2020年12月31日木曜日

2020年12月27日

 2020年12月27日 降誕節第1主日礼拝説教要旨

  「良き志のある世界へ」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 2:1ー12節

 POV教会のメンバーの金田義国先生からのメールには、ときどきアメリカ大統領選挙について記されていました。年があけ、1月20日にアメリカ大統領の就任式が行なわれます。第46代アメリカ大統領として、ジョー・バイデンが就任します。

 バイデンは勝利宣言演説で、こう言いました。【ののしり合いをやめ、頭を冷やし、互いを見つめ直し、互いの言葉に耳を傾け合う時が来たのです。前に進むためには、相手を敵とみなすことをやめなければなりません。敵ではなく、アメリカ人です。みなアメリカ人なのです。聖書は「なにごとにも時がある」と説きます。「建てる時、植えたものを抜く時、植える時、癒やす時」。アメリカは今、まさに「癒やす時」です】。アメリカは「アメリカ・ファースト」ではなく、「世界中で再びアメリカが尊敬される」ことを選びました。自分たちのことばかりを考えるのではなく、みんなで幸せになる道があるということなのでしょう。

 占星術の学者たちは、イエスさまのところを訪れたあと、主の天使の「ヘロデのところに帰るな」というみ告げに従って、別な道を通って、自分たちの国に帰っていきました。「ヘロデのところに帰るな」という言葉は、とても象徴的な言葉です。ヘロデの世界はどういう世界なのでしょうか。それは力の強い人々がいい思いをする世界です。また社会倫理の低い、腐敗の多い世界です。そしてヘロデの世界は幼子を踏みにじる世界でした。

 ヘロデは巧みに誘います。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」。何気ない言葉で私たちを誘ってきます。いろいろなところで、私たちは誘惑にかられることがあります。「いまのご時世だから仕方がないのではないか」などと言われると、「そうかなあ」と思ったりします。しかし誘惑の先にあるものは、悲惨なヘロデの世界なのです。

 「新型感染症が世界中に広がり不安だ」と言われるときであるからこそ、私たちは「ヘロデのところに帰るな」というみ言葉を、しっかりとこころにとめたいと思います。私たちは占星術の学者たちのように、幼子のところに集いたいと思います。

 クリスマス、私たちは救い主イエス・キリストをお迎えしました。お迎えした幼子イエス・キリストと共に、新しい年を歩み始めましょう。


2020年12月25日金曜日

2020年12月20日

 2020年12月20日 待降節第4主日礼拝説教要旨

   「神は我々と共におられる。」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 1:18ー23節

 クリスマスおめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。どんな困難な中にあっても、主イエス・キリストは私たちのところに来てくださり、私たちと共に歩んでくださるということを、いま一度、こころにとめたいと思います。新型感染症のために、悲しい思いをしておられる人たち、つらい思いをしておられる人たち、苦難の中にあって苦闘しておられる方々のところに、主イエス・キリストがきてくださることを、私たちは信じています。そしていまも戦争や貧困、迫害や抑圧の中にあって、苦しんでいる人々のところに、主イエス・キリストは希望となってお生まれになられたことを覚えたいと思います。

 フランスの経済学者で、ヨーロッパ復興開発銀行の初代総裁を務めた、ジャック・アタリは、新型感染症のなか、「生き残りを望むなら、利己主義ではなく、利他主義が自分の利益になることを意識すべきだろう」(日本経済新聞デジタル)と言っています。ジャック・アタリの言葉は、「自分一人が幸せになる道ではなく、みんなで幸せになる道がある」ということを、私たちに教えています。

 イエスさまをみごもったマリアと、「ひそかに」離縁をしようとした「正しい人」ヨセフのところに、主の天使が夢の中に現れます。主の天使は、生まれてくる子どもは、イスラエル全体、世界全体の救い主なのだから、この子と一緒に歩みなさいと、ヨセフに言いました。世界全体の正しさということがある。あなたは「正しさ」という自分が幸せになる道を選ぼうとしているけれども、あなたを含めてみんなで幸せになる道があるのだ。その道は「神、われらと共にいます」という道なのだと、主の天使は言いました。

