスが示してくださっています。しかしただ待ち望むだけではもったいない。せっかく最も良いところのイメージを与えてくださっているのですから、具体化して予行演習をしたいのです。教会はそのような神の国の予行演習の場として与えられています。ぜひとも平安教会の皆さんが今の平安教会ならではの神の国を表現してください。そしてそれを多くの人と分かち合い、さらに発展させていくことが出来ますように祈りましょう。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-40089659647024168142024-01-27T15:09:00.005+09:002024-01-27T15:09:58.138+09:002024年1月21日<p> 2024年1月21日 降誕節第4主日礼拝説教要旨</p><p>「水汲み人生に起きる最初の奇跡」 宮岡信行牧師</p><p> ヨハネによる福音書 2:1-12節</p><p> イエス様の奇跡は福音のしるしです。カナの婚礼はイエス様の最初の奇跡であり、同時に私たちに与えられた最初のしるしです。そもそもぶどう酒は神様の祝福の象徴であり、婚礼ではぶどう酒こそが最上の喜びでした。ところが、その婚礼でぶどう酒が無くなるという問題が起こります。その時、母マリアだけがイエス様と召使たちを仲介するように声をかけます。母マリアがイエス様にとりなしたことで奇跡の予兆が示されました。そして、これが世にある教会の働き、この地に建てられた教会の役割なのです。喜びを失う世界に教会があるのはなぜか。私たちが主日の礼拝をするのはなぜか。それは神の恵みとキリストの復活を信じる教会の喜びが、この世に神の救いを指し示す大切なしるしになるからです。</p><p> 一方で、思いがけない良いぶどう酒の登場に大喜びする宴会の世話役は、まだ天の国の喜び、救いの恵みに気付いていない人の姿です。宴会のような華やかな人生に満足しながらも、見えないものに目を注いでより善く生きるような最上の喜びを知らないのです。私たちの周りにもぶどう酒に変わった水を飲んで大喜びしてもらいたい人がいるのではないでしょうか。</p><p> この時、召使たちが水をくんで淵までいっぱいにした6つの石の水がめはおよそ合計600㍑ほどでした。水汲みは地味で単調な作業です。その努力が形や成果にならず、どれだけ水がめに汲んでも使えば何も残りません。にもかかわらず、イエス様はぶどう酒という喜びがなくなりそうな困難な時にも、いつものように水くみをしなさいと言われるのです。誰もが何の役に立つのか分からなかったことでしょう。ところが、水を汲んだ召使いたちが宴会の世話役のところに水を運んだところ、水はぶどう酒に変わっていました。</p><p> 水がぶどう酒に変わる。この奇跡を目の当たりにしたのは、水を汲んできた召使いだけでした。思いがけない神の恵みが広がるところにいた召使いたち。彼らこそ私たち自身なのです。カナの婚礼は繰り返しキリのない水汲みのような人生に、初めて起きた神さまの祝福のしるしを語ります。誰もが楽しむ婚礼の席に、神さまの恵みを持ち込むのは私たちです。喜びが失われたところに最上のぶどう酒を運ぶのは私たちの役割です。これほど喜ばしいことがあるでしょうか。水汲み人生に最初に起きる奇跡、すなわち私たちが主イエスに呼び集められ、教会で礼拝を献げて、この世に証しを立てる、神の救いのしるしになる。この喜びを抱いて歩む者でありたいと切に願っています。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-59571149726001710712024-01-20T21:28:00.001+09:002024-01-20T21:28:03.937+09:002024年1月14日<p> 2024年1月14日 降誕節第3主日礼拝説教要旨</p><p>「イエスさまに引き寄せられて」 小笠原純牧師</p><p> ヨハネによる福音書 2:1-22節</p><p> わたしの友人は高校浪人をしているときに、教会の高校生会のキャンプに誘われて、教会に来るようになりました。なんだか引き寄せられるように、教会に来るようになったのです。「高校浪人中だから、勉強をしなければならないので、教会の高校生会の夏のキャンプになんか参加できるわけがないだろう」と言っても良かったわけですが、彼は夏の高校生会の夏のキャンプに参加をするのです。そしてイエスさまに引き寄せられて、彼の信仰生活が始まるのです。</p><p> マルコによる福音書などの、イエスさまの弟子選びの話では、「二人はすぐに網を捨てて従った」というように、弟子たちの側の信仰の勢いのようなことが語られています。信仰とは一面ではそうした、「わたしが信じる」「わたしがついて行く」という面があるわけです。使徒信条のように、「われは天地の創り主、全能の父なる神を信ず」というように、「われは信じる」のです。</p><p> ヨハネによる福音書では、どちらかというと、弟子たちはイエスさまに引き寄せられるように、イエスさまについて行きます。アンデレは洗礼者ヨハネの弟子であったわけですが、「見よ、神の小羊だ」というヨハネの言葉を聞いて、イエスさまに呼ばれているわけでもないのに、イエスさまに従います。ナタナエルなどは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」というようなことを言っていたわけですが、イエスさまと話をして、イエスさまに引き寄せられるように、イエスさまを信じて歩み始めます。</p><p> なんらかの出来事で、教会に来ることになり、いわゆる求道者生活を送るようになりますと、わたしは本当に、神さまを、イエスさまを信じているということになるのだろうか、というような思いにかられることがあります。「わたしが信じている」ということの問題を考えるのです。信仰とは、「わたしが信じている」ということの大切さがあるからです。しかしもう一方で、やはりイエスさまに引き寄せられているということがあるのです。言葉では説明がつかないけれども、イエスさまに引き寄せられて、教会に集い、礼拝を守ります。いつのまにか、「わたしはイエスさまのことが大好きなんだ」という思いで生きるようになります。イエスさまに引き寄せられるのです。</p><p> イエスさまは私たちを招いてくださり、「あなたはわたしの大切な人だ。わたしを信じて、わたしについてきなさい」と、私たちに語りかけてくださっています。イエスさまを信じて、イエスさまにより頼んで歩んでいきましょう。