2016年7月25日月曜日

2016年7月10日

2016年7月10日 主日礼拝説教要旨
  「見よ、生きている」宇野稔牧師
  (使徒言行録20章7〜12節)
 パウロは二つの願いを抱えていました。ローマとエルサレムに行くことです。この願いは敵地に単身で乗り込むことを意味し、死をも覚悟しなければならなかった程でした。そして出発のためにトロアスに集まるのですが、日曜日の夜彼らとの最後の礼拝が始まります。もう二度と会うことはないだろうと語るパウロの表情から、その決意の深さや厳しさを感じていたのです。
 夕方から始まった礼拝は真夜中になっても終わらず、それほど思いのこもった礼拝をしていたということですが、そこにエウディコという青年がいて居眠りをしていて3階の窓に腰掛けていた所からバランスを崩して落ちてしまったのです。皆は驚いてかけ寄り、生死を確かめると打ちどころが悪かったのか死んでいたのです。
 ところが、そこにパウロがやって来ます。そしてこう云うのです。「騒ぐな、まだ生きている」。果たしてパウロの言葉通り彼は息を吹き返したのでしょうか、本当に死んで蘇ったのでしょうか。事実は何であったかわかりません。ここではパウロだけが「話した」とあるだけです。しかしながら、ここで大切なのはパウロの言葉「まだ生きている」です。人々が「もう死んでしまった」と思った点は、パウロから見たら「まだ生きている」というのです。
 この箇所は「礼拝」について述べています。そして、エウディコという青年は礼拝で私たちの中に何かが起こるということを表しているのです。礼拝とは、死んでいる者が神から「あなたは生きている」との宣言を受ける空間なのです。K.バルトは「祈り手を合わせることは、この世界の無秩序に対する抵抗の始まりである」と云いました。矛盾の中で、矛盾が引き起こす悲惨な悲しみの中で「すでに死んでいる」ような人生を過ごしているかもしれません。しかし、その時、神に向かって手を合わせ祈るそのことが、この世界の矛盾に対する反抗の始まりなのです。この宣言は私たちの中に生きる力と未来への希望を与え、現実の中で「起き上がる」力を与えられるのです。礼拝はいのちの泉です。

2016年7月17日日曜日

2016年7月3日

2016年7月3日 主日礼拝説教要旨
  「イエスの名によって」宇野稔牧師
  (使徒言行録4章5〜12節)
 この箇所はペトロの説教の一部です。ペトロは「あの方は十字架にについて殺されたけれど、復活したイエスの名による」と証しをしたのでした。その内容は、当時の権力者を痛く刺激するものであったので、ただちに彼らは逮捕されたのです。
 その翌日イエスを十字架につけた同じメンバーによる詰問がなされます。つまり、自分の命惜しさにイエスを見捨てて逃げた者であるということを承知していたので、「何の権威によって行ったのか」という脅しをかけるのです。尻尾を巻いて退散するだろうと計算していたに違いありません。
 ところが、ペトロは逃げるどころかその証人喚問の場でイエスこそは救い主であると説教したのです。並み居る神学者、律法学者、祭司、議員を前にして一介の漁師に過ぎない彼が、「この人による以外に救いはない」と語り、救い主はイエス・キリストのみである、と云ったのです。つまり、この世界において本当の権威を持っているものはイエス以外にないということです。
 「救い」とは何でしょうか。悲しみや痛みからの一時的な逃避でしょうか。もちろん人間はある時には慰められる事を必要とします。しかし、慰められることだけが救いの最終の目標でしょうか。そうではありません。イエス・キリストの救いとは、人を変えることです。その一番の証がペトロです。ユダヤ人を恐れて逃げ出した彼が、今は同じユダヤ人を相手に堂々とイエス・キリストを証ししています。恐れなく自由に語り行動しているのです。
 イエスは私たちの主です。しかし、権力をもって支配する主ではありません。救いの主なのです。そして愛の主なのです。主イエスの愛を全てに優る権威として受け止める時、私たちは主イエスによって変えられ、どんな不安にも虚無にも優る力を得、恐れなく堂々と自由に生きることが出来るのです。それこそが、主イエス・キリストが私たちにもたらされた救いなのです。
 キリストを直視し聴き従うことです。

