2023年12月28日木曜日

2023年2月24日

 2023年12月24日 待降節第4主日礼拝説教要旨

「主の平和の年がやってくる」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 2:1-7節

 クリスマス、おめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。

 わたしの出身大学の逍遥歌(学生歌のようなもの)の三番目の歌詞は、「ああ南溟なんめいの曉に 無念の涙胸に秘め 今永劫に散りゆきし 旅人ありと我は聞く」というものです。「南方の海、明け方に、無念の涙を胸に秘めて、もう帰ることのなく散っていった、旅人がいると、わたしは聞いた」という歌詞です。いまも私たちの世界では、ウクライナとロシアとの戦争のために、パレスチナのハマスとイスラエルとの戦争のために、ペンの代わりに銃をもって戦っている学生がいます。戦争は終わりそうもなく、私たちもこころを痛めつつ、このクリスマスを迎えています。

 ヨセフとマリアは為政者によって人生を翻弄されるふつうの人です。多くの人々は為政者たちの都合によって、右往左往させられます。とくにイエスさまの時代は、民主主義というようなことではないわけです。命令は上から突然おりてきます。「住民登録せよ」「これこれの税金をおさめよ」。ヨセフもマリアも、その命令に翻弄されつつ、生きていました。

 「飼い葉桶に寝かせた」「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とありますように、イエスさまは居場所のない民として、その歩みを始められました。イエスさまは生まれてまもなく、難民として、エジプトに逃げることになります。ちょうどパレスチナのガザ地区の人々が、エジプトの方へ逃げようとしていたように、イエスさまもエジプトに逃げていくのです。聖書は、イエスさまがうまれたときから、為政者によって翻弄され、危険な目にあったり、逃げ惑う人々と同じことを経験された方であることを、私たちに告げています。イエスさまは小さき者の苦しみを共にされた方でした。

 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。ウクライナとロシアの戦争、パレスチナとイスラエルの戦争。私たちの世界は争いに満ち、暴力によって自分の思いどおりにすることでもって、世の中を支配しようとする力に満ちています。そうしたなかにあって、私たちは私たちの救い主イエス・キリストが、平和の君として、私たちの世にきてくださったことを、しっかりと受けとめたいと思います。クリスマス、主の平和の年が来ますようにと祈りたいと思います。新しい年が、神さまの愛に満たされた年となりますように。神さまの平和が来ますようにとお祈りいたします。


2023年12月23日土曜日

2023年12月17日

 2023年12月17日 待降節第3主日礼拝説教要旨

「主の道をまっすぐに」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 1:19-28節

 アドヴェントの第三週を迎えました。ろうそくも3本たち、いよいよクリスマスが近づいてきました。アドヴェントとは、イエス・キリストのご降誕をお祝いするための備えをする期間のことです。アドヴェントは5世紀くらいに始まったと言われています。

 イエスさまの誕生の道備えをした人に、バプテスマのヨハネという人がいます。洗礼のことをバプテスマと言います。マルコによる福音書は、バプテスマのヨハネの登場で始まっています。バプテスマのヨハネは、人々に悔い改めを迫りました。その姿もらくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締めていたというのですから、なんとなく恐いなあと思ってしまいます。でもまあ、イエスさまの前に、バプテスマのヨハネが、人々をイエスさまへと導くために、準備してくれていたわけです。イエスさまからすれば、なかなか心強いことだと思います。

 アドヴェントは、クリスマスの前の期間というのが一般的ですが、もうひとつは、キリストの再臨という意味で使われます。イエスさまが再び来られるときということです。イエスさまが再び来て下さるのを待っているということでは、私たちは救い主の誕生を待っていたユダヤの人たちと同じようなものです。長い長い間、イエスさまを待ち望んでいます。そして私たちは、終末に来られるイエスさまを待ちながら、バプテスマのヨハネのように、イエスさまの道備えをする役割を、イエスさまから託されているのです。