</p><p><br /></p>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-42340497289483225502024-01-13T21:10:00.001+09:002024-01-13T21:10:06.158+09:002024年1月7日<p> 2024年1月7日 降誕節第2主日礼拝説教要旨</p><p>「この方こそ、わたしがついていく方」 小笠原純牧師</p><p> ヨハネによる福音書 1:29-34節</p><p> マーガレット・F・パワーズという人の書いた「フットプリント あしあと」という詩があります。私たちはときとして、神さまはおられないのではないと思えるような出来事に出会うことがあります。イエスさまは共にいてくださると信じていたのに、そのように思えないということがあります。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」(「あしあと」)</p><p> 洗礼者ヨハネはヨルダン川で悔い改めの洗礼を人々に授けていました。洗礼者ヨハネは自分のあとに、救い主がこられ、そして世の罪をあがなってくださる。自分はその救い主が来られる前に、少しでもこの世を神さまにふさわしい世にするために、悔い改めの洗礼を授けている、それが自分に与えられた仕事なのだと思っていました。</p><p> 洗礼者ヨハネはイエスさまを見て、「わたしが言っていたのはこの方のことである」と言いました。ついにわたしが言っていた方がこの世に来られた。わたしはこの方のために人々に水で洗礼を授けて、悔い改めの洗礼を行っていたのだと、洗礼者ヨハネは言いました。</p><p> 洗礼者ヨハネが言いたかったことは、「この方こそ、わたしがついていく方だ」ということです。そして洗礼者ヨハネは実際にそのように生きたのです。イエスさまの前に現れていたのだけれども、しかし洗礼者ヨハネはイエスさまに従って歩んだ人でした。そして人々に悔い改めの洗礼を授けながら、「この方について行きなさい」と、イエス・キリストを証しした人でした。</p><p> イエスさまは私たちを見捨てることはありません。私たちはそんなにりっぱな者ではないですし、力ある者でもありません。しかしそれでも私たちは心の中で、「この方こそ」「この方こそ」、「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをもっています。私たちは自分がこの方の役に立つとか、自分はこの方にふさわしいとかということとは関係なく、ただただ「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをもって、イエスさまについて行きます。</p><p> イエス・キリストは私たちを見捨てることなく、私たちを支え、守り、導いてくださいます。私たちは2024年も、「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをしっかりと思って、イエスさまにお仕えして歩んでいきましょう。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-87016031978888115102024-01-05T17:13:00.005+09:002024-01-05T17:13:47.402+09:002023年12月31日<p> 2023年12月31日 降誕節第1主日礼拝説教要旨</p><p>「すべての人の救いを見る」 山下毅牧師</p><p> ルカによる福音書 2:21-28節</p><p> クリスマスから数えて8日後の大晦日の日を迎えています。本日の聖書の箇所は、神殿で幼な子であられるイエス・キリストと主を待ち望む熱心な信徒であるシメオンが出会う場面です。この歌は<シメオンの賛歌>と呼ばれます。</p><p> 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救いを見たからです。これは万民のまえに整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」</p><p> 神学者ヘンリ・ナウエンは、<シメオンの賛歌>、イエス・キリストとの出会いは大きな救いの出来事である。老人にありがちな悲観的な見方、気の滅入るような物の見方を打ち砕いてくれます。老いの訪れは、目も耳も開かれ、光に向かう道になる、と述べています。</p><p> 何故シメオンはこのような救いの確信を得たのでしょうか。それは、「聖霊」によって、神の霊に捕らえられ、神の霊によって導かれ、神の霊に支えられ、自らの救いのために、イスラエルの救いのために、全世界の救いのために、熱心に祈っていたのです。救いを見るまでは、自分は死ぬわけにはいかないと言う祈りをささげていたのです。 </p><p> 祈りは厳しい仕事です。祈りは暇人のやることではないのです。教会に生きる者皆がやることです。いやここにこそ教会の姿があります。神から救われなければ、人間は自分を救うことは出来ません。どんなに知恵があっても、だんなに科学が発達しても、救われる道はないのです。</p><p> シメオンは幼な子を見ました。幼な子イエスという、目に見える事実となったのです。神の聖霊に導かれて、心を開かれたわれわれは、他の人々の見ない神の救いを幼な子イエスの中に見るのであります。――信じてこれを見るものにとっては、ここにシメオンが主ご自身を抱いて与えられたのと同じ、幼な子イエスの恵みにあずかるのであります。私達は、聖霊のみちびくままに、深い祈りに生きたいと思います。その祈りとひとつとなった愛に生きたいと思います。そしてその祈りに答えて、幼な子イエスがわれわれの手に与えられた事実を、年老いていようが、病んでいようが、どんな苦労の中にあろうが、信仰をもって堅く受けとめたいと思います。そして日本の救いのために、世界の救いのために、熱い祈りにひたすら走り続けたいと思います。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-52274755298164068202023-12-28T14:47:00.002+09:002023-12-28T14:47:10.736+09:002023年2月24日<p> 2023年12月24日 待降節第4主日礼拝説教要旨</p><p>「主の平和の年がやってくる」 小笠原純牧師</p><p> ルカによる福音書 2:1-7節</p><p> クリスマス、おめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。