2019年12月30日月曜日

2019年12月22日

2019年12月22日 待降節第4主日礼拝説教要旨
  「神さまの力と共に生きる」 小笠原純牧師
    ルカによる福音書 1:57~66節
 クリスマス、おめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕を心からお祝いいたします。「メレ・カリキマカ」というのは、ハワイ語で「メリー・クリスマス」という意味です。常夏のハワイでもクリスマスは祝われています。イエスさまがお生まれになられたことが、世界中で祝われているということは、とてもうれしいことです。
 ハワイで1970年代にはやった歌に、Mr.San Cho Leeという歌があります。ハワイに住んでいるいろいろな人種の人たちをからかっている歌です。でもこの歌の最後の歌詞にはこうあります。「私たちは多人種をからかいながら、でも同じところで暮らしている。これってすごいことだよね」。多民族社会ですからそれぞれの民族にはそれぞれの文化や伝統があります。それは簡単に理解し合えるわけでもない。でも私たちはそれぞれの民族をからかい合いながら、でもこのハワイで暮らしている。それはやっぱりとってもすばらしいことだし、すごいことだ。この歌はそのようにハワイの社会の寛容さを歌っています。
 ザカリアとエリサベトのところに、洗礼者ヨハネが生まれます。親族や近所の人が集まって、みんなでお祝いをしています。みんな勝手に名前を付けようとしますが、エリサベトとザカリアや、神の使いによって示されたヨハネという名前をつけました。
 わいわいがやがやとした聖書の箇所です。まさに、人間の営みだなあと思います。私たちと似ていると思います。ちょっとむつかしい人がいたり、ちょっとぼーっとした人がいたり、強引な人がいたり。でもみんなザカリアとエリサベトのことを祝福し、そして洗礼者ヨハネの誕生を祝うためにやってきたのです。「よかったねえ、エリサベト。ほんとに、よかったねえ」。「ザカリア、おれはほんとに、うれしい。うれしいぞ、ザカリア。こんなにうれしいことはない」。
 ザカリアたちはわいわいがやがやと、日常生活を送っていました。しかしこころはしっかりと神さまに向け、神さまの憐れみによって自分たちが生かされていること、そして神さまは必ず私たちを救ってくださるということを、こころにとめて生きていました。
 神さまは救い主イエス・キリストを送ってくださいました。イエス・キリストは私たちを照らし、私たちを平和の道へと導いてくださいます。新しい年も、救い主イエス・キリストと共に歩みましょう。

2019年12月26日木曜日

2019年12月15日

2019年12月15日 待降節第3主日礼拝説教要旨
  「救い主の誕生を待ち望む」 小笠原純牧師
   ヨハネによる福音書 1:19~28節
 クリスマスの定番曲に、マライア・キャリーの「All I want for Christmas is you」があります。クリスマスに、多くのものは望まない。クリスマスツリーの下にあるプレゼントも気にならない。雪も降らなくていい。サンタクロースもいらない。ただわたしが欲しいのは、あなただけ。「クリスマスにわたしがほしいのはあなただけなの」というような内容の「恋人たちのクリスマス」ソングです。
 わたしは今年、この歌を聴いていて、とても慰められました。7月に新しく平安教会の牧師に赴任をして、自分にいろいろなことが期待されているような気になり、これも、あれもできなければならないのではないかと、とても緊張していたからです。
 「クリスマスにわたしがほしいのはあなただけなの」と歌っているのは、マライア・キャリーですが、でもこの言葉はまさに、私たちに神さまが語りかけている言葉だと思いました。神さまは私たちに、「わたしがほしいのはあなただけだ」と言っておられます。何か特別なものを持っているあなたではなく、ただの「あなた」です。なにか優れたものをもっているとか、りっぱな肩書をもっているとか、とてもやさしいりっぱな人であるとか、クリスマスプレゼントをたくさん持ってきてくれるあなたとか、そうした「あなた」ではなく、「ただのあなた」が帰ってくることを、神さまは待っておられるのです。

