2021年6月17日木曜日

2021年6月13日

 2021年6月13日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨

   「あなたらしいすてきな人に戻る。」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 5:13ー16節

 アメリカの子どもはもともと恥ずかしがり屋ではないけど、両親からいろいろ言われて、良い子にならなくちゃと思っているうちに、恥ずかしがり屋になってしまう。だから学校では「恥ずかしがってはだめよ」と教える。中学校の英語の教科書に書かれてある話を読みながら、わたし自身、自分のことをダメだダメだと思い込まず、「いや、もともと、わたし、もっといい人間だったのと違うの」という思いをもった方がよいのではないかと思いました。

 イエスさまは「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言われました。そんなことを言われても、私たちにはちょっと荷が重すぎるのではないかと、私たちは思います。そんな人前で輝かせるようなものは何もないわ。こころのなかはどうしようもなくどろどろとしていて、悪いことばかりを考えてしまう。口を開くと人を傷つけてしまう。そんな「地の塩、世の光」とか言われても、「そんないいものじゃないわ。わたしは」。

 しかしイエスさまは、あなたたちは地の塩として、神さまから作られているのだ。あなたたちは世の光として、神さまから作られているのだ。イエスさまは私たちに「あなたたちはすばらしい人として作られているのだ」と言われるのです。

 イエスさまは「あなたらしいすてきな人に戻りなさい」と言われます。いつも怖い顔をして怒っているのは、あなたらしくない。いつも不機嫌そうな顔をしてぶつぶつといっているあなたは、あなたらしくない。人に冷たくあたったりするのは、あなたらしくない。

 イエスさまは「あなたらしいすてきな人に戻りなさい」と言われます。そのすてきな笑顔でほほえむあなたに戻りなさい。人が困っていると、すっと手を差し伸べることができる、そのすてきなあなたに戻りなさい。いつもやさしい気持ちで人と接している、すてきなあなたに戻りなさい。弱い立場の人の側にたって、配慮をすることができる、すてきなあなたに戻りなさい。ご飯をおいしそうに食べる、あなたらしいすてきな人に戻りなさい。

 わたしらしいすてきな人に戻って、わたしらしい豊かな歩みをいたしましょう。


2021年6月11日金曜日

2021年6月6日

 2021年6月6日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨

「悔い改めて、新しく始めよう」 小笠原純牧師

マタイによる福音書 3:1ー6節

讃美歌21の424番「美しい大地は」は、フィリピンの讃美歌です。「2.貪りの心が 正義を踏みにじり 貧しい人々の 大地を取り上げる。 喜びの歌声、 涙に変わりはて、 緑のこの土地は 灰色にかわる」。フィリピンはスペインやアメリカといった国々から支配をされた歴史をもっています。そして私たちの国もまた、フィリピンの美しい大地を踏みにじった国の一つです。フィリピンではナショナリズムは、「外国人によって踏みにじられた祖国の大地が泣いている」「正義が踏みにじられ、美しい大地が泣いている」という感じで表されます。讃美歌21の「美しい大地は」という曲は、ナショナリズムということを越えて、もう一歩進んで、「美しい大地は 私たちの神が 与えられた恵み、貴い贈り物」なのだということを歌っています。

洗礼者ヨハネは、人々に悔い改めを迫りました。洗礼者ヨハネやイエスさまの時代というのは、ユダヤがローマ帝国によって支配されていた時代です。乳と蜜の流れる地と言われた大地が、外国人によって踏みにじられている時代でした。苦しんでいる人々や貧しい人々がたくさんいる時代でした。そんな時代、洗礼者ヨハネは、神の国がもうそこまで来ていると告げ、人々に悔い改めを迫りました。神さまはこんなひどい世の中を、いつまでもこのままにしておかれない。この世の中の不正や苦しみや悲しみをつくりだしているのは、私たちが神さまのみ旨に反して生きているからだ。私たちの罪のためだ。洗礼者ヨハネは、そう言って、人々に悔い改めを迫りました。

新型コロナウィルス感染症のために、世界中がこの1年半、格闘しています。新型コロナウィルス感染症に打ちのめされたという気がします。そして持てる者(国)と持たざる者(国)との格差が、明らかになってきています。

いま、洗礼者ヨハネが私たちの世の中に現れたら、私たちに悔い改めを迫るだろうと思います。「新型コロナウィルス感染症のワクチンを打つことができる国と、十分に打つことができない国があるのは、どうしたことか」「貧しい国の人々にも同じようにワクチンを届けていくという世の中ではないのか」「お前たちの社会は、そんなにさみしい社会なのか」。

私たちの世の中が神さまの御心にかなった、良い世の中になりますようにと祈る者でありたいと思います。


2021年5月30日

 2021年5月30日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

「賢いものには見えない。」 小笠原純牧師

マタイによる福音書 11:25ー30節

人は自分の都合の良いように人を動かそうとしたりすることがあります。また自分の考えが正しいから、その考えを人々に知らしめたいと思うことがあります。そしてそのことのゆえに、とても激しい調子で、人を問いただしたりしてしまうことがあります。自分が知恵ある者だと思って、知恵のない人に教えてやらなければならないという思いにかられることがあります。

わたしはこころのなかに激しい思いがあるので、そうした思いに引きづり回されてしまいがちです。正しさを振り回して、人を傷つけてしまいそうになります。そうしたとき、神さまに祈り、そして心を落ち着けなければならないと思います。「穏やかに、健やかに」ということを大切にしたいと思うのです。

イエスさまは神さまのことは、知恵ある者や賢い者にはわからないのだ。それは隠されているのだと言われました。それでは神さまのことは、どういう人がわかるのかということですが、それは幼子のような者だと言われます。幼子のように、素直なこころを持つ者、また社会的な力がある者ではなく、力のない者、そういう人が、神さまのことがよくわかると、イエスさまは言われました。

イエスさまは「わたしに学びなさい」と言われました。自分が知恵ある者、賢い者と思って思い上がるのではなく、わたしに学びなさいと、イエスさまは言われました。そしてイエスさまはご自分のことを、「わたしは柔和で謙遜な者」と言っておられます。ですから、私たちも柔和で謙遜な者になりたいと思います。

あんまり一生懸命になりすぎると、ちょっと疲れてしまうのです。イエスさまは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われました。また「あなたがたは安らぎを得られる」と言われました。ですから私たちは健やかに、イエスさまに従っていきたいと思います。心の中に、「ちょっと、これ、いやな気持ちだなあ」と思うものが見つかった時は、少し、休みたいと思います。「イエスさま、ありがとう」「神さま、ありがとう」という気持ちが、心の中に一杯あるようなそうした歩みでありたいと思います。