2023年10月26日木曜日

2023年10月22日

 2023年10月22日 聖霊降臨節第22主日礼拝説教要旨

「天を仰ぎつつ」 小﨑眞牧師

  ルカによる福音書 19:11-27節

 オープンチャペルにお招き頂きありがとうございます。今朝の聖書日課で与えられている「『ムナ』のたとえ」の話は、自己都合に閉ざしている現代の私たちに対して洞察に富む示唆を与えます。マタイにも「『タラントン』のたとえ」という似た話があります。理解を深めるために、今日の日本社会の貨幣価値に転換すると1ムナは約80万円となり、1タラントンは4800万円です。ゆえにルカは「ごく小さなものにも忠実」と語ります。また、マタイでは異なる額が託され、ルカは全員に同額でした。

 良い僕は、「『あなたの1ムナ』が儲けました、稼ぎました」と、僕自身の資質や判断から解放された視座(ムナが主語、同額の委託)を提供します。さらに「ごく小さな事」への僕の忠実さ(信頼、信仰と同様の言葉)が評価されます。一方、悪い僕は、自分自身の判断や思い(恐怖や不安)が優先され、何もしていません。「主人が厳しい方」との自己判断に縛られ、身動きが取れない状況(自己保身)へ陥っています。

 さて、私たちはこの物語から何を学ぶのでしょう。「1ムナを布に包んでいる僕」は私たち一人ひとりの姿であるのかもしれません。「自分を自分自身の上にだけ築く人間存在は地盤を喪失する。人間が人間になるのは、いつも自己を他者に委ねることによってである(カール・ヤスパース)」との警鐘に耳を傾ける必要があるのかもしれません。教会を教会の上に築くのではなく、教会を外へと委ねることが期待されています。その意味でのオープンチャーチでありたいものです。

 ある哲学者は、私たちを他者から切り離され独立した人間存在(Human being)として捉えるのではなく、関わりの中で変容・変質し続けて「人間になる(Human becoming)」と表現します。さらに他者と共に関わり相互に変容・変質する意味を込めて、Coとの接頭語をつけた「Human Co-becoming」という人間のあり方を提案しています(中島隆博『人の資本主義』参照)。

 私たちは共に変わることのできる存在です。教会自体を「包んだ布(自己都合)」の中から解放していくことが期待されています。私たちの判断基準に縛れ、自身の世界にのみ心を閉ざすのではなく、むしろ、天を仰ぎ、主へと拓かれたいものです。その只中にこそ、「Human Co-becoming」さらには「Human Co-creating」という新たな人間の創造(主の御業)が現出します。絶望と思える夜の帳や雑踏に紛れた寂寥感や孤独の只中にこそ働く「主の力」を確信する歩みへと呼び出されたく思います。


2023年10月20日金曜日

2023年10月15日

 2023年10月15日 聖霊降臨節第21主日礼拝説教要旨

「見えないけど、感じる神さまの愛」 小笠原純牧師

ルカによる福音書 17:20-37節

 『絶対音感』という本で有名な最相葉月は、2022年10月に、『証し 日本のキリスト者』(角川書店)という本を出しています。最相葉月は、インタビューにあたって何度も聞いた質問というのがあります。【その一つは、自然災害や戦争、事件、事故、病のような不条理に直面してなお、信仰はゆるぎないものであったかということ。神を信じられないと思ったことはないのか。それでも信じるのはなぜかということ】。

 イエスさまの時代、世の終わり・終末が、いつ・どのような形で来るのかということは、とても不安なことでした。ですからファリサイ派の人も、世の終わり・終末はいつ来るのかと、イエスさまに尋ねました。しかしまあそれから2000年ほどの年月がたっているわけです。世の終わり・終末は来るけれども、それはいつ来るか、どのような形で来るのかということは、わからないのです。でも同時に、明日来ないということでもないわけです。いつ来るかわからない。それはイエスさまの時代から変わらないことです。

 世の終わり・終末に事柄に関わらず、私たちは不安がつきまとう人生を生きています。あるときは信仰のゆらぎを感じる時もあります。神さまはわたしのことを忘れておられるのではないか。神さまはわたしを見捨てておられるのではないか。そのような思いになるときもあります。

 しかしまた私たちは自分が神さまの救いの中に生きていることを感じます。私たちは神さまの愛を感じて生きています。私たちの都合の良いように、神さまが働いてくださるというわけでもありません。現実の生活の中で、私たちは右往左往させられ、不安になったり、悩んだりもします。しかしそうした中にあっても、私たちは神さまの愛を感じて生きています。「ここにある」とか「あそこにある」というように見えるわけではないので、説明をするのがとてもむつかしいわけですけれども、私たちは弱い私たちを支え、導いてくださる神さまの愛を感じて生きています。

