2021年1月28日木曜日

2021年1月24日

 2021年1月24日 降誕節第5主日礼拝説教要旨

   「悔い改めよ。天の国は近づいた。」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 4:12ー17節

 年末は紅白歌合戦をみるのを楽しみにしていました。まあ一年に一度は、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」か「天城越え」を聞きたいというのもあるのですが、もうひとつはその一年間ではやった歌をいくつか聞くことができるからです。ことしは、「NiziU」の『Make you happy』と、「瑛人」の『香水』も初めて聞きました。

 私たちの時代にはやりすたりがあるように、イエスさまの時代にもはやっているものがありました。それは「世の終わり・終末」ということです。神さまの前に自分の歩みを悔い改めて、神さまのところに帰ってくる。世の終わり・終末は近づき、神さまの国は近づいている。

 洗礼者ヨハネも、イエスさまも「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言うわけですから、同じことを言っているようではありますが、しかし微妙に違っています。洗礼者ヨハネが語る世の終わり・終末は「裁き」の傾向が強いですが、イエスさまは神さまの愛を語られました。

 イエスさまが言われる「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉は、良き知らせです。「天の国は近づいた」。私たちはその祝福に預かることができるということです。「天の国が近づいている。その喜びに私たちは預かることができる」。私たちはそうした幸いのなかに生きている。悔い改めて、神さまのところに帰ろう。そのようにイエスさまは人々に宣言なさいました。はやりすたりを越えて、やはり大切なことがあるのだと思います。そしてイエスさまが私たちに伝えてくださったことは、そういうことです。イエスさまが語られた「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉は、いまも私たちにとっては救いの御言葉です。

 私たちの苦しいこと、悲しいことを知ってくださり、私たちに慰めを与えてくださる神さまがおられる。私たちがつらさのゆえに、神さまから離れさり、どうしようもない人間になったとしても、それでも私たちを探し出して、神さまのところに連れ帰ってくださるイエスさまがおられる。悔い改めの気持ちをもって、神さまのところに帰ろうと思うとき、神さまは私たちをやさしく受け入れてくださる。私たちの苦しみ、悲しみ、つらさを知っておられる神さまが、私たちを天の国へと招いてくださっている。「天の国は近づいた」。さあ、神さまのところに帰ろう。

 イエスさまの招きに応えて、私たちもまた神さまの愛のうちに帰っていきたいと思います。

2021年1月22日金曜日

2021年1月17日

 2021年1月17日 降誕節第4主日礼拝説教要旨

   「「神の国」考」 竹内宙牧師

     ヨハネの黙示録 10:8ー11節

 聖名讃美

 新年を迎えました。昨年から引き続いてのコロナ禍による「不安」が世界を覆っている中での2021年の営みがスタートします。

 堅田教会は近江ミッション(現近江兄弟社)直轄の伝道拠点として築かれ、90年の歴史を刻んできました。ヴォーリズの生涯は、「神の国を求めて」「祈りつつ前進」するものでした。ヴォーリズのイメージした「神の国」は、マルコ4:30-32(「からし種」のたとえ)にあります。

 今日与えられた聖書箇所(黙示録10章8-11節)を通じて、「神の国」を再考したいと思います。

 イェス様が活動されていた時代は、ユダヤ教内で終末思想が渦巻いていた時代でした。終末(神の支配=神の国)はすぐ目の前に迫っている、「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と。

 ユダヤ教的終末論(ダビデ王朝再現に導くメシア待望論)に対するイェスの冷ややかな立場(マルコ4:26-32)。この両者の異なった考えをより明確に受け継いだ内容が黙示録に描かれています。黙19:11-16(11/22)と黙21:1-4,22-27(10/25)です。生まれたばかりのキリスト教は厳しい迫害の時代へと向かいます。皇帝ネロによる迫害、ドミニアス帝による大迫害を経験した著者の思い描いた来るべき世界(神の国)。真逆の世界が示されています。キリスト教世界にはこの真逆の考えが同居しています。私たちはどちらの考えの信仰者となるのでしょうか。今日与えらせた聖書箇所にある「苦さ」を考えたいと思います。


2021年1月9日土曜日

2021年1月3日

 2021年1月3日 降誕節第2主日礼拝説教要旨

   「嘆き悲しむ者と共に」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 2:13ー23節

 莫言の『中国の村から 莫言短編集』の中に「片手」という短編小説があります。中越戦争で負傷し、片手を失った帰還兵の物語です。青年は戦争で片手を失ったけれども、祖国の英雄として迎えられ、いい仕事にもつけて、村の美しい娘と結婚できると思っていたのですが、実際はそうではありませんでした。日中戦争、朝鮮戦争、ベトナムとの戦争など、お国の戦争にかりだされて帰還兵となって故郷の村に帰ってくる。しかし保障があるわけでもなく、農村の暮らし向きはそんなにいいわけでもない。政治に翻弄され、困難を抱えながらも、それでも中国の農村の民は生きてきました。

 為政者に翻弄され、大変な目に合いながら生きてきたというのは、中国の人々だけではありません。内戦状態のシリアなどもそうでしょう。そして昔々のユダヤもそうでした。ヨセフ、マリア、そしてイエスさまは為政者に翻弄されながら生きていきます。イエスさまは生まれて間もなく、難民となり、エジプトへ逃げていかれます。残忍な王さまがいるために、国に帰ることができない。残忍な王さまが亡くなったので国に帰るけれども、でもまだ残忍な支配者がいるので安心できない。なかなか辛い時代です。

 でもそうした辛く悲しい時代にあっても、神さまはイエスさまたちを守られ、そしてイエスさまたちを導かれると、聖書は記しています。【それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった】。聖書は【実現するためであった】【実現した】【実現するためであった】と記しています。いろいろな大変なことがあったけれども、しかし神さまのみ旨が実現していくと、聖書は記しています。つらく悲しい時代にあっても、神さまの御守りの中、イエスさまは成長されたのだと、聖書は記しています。神さまは嘆き悲しむ者を忘れることはないということです。

 イエスさまは私たちと共にいてくださり、私たちを守ってくださいます。私たちに道を示してくださり、私たちの歩みを整えてくださいます。私たちの救い主イエス・キリストは嘆き悲しむ者と共に歩んでくださり、私たちに神さまの愛を教えてくださいます。

 2021年になりました。新しい年も、イエスさまと共に歩みましょう。