2022年12月29日木曜日

2022年12月25日

 2022年12月25日 降誕節第1主日礼拝説教要旨

 「クリスマス、すべての人への良き知らせ」 

               小笠原純牧師

  ルカによる福音書 2:1ー20節

 フェリクス・ホフマンは「クリスマスのものがたり」(福音館書店)という絵本を描いています。フェリクス・ホフマンにしか描けないすてきな絵です。アネット・チゾン、タラス・テイラー夫妻は、「バーバパパのクリスマス」(講談社)という絵本を描いています。バーバパパは小さな子どもでもかくことができるようにとの思いで作られたキャラクターです。フェリクス・ホフマンの「クリスマスのものがたり」と、アネット・チゾン、タラス・テイラー夫妻の「バーバパパのクリスマス」を見ながら、「ああ、クリスマスらしいなあ」と、わたしは思いました。いろんな人がクリスマスをお祝いするのです。これが正しいクリスマスのお祝いということではなく、みんながそれぞれにクリスマスをお祝いします。

 主の天使が言ったように、イエスさまの誕生の出来事は、「民全体に与えられる大きな喜び」の出来事です。すべての人に開かれている出来事です。特定の人に対してもたらされた喜びの知らせではなく、すべての人にもたらされた救いの出来事です。どんな小さな子どもも、バーバパパの絵を描くことができるように、クリスマスもどんな小さな子どももお祝いすることができます。

 イエスさまは馬小屋、家畜小屋で生まれたと言われます。馬小屋・家畜小屋であれば、人だけでなく、馬や羊や山羊も、イエスさまの誕生をお祝いすることができるのです。イエスさまの誕生をお祝いしにきた馬や羊や山羊は、イエスさまを見てどのように思ったでしょうか。「あっ、寝てる。私たちは生まれてすぐ立ったのに、イエスさまはまだ寝てるんだ」と思ったと思います。イエスさまは飼い葉桶で眠っています。人はだれでも赤ちゃんで生まれてきて、そして人に助けられて生きていくのです。人はそのように創られているのです。

 私たちはイエスさまを囲んで、クリスマスをお祝いいたします。飼い葉桶の中で眠っているイエスさまは、私たちの社会が支え合いの社会であり、わかちあいの社会であることを、私たちに教えてくれます。すべての人がクリスマスをお祝いすることができるようにと、救い主イエス・キリストは馬小屋・家畜小屋で生まれ、飼い葉桶の中で眠るのです。

 あなたたちの社会のすべての赤ちゃんが、わたしのようにすやすやと眠ることができるようになる。そういう平和でわかちあいの世の中がやってくる。神さまの御心に叶う平和な世の中がやってくる。救い主イエス・キリストは、私たちに告げ知らせ、飼い葉桶の中で眠るのです。

 救い主イエス・キリストが、私たちの世にきてくださいました。神さまにこころから感謝をして、世のすべての人々と共に、イエスさまのご降誕をお祝いいたしましょう。


2022年12月23日金曜日

2022年12月18日

 2022年12月18日 待降節第4主日礼拝説教要旨

  「神さまの愛に包まれて」 小笠原純牧師

    ルカによる福音書 1:26ー38a節


 マリアがイエスさまの母になるということは、マリアにとって大きな恵みでありました。しかしマリアはこのことのゆえに、大きな悲しみを経験します。イエスさまは私たちの救い主として、十字架につけられるために、この世に来られたのです。マリアはわが子が、十字架につけられて、人々にののしられながら殺されるという悲しみの経験をするのです。マリアの戸惑いや不安は、取り越し苦労ではなく、もともとマリアへの祝福と一体になっていることでした。しかしマリアはそうしたことも含めて、神さまからの祝福を受け入れたのでした。