 ウクライナでの戦争、パレスチナでの戦争。いま世界は曲がりくねった道を歩んでいます。私たちは平和の主が歩まれたように、「主の道をまっすぐに」するために祈りたいと思います。

 また私たちの心が曲がってしまわないように、祈りたいと思います。「どうせ、どうにもならないんだ」「世の中、そういうもんなんだ」「力の強い者が、力でこの世を治めるのが、この世の中なんだ」。そうした思いをもってしまうことが、私たちにはあります。しかし私たちの後には、イエス・キリストがおられます。イエス・キリストは、自らをむなしくし、私たちの罪のために、十字架についてくださいました。力でこの世をねじ伏せるのではなく、神さまの愛で、私たちを救ってくださったイエス・キリストがおられます。

 愛の主が、私たちに教えてくださったように、私たちは神さまの愛を信じ、求め、「主の道をまっすぐに」と祈りつつ、歩んでいきましょう。

 

2023年12月15日金曜日

2023年12月10日

 2023年12月10日 待降節第2主日礼拝説教要旨

「正しい人ヨセフ、恐れなくてよい」 石川立牧師

 マタイによる福音書 1:18-25節

 今年10月、中東で再び戦争が始まりました。一般に戦争では各陣営は自らの<正義>によって戦いを正当化します。人間の<正義>は人を救うどころか、戦いを激化させ、シャローム(平安)を壊すものにもなります。旧約聖書では、神は<義>の神であり、<正しい>のは神のみです。<正しい>人はひとりもいません。聖書に<正しい人>という表現はありますが、それは日常的な言葉であり、せいぜい、律法をそつなく守り、周囲の評判も上々の人のことを指すにすぎません。

 アドベントにふさわしい聖書箇所の一つ、マタイ福音書1章18-25節によれば、ヨセフは<正しい人>だったので、ヨセフによることなく身ごもったマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した、とあります。このような場合、ヨセフが<正しい人>であるならば、本来、律法に従って、マリアを石打ちの刑によって罰しなければなりません。ところが彼はマリアを罰せず、事態を隠そうとしました。これは律法に背くことなので、彼は逆に自分が罰せられるのではないかと恐れました。ヨセフが眠りにつくと、夢の中に主の天使が現れ言いました。「ヨセフ、恐れなくてよい。マリアを迎え入れなさい。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」。この言葉によってヨセフは自らの<正しさ>から解かれ、癒されることになります。ヨセフは眠りからさめると、とくに無理することもなく主の天使の言葉どおりマリアを妻として迎え入れることができました。

 主の天使の言葉のあとに示されるインマヌエルの名は「神は私たちと共におられる」という意味です。イエスという名は救いを表しますが、インマヌエルの名によって、イエスが、先頭に立って人々を導く英雄というよりも、私たち一人ひとりにいつも寄り添ってくださる救い主であることが示されました。イエスは救い・愛そのものです。旧約の時代、<義>の神は裁く神、罰する神として恐れられてきました。ところが、私たちと共にいてくださる御子のご降誕により、人間の<正しさ>はむなしいものとされ、神様の<義>が実は、裁きではなく救いであり、罰ではなく愛であるということが明らかになったのです。

 私たちは人間の<正義>を主張するのではなく、ヨセフのように、この世に誕生してくださった<義>なる神の御子を、あわれみの救い主として、神の愛として、シャローム(平安)の主としてお迎えしたいものです。


2023年12月9日土曜日

2023年12月3日

 2023年12月3日 待降節第1主日礼拝説教要旨

「私たちを救ってくださるイエスさま」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 7:25-31節

 クリスマスによく読まれる本に、トルーマン・カポーティの『あるクリスマス』(文藝春秋)という本があります。トルーマン・カポーティがお父さんと過ごした最初で最後のクリスマスについて書かれてある本です。トルーマン・カポーティの大親友のミス・スック・フォークは、なんでも「主の御こころ」と考えているような人でした。爪先をどこかにぶっつけて痛い思いをするのも、主の御こころ。馬から落ちるのも、主の御こころ。大きな魚を釣り上げるのも、主のみこころ。なんでも「主の御こころ」というのは、まあばかげているような気もいたします。しかし『あるクリスマス』に出てくるミス・スック・フォークの信仰が、わたしはとても好きで、「主の御こころ」がなされていくのだというような信仰を、わたし自身ももっています。

