2016年4月26日火曜日

2016年4月10日

2016年4月10日 主日礼拝 説教要旨
  「トマスの懐疑の解決」宇野稔牧師
  (ヨハネによる福音書20章24〜29節)

 イエスの復活後、有名なトマスの疑いのところです。トマスはイエスを見るまでは信じられないと意地を張っていました。彼は疑い深い上に人を信じることが出来ない男だったわけではありません。懐疑的というより現代の知識人のように、批判的・客観的に物事を考えようとする人物だったのです。
 要するに実証されるまでは、自分の理性が納得できるまではキリストの復活も信仰の力も信じられないというのです。
 疑うということは正しいことではありませんが、疑いを持ちながら黙っていて内向し、呟きながら去っていくことは更に正しくありません。だから「復活は信じることが出来ない」と率直に疑問をぶつけたトマスの態度はむしろ好ましいものとも言えます。
 しかし、いかなる人間もトマスの疑問を解決することは出来ないのです。どんな証明方法も論理もダメでした。ただ復活の主のみが解決出来たのです。それは何か。出会いです。どうすれば主に会うことが出来るのでしょう。
 私たちが安息日(土曜日)ではなく、主の日(日曜日)に礼拝に集うのは何故か。それは主の復活の記念日だからです。全てのキリスト者にとって復活の主を憶えそのご臨在を確信することなしにどの日曜日も過ぎ去ったことはありません。トマスの疑惑の出発点は皆んなが復活のキリストに出会った最初のイースターの夕礼拝に欠席していたということです。
 トマスだけではありません。現代でも同じように主日礼拝に集まれぬ人は復活の主に接することが出来ません。力も希望も愛も得られないのです。
 しかし、トマスは次の日曜日は出席したのです。閉じられた家の中の密かな集会に過ぎませんでしたが、復活の主は再び来て彼らの中に立ち祝福を与えられました。
 そしてトマスを、信じる者に変えられました。現代でも復活の主を記念する主日礼拝に集う者が、誰にも実証も解決も出来ないこの秘密の力に触れ、確信と希望をもつ者にされるのです。何時までも実証主義にとどまるのでなく、全てをゆだねて信じる者になりたいものです。

2016年4月18日月曜日

2016年4月3日

2016年4月3日 主日礼拝 説教要旨
  「一緒に歩き始められた」宇野稔牧師
  (ルカによる福音書24章28〜35節)


 二人の弟子がエルサレムを離れてエマオに向けて歩いています。途中話しているのはエルサレムでの出来事でした。何かあったのか。それはイエスが十字架に架けられたという事です。その時に弟子もこの二人もどのような態度をとったのでしょうか。それはイエスのことを否認する、あるいは逃げ去るということをしたのです。
 イエスが最も苦しいと感じていた時に弟子たちはそこに居合わせることが出来なかった。自分たちも捕まって十字架に架けられること、殺されることを恐れたのです。だから逃げ去ったにちがいありません。
 このことは私たちにも無縁ではありません。目の前に苦しむ人がいた時に寄り添うことが出来ずにいる。知らぬふりをして通りすぎる、イエスを裏切り見捨てた弟子たちと何ら変わらないのであります。
 二人が暗い様子で歩いていると一人の人が近づいて一緒に歩き始める。それが誰であるかわからない。そして、食事を共にした時に初めてイエスだと気付いたのです。しかしその瞬間にイエスの姿は見えなくなったが、その時、以前イエスに聖書の説き証しをしてもらっている時に心が熱く燃えたことを。ここで気づくことは、イエスは彼らが気づく前にすでに近づいて一緒に歩んでくださっていたということです。この弟子はイエスが十字架に架かった一番苦しい時に、側にいることが出来ず逃げ去った人です。
 その弟子たちにイエスは近づき共に歩んでくださっているのです。裏切り通り過ぎようとしているにも関わらず、私たちに近づき一緒に歩もうとされておられます。
 イエスは、私たちが一番苦しい時に自分を裏切り逃げ去った者のところに再度近づき、安心させ心篤くしてくださるのです。私たちがどんなに苦しい時でも、困難な中にある時も、主イエス・キリストが私たちが気づかないうちに共に歩んでくださっていることを心に留めてしっかりと希望に向かって歩んで行きましょう。

