2017年3月27日月曜日

2017年3月12日

2017年3月12日 主日礼拝説教要旨
  「終りの日という希望」宇野稔牧師
   (マルコによる福音書13章24〜27節)

 終末の記事のクライマックスになります。イエス・キリストの終末に関する預言が3節から始まったのです。その最後に生じるのは世界の崩壊だというのです。しかし聖書が本当に云いたいことは「世の終りがあって、人々が滅ぼされる。そして一部の人だけが救われる再臨がある」ということではありません。こう考える人は実際に苦難の中にいないのです。この聖書の最初の読者は苦難の中にある人、そこに迫害が迫っている人なのです。
 迫害の時に人々は追われていきます。人が住まないところ、気づかない所に逃げます。地域的なこともありますが、心理的にもそういう追い込まれた状況にあるのです。遠く閉ざされた果に自分をおいてしまうのです。
 再臨のイエスは、その追われた人を呼び集めて下さるというのです。これはなんと温かい表現でしょうか。
 このイエスの約束に基いて、どんな苦しみ、悩みの中にあっても教会は再臨の希望に生きたのです。私たちは必ず神に呼び集められるのだという希望です。リビングストンという宣教師がいました。彼はアフリカに宣教のために行き、ヨーロッパの人間として初めて大陸を横断した人でした。その中で経験した奴隷制度の現実を伝えた事で、後に奴隷制度廃止に大きな影響を与えたと云われています。どんなことがあってもアフリカへの宣教をやめることはありませんでした。病気で亡くなるまでの後半生を送りますが、彼は「主イエスよ、御心に従いその力強い御手にこの身を委ねることをお許し下さい。私はこの身と私の心配事の全てを主の御手に投げ出します。私の必要とする全てのものをあなたはご存知です」と祈りました。
世界が滅びるようなことが起こったとしても、なお勝る希望が約束されているのですから、主イエスを信じて静かに祈り、互いに愛し合う生活を送りましょう。
 レントの日々、主の十字架の苦難を偲びつつ、懺悔と祈りの時間を持ち、受難節第2週の日々を責任もって歩みましょう。



2017年3月20日月曜日

2017年3月5日

2017年3月5日 主日礼拝説教要旨
  「神のものとして選ばれたから」宇野稔牧師
   (マルコによる福音書13章14〜23節)

 14節に「読者は悟れ」とあります。この言葉はユダヤ人の歴史の中で最も危機的な状況を示唆する用語として用いられたものです。即ち、迫害が極めて深刻な事態に至った時のことが想定されています。
 それに続いて「山に逃げなさい」とありますが、「逃げる」という言葉に良いイメージはありませんが、人間には「逃げる他ない」状況も起こり得るのです。弱い者が一目散に逃げねばならない程の時があること、それが残念ながら人間の現実です。そして、まさにこの時キリスト教が立たされていたのはそういう状況だったのです。

 しかし、キリスト教はそういう事態の中でも礼拝を守り、聖餐式を行ってきました。礼拝から去ったら次の日曜日には共に集まることが出来ないかもしれない危機感の中で礼拝を守っていたのです。驚くべきことに、それでもキリスト教は広がったということです。

 その力の秘密が今日の聖書の箇所なのです。未曾有の苦難の中で、まさに闇のような時代の中で教会はイエス・キリストの言葉に光を見続けたのです。それが「私たちは神に選ばれた」ということです。全てを支配される神に私たちは選ばれているのだから、この苦難には必ず終りがあると信じたのです。

 20節の「期間を縮める」という表現は面白いとお思います。神が歴史に介入して期間を短くして選ばれた者を残すと云うのです。では何故私たちは選ばれたのでしょうか。私たちの方には選ばれる理由も資格もありませんが、神が私を選んで下さったのです。神の意志以外の理由はありません。神の愛以外に理由はありません。

 ですから、選ばれていることを知るのは、神に愛されていることを知ることなのです。教会は迫害の中でも、神に愛されたものとして礼拝を続けたのです。迫害の中で一目散に逃げなければならない程の苦しみの中で、私を生きるのではなく、主の選びを生きるという信仰の系譜を生きるのです。この教会も証の館です。この会堂で選ばれたものとしての証を紡いでいきましょう。