 洗礼者ヨハネは「裁き」を語りました。人は神さまの前に裁かれる存在であるということを語りました。そして人々に悔い改めを迫り、水で洗礼を授け、「悔い改めにふさわしい実を結」ぶことを求めました。洗礼者ヨハネが語ったことは「これをしなければならない」ということでした。「裁き」を語った洗礼者ヨハネに対して、イエスさまは「愛」を語りました。神さまがどんなに私たちを憐れんでくださっているか。神さまがどんなに私たちを愛してくださっているか。神さまがどんなに私たちの罪のことで心を痛めておられるか。イエスさまは私たちに、あなたたちは神さまの愛に包まれ、神さまが守ってくださるのだから、あなたたちは安心して生きて良いのだと教えてくださいました。
 神さまは「クリスマスにほしいのはあなただけだ」「ただそのままのあなたでいい」と、私たちを招いてくださっています。救い主イエス・キリストが、私たちのところにきてくださいます。みんなでお祝いする準備をいたしましょう。

2019年12月8日

2019年12月8日 待降節第2主日礼拝説教要旨
  「最後の一人にまで」 宇野稔牧師
   マタイによる福音書 20:1~16節
 本日はおめでとうございます。牧会を退いた者が又招かれて皆様と一緒に礼拝を守れますことは喜びであり感謝であります。
 教会の暦は待降節に入っていますが、今朝は創立記念日という点を大事に捉え聖書から聞きたいと思います。創立記念日の礼拝は、これまでの歩みを振り返り、新しくさらに希望をもって進むことを確認するためにあるのだと受け止めています。
 さて、本日示されたテキストの前半から考えて結論的に述べますと、このたとえ話を聞いていた人全員がいまなすべきことは何であるかということを認識し、出かけるべきだったのです。
 しかし、実はそうなれなかった諸々の事柄が山積し、また教会の現実を深く思いながら、もう一度、人々に聞いてもらいたいと思うのでこのたとえ話が語られています。
 また、マタイは時間の書き方に深い意味をもたせています。ポイントは最後の5時(第11時)の人たちにも……というところです。主人自ら第11時になっても迎え入れるために出かけるのです。即ち、神の愛が第11時にも働き続けられているのです。主人の関心は終わりの1時間前にも未だ立ち続けている人に向けられているのです。
主イエスご自身が出かけられ救いの開始の時が、既に始まっているのです。
 ぶどう園で働いている人々、即ち、仲間や私たちが同じであったように、「尚、外にいる」人々に寄り添い、先に招かれた者が「私たちを遣わして下さい」と云い、外に立っている人々にも自分たちと同じように神の恵みを分かち合いたいのです。そのために最後の一人に到るまで励むのです。
 平安教会は目の前の150年に向かってさらに働きを続ける教会であるように、新しく迎えられた教師を中心に着実に進んでくださるよう祈っています。