 ヨハネによる福音書は、イエスさまは神さまの御子として、私たちの世に来てくださり、私たちに永遠の命へと導いてくださる方であることを、私たちに告げています。そして神さまから離れて生きていこうとする罪深い、神さまの前にふさわしくない私たちがいること。そうした罪深い私たちのために、イエスさまが十字架によって私たちをあがなってくださる。そうした意味での救い主メシアが、イエスさまであること。そしてそれは神さまのご計画であり、神さまの御こころであることを告げています。

 「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」という群衆の言葉は、イエスさまに対しての誉め言葉であると同時に、イエスさまに対する誤解も含んでいる言葉であるような気がします。人々はやはりこの世的な意味でのすばらしさを、イエスさまに対して求めているということです。それは預言者的な格好の良さというようなものであるような気がいたします。しかしイエスさまは悪を裁く預言者として、私たちの世に来られたのではありません。私たちを罪からあがなう救い主メシアとして、私たちの世に来てくださったのです。

 アドヴェントに入りました。救い主イエス・キリストが、私たちの世にきてくださいます。私たちのすべてを知った上で、私たちを赦してくださり、私たちを救ってくださる救い主イエス・キリストが私たちにところにきてくださいます。イエスさまを迎える準備をしながら、私たちのこころも整えていきたいと思います。私たちを救ってくださったイエスさまに感謝しつつ、この喜びを隣人に届けていきたいと思います。


2023年12月2日土曜日

2023年11月26日

 2023年11月26日 降誕前第5主日礼拝説教要旨

「ウソはやめた方が良い」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 18:33-40節

 イタリアのローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会には、「真実の口」という石の彫刻があります。真実の口に手を入れると、ウソをついている人はその手首が切り落とされてしまうという伝説があるそうです。映画『ローマの休日』に出てきます。

 今日の説教題は「ウソはやめた方が良い」という説教題をつけました。わたしがここでいう「ウソ」というのは、真理と向き合わない姿勢というようなことです。いいかげんに生きている時につく、いいかげんな「ウソ」というのがあります。自分の立場を守るためにウソをついたり、自分の利益のためにウソをついたりする、そうしたウソのことです。イエスさまの時代も、支配者のなかで、そうした雰囲気が拡がっていました。

 ピラトは「真理とは何か」と言いました。ピラトの中では「真理」とか「正しさ」とかそういうものはあまり意味のないものになっていたのです。ですから「真理とは何か」というようなつぶやきが出てくるわけです。「真理とは何か。そんなものあるわけないだろう」。世の中は混とんとして、みんな好き勝手に生きている。世の中にはウソがいっぱいで、みんな気軽にウソを言う。良き社会をつくりたいとか、良い人として生きたいというような思いが、社会全体の中で失せてしまっている。

 そうした社会の中にあって、しかしイエスさまは言われます。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。イエスさまは真理について証をされます。神さまの御子として、神さまのみ旨を行われます。神さまは私たちを愛してくださり、私たちを良きものを備えてくださる。神さまがこの世を治めておられる。私たちが迷子になり、恥ずかしいことをしてしまうことがあったとしても、神さまは私たちを探し出してくださり、神さまのところに連れ戻してくださる。私たちの勝手な思いではなく、神さまの御心が実現していく。

 実りの秋。私たちは私たちの神さまが多くの実りをもたらしてくださいました。神さまは私たちに良きものを備えてくださり、そして私たちをよき人として祝福してくださいます。神さまを信じ、イエスさまに導かれて歩みたいと思います。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。真理に属する者として、御声を聞きつつ歩んでいきましょう。