2018年10月15日月曜日

2018年9月23日

2018年9月23日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨
  「勝利の入城」 山下毅伝道師
   ルカによる福音書 19:29~44節

 イエスの公生涯は、3年半続きました。公生涯の終わりに近づき、イエスはメシアとしてエルサレムに入城され、日曜日の午後に入城され、金曜日に十字架にかけられます。今、この入城される時、非常に緊迫した状態です。イエスはこの入城に際し、子ロバに乗ることをのぞまれます。それは旧約聖書ゼカリア書9章9節の「彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ロバに乗って来る――」この預言が成就されなければならないので、イエスは、子ロバを必要とされたのです。イエスのエルサレム入城は、民衆、弟子達の思いは、勝利の王として、メシア的王国が出来上がることを期待していますが、イエスの思いは、十字架にかかることによって、自分を全人類の救いの為、贖いの業のために、父の御心が成就されるために、入城されるのであり、父なる神に御自分をささげられた勝利者として入城されるのです。大きな開きがあります。弟子達が「ホサナ」(どうぞわれらを救って下さい)という叫びに、パリサイ人達は抗議します、「イエスがメシアであるという叫びは、神への冒涜だ。」と思ったからです。イエスは答えられます「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と言って、メシアとして迎えるのは当然だと、おっしゃいます。かたくなな、リーダたちの姿を見て、エルサレムに近づき、都が見えた時、大粒の涙を流され、声をあげて泣かかれた。イエスはすべての人を救いたいと思っておられました。イエスを拒否したエルサレムは紀元70年ローマ軍によって崩壊します。イエスは愛に満ちた方です。私たちは、社会の問題も、教会の問題も、家庭の問題も、みんな、神様にしていただかなければ、出来るものではありません。そのためには、ただひたすら神様の言葉を聴く、という生活をしなければなりません。神の言葉を聴いて慰められまた励まされ、また召し出されていくところに私たちの生活があります。

2018年10月1日月曜日

2018年9月16日

2018年9月16日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨
 「どこにもいかんといてね~共におられる神さま」 小笠原純牧師
  マタイによる福音書 28:16~20節
 本日は、敬愛する平安教会の皆様と、礼拝を守ることができ、とてもうれしく思います。
わたしの母はアルツハイマー認知証で、18年前に天に召されました。わたしの父は長い間、その母の介護をしました。わたしはこの10数年間の、父と母の生活を見ながら、なにか大きなことをなし得るということよりも、誠実に人生に向き合って、目の前にいる大切な人とともに、精一杯生きていくということに、人生のかけがえのなさというものがあるような気がしました。
 わたしが帰省したとき、父と母と三人で川の字になって寝ていると、夜中に母が目を覚まして、起き上がって、こう言いました。「おとうさん、どこにもいかんといてね」。母はだんだんと記憶がなくなってきて、何もできなくなっていくのです。記憶がなくなるわけですから、みんな自分を置いて、どこかに行ってしまうような気持ちになるのでしょう。父は「どこにもいかんから、さあおやすみ」と言いながら、起き上がっている母を寝かせてあげていました。
 わたしは折にふれてこの小さな出来事を思いだします。そして父が「どこにもいかんから、さあおやすみ」という言葉の通り、母が帰天するときまで母と共にいたこと。そして「共にいる」ということの大切さ。また「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という御言葉の確かさを思い起こします。神さまは確かに、記憶がなくなり恐れと不安の中にあった母と共にいてくださいました。
 人生の中で、私たちはいろいろな出来事に出会います。とても悲しい出来事に出会うときもあります。とてもつらい出来事に出会うときもあります。そんなとき、だれか、わたしのそばにいてほしいと思えます。そばにいる人に「どこにも行かないでね」「どこにもいかんといてね」と言いたいときがあります。
 聖書は私たちに告げています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。イエス・キリストは私たちに約束してくださいました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。私たちの救い主であるイエスさまは、どんなときも私たちと共にいてくださいます。私たちはこのことを信じています。どんなときも、私たちと共にいてくださる、イエスさまと共に、こころ平安に歩んでいきましょう。