</p><p> わたしの出身大学の逍遥歌(学生歌のようなもの)の三番目の歌詞は、「ああ南溟なんめいの曉に 無念の涙胸に秘め 今永劫に散りゆきし 旅人ありと我は聞く」というものです。「南方の海、明け方に、無念の涙を胸に秘めて、もう帰ることのなく散っていった、旅人がいると、わたしは聞いた」という歌詞です。いまも私たちの世界では、ウクライナとロシアとの戦争のために、パレスチナのハマスとイスラエルとの戦争のために、ペンの代わりに銃をもって戦っている学生がいます。戦争は終わりそうもなく、私たちもこころを痛めつつ、このクリスマスを迎えています。</p><p> ヨセフとマリアは為政者によって人生を翻弄されるふつうの人です。多くの人々は為政者たちの都合によって、右往左往させられます。とくにイエスさまの時代は、民主主義というようなことではないわけです。命令は上から突然おりてきます。「住民登録せよ」「これこれの税金をおさめよ」。ヨセフもマリアも、その命令に翻弄されつつ、生きていました。</p><p> 「飼い葉桶に寝かせた」「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とありますように、イエスさまは居場所のない民として、その歩みを始められました。イエスさまは生まれてまもなく、難民として、エジプトに逃げることになります。ちょうどパレスチナのガザ地区の人々が、エジプトの方へ逃げようとしていたように、イエスさまもエジプトに逃げていくのです。聖書は、イエスさまがうまれたときから、為政者によって翻弄され、危険な目にあったり、逃げ惑う人々と同じことを経験された方であることを、私たちに告げています。イエスさまは小さき者の苦しみを共にされた方でした。</p><p> 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。ウクライナとロシアの戦争、パレスチナとイスラエルの戦争。私たちの世界は争いに満ち、暴力によって自分の思いどおりにすることでもって、世の中を支配しようとする力に満ちています。そうしたなかにあって、私たちは私たちの救い主イエス・キリストが、平和の君として、私たちの世にきてくださったことを、しっかりと受けとめたいと思います。クリスマス、主の平和の年が来ますようにと祈りたいと思います。新しい年が、神さまの愛に満たされた年となりますように。神さまの平和が来ますようにとお祈りいたします。</p><p><br /></p>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-70810564630373733802023-12-23T22:16:00.000+09:002023-12-23T22:16:02.057+09:002023年12月17日<p> 2023年12月17日 待降節第3主日礼拝説教要旨</p><p>「主の道をまっすぐに」 小笠原純牧師</p><p> ヨハネによる福音書 1:19-28節</p><p> アドヴェントの第三週を迎えました。ろうそくも3本たち、いよいよクリスマスが近づいてきました。アドヴェントとは、イエス・キリストのご降誕をお祝いするための備えをする期間のことです。アドヴェントは5世紀くらいに始まったと言われています。</p><p> イエスさまの誕生の道備えをした人に、バプテスマのヨハネという人がいます。洗礼のことをバプテスマと言います。マルコによる福音書は、バプテスマのヨハネの登場で始まっています。バプテスマのヨハネは、人々に悔い改めを迫りました。その姿もらくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締めていたというのですから、なんとなく恐いなあと思ってしまいます。でもまあ、イエスさまの前に、バプテスマのヨハネが、人々をイエスさまへと導くために、準備してくれていたわけです。イエスさまからすれば、なかなか心強いことだと思います。</p><p> アドヴェントは、クリスマスの前の期間というのが一般的ですが、もうひとつは、キリストの再臨という意味で使われます。イエスさまが再び来られるときということです。イエスさまが再び来て下さるのを待っているということでは、私たちは救い主の誕生を待っていたユダヤの人たちと同じようなものです。長い長い間、イエスさまを待ち望んでいます。そして私たちは、終末に来られるイエスさまを待ちながら、バプテスマのヨハネのように、イエスさまの道備えをする役割を、イエスさまから託されているのです。</p><p> ウクライナでの戦争、パレスチナでの戦争。いま世界は曲がりくねった道を歩んでいます。私たちは平和の主が歩まれたように、「主の道をまっすぐに」するために祈りたいと思います。</p><p> また私たちの心が曲がってしまわないように、祈りたいと思います。「どうせ、どうにもならないんだ」「世の中、そういうもんなんだ」「力の強い者が、力でこの世を治めるのが、この世の中なんだ」。そうした思いをもってしまうことが、私たちにはあります。しかし私たちの後には、イエス・キリストがおられます。イエス・キリストは、自らをむなしくし、私たちの罪のために、十字架についてくださいました。力でこの世をねじ伏せるのではなく、神さまの愛で、私たちを救ってくださったイエス・キリストがおられます。</p><p> 愛の主が、私たちに教えてくださったように、私たちは神さまの愛を信じ、求め、「主の道をまっすぐに」と祈りつつ、歩んでいきましょう。</p><p> </p>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-80866294221416269822023-12-15T19:33:00.002+09:002023-12-15T19:33:06.098+09:002023年12月10日<p> 2023年12月10日 待降節第2主日礼拝説教要旨</p><p>「正しい人ヨセフ、恐れなくてよい」 石川立牧師</p><p> マタイによる福音書 1:18-25節</p><p> 今年10月、中東で再び戦争が始まりました。一般に戦争では各陣営は自らの<正義>によって戦いを正当化します。人間の<正義>は人を救うどころか、戦いを激化させ、シャローム(平安)を壊すものにもなります。旧約聖書では、神は<義>の神であり、<正しい>のは神のみです。<正しい>人はひとりもいません。聖書に<正しい人>という表現はありますが、それは日常的な言葉であり、せいぜい、律法をそつなく守り、周囲の評判も上々の人のことを指すにすぎません。