2019年12月1日

2019年12月1日 待降節第1主日礼拝説教要旨
  「私たちの救い主イエスさま、ありがとう」 小笠原純牧師
   ヨハネによる福音書 7:25~31節
 毎年、アドヴェントのときに、12月8日、開戦記念日はやってきます。岩波書店から「福音書」などの本を出しています塚本虎二は、内村鑑三の弟子で、絶対非戦論者でありました。しかし12月8日の開戦記念日について、次のように書いています。【特に開戦第一日の快勝を耳にした時は、痛快とも思い、「それ見たことか」とさえ感じられた】(長部日出雄『桜桃とキリスト もう一つの太宰治伝』)。時代の闇は深いものだと思います。
 エルサレムの人々は、「この人がどこの出身かを知っている」という形式的なことにこだわって、イエスさまが救い主であるということを受け入れようとはしませんでした。彼らはイエスさまが神さまの御心に従って歩んでおられるという決定的なことを知ろうとしませんでした。エルサレムの人々はもう暗闇に同化してしまって、神さまのことがよくわからなくなってしまっていたのです。
 わたし自身も日常生活の中で、自分の暗闇に出会い、反省させられることがあります。少し前、人と話をしていて、あとから考えると「なんであのときあんな話し方をしてしまったのだろう。もっとほかの言い方があっただろうに」と思うことがありました。それで気を付けなければならないと思っていたのですが、先日もまた同じようなことがありました。自分自身ではどうすることもできない自分の暗闇の入り口に立っていたような気がして、わたしはとても不安な気持ちになりました。
 【光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった】と、ヨハネによる福音書は記しています。光が暗闇の中で輝いているのであれば、その光に気づきそうなものであるわけですが、しかし暗闇の世は、その光に気づかなかったのです。だからそこの暗闇であるのだと思います。それは不思議なことではなく、暗闇の中にあるということは、そのようなことなのです。
 イエス・キリストはそうした暗闇の世に、私たちのために光となってきてくださいました。自分が暗闇の中にあることに気づかない愚かな私たちのところに、イエスさまは来てくださったのです。神さまの独り子であるイエス・キリストのご降誕をお祝いする準備をするアドヴェントのとき、私たちの罪深い歩みを振り返るときとしたいと思います。イエスさまは罪深い私たちを救ってくださり、私たちと共に歩んでくださいます。

2019年11月24日

2019年11月24日 降誕前第5主日礼拝説教要旨
  【収穫感謝日 合同礼拝】
   「よく食べ よく眠る」 桝田翔希伝道師
     マタイによる福音書 25:14~30節
 神さまに与えられた恵みを感謝する収穫感謝の時にあって、私たちはどのように食べているのかを考えさせられます。食べ物とは、叩いたり刻んだり炙ったりした生き物の死骸なわけですが、「祈りにも似た物語がなければ美味しく食べられない(藤原辰史、2014年)」のかもしれません。しかし、市場において売れるための「肥大化した物語」ばかりがもてはやされ、過剰なまでの清潔さを求め、生命を頂いているという感覚を感じることは難しくなっています。生産の現場と消費の現場には大きな開きがあるように思います。
 「タラントンのたとえ話」では、主人が僕たち(奴隷たち)に財産を預けて旅に出ています。僕たちはそれを元手に商売をし、金額を倍にして主人を喜ばせますが、当時の慣習に従い預かったものを土に埋めた僕は叱られてしまいます。神さまから授かった才能を活用しなくてはいけないという解釈がよくされるたとえ話でありますが、1タラントン(一生分の給料)という金額とイエスが生きた当時の農民の状況に注目すると、また違った問いかけをされているように思います。この主人が扱っている金額というのは、あくどい商売をしなければ得ることができない金額でありました。そして当時のイスラエルでは、金持ちにより土地が次々と買い上げられ、土地を無くした農民は小作人として輸出用の作物を育てざるを得ない状況がありました。すなわち、少ない賃金で厳しい生活を余儀なくされた人たち、お金儲けのための作物を育てさせられるけれど、自分たちは食べるのに困ってしまう人たちが多くいました。イエスはこのような厳しい状況に置かれた人たちに、このたとえ話を語りかけていたのかもしれません。また、1タラントンを土に埋めた僕は、種は土にまかれると恵みをもたらすが、お金は土に埋めても何も実らせないという批判を、絶大な富と権力を持つ主人に訴えた「いのちをかけた内部告発者(山口里子、2014年)」だったのかもしれません。富と権力、搾取を前に生活が厳しくなっていく現実が突き付けられます。
 今日の状況を見てみると、富と権力を前に多くの不条理に触れながら私たちは生きています。海外の環境を壊しながら生産される食べ物、命を食べる実感を無くしかけている消費者。どこかで後ろめたさを感じながら、私たちは「肥大化した物語」を信じているのかもしれません。しかし、恵みにより私たちは生かされているということを忘れてはいけないのです。富と権力を前に、「恵み」を感じながら、私たちは食べ物にどのような物語を添えることができるのでしょうか。