 経済学者の暉峻淑子さんは、『サンタクロースってほんとにいるの?』(福音館書店)という絵本を書いています。暉峻淑子さんは難民を支援するNGOの活動を通して、多くの現代のサンタクロースに出会ったと言います。多くの善意に出会ったわけです。それは大きな恵みであったと思います。でもまた同時に悪意に出会うこともあったようです。

 マリアのところにもたらされた祝福は、戸惑いと共にやってきました。私たちの住んでいる世界は、いろいろなことがあります。私たちはいつもいつも順風のなか、にこにこと歩むことはできないでしょう。悩みがあったり、戸惑いがあったり、悲しみを経験したり、人に裏切られたり、人から誤解されたりすることがあるでしょう。マリアの生涯もやはりそうでした。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と天使ガブリエルから祝福を受けた、マリアの生涯は、絵に描いたような幸せな生涯ではありませんでした。しかしマリアは、そのときどきの戸惑いのなかで、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」という信仰に生きたのでした。そうしたマリアを、神さまは豊かに祝福してくださいました。

 マリアを祝福してくださった神さまは、私たちをも豊かに祝福してくださいます。神さまは私たちのために、イエスさまを送ってくださいました。イエスさまはいつも私たちと共におられます。

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。

 「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」。

 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。

 私たちは神さまの愛に包まれています。力ある方が、私たちを守り、祝福してくださっています。神さまの愛に包まれて、イエスさまと共に、こころ平安に歩みましょう。


2022年12月16日金曜日

2022年12月11日

 2022年12月11日 待降節第3主日礼拝説教要旨

 「さみしさに寄り添われる神」小笠原純牧師

  ルカによる福音書 1:5-25節

 もう一度オートバイに乗ってみたいと思う気持ちと、もう危ないので止めたほうが良いという気持ちがあります。そして乗れないと思うと、ちょっと切ないなあという思いがあります。みなさんも、そうしたことがあるのではないでしょうか。登山に行くのが趣味だったけど、やっぱりもうあぶない感じがして止めたという方もおられるかも知れません。なんか自分の中では納得しているのだけれども、なんかちょっとさみしいなあと思えることがあります。

 ザカリアとエリサベトの間にこどもがいないということは、それはもう二人にとっては納得しているけれども、さみしいと思えることでした。ザカリアもエリサベトももう年をとっていますし、もうこのことについては、ある意味、心の整理をしていたのです。ザカリアもエリサベトも神さまの前に正しい人として、周りの人々から信頼を受けて生きています。「ザカリア、あの人はとても立派な人ですよ。そしてエリサベトもとっても立派な人」。そのようにみんなから言われて生きています。子どもを授かることはなかったけれども、神さまの前に良い人生を送ることができました。でもふと思うと、こどもを授からなかったことは、さみしい気がするのです。そのことはもう納得しているけれども、さみしい気がするのです。

 ザカリアとエリサベトの話を読むとき、私たちはザカリアとエリサベトの願いが叶って、ほんとうによかったと思います。叶えられることのない願いを抱えながら、ザカリアとエリサベトは生きてきました。もう叶うことはないだろうと思っていた願いが叶えられたのです。私たちもまた叶えられることはないだろうと思える願いをもって生きています。なんかちょっとさみしいという思いをもって生きています。だからザカリアとエリサベトの願いが叶えられて、ほんとうによかったねと思うのです。そうした思いをもつ人々が、このザカリアとエリサベトの物語を語り伝えてきたのだと思います。わたしの願いは叶えられるかどうかはわからないけれども、ザカリアとエリサベトの願いが叶えられてよかったねと思うのです。

 ザカリアとエリサベトが子どもを授かるという話は、さみしさに寄り添ってくださる神さまがおられるということを、私たちに教えてくれます。私たちの神さまは、私たちのさみしさに寄り添ってくださる方なのです。こころの底に押し込めている、だれにも見せることのない私たちのさみしさに、神さまは寄り添ってくださり、そして私たちに平安を与えてくださるのです。