</p><p> アドベントにふさわしい聖書箇所の一つ、マタイ福音書1章18-25節によれば、ヨセフは<正しい人>だったので、ヨセフによることなく身ごもったマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した、とあります。このような場合、ヨセフが<正しい人>であるならば、本来、律法に従って、マリアを石打ちの刑によって罰しなければなりません。ところが彼はマリアを罰せず、事態を隠そうとしました。これは律法に背くことなので、彼は逆に自分が罰せられるのではないかと恐れました。ヨセフが眠りにつくと、夢の中に主の天使が現れ言いました。「ヨセフ、恐れなくてよい。マリアを迎え入れなさい。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」。この言葉によってヨセフは自らの<正しさ>から解かれ、癒されることになります。ヨセフは眠りからさめると、とくに無理することもなく主の天使の言葉どおりマリアを妻として迎え入れることができました。</p><p> 主の天使の言葉のあとに示されるインマヌエルの名は「神は私たちと共におられる」という意味です。イエスという名は救いを表しますが、インマヌエルの名によって、イエスが、先頭に立って人々を導く英雄というよりも、私たち一人ひとりにいつも寄り添ってくださる救い主であることが示されました。イエスは救い・愛そのものです。旧約の時代、<義>の神は裁く神、罰する神として恐れられてきました。ところが、私たちと共にいてくださる御子のご降誕により、人間の<正しさ>はむなしいものとされ、神様の<義>が実は、裁きではなく救いであり、罰ではなく愛であるということが明らかになったのです。</p><p> 私たちは人間の<正義>を主張するのではなく、ヨセフのように、この世に誕生してくださった<義>なる神の御子を、あわれみの救い主として、神の愛として、シャローム(平安)の主としてお迎えしたいものです。</p><p><br /></p>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-76647752257295100152023-12-09T19:28:00.002+09:002023-12-09T19:28:46.496+09:00 2023年12月3日<p> 2023年12月3日 待降節第1主日礼拝説教要旨</p><p>「私たちを救ってくださるイエスさま」 小笠原純牧師</p><p> ヨハネによる福音書 7:25-31節</p><p> クリスマスによく読まれる本に、トルーマン・カポーティの『あるクリスマス』(文藝春秋)という本があります。トルーマン・カポーティがお父さんと過ごした最初で最後のクリスマスについて書かれてある本です。トルーマン・カポーティの大親友のミス・スック・フォークは、なんでも「主の御こころ」と考えているような人でした。爪先をどこかにぶっつけて痛い思いをするのも、主の御こころ。馬から落ちるのも、主の御こころ。大きな魚を釣り上げるのも、主のみこころ。なんでも「主の御こころ」というのは、まあばかげているような気もいたします。しかし『あるクリスマス』に出てくるミス・スック・フォークの信仰が、わたしはとても好きで、「主の御こころ」がなされていくのだというような信仰を、わたし自身ももっています。</p><p> ヨハネによる福音書は、イエスさまは神さまの御子として、私たちの世に来てくださり、私たちに永遠の命へと導いてくださる方であることを、私たちに告げています。そして神さまから離れて生きていこうとする罪深い、神さまの前にふさわしくない私たちがいること。そうした罪深い私たちのために、イエスさまが十字架によって私たちをあがなってくださる。そうした意味での救い主メシアが、イエスさまであること。そしてそれは神さまのご計画であり、神さまの御こころであることを告げています。</p><p> 「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」という群衆の言葉は、イエスさまに対しての誉め言葉であると同時に、イエスさまに対する誤解も含んでいる言葉であるような気がします。人々はやはりこの世的な意味でのすばらしさを、イエスさまに対して求めているということです。それは預言者的な格好の良さというようなものであるような気がいたします。しかしイエスさまは悪を裁く預言者として、私たちの世に来られたのではありません。私たちを罪からあがなう救い主メシアとして、私たちの世に来てくださったのです。</p><p> アドヴェントに入りました。救い主イエス・キリストが、私たちの世にきてくださいます。私たちのすべてを知った上で、私たちを赦してくださり、私たちを救ってくださる救い主イエス・キリストが私たちにところにきてくださいます。イエスさまを迎える準備をしながら、私たちのこころも整えていきたいと思います。私たちを救ってくださったイエスさまに感謝しつつ、この喜びを隣人に届けていきたいと思います。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-20266173225492028562023-12-02T11:04:00.004+09:002023-12-02T11:04:31.127+09:002023年11月26日<p> 2023年11月26日 降誕前第5主日礼拝説教要旨</p><p>「ウソはやめた方が良い」 小笠原純牧師</p><p> ヨハネによる福音書 18:33-40節</p><p> イタリアのローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会には、「真実の口」という石の彫刻があります。真実の口に手を入れると、ウソをついている人はその手首が切り落とされてしまうという伝説があるそうです。映画『ローマの休日』に出てきます。</p><p> 今日の説教題は「ウソはやめた方が良い」という説教題をつけました。わたしがここでいう「ウソ」というのは、真理と向き合わない姿勢というようなことです。いいかげんに生きている時につく、いいかげんな「ウソ」というのがあります。自分の立場を守るためにウソをついたり、自分の利益のためにウソをついたりする、そうしたウソのことです。イエスさまの時代も、支配者のなかで、そうした雰囲気が拡がっていました。</p><p> ピラトは「真理とは何か」と言いました。ピラトの中では「真理」とか「正しさ」とかそういうものはあまり意味のないものになっていたのです。ですから「真理とは何か」というようなつぶやきが出てくるわけです。「真理とは何か。そんなものあるわけないだろう」。世の中は混とんとして、みんな好き勝手に生きている。