2019年11月25日月曜日

2019年11月17日

2019年11月17日 降誕前第6主日礼拝説教要旨
  「天からの祝福で生きている」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 6:27~35節
【「ギムレットにはまだ早すぎるね」。清水俊二の初訳は名訳と言われる。・・・。『長いお別れ』が、数年前、村上春樹訳『ロング・グッドバイ』(ハヤカワ文庫/2010)として出版された。(ただし、ミステリー文庫の清水訳も現役。どんな新しい訳が出ても、村岡花子訳『赤毛のアン』が絶版にならないのと同じである)】(斎藤美奈子の『文庫解説ワンダーランド』、岩波新書)。清水俊二は『長いお別れ』、レイモンド・チャンドラーに並々ならぬ思い入れがあり、また村岡花子もまた『赤毛のアン』、ルーシー・モード・モンゴメリに対する深い敬意と愛がありました。「これがないとだめなのよ」という特別な思いがあります。そうした特別な思い、夢中になることの尊さということを思う時に、「求めて生きていく」ということのすばらしさということを思います。  
イエスさまもまた「求めて生きていく」ということの大切さを、私たちに教えてくださっています。ヨハネによる福音書はキリスト教がユダヤ教から離れていく時代に書かれてあります。ユダヤ教から出ていくとなると、キリスト教はローマ帝国から宗教として認められていない状態になるので、迫害を受けるかもしれないですし、商売などをしていたら立ち行かなくなるかも知れません。イエスさまを信じると、飢えることになるかもしれないし、渇くことになるかもしれない。そうしたなかで、ヨハネによる福音書は読まれているということです。
イエスさまは群衆に「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われました。私たちは目先のことにとらわれてしまい、真摯な思いで求めることを辞めてしまうことがあります。ほんとうに自分にとって大切なことは何であるのかということを見失ってしまい、日常のことにだけこころが向いてしまうことがあります。
イエスさまは「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われ、神さまの方をしっかりと向いて歩みなさいと、私たちに勧めています。私たちに命を与えてくださり、私たちに賜物を与えてくださったのは、神さまです。私たちは「天からの祝福で生きています」。そのことをしっかりと思い起こし、そして誰の方を向いて歩むことが、たしかな歩みであるのかを、思い起こしたいと思います。


2019年11月18日月曜日

2019年11月10日

2019年11月10日 降誕前第7主日礼拝説教要旨
  「永遠のいのちへの約束」 小笠原純牧師
   ヨハネによる福音書 8:51~59節
 イエスさまは「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われました。アフロ・アメリカン・スピリチャル、いわゆる「黒人霊歌」のなかには、世の終わり・終末、永遠のいのちについての歌が多くあります。「Soon Ah Will Be Done」(「もうすぐ終る」)もその一つです。黒人たちは奴隷として連れてこられて、つらい労働を強いられ、ひたすらものとして扱われました。そうした理不尽なことが終るときがくると歌われています。黒人霊歌に現れているアフロ・アメリカンの人たちの信仰は、私たちに世の終わり・終末、永遠のいのちの大切さを教えてくれています。世の終わり・終末、永遠のいのちを信じるということは、わたしの悲しみや苦しみをそのままにしておかれない神さまがおられるということを、わたしは信じているという告白であるのです。
 今日の聖書の箇所は「アブラハムが生まれる前から、「わたしはある」」という表題のついた聖書の箇所の一部です。ヨハネによる福音書は、イエスさまを信じている人々がユダヤ教にとどまるのか、とどまらないのかという問題をつきつけられている時代に書かれてあります。ユダヤ教にとどまると、安心した宗教生活が保障されました。しかしユダヤ教を出てキリスト教を信じると、迫害を受けるかも知れないということになります。
 ヨハネによる福音書は、「わたしはある」という言葉で、イエスさまが神さまの御子であることを表しています。神さまの御子であるイエスさまは、神さまの御心を知っておられる。イエスさまは神さまの御心を行なわれ、病気の人々をいやし、悲しみの中にある人々と共に、神さまがいてくださることを告げ知らせる。そして私たちの罪を担い、十字架につけられ、三日目に私たちのために復活をされる。そして死に打ち勝たれたイエスさまによって、私たちは罪許され、神さまの民として永遠の命へと招かれているのです。
 神さまの御子イエスさまは「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(マタイ10章28節)と言われました。この世にあって、私たちはいろいろな不安や悩みをもち、そして恐ろしくなるときがあります。しかしイエスさまはこの世のことではなく、私たちが永遠のいのちへの祝福を受けていることを、しっかりと受けとめて歩みなさいと、私たちを招いておられます。私たちは永遠の命の約束をいただいています。そのことに感謝しつつ、恐れることなく歩んでいきましょう。