2017年3月13日月曜日

2017年2月26日

2017年2月26日 主日礼拝説教要旨
  「大丈夫、心配しなくて良い」宇野稔牧師
   (マルコによる福音書13章3〜13節)

  エルサレム神殿を臨むオリーブ山から、イエス・キリストは自分が崩壊を預言した神殿を眺めている時、そこに4人の弟子が来て崩壊の預言の意味を尋ねます。つまりここには、「大切な秘密が明かされる」という場面設定がなされています。
 神殿崩壊とそれを巡るユダヤ人の悲惨な命運、それ故に更に苦しい状況に追い込まれる教会の姿を目の当たりにしながら、この章は書かれています。つまり、終末の預言であると同時にその時のキリスト者の現実そのものでありました。
  混乱の時代の中で「わたしこそ救い主である」と名乗るものが現れ世界を混乱に陥れました。救いの望みをかけている人たちを悲惨の中へ導いていきます。まさに「惑わし」です。そして戦争です。ユダヤ戦争はユダヤ地方だけでなく、世界に散らされた非ユダヤ人との戦いでもありました。さらに教会は地方からも敵視され、迫害を受けました。時代の中で小さい弱い集団であった教会は孤立無援の状態に追い込まれていたのです。
 その教会の最後の希望が「証をすることになる」というイエスの言葉でした。キリスト教は迫害によって散らされますが、その先で新たな教会を築いて行くのです。迫害が証しの機会となると信じ難い経験をするのです。イエスは「最後まで耐え忍ぶものは救われる」と云っていますが、この耐えるとは待ち望むことです。裏切りや策略にあっても神の愛への希望を持ち続けるということに他なりません。
 時には自分にも世界にも絶望的な思いになるかもしれません。私たちはそこで「耐える」のです。希望を失わず、愛を諦めてはなりません。希望をもって愛を生きる者になるのです。見るべきものはイエス・キリストであり、その言葉です。困難の中にある教会へイエスの言葉をつきつめて云うと「大丈夫、心配いらない」という事です。教会はその言葉だけを頼りに迫害の時代を歩んだのです。
 まさに、それが証しでした。力で敵を制圧するのでなく、耐える力によって何が真実かを証ししていくのです。その教会の姿に学びたい。


2017年3月6日月曜日

2017年2月19日

2017年2月19日 主日礼拝説教要旨
  「主が受け入れて下さるから」宇野稔牧師
   (ルカによる福音書4章16〜30節)

 イエスが公生涯を始めてから、故郷であるナザレに戻って礼拝を守った時のことです。イエスがイザヤ書を朗読しその解説しました。「会堂にいる全ての人の目がイエスに注がれていた」とある通り注目の中で「このことばは今日実現した」と宣言したのです。
 故郷であるナザレでは歓迎されない中で、何故イエスは今日実現したという言葉を発したのでしょうか。前半の穏やかな部分と後半の大荒れの部分をつないだ言葉の故に。
 イエスはイザヤ書を読みました。解放と救いの預言の箇所を朗読して、宣言するのです。「今日、救いは実現した」と云われたら神の民であるユダヤ人は飛び上がって喜ばねばなりませんでした。そして、救いが実現した者として生き始めなければならなかったのです。
 ところが彼らは、その宣言を受けていながら、ただ「聞いて喜んだ」だけだったのです。御言葉は実現したという宣言は契約としてなされたものです。契約であるということは、守った人間だけがその味を味わうことが出来、契約を守らない者は契約の受け手になることは出来ない。約束にまともに従って行かなければその約束の成就を見ることは出来ない。私たちが神の言葉を信じたなら、神は真実な方であるから、その約束を守って「下さる」という現実に出会い、その体験が大切なのです。
 私たちは、神が人となってこの世界に来て下さった。それくらい私たちを愛しておられると云うことを聞いています。どんなに苦難の時にも、それは私たちにはそう見えるだけで、実は神は最善をなして下さっていることを聞いています。神は決して見捨てず共にいて下さり歩む力を下さるということも聞いています。それでイエスは「それをあなたは実現したと信じるか、この言葉を信じて生きているか」と尋ねておられるのです。
 ナザレの人々は、イエスを歓迎せず、町の外へ追い出し殺そうともしました。私たちはどうでしょうか?
 この言葉は実現したと信じて生きること、それをイエスは望んでおられるのです。私たちは主が全てを受け入れて下さっているのだから。