2023年5月27日土曜日

2023年5月21日

 2023年5月21日 復活節第7主日礼拝説教要旨

 「いつまでもイエスと共に」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 28:16-20 節

 「とりあえず」とか「キープしておいて」というような生き方を、私たちはよくします。「とりあえず、ビール」と言ったり、バーゲンセールに行って、「とりあえずこのセーターをキープしておいて」というふうに抱え込んで、そしてもっとよりよいものはないだろうかと探したりします。人間関係だけでなく、私たちと神さまの関係を考えたとき、私たちはかなり自分勝手なことばかりしているのではないかと思います。神さまがたえず愛してくれているということを知りながら、その愛に応えることをせず、適当にあるいは自分の好きなときだけ応えているのです。神さまを「キープ君」にしてしまっているわけです。

 マタイによる福音書28章17節には【そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた】とあります。復活の出来事に関して「疑う者もいた」と、マタイによる福音書は言っています。聖書はイエスさまの復活について、信じられない人を何人も描いています。

 椎名麟三というクリスチャンの小説家は、『私の聖書物語』という本のなかで、「キリストは・・・限界があるということが人間の喜びとなり栄光となるためにやって来たのである」と言っています。信じられないという限界のある人間だからこそ、人間とはそういう存在であるからこそ、キリストが人間に働きかけてくれるのだ、ということです。信じられない弱い器である私たちを認め、そのままで神さまは私たちを愛してくださっている。「疑う者がいた」ということから、「疑うやつは極悪人だ」「おまえは疑っていないか」「疑っているのはおまえだろう」というように考えていくのではなく、「自分が疑う者であり、そうした弱い自分を神がそのままで愛してくれている」ということを信じることが、大切だということです。

 私たちはなかなか信じることのできない者であり、イエスさまに従うことのできない者です。しかしイエスさまはそれでもなお、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と私たちに言ってくださっています。この招きに応えて、イエスさまと共に歩みたいと思います。いろいろな不安なことや心配なことが、私たちの現実の中にたしかにあります。しかしそれでもなお、イエスさまは私たちを導き、祝福してくださり、私たちに良きものを備えてくださいます。

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言ってくださるイエスさまに、「私たちも世の終わりまであなたと共にいたい」と応える者でありたいと思います。


2023年5月18日木曜日

2023年5月14日

 2023年5月14日 復活節第6主日礼拝説教要旨

「徳の高い生き方をなさいませ。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 7:1-10節

 今日は、5月の第2日曜日ということで、母の日です。6月の第3日曜日が父の日です。母の日と父の日、どちらが子どもから覚えられているのかと言いますと、まあやっぱりいまの時代であっても、やはり母の日だろうと思います。

 「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」の主人公の煉獄さんのお母さんが煉獄さんに話しかけるシーンは印象的です。「なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか。弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように」。

 イエスさまは異邦人である百人隊長のまっすぐな信仰に感心し、百人隊長の部下の病気を治されました。兵士が上官に命令をされたら、それに従うように、自分も神さまによって良きことを示されたら、神さまの御心をしっかりと行なっていきたい。百人隊長はそういうまっすぐな信仰をもっていました。

 百人隊長は神さまに対してしっかりとこころを向けて歩んでいました。ですから百人隊長はユダヤ人に対して親切でしたし、部下に対しても配慮がある人でした。神さまの御子としての歩みをされているイエスさまに対して、とても謙虚な思いをもっていました。ひと言で言えば、百人隊長は徳の高い人であったのです。

 徳の高い生き方をするということは、とても大切なことです。とくに現代のように、「法律に違反しなければいいだろう」というような雰囲気が漂っている社会の中にあって、徳の高い生き方をするということは、それはとても大切なことだろうと思います。

 百人隊長のお母さんが百人隊長にどんな言葉をかけていたのかというようなことは、あたりまえですが、聖書に出てくるわけではありません。しかし私たちは思います。たぶん百人隊長のお母さんは百人隊長に、「徳の高い生き方をなさいませ」と語っただろうと思います。それは私たちの願いであり、私たちもそのように歩んでいきたいと思うからです。

 神さまが私たちを祝福し、私たちを愛してくださっています。私たちはそのことをしっかりと受けとめて、神さまにふさわしい歩みでありたいと思います。

 