2019年11月11日月曜日

2019年11月3日

2019年11月3日 降誕前第8主日礼拝説教要旨
  「あなたの罪はゆるされた」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 3:13~21節
今日は召天者記念礼拝を神さまのところに帰られた方々と共に、またご家族の方々と一緒に礼拝を守ることができ、神さまに感謝いたします。
みなさんは自分の大切にしているものを、大切な人にあげたことがあるでしょうか。わたしはこどものときに、自分が大切にしていた父のお土産の京都タワーのメダルを、引越していく友人にあげました。当時の宝箱の中に入っている宝物は、いまはわたしにとってガラクタになっています。しかし友だちにあげた京都タワーのメダルは、手元にないですわけですが、わたしにとって永遠の宝物になっています。
今日の聖書の箇所には、【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された】(JN0316)という有名な聖書の言葉が出てきます。神さまもまた大切なものを大切に人にあげられた方でした。神さまは大切な独り子イエスさまを、私たちにくださったのです。
イエスさまは私たちの罪のために十字架についてくださいました。イエスさまは私たちを裁くために、来られたのではありません。私たちを救うために来られたのでした。私たちに神さまの深い愛を伝え、そして私たちに私たち自身の深い罪を伝えるために、イエスさまは私たちのところに来てくださいました。そして私たちの深い罪のゆえに、十字架につけられ、そして天に召されたのでした。私たちは神さまの独り子であるイエスさまの十字架を通して、私たちは滅びから、永遠の命へと導かれたのでした。
讃美歌21-300番に「十字架のもとに」という讃美歌があります。この讃美歌の詩は、スコットランドの讃美歌学者のエリザベス・クレーフェン(1830-1869)という人の詩です。クレーフェンは財産を売って貧しい人々を助ける、地元の人々から「太陽」と呼ばれるすばらしい人でした。しかし彼女は「はかりも知られぬ ひとの罪よ」と歌いました。地元の人々から太陽と呼ばれていた彼女も、自分のこころのなかのどうしようもない罪を見つめていたのでした。私たちはクレーフェンのように、自分の罪を見つめながらも、しかし罪赦されているということに感謝する者でありたいと思います。
【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された】。神さまの深い愛を信じましょう。神さまの深い愛に包まれていることを信じて、救い主イエス・キリストに希望をおいて歩んでいきましょう。