世の中にはウソがいっぱいで、みんな気軽にウソを言う。良き社会をつくりたいとか、良い人として生きたいというような思いが、社会全体の中で失せてしまっている。</p><p> そうした社会の中にあって、しかしイエスさまは言われます。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。イエスさまは真理について証をされます。神さまの御子として、神さまのみ旨を行われます。神さまは私たちを愛してくださり、私たちを良きものを備えてくださる。神さまがこの世を治めておられる。私たちが迷子になり、恥ずかしいことをしてしまうことがあったとしても、神さまは私たちを探し出してくださり、神さまのところに連れ戻してくださる。私たちの勝手な思いではなく、神さまの御心が実現していく。</p><p> 実りの秋。私たちは私たちの神さまが多くの実りをもたらしてくださいました。神さまは私たちに良きものを備えてくださり、そして私たちをよき人として祝福してくださいます。神さまを信じ、イエスさまに導かれて歩みたいと思います。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。真理に属する者として、御声を聞きつつ歩んでいきましょう。</p><p> </p>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-4445274501600628862023-11-23T19:07:00.007+09:002023-11-23T19:07:57.565+09:002023年11月19日<p> 2023年11月19日 降誕前第6主日礼拝説教要旨</p><p>「おまえのものはおれのもの!」 川江友二牧師</p><p> 出エジプト記 3:7-14 節</p><p> 「おまえのものはおれのもの!」は、ドラえもんに出てくるジャイアンのセリフ。のび太が失くしたランドセルをジャイアンが必死になって取り戻してくれた理由として発したのが、この言葉でした。</p><p> 今日の聖書箇所で神は、その名前をこう打ち明けています。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と。また、この後の6章では「わたしは主(ヤハウェ)である」と言っています。この語源を考えると「わたしは命、生きる者、生かす者」と理解ができます。古代世界において、名前はその人の存在全体や生き方、つまりその人が何者であるかという本質を表すものだと考えられていました。</p><p> では、その本質は具体的にどのように示されるのでしょうか。神は7節でこう語っています。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」と。ここに神が人と共にあろうとする在り方、人を生かす命の神である在り方が示されています。</p><p> イスラエルのガザへの攻撃は激化の一途をたどり、パレスチナの死者は12,000人を超え、その内子どもの死者は4,100人以上に上っています。現地の人々のうめき、叫びを私たちはどう受け止めたらよいのでしょうか。</p><p> このような理不尽な死や苦しみに直面するとき、思い出す本があります。それはアウシュビッツを生き抜いたエリ・ヴィーゼルが記した『夜』です。子どもが絞首刑にあって苦しみ続け、「神さまはどこだ」と叫ぶ問いに、神は共に絞首台にぶら下がっておられるという内なる声を聞いたと言います。</p><p> それは、今日モーセに語る神と同じです。7節の言葉とは、まさに人々の苦しみ、痛みを神ご自身が味わい尽くしたことを意味しているからです。そして苦しみの中で信じられない民に、神は繰り返し「わたしはあなたと共にいる」と述べます。そうだとすれば、現在も神はパレスチナやイスラエルで、共に死の苦しみを何度も味わっておられるのではないでしょうか。</p><p> この一見すると無力な神を信頼し、絶望を分かち合うことから、希望は見出されていくことを聖書は示してくれています。そして、そこに神を見つけたらならば、私たちは黙っていてはならないのでしょう。わたしたちの信じる神は、私たちの痛みを知る神であり、泊まる場所なく生まれ、力なく十字架にかけられたイエスさまであるからです。</p><p> 「あなたの痛みはわたしの痛みだ。だからこそ、わたしはあなたの命であり、神なのだ。」その声に耳を傾け、私たち自身も命に寄り添い、命のために声を挙げていくものでありたいと心から願うのです。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-53427099883434955662023-11-18T12:03:00.004+09:002023-11-18T12:03:26.516+09:002023年11月12日<p> 2023年11月12日 降誕前第7主日礼拝説教要旨</p><p>「確かな方につながって生きる」 小笠原純牧師</p><p> ヨハネによる福音書 8:51-59節</p><p> 宮沢賢治の「雨にも負けず」という詩は、次のような言葉ではじまります。「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち 欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている」。病床の宮沢賢治の望んだものは、「丈夫な体」と「健やかなこころ」なのでしょう。この世にいる間は、それはとても大切なものだと思えます。</p><p> 私たちの救い主であるイエスさまは、私たちを永遠のいのちを受け継ぐ者としてくださいました。イエスさまにつながって生きる時、私たちは神さまの恵みを受けて、永遠のいのちを受け継ぐ者としての祝福に預かることができるのです。わたしはこのことは、私たちクリスチャンがこの世で生きる上で、とても大切な祝福であると思っています。</p><p> 私たちは人生のなかで、思わぬ出来事を経験することがあります。病気になることもありますし、神さまのところに愛する人を送られるということを経験することもあります。職場で大きな失敗をして、非難をされるような出来事を経験することもあります。自分ではどうしようもない出来事を前にして、こころが折れてしまうような時もあります。このことを頼りに生きていこうと思っていたものが、意外にもろく崩れ去ることを経験することもあります。確かなものであると思っていたのに、確かなものではないことを知り、大きな戸惑いのなかに投げ込まれてしまう時もあります。