2018年9月25日火曜日

2018年9月9日

2018年9月9日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨
  「身の回りに」 桝田翔希伝道師
   マルコによる福音書 14:1~9節
先日、テレビが4Kの最新式になり、あれこれ録画できるようになりました。そんな折、相模原障害者施設殺傷事件を扱った番組がありました。その中で、小児科医である熊谷晋一郎さんが今日の社会を「だれもが自分がどれほど能力があるのか証明しようと躍起」になり「自分に能力があることを証明するために他人の能力のなさを見つける社会」と説明されていました。
さて、今日読んでいただきました聖書箇所はイエスを殺そうとする緊迫した状況で始められています。そこに女性が突然入ってきて非常に値段の高い油をイエスにかけ、弟子たちはそれを強く非難しました。私たちの価値観からすれば7500人分の食事を用意できる価値に当たるような油を、イエスにかけるという行為はなかなか賛成できるものではありません。貧しい人たち困っている人たちを助けなさいともありますから、弟子たちが怒った理由は一方では間違ったものではありません。
イエスにとって香油をかけられた瞬間は、緊迫した状況で「受難」が理解された瞬間でありました。しかし受難がわからない弟子たちにとっては、「間違った行いをする女性を見つけた」瞬間であったのではないでしょうか。この女性を批判した弟子たちの姿は、競争社会で生きて他人より上に立とうとする人間の姿が映し出されているのかもしれません。そしてイエスは続けて、貧しい人たちに施せと言うがいつでもできるではないか、と語っています。弟子たちは今までどのようにしてイエスにつき従っていたのでしょうか。困っている人を目の前にしつつも癒すことが出来ず、律法学者との議論に熱中してしまうこともありました。
ここでイエスは様々な事を指摘しますが、その中で弟子たちの姿だけを見るならば、私たちと重なる部分があるように思うのです。私たちは様々な視点を持つ社会に生きています。そして競争社会と言われる厳しい社会で生き、相手の出来ない部分を見つける、批判することで自分の能力を優位にすることに陥っているかもしれません。しかしイエスは、施しはしたいときに出来ると語るのです。身の回りをよく見なさいと語るのです。

2018年9月18日火曜日

2018年8月26日

2018年8月26日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨
  「泣きながら、後ずさりしつつ神の国」 髙濱心悟牧師
   ルカによる福音書 14:15~24節
◇苦しいことや辛いことから遠ざかることができるように、我々は自然と「無難」を祈り願うものです。しかし、思い通りになることはほとんどない、というのが、6年間の牧会で得た学びでした。様々な欠乏や困窮を抱えながら生きる私たちは、不足を満たしたいですし、出来る事なら何ものにも困らず生きて行きたいという願望を持つのです。
◇教会も一緒です。教会が財政難なら、お医者さんや社長さん、お金持ちのたくさん献金してくれる人が来てほしいものです。働き手がいなければ、若い人たちにたくさん来てほしい。でも、それは、「私」の願望であって「神の国」ではないのです。私たちのいう事を何でも聞いてくださる神様は、神様ではありません。
◇「神の国」というのは、そういった、我々の願望の延長線上にあるのではありません。むしろ、その願望や、わたしの思いというものが断絶される場所です。それを私たちは拒否するのです。言い訳する。そして、後ずさりして、そんな所に行くのは嫌だいやだと言い、泣きながら強引に連れられて行かれるところが神の国です。自分の意志や良心や正義感で、そこに行ったり、形作ったりするのではなくて、むしろ、失敗や、悲しみや、様々な挫折の結果として招き入れられていく先に、神様のみ旨があるのです。そこに本当に良いものがあるのだ、そこが、一番素晴らしい宴の席だ。そう信じ、自分の願いや希望とはかけ離れたところに立たされるとしても、それが「この身になりますように」と祈ることが、我々に求められている、主イエスへの応答の業ではないでしょうか。
◇泣きながら、後退りしつつ、それでも引きずられるようにして連れて行かれる所、そこが、神の国です。神様が私たちのために用意しておいてくださる宴席なのです。私たちはそこに、呼ばれ、招かれているのです。

2018年9月3日月曜日

2018年8月19日

2018年8月19日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨
  「神の国の情報は信仰によって」 佐藤博牧師
   ヨハネによる福音書 2:1~11節
 私たちはヨハネ福音書の初めに登場する奇跡物語によって「神の国」とは何かを教えられます。イエス様は、私たちの営み生活の只中に足を踏み入れて下さいまして、そこに必要な物、無くてはならない物を与えてくださいます。今日も「神の国」は近づいた(マルコ1:15)と語って下さって、その恵みと救いに与らせようと招いて下さっています。私たちはこの「神の国」の情報を教会も信じる者も、あまりにも知らなさすぎるのではないでしょうか。逆に「人の国」の情報のみが溢れているという現実に教会は「神の国」の無知、その恵みに生かされ、神の与えて下さる喜び、命が余りにも貧弱である現実に見舞われています。
 このイエス様による水をブドー酒に変えられる神の国の奇跡は、唯「水がめに水をいっぱい入れなさい」(7節)のお言葉に、マリアの勧め(5節)もあって、その家の「召使たち」(7節)は大変な困難の中、黙々と従いました。困難や課題に直面した時、私たちはイエス様の前に出て、イエス様よりのお言葉を聞こうとするでしょうか。自分や教会の手の中にお金や力を数えるか、人や国が助けてくれるかどうかで、終わってしまうのではないでしょうか。百人隊長が僕の癒しを願って「ただひと言おっしゃってください」(マタイ8:8)とのイエス様のお言葉をひたすら求める信仰を持たせていただきたいものです。信仰(ピスティス)はペイソー(説得する)からきています。イエス様のお言葉により、本当に救われた、助けられた、喜びを与えられたという、お言葉の真実に説得されるまでイエス様のお言葉に近づきたいものです。
 「この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」(11節)とありますように、今日も私たちの生活の場、教会の営みの場に、イエス様の栄光が現れ、イエス様の「しるし」は継続しています。ただイエス様とそのお言葉への信仰、即ちカール・バルトが残しています「神の言葉に対する聴従」が希薄になっているようです。