2019年11月5日火曜日

2019年10月27日

2019年10月27日 降誕前第9主日礼拝説教要旨
  「新しい一週間へ」 桝田翔希伝道師
    ヨハネによる福音書 1:1~14節
 先日、失念してほったらかしにしていた京都教区総会の補助書記としての、逐語録に近い記録を録音テープを聞きながら作っていました。改めて録音を聞きながら議事録を作成していて、自分がいい加減に聞いていた部分や自らの経験に照らし合わせて、元々の意図を歪める聞き方を多くしていたことに気づかされました。「言」の難しさを痛感しました。
 本日の聖書日課により示された箇所は、ヨハネによる福音書の冒頭にあって「言葉(ロゴス)の賛歌」と呼ばれる個所で、「言(ことば)」という単語が何度も使われています。賛歌という程なので、元々は歌として語り継がれていたものと考えられています。この部分では、「言」とはどのような意味が込められているのか考えてみたいと思います。ヨハネによる福音書はユダヤ人の中のキリスト教徒を対象として執筆されたと言われているので、ユダヤ教や旧約聖書の影響を強く受けていると考えることができます。旧約聖書で「ことば」というと、創世記において神が「ことば」によって天地創造をする場面が思い出されます。また、イザヤ書55章10節では、神が発した言葉は必ず使命を果たすものとして描かれています。旧約聖書で言葉とは、ダイナミックかつ人間に応答を求める者として描かれているのではないでしょうか。
 一方、今日の社会状況において言葉はどのように使われているでしょうか。インターネットを見ていますと、見るに堪えないような言葉がよく書かれています。匿名性に守られながら、他人に対する恐怖感や嫌悪感が助長されているように思います。私は「言葉」が持つ意味はどんどん軽くなる一方で「キツク」なっているように感じています。例えば、夜中に騒いでいる人を見たとき、イラッとしてしまう時もありますが「なるべく笑顔で少し静かにしてくれませんかと言えばたいていの場合はすむ話(岸政彦)」なのかもしれません。しかし私たちは直接的な対話をないがしろにして、恐怖感や嫌悪感に突き動かされて「ことば」を発してしまいます。これはネットの社会ではさらに顕著に表れているように思います。しかし聖書が語る言葉は愛ややさしさに満ち、躍動的でありながら私たちに応答を求める者として描かれています。聖書の言葉に立ちながら「ことば」の力を信じ、降誕日までの日々を過ごしたいと思います。

2019年10月27日日曜日

2019年10月20日

2019年10月20日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨
 「びくびくするのも、ほどほどに」 小笠原純牧師
    ルカによる福音書 19:11~27節
 「これ」という賜物があればなあというふうに思うときが、わたしにはあります。でも、一方で、「小笠原さんにはそこそこの賜物しか与えてないのに、まあよくやっているんじゃないかなあ」と、神さまは思っておられるのではないかと思っています。
 今日の聖書の個所は「ムナのたとえ」という表題のついた聖書の個所です。このたとえは主人が10ムナを僕に渡して商売をさせるというたとえです。1ムナで10ムナもうける人、5ムナもうける人が誉められます。そして1ムナをそのままにしていた人が叱られるという話です。一般的には、「賜物を用いない人はだめである」という話です。しかしもう一方でこの話は、世の終わり・終末の関連で、イエスさまは話されています。1ムナをそのままにした人を叱った主人は、自分は人を裁く人間だと思っているわけですが、世の終わり・終末のときに、みんな同じように、神さまの裁きの座に立つことになるのです。世の中にはこの主人のように恐ろしい人がいて、びくびくしてしまう私たちですが、しかし神さまはそんな弱い私たちを守ってくださる力強い方なのです。
 なんかびくびくしてしまって、本来であればできるかも知れないことも、できないと思ってしまうこともあります。自分がやらなくても、もっと自分より上手にできる人がやってくれるのではないかと思って、「まあいいか」と思うこともあります。周りの人たちが上手にしているのをみると、なんか気後れしてしまうというようなこともあります。  私たちの神さまはなんとなく気後れして何もできない私たちに対して、「その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ」と叱り飛ばすような方であるとは、わたしは思いません。ただでもせっかく神さまが与えてくださった賜物が、十分に用いられないのであれば、やっぱり神さまはちょっと残念に思われるだろうと思います。「小笠原さんには、この賜物を与えているのに、なんで小笠原さん、それを用いようとしないのかなあ。ちょっと、残念やなあ。この賜物用いて、いい働きすると思うんやけどなあ」。
 びくびくするのも、ほどほどに。あんまり大丈夫かなあ。大丈夫かな。できるかな。心配だなあと、思うのではなく、喜んで、神さまに用いていただく者でありたいと思います。少々、失敗をしても、神さまが助ける人を備えてくださり、良きようにしてくださいます。神さまに用いていただき、幸いな歩みをしたいと思います。