2016年7月11日月曜日

2016年6月26日

2016年6月26日 主日礼拝説教要旨
  「自分をかけて求める」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書10章46〜52節)

 イエスはエリコを通られます。ここは交通の要所でローマ、ギリシャの影響を多大に受けています。エリコはヘロデのお膝元でもありました。イエスがその町で視力に障害のある人で物乞いがいたのですが、その人は「ダビデの子、イエスよ。私を憐れんで下さい」と叫び続けます。しかし人々は彼を叱りつけます。何故でしょうか。
 ここで目の見えない人にイエスを紹介するのに「ナザレのイエス」という言い方をしていますが、マルコに4回出てきます。全ての場合イエスに対する無理解や悪意のようなものの存在を感じる紹介の仕方です。
 ヘロデの街エリコで「ナザレのイエス」だと紹介されたにも関わらず、彼は「ダビデの子、イエスよ」と言ったのです。この違いに注目しましょう。こう叫んだということは「私たちの救い主イエス」と大声を上げたのです。ここはヘロデの本拠地です。ユダヤ人にとっては、救い主はローマの支配からの解放してくれる指導者のことです。民がヘロデ以外の「真の」王を求めているという意味の言葉だったのです。
 これが信仰なのだとマルコは伝えたいのです。すでにキリストは十字架につく決心をしています。いわば、イエスも生命をかけて下さっているのです。しかしそれに対して私たちがかけるものが小さければ、イエスの愛の大きさが判らないのです。この一人のハンディを持っている人が自分をかけてイエス・キリストに救いを求めた時、イエスの愛の大きさを知ることが出来たということではないでしょうか。
 エリコという一番のヘロデの足下で、なお自分をかけて救いを求めたこの人の信仰に学びましょう。彼には神からの憐れみを受ける以外に生きる道がなかったのです。そこに叫び求めていく姿勢なのです。すると、その時イエスは立ち止まって「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」とあります。私たちもイエスに立ち止まって下さるよう求めて行かねばならないのです。はっとさせるものは何でしょうか。自分をかけて求める叫びでもあります。

2016年7月5日火曜日

2016年6月19日

2016年6月19日 主日礼拝説教要旨
  「一番になって何をする」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書10章32〜45節)

 今朝の聖書に出てくるイエスは実に厳しい顔をしています。弟子たちは「驚き、従う者たちは恐れた」と記されています。イエスはここで3度目の「十字架の予告」をします。十字架への苦難の道が極めて具体的に迫っているということです。イエスの決意は受難の道であり辛い道行です。
 さて、その足下で弟子たちは何を感じていたのでしょうか。ヤコブとヨハネが内緒でイエスのもとに来て「あなたが王座に就かれる時は、左大臣右大臣にしてください」と頼んだというのです。師であるイエスが十字架に向かうために決死の歩みをしている足下で、弟子たち皆んが「誰が偉いのか」といい争いをしているのです。
 この弟子たちの姿をどう見、どう考えるでしょうか。イエスの荘厳な決意を前にして弟子たちはなんという愚かで、滑稽なことかと考えます。しかし、よく考えると私たちはこの弟子たちの姿を笑うことは出来ません。なぜなら、弟子たちは私たちの日常の生き様そのものだからです。イエスと一緒に生活しながら、イエスのことを全く理解出来ず、自分の事だけしか考えていないのです。
 そのような私たちに向かって「偉くなりたいなら、仕える人になりなさい」と言われるのです。同じ話が9章33節でも語られております。この繰り返しの中で、愚かで滑稽な弟子たちに対するイエスの愛を見るのです。このような弟子たちを最後の最後まで見捨てず、諦めず、希望を持ち続けるイエスの深い愛を覚えます。
 これがイエスの闘いです。愛を行う闘いです。目的は勝利ではなく、神の御心が行われているかどうかです。愛の目的は相手を立てること、「仕える」ことです。十字架の道は生命を失うという完全な敗北ですが、イエスはこの道を歩んでいます。この世的に考えて勝利かどうかではなく、神の御心が行われてるかどうかなのです。
 その歩みこそが本当の勝利だったのです。