2019年6月24日月曜日

2019年6月16日

2019年6月16日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨
  「空のカラス・野のアザミ」 木村良己牧師
   ルカによる福音書 12:22~31節

(1) 「等価交換の法則」に生きる現実!
(2) 「空のカラス・野原のアザミ」
■「空の鳥・野の花」と呼ばれる有名なテキスト。教会学校に通っていた頃のCSカードでは、両手を天に向けて広げたイエス様がいて、その手の周りを小鳥が舞っていて、足下には百合が咲いているイメージだった。しかし「空の鳥」は、ギリシャ語では「コラクス」という言葉が使われ、マタイでは「鳥」、ルカでは「カラス」と特定されていて、小鳥ではない。また「野の花」は、ギリシャ語では「クリノン」という言葉が使われ、マタイでは「野の花」、ルカでは「野原の花」と訳されている。かつて文語訳聖書で特定された「野の百合」というよりは、棘があってはびこる「野アザミ」ではないかとの説もある。何しろ「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草(28節)」という表現が続くのだから。 
■イエスが「空の小鳥・野の百合」ではなくて、「空のカラス・野原のアザミ」を考えてみなさい」と語ったのだとしたら……? あなたがたカラスのように疎まれ、野アザミのように厄介者扱いされている者たちよ。神はあなたがたにこそ目にとめ、美しく装ってくださる。まさに、切り捨てられ、排除を余儀なくされた人たちへの励ましと祝福に満ちた言葉、その一方で奢り高ぶる人たちへの厳しい批判に満ちた言葉、それが元来イエスが語った「空の鳥・野の花」=「空のカラス、野のアザミ」のたとえだったのではないか?
(3) 「父に感謝する日」(6月第三日曜日)
■「…親とは、5人いるのに4切れしかアップル・パイがないのを見ると、即座に『パイは好きじゃないの』という人のことだ!」
(4) 「等価交換を超えた法則」
■「等価交換の法則」=「Give and Take」というよりは、「等価交換を超えた法則」=シンドサを抱えた仲間たちへの「えこひいき」に満ちた愛が、聖書には描かれている。イエスが指し示した「空の鳥=カラス」や「野原の花=アザミ」に目をとめ、その背後で働く「見えざる御手」の導きに想いを馳せると共に、「ただ、神の国を求め(31節)」、「喜びながら犠牲を払って生きる」…そんな生命(いのち)の使い方でありたい。

2019年6月17日月曜日

2019年6月9日

2019年6月9日 ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝説教要旨
  「聖霊降臨」 榎本栄次牧師
     使徒言行録 2:1~13節
 今日はペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝を守っています。イエス亡きあと、弟子たちは人々からの迫害を恐れて隠れて集まりをしていました。そのような弟子たち一人ひとりの上に聖霊が下りました。すると彼らは怖れを捨て、外に出て人々の言葉でみ言葉を語り出しました。ペンテコステの出来事です。今日は教会の誕生日です。 
 教会という言葉には二つの呼び名があります。一つはエクレシア(集められた者)です。集められた者は、無欠陥のエリートたちではなく、むしろ世間からははみ出した変わり者であり、負け組の閉じこもりの人たちでした。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マタイ9:13)と言われたとおりです。
復活後、主イエスは「力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒言行録1;4)と言われました。教会は、逃げ込むところです。集められた者は、祈ります。泣きます。助けを求めます。待ちます。叫びます。共に食事をします。話を聞き合います。そこに聖霊が下るのです。完全な受身形です。牧師も信徒も待つ者でなければなりません。
もう一つはディアスポラ(散らされた者)という言葉です。外に出ていくのです。追い出されるという意味もあります。遣わされたところでもあります。そこは「狼の群れに羊を送り込むようなもの」(マタイ10:16)です。礼拝を終え、ここからそれぞれ違ったところに散らされていくのです。その散らされた所が、ディアスポラとしての教会、キリストの体です。キリストは弟子たちを「強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」られました。(マタイ14:22)教会が教会になっていくためにはこの二つのことが必要です。
聖霊を与える。その約束を頂くために私たちは週毎に集まってくるのです。そして、主の使命を受けて散らされていくのです。約束を信じ待つ時、必ず主は助け主を送って下さいます。そこに主の教会があるのです。

2019年6月10日月曜日

2019年6月2日

2019年6月2日 復活節第7主日礼拝説教要旨
  「歩いて七日」 桝田翔希伝道師
     マタイによる福音書 28:16~20節
 ペンテコステを控えた6月2日から8日は、「アジアエキュメニカル週間」と呼ばれ、様々な状況にあるアジアの教会やキリスト者を、教派を越えて覚える時とされています。京都教区では40年間「ネパール・ワークキャンプ」の活動が現在まで続けられてきました。この活動は、人と人が出会い学びあう「草の根の活動」というあり方が大切にされてきました。私もワークキャンプでネパールを訪れた時、様々な出会いを与えられました。ある時、ネパール語を話すことができる研究者の方と一緒に、いつも滞在していた村に行きました。村のおじいさんはいつも私たちに微笑みかけ、世話をして下さいました。おじいさんと研究者の方が話しておられるのを見ていると、急におじいさんは銃を構えるジェスチャーをしました。何のことかと思い後で聞いてみると、「内戦で娘が殺された、という話だった」との事でした。よく行く村でしたが、私たちが想像できないような歴史を人々が抱えていたことに衝撃を受けました。人と人が出会う、そして異文化の中で出会うということの難しさを感じました。
 復活した後、最後にイエスはガリラヤの山で弟子たちに語りかけます。無残に殺されたイエスを前にして「疑う者(17節)」もいましたが、「命じておいたことをすべて守るように教えなさい(20節)」と山の上で語ります。「命じておいたこと」とは、マタイによる福音書の文脈で考えると、生活での実践的な教えを次々と語った「山上の説教」の場面が思い出されます。みんながいきいきと生きるために、それらを教えて「すべての民」を私の弟子にしなさいと語るのです。
 ここで「すべての民」という言葉は、ある研究者によると、当時のギリシャ語用法から「個人個人」という意味が強いのではないか、とも考えられます。「速さ」が求められる情報化社会の中で生きる私たちは、少しの労力で大人数を扇動することも容易な時代に生きています。「すべての民」と言われると、大人数を相手にするように命じられているような気になります。しかし、この後で弟子たちは疑いをもつ者もいながら、自らが歩き語り伝えるものとなりました。それは、「速さ」を重視した扇動ではなく、「個人個人」と出会いながらゆっくりとなされる「草の根」のようなものであったように思います。効率が求められる今日にあって、私たちはどのように出会い、語っているのでしょうか。