 信仰とはほんとに不思議なものだと思います。いろいろな出来事にあい、もちろん信仰がゆらぐということもあるわけです。しかしそれでも、私たちは神さまの愛を感じて歩んでいます。わたしは、それはとても幸いなことであり、そしてとても平安なことだと思います。

 ぜひ「わたしも共にそのような歩みに導かれたい」との思いをもつ方がおられましたら、私たちと一緒に、神さまを信じて、共に歩んでいくことができればと思います。


2023年10月13日金曜日

2023年10月8日

 2023年10月8日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨

「ごめんね。いいよ。謝罪と赦し。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 17:1-10節

 いろいろな組織が不祥事を起こし、謝罪会見を行います。やはり悪かったことをしっかりと謝罪し、誠実に対応していくということを大切にする社会であったほしいと思います。ウソやごまかしが幅を利かすようになると、私たちの社会はとめどもなく衰退していくだろうと思います。

 今日の聖書の箇所は「赦し、信仰、奉仕」という表題のついた聖書の箇所です。赦し、信仰、奉仕という個別のことが書かれてあるわけですが、しかし赦し、信仰、奉仕ということを通して、クリスチャンとしての生き方、どのように神さまに向き合いつつ、私たちが私たちの人生を歩んでいくのかということが書かれてあります。

 私たちはいつのまにか自分の力で生きているような気持ちになってしまいます。「わたしはこんなにしっかりと生きているのに、あの人はどうして失敗したり、罪を犯したりするのだ。怠け者だからだ。悪い奴だからだ」。そうした思いになり、人の失敗や罪を赦すことができないという思いが強くなります。しかし自分の力で生きていると思って高慢になっている私たちに、弱い立場の人をつまずかせるようなことをしてはいけない。またあなたに対して罪を犯した人を赦してあげなさいと、イエスさまは言われます。

 また自分の力で生きていると思っている私たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と願うときに、「あなたの信仰が深いとか、信仰熱心だということが大切なのではなく、信仰の弱いあなたのことを愛してくださっている神さまの憐れみに気づくことが大切なのだと、イエスさまは言われたのです。

 そして神さまが私たちに託してくださった能力を生かして、神さまの前に立つ者として、仕える生き方をしなさいと、イエスさまは私たちに言われました。高慢な思いになるのではなく、あなたに託された良き業を誠実に行なっていくような生き方でありなさいと、イエスさまは言われました。

 神さまがイエス・キリストのゆえに、私たちを赦してくださり、そのイエスさまが私たちに言われるのです。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」。私たちは欠けたところも多いですから、失敗をしたり、傷つけあったりすることもあります。ですから補い合い、赦しあい、支え合って生きていきます。そしてそうした誠実な私たちの歩みを、神さまは導いてくださり、支えてくださいます。


2023年10月7日土曜日

2023年10月1日

 2023年10月1日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨

「やっぱり世のため人のため」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 16:19-31節

 「僕がまだ年若く、こころに傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えたくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件をあたえられているわけではないのだと」」(P9)(スコット・フィッツジェラルド、村上春樹訳『グレート・ギャツビー』、中央公論新社)。

 死は貧しい人にもお金持ちにも、等しく訪れます。お金持ちだからと言って、死なないわけではありません。ラザロはこの世では貧しく大変な生活であったわけですが、死んだあとは天使たちによって天上の宴会に連れていかれ、そしてアブラハムのすぐそばにくることになりました。お金持ちも死にました。たぶんこの世で丁重に葬られただろうと思います。しかし死んだあとお金持ちは陰府でさいなまれることになります。

 ユダヤ教では「ヘセドを施せ」ということが、よく言われます。「ヘセド」というのは「慈しみ」ということです。慈愛というような意味です。箴言11章17節には「慈しみ深い人は自分の魂に益し、残酷な者は自分の身に煩いを得る」という言葉があります。この「慈しみ」というのが「ヘセド」です。ユダヤの人々は小さい頃から「ヘセドを施せ」ということを言われながら成長します。

 『天国に行くための8つの知恵』という本の中で、ハロルド・S・クシュナーは恩師のヘッシェルの言葉を引用しています。「恩師アブラハム・ジョシュア・ヘッシェル先生の次のような言葉をよく思いだします。「若い頃は賢い人を尊敬しました。しかし年齢を重ねていくにつれて親切な人を尊敬するようになりました」」(P3)。わたしも、なんとなく自分の中でそうした気持ちが出て来たような気がします。そして賢い人間にならなくても、親切な人、良き人でありたいと思います。

 小さな良き業に励むことは、私たちが悪人に成り果てることを阻んでくれるのです。だから「ヘセドを施す」のです。慈しみを大切にして生きるのです。

 世の人から笑われるかも知れませんが、私たちクリスチャンは「やっぱり世のため人のため」という心意気で生きていきたいと思います。私たちは一人で生きているわけではありません。私たちは神さまから命をあたえられ、そして周りの人々に支えられて生きています。小さな善き業に励み、神さまの御前に誠実に生きていきましょう。