</p><p> しかしそうしたなかにあって、私たちには救い主イエス・キリストがおられます。イエスさまは私たちに「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われ、私たちがイエスさまにつながることによって、神さまから永遠の命を受け継ぐ者とされることを教えてくださいました。</p><p> イエスさまは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われました。マルコによる福音書13章31節の御言葉です。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。</p><p> 私たちは確かな方につながって生きようと思います。神さまの御子イエス・キリストにつながり、イエスさまを頼りにして歩んでいきたいと思います。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。どんなときも、私たちを守り、導き、祝福してくださる確かな方がおられます。イエスさまを信じて歩んでいきましょう。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-39887173440207446802023-11-11T08:27:00.004+09:002023-11-11T08:27:47.750+09:002023年11月5日<p> 2023年11月5日 降誕前第8主日礼拝説教要旨</p><p>「私たちの道を照らす光」 小笠原純牧師</p><p> ヨハネによる福音書 3:13-21節</p><p> 今日は召天者記念礼拝です。ご家族の皆様ととともに、天に召された方々を覚えて礼拝を守ります。</p><p> ユダヤ人でファリサイ派のニコデモという議員が、イエスさまのところを尋ねてきます。ファリサイ派の人たちの多くは、イエスさまと考えが違って、論争をしかけてくるということがありました。しかしニコデモはイエスさまの教えが気になって、イエスさまのところに尋ねてきました。</p><p> 神さまは、神さまの独り子であるイエスさまを、私たちの世に遣わしてくださいました。イエスさまを信じることによって、人は永遠の命を得ることができる。神さまは私たちを裁くのではなく、私たちを救うために、御子イエスさまを、私たちの世に遣わしてくださいました。</p><p> 神さまの御子であるイエスさまのことを信じないということが、もうすでに裁きになっている。それはイエスさまが世を照らす光となって、私たちの世にきてくださった。イエスさまを信じて健やかに歩むことができるのに、イエスさまを信じないでよくないことに心を騒がせて、暗闇へと導かれていく。そのこと自体がもう裁きになっているということです。神さまに導かれて、イエスさまに導かれて、良き生き方をする。光の中を歩んでいく。それはとても幸いなことであり、とても健やかなことであるということです。</p><p> 自分自身の振る舞いを考えてみるときに、反省をさせられるときがあるわけです。自分のことだけを考えて、身勝手な振る舞いをしているうちに、いつのまにかだれも自分の周りに人がいなくなってしまっていたりするようなことになっていないか。だれからも馬鹿にされたくないと思い、力で人をやっつけているうちに、周りの人が自分から離れていっているということになっていないか。</p><p> わたしは合理的な考え方が好きで、自分勝手なところがありますから、すぐに愛のない方へと生き方が向かっていくのではないかということが心配になることがあります。自分だけがよければそれでいいというさもしい考え方に支配をされてしまい、高慢になり、恥ずかしい人生を歩んでいながら、そのことに自分で気がつかないというようなことになってしまっているとしたら、まさにそれは、神さまの裁きということなのだろうと思います。</p><p> 聖書は、そうした生き方になることがないようにと、光となって私たちを照らしてくださる方がおられると、私たちに告げています。暗闇の中を歩むのではなく、光の中を歩みなさいと、私たちを照らしてくださる方がおられると、聖書は私たちに告げています。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-85944408628060237012023-11-03T19:36:00.005+09:002023-11-03T19:36:19.828+09:002023年10月29日<p> 2023 年 10 月 29 日 降誕前第9主日礼拝説教要旨</p><p>「創造の時の円舞(ロンド)」 山本有紀牧師</p><p> 創世記 1:1-5,24-31 節</p><p> 礼拝の暦はこの主日から新しい季節に入る。全部で 9 週ある「降誕前」節の後半4 週は「待降節」。救い主が幼子の姿で地上に降る、クリスマスまでを指折り数える。そして前半の 5 週は、救い主の到来という「約束」の成就に至る、神様と人間との間に紡がれた「契約の物語」を、世のはじめから順に辿る。今年の場合は、「天地創造の祝福」>「アダムとエヴァへの約束」>「アブラハムとサラへの約束」>「モーセと出エジプトのイスラエルへの約束」、そして、最後の 5 週目は(毎年必ず)、救いの約束の最終目的である「神の国の到来」を覚えて「再臨の、栄光に輝くキリスト」に関わる箇所を読む(再臨の希望の内に、「最初の到来」を待つ季節へ)。農耕のサイクルでは、収穫の祭りの季節に、私たちは礼拝生活のサイクルにおいても、神が耕し、蒔き、守り育ててその収穫を心待ちにされる、この「被造世界」とこれを保全する務めを委ねられた私たちの人生と、社会全体の歴史がもたらす「実り」の在り様について、信仰の先達が辿った道を記念しつつ、深く吟味するように導かれている。</p><p> イスラエルの民がこの「天地創造物語」を生み出したのは、民族にとって最も暗い時代=バビロニア捕囚の時代だった。国も王家も滅び、礼拝を捧げる神殿もなく、モーセが授かったという十戒の石の板も奪われた。彼らが「神の民」であることの印が消失した時代、かつて祭司であった人たちが、この創造物語を生み出した。そこには、イスラエルの神がこの世を「良いもの」として祝福し、美しく整え、その秩序の保全者として自分たちを選んだという信仰が示される。だから捕囚の民はこの物語に生かされて、天地創造の秩序、即ち安息日を命にかえて守り、被造世界のサイクル、蒔き、育て刈り入れる祝福のサイクル、この世の被造物すべてが参与する円舞(ロンド)を、自らの「神の民」としての再生の希望を胸に、躍り続けたのだった。</p><p> 今も、この円舞は続く。