2024年1月27日土曜日

2024年1月21日

 2024年1月21日 降誕節第4主日礼拝説教要旨

「水汲み人生に起きる最初の奇跡」 宮岡信行牧師

  ヨハネによる福音書 2:1-12節

 イエス様の奇跡は福音のしるしです。カナの婚礼はイエス様の最初の奇跡であり、同時に私たちに与えられた最初のしるしです。そもそもぶどう酒は神様の祝福の象徴であり、婚礼ではぶどう酒こそが最上の喜びでした。ところが、その婚礼でぶどう酒が無くなるという問題が起こります。その時、母マリアだけがイエス様と召使たちを仲介するように声をかけます。母マリアがイエス様にとりなしたことで奇跡の予兆が示されました。そして、これが世にある教会の働き、この地に建てられた教会の役割なのです。喜びを失う世界に教会があるのはなぜか。私たちが主日の礼拝をするのはなぜか。それは神の恵みとキリストの復活を信じる教会の喜びが、この世に神の救いを指し示す大切なしるしになるからです。

 一方で、思いがけない良いぶどう酒の登場に大喜びする宴会の世話役は、まだ天の国の喜び、救いの恵みに気付いていない人の姿です。宴会のような華やかな人生に満足しながらも、見えないものに目を注いでより善く生きるような最上の喜びを知らないのです。私たちの周りにもぶどう酒に変わった水を飲んで大喜びしてもらいたい人がいるのではないでしょうか。

 この時、召使たちが水をくんで淵までいっぱいにした6つの石の水がめはおよそ合計600㍑ほどでした。水汲みは地味で単調な作業です。その努力が形や成果にならず、どれだけ水がめに汲んでも使えば何も残りません。にもかかわらず、イエス様はぶどう酒という喜びがなくなりそうな困難な時にも、いつものように水くみをしなさいと言われるのです。誰もが何の役に立つのか分からなかったことでしょう。ところが、水を汲んだ召使いたちが宴会の世話役のところに水を運んだところ、水はぶどう酒に変わっていました。

 水がぶどう酒に変わる。この奇跡を目の当たりにしたのは、水を汲んできた召使いだけでした。思いがけない神の恵みが広がるところにいた召使いたち。彼らこそ私たち自身なのです。カナの婚礼は繰り返しキリのない水汲みのような人生に、初めて起きた神さまの祝福のしるしを語ります。誰もが楽しむ婚礼の席に、神さまの恵みを持ち込むのは私たちです。喜びが失われたところに最上のぶどう酒を運ぶのは私たちの役割です。これほど喜ばしいことがあるでしょうか。水汲み人生に最初に起きる奇跡、すなわち私たちが主イエスに呼び集められ、教会で礼拝を献げて、この世に証しを立てる、神の救いのしるしになる。この喜びを抱いて歩む者でありたいと切に願っています。


2024年1月20日土曜日

2024年1月14日

 2024年1月14日 降誕節第3主日礼拝説教要旨

「イエスさまに引き寄せられて」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 2:1-22節

 わたしの友人は高校浪人をしているときに、教会の高校生会のキャンプに誘われて、教会に来るようになりました。なんだか引き寄せられるように、教会に来るようになったのです。「高校浪人中だから、勉強をしなければならないので、教会の高校生会の夏のキャンプになんか参加できるわけがないだろう」と言っても良かったわけですが、彼は夏の高校生会の夏のキャンプに参加をするのです。そしてイエスさまに引き寄せられて、彼の信仰生活が始まるのです。

 マルコによる福音書などの、イエスさまの弟子選びの話では、「二人はすぐに網を捨てて従った」というように、弟子たちの側の信仰の勢いのようなことが語られています。信仰とは一面ではそうした、「わたしが信じる」「わたしがついて行く」という面があるわけです。使徒信条のように、「われは天地の創り主、全能の父なる神を信ず」というように、「われは信じる」のです。

 ヨハネによる福音書では、どちらかというと、弟子たちはイエスさまに引き寄せられるように、イエスさまについて行きます。アンデレは洗礼者ヨハネの弟子であったわけですが、「見よ、神の小羊だ」というヨハネの言葉を聞いて、イエスさまに呼ばれているわけでもないのに、イエスさまに従います。ナタナエルなどは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」というようなことを言っていたわけですが、イエスさまと話をして、イエスさまに引き寄せられるように、イエスさまを信じて歩み始めます。

 なんらかの出来事で、教会に来ることになり、いわゆる求道者生活を送るようになりますと、わたしは本当に、神さまを、イエスさまを信じているということになるのだろうか、というような思いにかられることがあります。「わたしが信じている」ということの問題を考えるのです。信仰とは、「わたしが信じている」ということの大切さがあるからです。しかしもう一方で、やはりイエスさまに引き寄せられているということがあるのです。言葉では説明がつかないけれども、イエスさまに引き寄せられて、教会に集い、礼拝を守ります。いつのまにか、「わたしはイエスさまのことが大好きなんだ」という思いで生きるようになります。イエスさまに引き寄せられるのです。