2022年12月9日金曜日

2022年12月4日

 2022年12月4日 待降節第2主日礼拝説教要旨

 平安教会創立146周年貴意年礼拝

  「主の恵みの時」 

    洛南教会 井上勇一牧師

  ルカによる福音書 4:14−21節


 平安教会創立146周年おめでとうございます。

 本日の課題聖句、ルカによる福音書4章をみると、イエスの福音宣教の開始場面がある。イエスはイザヤ書61章1節の言葉をもって、福音への神の召命と宣教の目的を語る。

 「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が油を注がれた」と召命を語り、「人を解放し、希望と自由を満たすために」と福音の目的を語る。

 ルカは貧しさ、厳しい社会で排除され、苦しむ者への福音とし、自由と解放とをもって新しい世界の到来をつげるのである。そして、これが神の福音であると宣言するのである。

 しかも、イエスは実際に福音宣教において、貧しき者への福音を示し、苦しむ者へ寄り添い、希望をもたらすのである。召命と行動とがブレない。しかも、最後には十字架の死と復活を以って、貧しきものが神の恵みに与かる道を示すのである。

 このイエスの示した福音に夢と幻とをもって信じた人によって、教会が作られていく。「キリストを主とする」、「キリストの証人となる」ことをブレずに証ししたのが教会である。

 今教会は大きな転換の時を迎えている。今後もブレずに「キリストを主とする、キリストの証人になる」ことは宣教の柱として在り続けると思うが、何かが満たされていない。それが今の教会である。何が足りないのか、キリストを主と告白する「力」、キリストの証人となる「行動」ではないだろうかと思う。

 教会は、このままでいくと、多くの教会が自立性を失い、キリスト信仰の実態を失っていく。「このままでいいのか」と思う時、まず、わたしが祈り求めること、行動を起こしていくことが大切であると信ずる。


2022年12月2日金曜日

2022年11月27日

 2022年11月27日 待降節第1主日礼拝説教要旨

 「自由に解き放たれ」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 21:25-36節

 私たちにとっては、世の終わりというものが、良い悪いは別にして、すぐに起こることとしては、なかなか考えることができません。しかしイエスさまの時代や弟子たちの時代は、世の終わりについての確かな確信というものがありました。世の終わり、終末は、もうすぐそこに来ているというふうに、当時の人々の多くは考えていました。

 終末の出来事、世の終わりの出来事というのは、たしかに恐るべき出来事であるわけです。しかしそれはただただ恐れるべきものであるということではありません。聖書は「あなたがたの解放の時が近いからだ」と言っています。そしてまた、「神の国が近づいていることを悟りなさい」とあります。それはいたずらに恐れたり、あわてたりするのではなく、しっかりと出来事を見据えることが大切だということです。

 終末において、私たちに求められていることは、平静さを失わないということです。それは終末においてだけではなく、私たちの日常の生活のなかでも、同じことです。いたずらにこころを騒がすのではなく、しっかりと出来事を見据えるということが大切です。

 イエスさまは言われました。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。それは「主にあっては、恐れはない」ということなのです。私たちはイエスさまにつながっている限り、何ものからも自由であるのです。びくびくする必要はない。たとえ天地が滅びるとしても、私たちは滅びることはないのです。私たちはそうした平安のなかに導かれています。私たちはイエスさまにつながっている限り、何ものからも自由なのです。私たちは自由に解き放たれて生きることが許されているのです。

 私たちの世の中は、私たちの不安をあおり、私たちの憎しみをあおる、そんな雰囲気に満ちています。私たちは何に依り頼んでいるのかを思い起こしたいと思います。私たちは自分のプライドのために、生きているのでしょうか。私たちは人を憎むために生きているのでしょうか。私たちは、主イエス・キリストによって生きているのです。

 今日はアドベントです。ローソクの灯がひとつ点きました。私たちの心のなかにも、憎しみの炎ではなく、愛のローソクの灯をひとつ灯したいと思います。