 世界中で新型感染症が広がり、とても不安な年でありました。「利己主義ではなく利他主義へ」というジャック・アタリは言いました。しかしそのことは、もうすでに私たちが昔から、聖書の言葉として伝え聞いていることです。私たちはずっと、自分の利益になることだけ考えるような、自分勝手なことばかりを大切にする世の中ではなく、共に分かち合い、共に支え合う世の中でなければならないと信じてきました。

 クリスマス、主イエス・キリストは、神さまが私たちと共にいてくださることの証しとして、私たちのところにきてくださいました。お迎えしたイエスさまと共に、恐れることなく、神さまを信じて歩んでいきましょう。


2020年12月19日土曜日

2020年12月13日

 2020 年 12 月 13 日 待降節第3主日礼拝説教要旨

   「主にあって喜ぶ」 小﨑 眞牧師

    フィリピの信徒への手紙 4:4-9 節

 2020 年度は感染症(COVID-19)拡大の猛威に襲われ、グローバル社会の脆弱さに対峙させられた。地域精神医学の専門家によれば、感染症拡大時に人々が抱く感情には、主に“不安”と“恐怖”があるという。この二つは似て非なるもので、“不安”は対象がはっきりしない際の感情であり、対処が難しいとのこと。一方、“恐怖”は対象が明らかなものを恐れる気持ちであり、対象を「排除」することで“恐怖”は取り除かれるとのこと。結果、私たちは不安をコントロール(制御)するため、不安を恐怖へ転化(=仮想敵の想定)する傾向へ陥るとのことである。関東大震災の時の在日韓国・朝鮮人虐殺などの実例を挙げることができる(太刀川弘和「AERAオンライン限定記事」参照)。

 “不安”の対処に関して聖書に学びたく思う。クリスマス物語はマリアやヨセフを始め、人々の“不安”がその中心に据えられている。不安に対峙すべく、聖書日課に従い、パウロの獄中書簡と語られてきたフィリピの信徒の手紙に傾聴する。当時、パウロは過激なユダヤ人やユダ人キリスト者から、獄中同様の不安を強いられていた。その只中で、「主にあって、いつも喜びなさい」(聖書協会共同訳)とフィリピの教会を励ます。「主にあって」とは、「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない(フィリピ 3:3)」姿勢を示唆している。換言すれば、己の腹(自身の過去・成果など)を神としない姿勢である(ロマ 16:18)。さらに「広い心(寛容な心:聖書協会共同訳)」へ招いた。「寛容さ」は「キリストの王的主権」とは異なる寛容さであり、自分の正しさや強さからの解放を示唆している。人間が築いた規則や法律が最終の切り札ではなく、適法以上のものがあることへの招きである。

 宣教の出来事(救い)は人間が制御し得るものではない。自らの不完全性、不十分さの只中に主が介入してくる。ゆえに主の降誕を前に、自身を明け渡す時(「待つ」という時間)が備えられているのかもしれない。哲学者の鷲田清一氏は「待つ」ことを人間の営みの根底に据え、その姿勢への感受性の意義を提示した。「待つ」、それは自身の時間をはじめ、自分自身を他に明け渡すことである。換言すれば、周囲を自己へ同化するのではなく、そのような「貪欲で自己愛的な自我」を放棄すること。そこに異なる他者への広がりが創出する。「主にあって」こそ、自身の期待と異なる真の希望が現れる。


2020年12月11日金曜日

2020年12月6日

 


2020年12月6日 待降節第2主日礼拝説教要旨

   「良き知らせを宣べ伝える。」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 13:53ー58節

 私たちの平安教会は、1876年12月10日に創立し、今年で教会創立144年を迎えます。「平安教会百年史」には、私たちの教会の歴史について書かれてあります。私たちの信仰の先達は自分たちの教会の基礎が定まっていないうちから、近隣の教会との交流、そして地方への宣教・伝道活動を大切にしていました。自分たちの教会のことだけを考えるのではなく、近隣の教会・地方の教会の宣教・伝道のことを考えていたということは、私たちがこころにとめておきたいことだと思います。