2023年5月12日金曜日

2023年5月7日

 2023年5月7日 復活節第5主日礼拝説教要旨

 「いのちの小さな声を聴け」 一木千鶴子牧師

  マタイによる福音書 6:25-34節

 生命絶滅のスピードはどんどん加速していて、2億年ぐらい前恐竜がいた時代は、1,000年の間に1種類の生物が絶滅したそうですが、2,3百年前になると4年で1種、100年前には1年で1種が絶命するというペースになったそうです。そして、1975年には1年間で1,000種、今では1年間に4万種以上の生物が絶滅しているそうです。人間が今のままの生活を続ければ、そう遠くない将来に地球上からほとんどすべての生物が消えてしまうかもしれないとも言われています。私たち人間は、自分たちの利益のために、小さな命の居場所を容赦なく奪ってきました。いのちの小さな声を聴けない世界は、人間の命をも粗末にする世界に違いありません。

 イエスさまは、「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」と言われました。こんなに小さな命をも神は大事に養い、育ててくださる、ましてや神は、どんなにあなたを大事に思ってくださっていることか、そのことを信頼して、今日という日を精一杯生きよ、そう呼びかけておられます。

 あらためてこの聖書の箇所を読むと、イエスさまは、空の鳥や野の花の命は、はかない命だけれど、それらの小さな命は神が愛しておられる命であり、決して人間が自由にでき命ではないのだ、ということも言われているように思います。イエスさまは、今の私たちに問われているのではないでしょうか。人間の便利さや利益のために、それら小さな命を軽んじ、排除する私たちの生き方に、イエスさまは「それでいいのか」と問うておられるのではないでしょうか。

 空の鳥、野の花を見て、そのいのちの声を聴き、イエスさまの言葉を思い起こしたい。そしてイエスさまを通して明かにされた神の愛を思い起こしたい。その愛が、私たちに注がれていることを信頼する、そんな私たちでありたいと思います。そして、誰かの命を犠牲にするのではなく、隣人の命を心から尊敬し、共に生きる、そのような神の国と神の義を第一に祈り求める者でありたいと思います。そうして今日という日を感謝して精一杯生きる者でありたいと思います。私たちが平和の道、命の道を選びとることができますように。


2023年5月5日金曜日

2023年4月30日

 2023年4月30日 復活節第4主日礼拝説教要旨

「あなたを愛している人がいる」 小笠原純牧師

 ヨハネによる福音書 6:34-40節

 『ウラジーミルの生神女』は、ロシア正教会で最も有名な生神女(聖母マリア)のイコンの一つです。このイコンの特色は、イエスさまとマリアが頬を寄せ合っているというところです。イエスさまはマリアに対してだけでなく、誰に対しても頬を寄せてくださって、「あなたのことが大好きだよ」と言ってくださっているような気がするのです。イエスさまはいつも私たちがさみしいとき、かなしいとき、私たちのところにきてくださり、私たちに頬をよせて慰めてくださいます。この『ウラジーミルの生神女』を見ていると、そんなふうに感じました。わたしのことを愛してくださる人がいることの幸いを感じます。

 人は神さまから愛されている。人はみな神さまの救いの中に入れられている。神さまを信じる人々に永遠の命を与えるために、神さまはわたしをお遣わしになったのだと、イエスさまは言われました。だからイエスさまは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われたのです。私たちは神さまの愛の中に生きています。

 私たちは罪深いものです。いろいろな邪な思いも持ちますし、また互いに傷つけあうことも多いです。神さまの前に正しいものであることはできません。いろいろなときに自分のだめなところに気づいて、とてもいやな気持ちになります。どうして心ない言葉を語ってしまったのだろう。どうして配慮できなかったのだろう。どうして傷つけてしまったのだろう。いろいろなことで後悔します。神さまの前に立ち得ない罪深さを感じるときがあります。

 イエスさまは「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われました。「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで」とありますように、神さまは私たち一人一人をかけがえのない者として愛してくださっています。「一人も失わないようにする」という思いで、神さまは私たちを愛してくださっています。

 イエスさまは「あなたを愛している方がいる」と、私たちにくりかえしくりかえし教えてくださいます。私たちは神さまにふさわしいから愛されているのではありません。私たちにすばらしいことがあるから、私たちを神さまが愛してくださっているのではありません。私たちは神さまの前にふさわしいものではないけれども、ただ神さまは私たちを愛してくださっているのです。