私たちの人生も、社会の歴史も、自然のリズムもすべてがこの円舞の内にある、と天地創造神話は物語る。成功だけでなく、失敗も裏切りも罪も背徳もこのサイクル内で繰り返される。飢饉も不作も洪水も疫病も地震も、あらゆる自然災害も、そして差別や不正義、戦争も。秋を収穫の感謝として迎えることのできない場所も人も毎年存在する。それでも私たちには、この被造世界を「良い」ものとして保全する務めが課せられている。世のはじめの救い=祝福の約束を、この年も私たちはそのままに守り、いのちのサイクルの円舞を続けていかねばならない。その務めを共に担う仲間でありたい。</p>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-64231438989297474972023-10-26T21:16:00.002+09:002023-10-26T21:16:17.117+09:002023年10月22日<p> 2023年10月22日 聖霊降臨節第22主日礼拝説教要旨</p><p>「天を仰ぎつつ」 小﨑眞牧師</p><p> ルカによる福音書 19:11-27節</p><p> オープンチャペルにお招き頂きありがとうございます。今朝の聖書日課で与えられている「『ムナ』のたとえ」の話は、自己都合に閉ざしている現代の私たちに対して洞察に富む示唆を与えます。マタイにも「『タラントン』のたとえ」という似た話があります。理解を深めるために、今日の日本社会の貨幣価値に転換すると1ムナは約80万円となり、1タラントンは4800万円です。ゆえにルカは「ごく小さなものにも忠実」と語ります。また、マタイでは異なる額が託され、ルカは全員に同額でした。</p><p> 良い僕は、「『あなたの1ムナ』が儲けました、稼ぎました」と、僕自身の資質や判断から解放された視座(ムナが主語、同額の委託)を提供します。さらに「ごく小さな事」への僕の忠実さ(信頼、信仰と同様の言葉)が評価されます。一方、悪い僕は、自分自身の判断や思い(恐怖や不安)が優先され、何もしていません。「主人が厳しい方」との自己判断に縛られ、身動きが取れない状況(自己保身)へ陥っています。</p><p> さて、私たちはこの物語から何を学ぶのでしょう。「1ムナを布に包んでいる僕」は私たち一人ひとりの姿であるのかもしれません。「自分を自分自身の上にだけ築く人間存在は地盤を喪失する。人間が人間になるのは、いつも自己を他者に委ねることによってである(カール・ヤスパース)」との警鐘に耳を傾ける必要があるのかもしれません。教会を教会の上に築くのではなく、教会を外へと委ねることが期待されています。その意味でのオープンチャーチでありたいものです。</p><p> ある哲学者は、私たちを他者から切り離され独立した人間存在(Human being)として捉えるのではなく、関わりの中で変容・変質し続けて「人間になる(Human becoming)」と表現します。さらに他者と共に関わり相互に変容・変質する意味を込めて、Coとの接頭語をつけた「Human Co-becoming」という人間のあり方を提案しています(中島隆博『人の資本主義』参照)。</p><p> 私たちは共に変わることのできる存在です。教会自体を「包んだ布(自己都合)」の中から解放していくことが期待されています。私たちの判断基準に縛れ、自身の世界にのみ心を閉ざすのではなく、むしろ、天を仰ぎ、主へと拓かれたいものです。その只中にこそ、「Human Co-becoming」さらには「Human Co-creating」という新たな人間の創造(主の御業)が現出します。絶望と思える夜の帳や雑踏に紛れた寂寥感や孤独の只中にこそ働く「主の力」を確信する歩みへと呼び出されたく思います。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-16119617523136635282023-10-20T18:22:00.003+09:002023-10-20T18:22:29.784+09:002023年10月15日<p> 2023年10月15日 聖霊降臨節第21主日礼拝説教要旨</p><p>「見えないけど、感じる神さまの愛」 小笠原純牧師</p><p>ルカによる福音書 17:20-37節</p><p> 『絶対音感』という本で有名な最相葉月は、2022年10月に、『証し 日本のキリスト者』(角川書店)という本を出しています。最相葉月は、インタビューにあたって何度も聞いた質問というのがあります。【その一つは、自然災害や戦争、事件、事故、病のような不条理に直面してなお、信仰はゆるぎないものであったかということ。神を信じられないと思ったことはないのか。それでも信じるのはなぜかということ】。</p><p> イエスさまの時代、世の終わり・終末が、いつ・どのような形で来るのかということは、とても不安なことでした。ですからファリサイ派の人も、世の終わり・終末はいつ来るのかと、イエスさまに尋ねました。しかしまあそれから2000年ほどの年月がたっているわけです。世の終わり・終末は来るけれども、それはいつ来るか、どのような形で来るのかということは、わからないのです。でも同時に、明日来ないということでもないわけです。いつ来るかわからない。それはイエスさまの時代から変わらないことです。</p><p> 世の終わり・終末に事柄に関わらず、私たちは不安がつきまとう人生を生きています。あるときは信仰のゆらぎを感じる時もあります。神さまはわたしのことを忘れておられるのではないか。神さまはわたしを見捨てておられるのではないか。そのような思いになるときもあります。</p><p> しかしまた私たちは自分が神さまの救いの中に生きていることを感じます。私たちは神さまの愛を感じて生きています。私たちの都合の良いように、神さまが働いてくださるというわけでもありません。現実の生活の中で、私たちは右往左往させられ、不安になったり、悩んだりもします。しかしそうした中にあっても、私たちは神さまの愛を感じて生きています。「ここにある」とか「あそこにある」というように見えるわけではないので、説明をするのがとてもむつかしいわけですけれども、私たちは弱い私たちを支え、導いてくださる神さまの愛を感じて生きています。</p><p> 信仰とはほんとに不思議なものだと思います。いろいろな出来事にあい、もちろん信仰がゆらぐということもあるわけです。しかしそれでも、私たちは神さまの愛を感じて歩んでいます。わたしは、それはとても幸いなことであり、そしてとても平安なことだと思います。</p><p> ぜひ「わたしも共にそのような歩みに導かれたい」との思いをもつ方がおられましたら、私たちと一緒に、神さまを信じて、共に歩んでいくことができればと思います。