2018年8月28日火曜日

2018年8月12日

2018年8月12日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨
  「真の平和を求めて」 村上みか教師
   マタイによる福音書 10:34~39節
 8月に入るとメディアでも戦争の問題が取り上げられ、私たちは改めて平和を願う時をもちます。戦争の悲惨な光景を目にするたびに、やはり戦争はだめだ、平和な社会でなければ、と多くの人が思うでしょう。しかし、この聖書の箇所には、平和を願う私たちの思いを打ち砕くようなイエスの言葉が記されています。「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。」これは、伝道へ派遣される弟子たちに、この世で伝道することの困難を語ったイエスの言葉の一つです。信仰に生きることはこの世ではなかなか理解されず、人々と対立することになるだろう。信仰に生きるということは、したがってこの世の血縁関係や人間関係を断ち切って、自分の十字架を担い、キリストに従うことなのだ、というのです。
 私たちは、この世と葛藤して生きているでしょうか。この世の楽しみに案外満足し、できればこの世で平穏に生きたいと思っていないでしょうか。そのために神でなく、人間関係に多くを頼っているところもあるでしょう。しかし、そのような表面的な平穏ばかりを求めていると、私たちは聖書の教える真の平和とは関係のないところで生き始めてしまいます。その中で私たちにできることは、神から離れて安易な平穏に頼り、自分の命を得ようとする、そのような自らを知り、神の前で悔いるということ、まさに自分の十字架を担う、ということです。こうして神に立ち帰ることを知った人こそが、実は神に支えられて真の愛を実現し、真の平和をもたらす存在となるのです。
 「平和、平和と告げられるところに、平和はない。十字架、十字架と告げられるところに、十字架はない」(ルター「95箇条の提題」より)。平和というのは、それを単純に求めて実現されるものではなく、自らの十字架を担う人によりもたらされるのです。対立や争いが繰り返される現実の中で、私たちも真の平和を願い、それを作りだす者となりたいものです。

2018年8月20日月曜日

2018年7月29日

2018年7月29日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨
   「『放蕩息子』のたとえ」 山下毅伝道師
   ルカによる福音書 15:11~32節
 イエスはファリサイ派、律法学者の人々と対話しておられます。そのテーマは誰が神の国に入れるのか?と言うテーマです。12、13節 弟の方が父親に、「私が頂くことになっている、財産の分け前をください」と言います。普通ユダヤ人社会では考えられない遺産相続ですが、父親はそのことを許します。遠い国、異邦人の国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまいます。何もかも使い果たした時、その地方に大飢饉がおこり、彼は食べるにも困り、豚の世話をし、いなご豆を食べて、飢えをしのぎます。豚飼はユダヤ人にとっては、これ以上落ちることのない零落した状態をさしています。弟はわれに帰って、最悪の状態から目を覚ました。息子は「お父さん、わたしは天に対して、またお父さんに対しても罪を犯しました――雇人の一人にして下さい」と、最初は心の中で、もう一度は、父の前で言い表します。悔い改めは心の中で思うと共に神の前で言い表さなければなりません。父親は、年長者である威厳を投げ捨てて、走り、息子に口づけし、「一番よい着物」、「指輪」、「サンダル」を与え、子牛を一頭屠って、宴会を開きます。この弟は悔い改めた者の象徴です。
一方、兄はこのことに怒ります。「わたしは何年もお父さんに仕えています、―― 子山羊一匹すらくれなかった」と、悔い改めた弟と一緒に宴席に入ることを拒否します。兄の最大の誤りは、自分を正しいとし、自分の業によって、父との関係は保たれると思っていることです。この侮辱的兄を、父親が出て来てなだめています。――イエスは、宴会(神の国)に入る唯一の方法は、自分の弱さと罪を認めることだと教えられました。神はわたしの最悪を最善に変えて下さいます。神は私たちを贖われたのは、私たちの資質や立派さや才能ではありません。全く放蕩息子のように、ボロをまとった姿の私たちを、破れたままの姿の私たちを、受け入れてくださいます。