2019年10月27日日曜日

2019年10月20日

2019年10月20日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨
 「びくびくするのも、ほどほどに」 小笠原純牧師
    ルカによる福音書 19:11~27節
 「これ」という賜物があればなあというふうに思うときが、わたしにはあります。でも、一方で、「小笠原さんにはそこそこの賜物しか与えてないのに、まあよくやっているんじゃないかなあ」と、神さまは思っておられるのではないかと思っています。
 今日の聖書の個所は「ムナのたとえ」という表題のついた聖書の個所です。このたとえは主人が10ムナを僕に渡して商売をさせるというたとえです。1ムナで10ムナもうける人、5ムナもうける人が誉められます。そして1ムナをそのままにしていた人が叱られるという話です。一般的には、「賜物を用いない人はだめである」という話です。しかしもう一方でこの話は、世の終わり・終末の関連で、イエスさまは話されています。1ムナをそのままにした人を叱った主人は、自分は人を裁く人間だと思っているわけですが、世の終わり・終末のときに、みんな同じように、神さまの裁きの座に立つことになるのです。世の中にはこの主人のように恐ろしい人がいて、びくびくしてしまう私たちですが、しかし神さまはそんな弱い私たちを守ってくださる力強い方なのです。
 なんかびくびくしてしまって、本来であればできるかも知れないことも、できないと思ってしまうこともあります。自分がやらなくても、もっと自分より上手にできる人がやってくれるのではないかと思って、「まあいいか」と思うこともあります。周りの人たちが上手にしているのをみると、なんか気後れしてしまうというようなこともあります。  私たちの神さまはなんとなく気後れして何もできない私たちに対して、「その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ」と叱り飛ばすような方であるとは、わたしは思いません。ただでもせっかく神さまが与えてくださった賜物が、十分に用いられないのであれば、やっぱり神さまはちょっと残念に思われるだろうと思います。「小笠原さんには、この賜物を与えているのに、なんで小笠原さん、それを用いようとしないのかなあ。ちょっと、残念やなあ。この賜物用いて、いい働きすると思うんやけどなあ」。
 びくびくするのも、ほどほどに。あんまり大丈夫かなあ。大丈夫かな。できるかな。心配だなあと、思うのではなく、喜んで、神さまに用いていただく者でありたいと思います。少々、失敗をしても、神さまが助ける人を備えてくださり、良きようにしてくださいます。神さまに用いていただき、幸いな歩みをしたいと思います。

2019年10月22日火曜日

2019年10月13日

2019年10月13日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨
  「良いお金持ちになる方法」 小笠原純牧師
    ルカによる福音書 16:19~31節
 和田洋一の「新島襄」によりますと、「幼いときから新島は貧乏のつらさに泣くことはなかった」そうです。新島襄は同志社の設立と運営のために一生懸命に働きます。その資金の多くは海外の教会や宣教団の資金によるものでした。新島襄は、良いことのために用いるのであれば、お金はだれから出してもらっても良いと思っていました。そして教会に連なる良い人々、良いお金持ちが新島襄を支えました。
 今日の聖書の個所は「金持ちとラザロ」という表題のついた聖書の個所です。金持ちはこの世で良い暮らしをし、そして天に召されたあとは陰府で苦しんでいる。ラザロは世の世で苦しい生活をし、そして天国ではアブラハムの祝宴に招かれている。金持ちは自分の兄弟たちがこんなひどい目に合わないようにと、ラザロを遣わして兄弟たちに伝えてほしいとアブラハムに言います。しかしアブラハムは「モーセと預言者」(聖書)に耳を傾けていれば、このような目にあることはないと言いました。
 神さまは私たちに命を与えてくださいました。今日も私たちは神さまから命を与えられて生かされています。その命はわたしが作り出した命ではなく、神さまから与えられた命です。どんな金持ちも自分の命を自分で作り出したわけではありません。その命は神さまから与えられたものです。そのことをわきまえないで、私たち人間は生きていくことはできないのです。私たちには金持ちになる方法が示されているのではなく、「良い」金持ちになる方法が示されています。  
 私たちはいつのまにか、自分が自分の力で生きているかのように思い込んでしまうときがあります。そして順調な時は得意になり、自分以外の人々が怠け者であるかのような気持ちになるときがあります。「自業自得だ、自己責任だ」と、恥ずかしげもなく語り始めるときがあります。私たちの時代の病は深く、世の中自体が神さまの御心に反することに対して、それこそが正しいことのような雰囲気が漂ってしまうときがあります。  
 しかしそれは正しいことではありません。人は神さまから命を与えられ、そして神さまから与えられた賜物を用いて生きていきます。そして互いに思いやりながら、互いに愛し合いながら、互いに寄り添いあって生きていく。それが、神さまが私たちに示しておられる歩みであり、祝福された良き歩みなのです。