 平安教会は烏丸三条に会堂があったわけですが、1973年に岩倉に移り、1973年9月23日に新会堂の献堂式が行なわれています。1973年度の定期教会総会の「教会活動計画」の「1.基本方針」の「2.姿勢」にはこうあります。【a、聖霊の助けにより、すべての人への宣教の責任を果たす教会の形成】。岩倉へ会堂を移したとき、私たちの信仰の先達がしなければならないと考えたことは、「すべての人への宣教」ということです。

 イエスさまは生まれ故郷のナザレに行かれました。ナザレの人々は小さい頃から、イエスさまのことを知っているので、イエスさまのことを信じようとはしませんでした。聖書は【人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった】と記しています。「まあそう言わんと、奇跡を行なってあげたら良いのではないでしょうか」と思いますが、でもそういうものなのだということです。人々が不信仰だと、神さまの霊である聖霊が働かず、あまり奇跡が行なわれない。

 私たちはそんなに力のある者ではないですから、すぐに不安になります。しかし私たちはやはり安易に不信仰に陥ってはだめだと思います。良き思いをもち、神さまを信じて歩むときに、神さまは良き道を備えてくださるのです。

 教会創立記念日を覚えて、私たちはもう一度、思いを新たにして、神さまが私たちに託しておられることを、しっかりと受けとめたいと思います。何のために、私たちの教会がこの岩倉の地に立っているのか。私たちは神さまの御言葉を宣べ伝えること、神さまの愛を隣人に届けていくことを、神さまから託されています。


2020年12月4日金曜日

2020年11月29日

 2020年11月29日 待降節第1主日礼拝説教要旨

   「さあイエスさまをお迎えする準備をしよう」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 24:36ー44節

 アドヴェントに入りました。クランツのロウソクにも灯がともり、ああ、もうすぐクリスマスだなあと思います。今年は新型コロナウイルスのために、大勢で集まることができず、クリスマスの行事の持ち方も、従来とは違います。しかしこころを込めて、イエスさまのご降誕をお祝いしたいと思います。

 昔、馬屋飾りを買ったとき、羊の足が欠けていたことがありました。壊れているので交換してもらおうと思って除けていたのですが、でも考え直しました。「そう言えば、私たちも欠けたところをもっている。そして欠けたところをイエスさまに傷をいやしてもらったり、欠けたところをおぎなってもらったりして、教会に集まってきている。だから欠けていた羊さんは、私たちだ」。欠けていた羊をよけていたなんて、わたしは自分がちょっと傲慢になっていたのではないかと思いました。

 アドヴェントの時期、世の終わり・終末の聖書箇所が読まれます。「アドヴェントとは来臨の意で、主の受肉来臨すなわちクリスマスを迎える心の準備をするとともに再臨の準備の時にもなった」(「キリスト教大事典」、教文館)。アドヴェントは、イエスさまの誕生をお祝いするための準備のときであり、また世の終わりの時にイエスさまがやってこられるのを待ち望むときという意味もあるわけです。

 世の終わり・終末は、ノアの洪水のときのように突然、襲ってくる。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい」と言われています。ぼんやりと生活しているのではなくて、イエスさまがいつ再び来られてもいいように、備えていなさいと言われます。

 私たちは欠けたところを持ちつつも、しかし「心して」、イエス・キリストを待ち望みたいと思います。すばらしいことはできないかも知れないし、欠けたところだらけかもしれないですが、それでも救い主イエス・キリストを待ち望むという思いだけは、はっきりと持ちたいと思います。そして何もお献げすることはできないかも知れないけれども、「ずっとあなたを待ち望んでいました」と言える者でありたいと思います。