2016年4月11日月曜日

2016年3月27日

2016年3月27日 イースター礼拝 説教要旨
    「主が復活されたのだから恐ることはない」宇野稔牧師
    (マタイによる福音書28章1〜10節)


 主の復活の記事はマタイは女性の弟子が「墓を見に行った」と書き出しています。律法によって安息日には礼拝以外のことは何もできないので、安息日が終わるや否や「墓を見に行った」のだと記しているのです。
 この行動は分かる気がします。深い思いと愛情をもっていた相手が突然の出来事で奪われた時、私たちは何もできないと分かっていても無駄であっても、その近くにいたいと考えるのではないでしょうか。女性の弟子たちは、死を納得していなかったとも言えるでしょう。
 一方男の弟子たちは、行動を起こしていません。彼らは「イエスの仲間として逮捕され処罰される」ことを恐れていたのです。女性の弟子たちは、イエスに従う時は文字通り自分の全てを捨てなければならなかったのです。男子の弟子は帰るところがあったけど、当時の社会状況を考えると女性の弟子はなかったのです。イエス・キリストが全てでしたので恐れなどなかったので、イエスの墓を見に行ったのです。
 「すると」そこに神の出来事が起こったというのです。即ち、神がいて下さったのです。その出来事の前に番兵たちは恐れのあまり死人のようになってしまいます。ここに逆転が起こるのです。権力と武力をもった強い若者が「死人」のようになり、イエスを思う気持ち以外に何ももっていない女性たちが命の告知を受け取るのです(5〜6節)。
 全てを失ってしまったという失意のどん底にあった女性たちに、高らかに復活が告げられるのです。「もう恐れることはない。復活したイエスがあなたと共にいるのだから」、と。
 マタイはイエス自身が女性の弟子たちに表れたのだと記しています。「おはよう」と言っていますが、「喜べ」「平安あれ」と訳されている所もあります。復活のイエスは弟子たちに出会った時「喜べ」と一言言われたのです。「私は復活し、いつもあなたと共にいる」、だから恐れることはない、喜びなさい。これこそ、私たちへの神からの復活の使信(福音)ではないでしょうか。

2016年4月4日月曜日

2016年3月20日

2016年3月20日 棕梠の主日礼拝 説教要旨
  「荷を負う子ろばにのって」宇野稔牧師
  (マタイによる福音書21章1〜11節)
 
 
 今日は棕梠の主日です。エルサレムに入城するイエスを群衆が歓呼のことばで迎えたと云います。イエスの人生の中で最も華やかな情景です。人々はイエスがローマからユダヤを解放してくれるメシアだと期待してお祭り騒ぎを始めたのです。イエスはその真ん中を通り抜けてエルサレムへと進みます。まさに王を迎えるような行為だったのです。
 この歓迎の嵐の中をイエスは子ろばに乗って行くことは滑稽のようですが、マタイはイエスが旧約の預言の成就を行動で訴えたのだと云っています。ろばに乗るのは力の王ではなく、高ぶらない王だと云いそれを「柔和」と記しています。
 つまり真のキリストは人々が求めているような「力の王」ではなく、むしろ外面的には自ら痛み、傷つき、惨めに思えるが内面では激しい闘いをしている、そんな道を歩むというのです。人間の罪を担うため本当のメシアなのだということをイエスは子ろばに乗って示したのです。
 ろばは、持っている力を他者を倒すためではなく、他者の荷を担うという力として用いられるように躾けられたのです。
 イエスは十字架につけられました。真実を生きつつ策謀と誤解の中で死ななければなりませんでした。しかしそのような状況の中でもイエスは生き方を決して変えなかったのです。人間の弱さを担い、人に愛を示すために生きつづけられたのです。外面的には恐ろしい政治の力に翻弄されたように見えます。力弱く志し半ばに倒れたように見えます。
 人々が熱狂してり冷めたりする中で、厳しい闘いが続けられたのです。イエスは十字架の死に至るまで愛する戦いを止めることはありませんでした。強い意志と祈りとが必要としていたからです。優しいということは、真の意味で強いのです。その優しさに私たちは支えられているのです。自らが強いのでなく、支えて下さる方優しく強いのです。その方を信頼しその方に委ねて歩みたいのです。