2019年10月14日月曜日

2019年10月6日

2019年10月6日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨
  「人間に戻る」 桜井希牧師
    マタイによる福音書 14:13~21節
物語は人里離れたところで休もうとされたイエスを追って、大勢の群衆がやって来るところから始まります。「女と子供を別にして、男が五千人ほど」とありますから、実際は一万人を超えていたでしょうか。その中には病人がいて、病人を連れて来た家族や友人がいたはずです。そうした人々を前に、イエスは病人を癒し始めたのでした。病人の列は途切れることがありません。日はかげり、夕暮れ時となりました。傍らにいる弟子たちは、群集が疲れ果て空腹のまま置かれていることを重々知っていました。もちろん自分たちもお腹がすいてきたはずです。しかし、お腹をすかせた人々を前にして自分たちだけが五つのパンと二匹の魚を食べるわけにもいかない。そこで弟子たちはイエスの活動を止めさせ、群集を解散させようとようとします。それに対してイエスは言うのです。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と。
 自分が持っているものや能力ではどうすることもできない現実がある。そうであれば、目の前の現実をなくしてしまえばいいのです。群衆にはそれぞれの責任でなんとかしてもらうしかない。彼ら彼女らの空腹は自分たちの責任ではないからです。もちろん弟子たちだって、最初は群衆を見て「かわいそうに」と思っていたはずです。しかし彼らは、事が我が身に及ぶと、自分にはそんなことできないと逃げようとします。
 そのような弟子たちに、イエスは自分の手で食べ物を配るよう命じます。それは目の前の人々を「大勢」として一括りにしていた彼らを、その一人ひとりと出会わせるためではなかったかと思うのです。食べ物を配りながら、弟子たちには一人ひとりの苦しみや悲しみが見えてくる。パンをもらって喜ぶ子供の顔、泣きやむ赤ちゃんの顔、安心する親の顔、そこには感謝と喜びの出会い、ひと時の交わりがあったことでしょう。弟子たちにしてみれば、群集は「人数」から「人間」に戻ったのではないでしょうか。いやむしろ、弟子たちが人間に戻ったと言うべきでしょう。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」というイエスの言葉は「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と言って立ちすくむ私たちに、人と出会う勇気を与えてくれるのではないでしょうか。

2019年10月7日月曜日

2019年9月29日

2019年9月29日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨
   「『赦して』と言えないけれども、ごめんなさい」 小笠原純牧師
     ルカによる福音書 15:11~32節
 放蕩息子のたとえには、限りなく深い神さまの愛が示されています。おろかな息子を愛して、愛してやまない父の姿として、神さまの愛が表されています。
 この放蕩息子のたとえのクライマックスは、帰ってきた息子を父が抱きしめて迎えるというところでしょう。そうしたことから考えると、前半で終わっていても良いと思います。そうしたら心地良い話として、このたとえは語り伝えられただろうと思います。しかし後半に兄が出てきて、なんとなく心地悪い話で、たとえは終わることになります。
 この放蕩息子のたとえには、どうして前半と後半があるのか。わたしはここに二つの問いかけがあると思います。一つは、「神は赦しても、わたしは赦せない」という問いかけと、「赦さない人がいる中で、わたしは神さまから赦されても良いのか」という問いかけです。
 放蕩息子のたとえは、前半と後半があることによって、私たちに人を赦すことのむつかしさ、また神さまから赦されているということがただならぬ出来事であることを、私たちに教えています。私たちの罪が赦されている。神さまが私たちの罪を赦してくださっているということは、本来はありえないような出来事であるということです。  
 神さまに対しても、また直接迷惑をかけてしまった父に対しても、弟は赦しを乞います。そして「もう息子と呼ばれる資格はありません」と言い、本来、赦してもらいたいと言うようなおこがましいことを言うべきことではないのだと言っています。たやすく「赦してください」などと言うことはできないと思う。人が「あなたのことは赦さない」と言うのは当然だ。そのようなことをしてしまったのだから。赦されないことなのだ。そうしたことをわかった上で、それでも赦しを乞う以外にないということです。  
 弟は、「「赦して」と言えないけれども、ごめんなさい」と言いました。 赦されない、赦されないことだと思うけれども、しかし神さまの憐れみのうちに生きていくしかない。それが自分の罪に向き合う人のありようであると、聖書は私たちに語っています。  
 そして、私たちがどんなにおろかで罪深いものであったとしても、神さまは私たちを愛しておられる。私たちを憐れみ赦してくださる。放蕩息子の父親が、弟が帰ってくるのを待ち続けたように、神さまは私たちが神さまのところに帰ってくるのを待っておられます。 神さまの深い愛に感謝して、悔い改めつつ歩んでいきましょう。