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-90372398940585517152023-10-13T20:36:00.004+09:002023-10-13T20:36:35.395+09:002023年10月8日<p> 2023年10月8日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨</p><p>「ごめんね。いいよ。謝罪と赦し。」 小笠原純牧師</p><p> ルカによる福音書 17:1-10節</p><p> いろいろな組織が不祥事を起こし、謝罪会見を行います。やはり悪かったことをしっかりと謝罪し、誠実に対応していくということを大切にする社会であったほしいと思います。ウソやごまかしが幅を利かすようになると、私たちの社会はとめどもなく衰退していくだろうと思います。</p><p> 今日の聖書の箇所は「赦し、信仰、奉仕」という表題のついた聖書の箇所です。赦し、信仰、奉仕という個別のことが書かれてあるわけですが、しかし赦し、信仰、奉仕ということを通して、クリスチャンとしての生き方、どのように神さまに向き合いつつ、私たちが私たちの人生を歩んでいくのかということが書かれてあります。</p><p> 私たちはいつのまにか自分の力で生きているような気持ちになってしまいます。「わたしはこんなにしっかりと生きているのに、あの人はどうして失敗したり、罪を犯したりするのだ。怠け者だからだ。悪い奴だからだ」。そうした思いになり、人の失敗や罪を赦すことができないという思いが強くなります。しかし自分の力で生きていると思って高慢になっている私たちに、弱い立場の人をつまずかせるようなことをしてはいけない。またあなたに対して罪を犯した人を赦してあげなさいと、イエスさまは言われます。</p><p> また自分の力で生きていると思っている私たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と願うときに、「あなたの信仰が深いとか、信仰熱心だということが大切なのではなく、信仰の弱いあなたのことを愛してくださっている神さまの憐れみに気づくことが大切なのだと、イエスさまは言われたのです。</p><p> そして神さまが私たちに託してくださった能力を生かして、神さまの前に立つ者として、仕える生き方をしなさいと、イエスさまは私たちに言われました。高慢な思いになるのではなく、あなたに託された良き業を誠実に行なっていくような生き方でありなさいと、イエスさまは言われました。</p><p> 神さまがイエス・キリストのゆえに、私たちを赦してくださり、そのイエスさまが私たちに言われるのです。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」。私たちは欠けたところも多いですから、失敗をしたり、傷つけあったりすることもあります。ですから補い合い、赦しあい、支え合って生きていきます。そしてそうした誠実な私たちの歩みを、神さまは導いてくださり、支えてくださいます。</p><div><br /></div>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4843860973670925757.post-54692031165401737722023-10-07T19:51:00.003+09:002023-10-07T19:51:12.157+09:002023年10月1日<p> 2023年10月1日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨</p><p>「やっぱり世のため人のため」 小笠原純牧師</p><p> ルカによる福音書 16:19-31節</p><p> 「僕がまだ年若く、こころに傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えたくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件をあたえられているわけではないのだと」」(P9)(スコット・フィッツジェラルド、村上春樹訳『グレート・ギャツビー』、中央公論新社)。</p><p> 死は貧しい人にもお金持ちにも、等しく訪れます。お金持ちだからと言って、死なないわけではありません。ラザロはこの世では貧しく大変な生活であったわけですが、死んだあとは天使たちによって天上の宴会に連れていかれ、そしてアブラハムのすぐそばにくることになりました。お金持ちも死にました。たぶんこの世で丁重に葬られただろうと思います。しかし死んだあとお金持ちは陰府でさいなまれることになります。</p><p> ユダヤ教では「ヘセドを施せ」ということが、よく言われます。「ヘセド」というのは「慈しみ」ということです。慈愛というような意味です。箴言11章17節には「慈しみ深い人は自分の魂に益し、残酷な者は自分の身に煩いを得る」という言葉があります。この「慈しみ」というのが「ヘセド」です。ユダヤの人々は小さい頃から「ヘセドを施せ」ということを言われながら成長します。</p><p> 『天国に行くための8つの知恵』という本の中で、ハロルド・S・クシュナーは恩師のヘッシェルの言葉を引用しています。「恩師アブラハム・ジョシュア・ヘッシェル先生の次のような言葉をよく思いだします。「若い頃は賢い人を尊敬しました。しかし年齢を重ねていくにつれて親切な人を尊敬するようになりました」」(P3)。わたしも、なんとなく自分の中でそうした気持ちが出て来たような気がします。そして賢い人間にならなくても、親切な人、良き人でありたいと思います。</p><p> 小さな良き業に励むことは、私たちが悪人に成り果てることを阻んでくれるのです。だから「ヘセドを施す」のです。慈しみを大切にして生きるのです。</p><p> 世の人から笑われるかも知れませんが、私たちクリスチャンは「やっぱり世のため人のため」という心意気で生きていきたいと思います。私たちは一人で生きているわけではありません。私たちは神さまから命をあたえられ、そして周りの人々に支えられて生きています。小さな善き業に励み、神さまの御前に誠実に生きていきましょう。</p><p><br /></p><p><br /></p><p> </p>heianhttp://www.blogger.com/profile/07761315135921214431noreply@blogger.com0