 イエスさまは私たちを招いてくださり、「あなたはわたしの大切な人だ。わたしを信じて、わたしについてきなさい」と、私たちに語りかけてくださっています。イエスさまを信じて、イエスさまにより頼んで歩んでいきましょう。


2024年1月13日土曜日

2024年1月7日

 2024年1月7日 降誕節第2主日礼拝説教要旨

「この方こそ、わたしがついていく方」 小笠原純牧師

 ヨハネによる福音書 1:29-34節

 マーガレット・F・パワーズという人の書いた「フットプリント あしあと」という詩があります。私たちはときとして、神さまはおられないのではないと思えるような出来事に出会うことがあります。イエスさまは共にいてくださると信じていたのに、そのように思えないということがあります。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」(「あしあと」)

 洗礼者ヨハネはヨルダン川で悔い改めの洗礼を人々に授けていました。洗礼者ヨハネは自分のあとに、救い主がこられ、そして世の罪をあがなってくださる。自分はその救い主が来られる前に、少しでもこの世を神さまにふさわしい世にするために、悔い改めの洗礼を授けている、それが自分に与えられた仕事なのだと思っていました。

 洗礼者ヨハネはイエスさまを見て、「わたしが言っていたのはこの方のことである」と言いました。ついにわたしが言っていた方がこの世に来られた。わたしはこの方のために人々に水で洗礼を授けて、悔い改めの洗礼を行っていたのだと、洗礼者ヨハネは言いました。

 洗礼者ヨハネが言いたかったことは、「この方こそ、わたしがついていく方だ」ということです。そして洗礼者ヨハネは実際にそのように生きたのです。イエスさまの前に現れていたのだけれども、しかし洗礼者ヨハネはイエスさまに従って歩んだ人でした。そして人々に悔い改めの洗礼を授けながら、「この方について行きなさい」と、イエス・キリストを証しした人でした。

 イエスさまは私たちを見捨てることはありません。私たちはそんなにりっぱな者ではないですし、力ある者でもありません。しかしそれでも私たちは心の中で、「この方こそ」「この方こそ」、「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをもっています。私たちは自分がこの方の役に立つとか、自分はこの方にふさわしいとかということとは関係なく、ただただ「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをもって、イエスさまについて行きます。

 イエス・キリストは私たちを見捨てることなく、私たちを支え、守り、導いてくださいます。私たちは2024年も、「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをしっかりと思って、イエスさまにお仕えして歩んでいきましょう。


2024年1月5日金曜日

2023年12月31日

 2023年12月31日 降誕節第1主日礼拝説教要旨

「すべての人の救いを見る」 山下毅牧師

  ルカによる福音書 2:21-28節

 クリスマスから数えて8日後の大晦日の日を迎えています。本日の聖書の箇所は、神殿で幼な子であられるイエス・キリストと主を待ち望む熱心な信徒であるシメオンが出会う場面です。この歌は<シメオンの賛歌>と呼ばれます。

 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救いを見たからです。これは万民のまえに整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

 神学者ヘンリ・ナウエンは、<シメオンの賛歌>、イエス・キリストとの出会いは大きな救いの出来事である。老人にありがちな悲観的な見方、気の滅入るような物の見方を打ち砕いてくれます。老いの訪れは、目も耳も開かれ、光に向かう道になる、と述べています。

 何故シメオンはこのような救いの確信を得たのでしょうか。それは、「聖霊」によって、神の霊に捕らえられ、神の霊によって導かれ、神の霊に支えられ、自らの救いのために、イスラエルの救いのために、全世界の救いのために、熱心に祈っていたのです。救いを見るまでは、自分は死ぬわけにはいかないと言う祈りをささげていたのです。 

 祈りは厳しい仕事です。祈りは暇人のやることではないのです。教会に生きる者皆がやることです。いやここにこそ教会の姿があります。神から救われなければ、人間は自分を救うことは出来ません。どんなに知恵があっても、だんなに科学が発達しても、救われる道はないのです。

 シメオンは幼な子を見ました。幼な子イエスという、目に見える事実となったのです。神の聖霊に導かれて、心を開かれたわれわれは、他の人々の見ない神の救いを幼な子イエスの中に見るのであります。――信じてこれを見るものにとっては、ここにシメオンが主ご自身を抱いて与えられたのと同じ、幼な子イエスの恵みにあずかるのであります。私達は、聖霊のみちびくままに、深い祈りに生きたいと思います。その祈りとひとつとなった愛に生きたいと思います。そしてその祈りに答えて、幼な子イエスがわれわれの手に与えられた事実を、年老いていようが、病んでいようが、どんな苦労の中にあろうが、信仰をもって堅く受けとめたいと思います。そして日本の救いのために、世界の救いのために、熱い祈りにひたすら走り続けたいと思います。