2019年10月22日火曜日

2019年10月13日

2019年10月13日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨
  「良いお金持ちになる方法」 小笠原純牧師
    ルカによる福音書 16:19~31節
 和田洋一の「新島襄」によりますと、「幼いときから新島は貧乏のつらさに泣くことはなかった」そうです。新島襄は同志社の設立と運営のために一生懸命に働きます。その資金の多くは海外の教会や宣教団の資金によるものでした。新島襄は、良いことのために用いるのであれば、お金はだれから出してもらっても良いと思っていました。そして教会に連なる良い人々、良いお金持ちが新島襄を支えました。
 今日の聖書の個所は「金持ちとラザロ」という表題のついた聖書の個所です。金持ちはこの世で良い暮らしをし、そして天に召されたあとは陰府で苦しんでいる。ラザロは世の世で苦しい生活をし、そして天国ではアブラハムの祝宴に招かれている。金持ちは自分の兄弟たちがこんなひどい目に合わないようにと、ラザロを遣わして兄弟たちに伝えてほしいとアブラハムに言います。しかしアブラハムは「モーセと預言者」(聖書)に耳を傾けていれば、このような目にあることはないと言いました。
 神さまは私たちに命を与えてくださいました。今日も私たちは神さまから命を与えられて生かされています。その命はわたしが作り出した命ではなく、神さまから与えられた命です。どんな金持ちも自分の命を自分で作り出したわけではありません。その命は神さまから与えられたものです。そのことをわきまえないで、私たち人間は生きていくことはできないのです。私たちには金持ちになる方法が示されているのではなく、「良い」金持ちになる方法が示されています。  
 私たちはいつのまにか、自分が自分の力で生きているかのように思い込んでしまうときがあります。そして順調な時は得意になり、自分以外の人々が怠け者であるかのような気持ちになるときがあります。「自業自得だ、自己責任だ」と、恥ずかしげもなく語り始めるときがあります。私たちの時代の病は深く、世の中自体が神さまの御心に反することに対して、それこそが正しいことのような雰囲気が漂ってしまうときがあります。  
 しかしそれは正しいことではありません。人は神さまから命を与えられ、そして神さまから与えられた賜物を用いて生きていきます。そして互いに思いやりながら、互いに愛し合いながら、互いに寄り添いあって生きていく。それが、神さまが私たちに示しておられる歩みであり、祝福された良き歩みなのです。








2019年10月14日月曜日

2019年10月6日

2019年10月6日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨
  「人間に戻る」 桜井希牧師
    マタイによる福音書 14:13~21節
物語は人里離れたところで休もうとされたイエスを追って、大勢の群衆がやって来るところから始まります。「女と子供を別にして、男が五千人ほど」とありますから、実際は一万人を超えていたでしょうか。その中には病人がいて、病人を連れて来た家族や友人がいたはずです。そうした人々を前に、イエスは病人を癒し始めたのでした。病人の列は途切れることがありません。日はかげり、夕暮れ時となりました。傍らにいる弟子たちは、群集が疲れ果て空腹のまま置かれていることを重々知っていました。もちろん自分たちもお腹がすいてきたはずです。しかし、お腹をすかせた人々を前にして自分たちだけが五つのパンと二匹の魚を食べるわけにもいかない。そこで弟子たちはイエスの活動を止めさせ、群集を解散させようとようとします。それに対してイエスは言うのです。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と。
 自分が持っているものや能力ではどうすることもできない現実がある。そうであれば、目の前の現実をなくしてしまえばいいのです。群衆にはそれぞれの責任でなんとかしてもらうしかない。彼ら彼女らの空腹は自分たちの責任ではないからです。もちろん弟子たちだって、最初は群衆を見て「かわいそうに」と思っていたはずです。しかし彼らは、事が我が身に及ぶと、自分にはそんなことできないと逃げようとします。
 そのような弟子たちに、イエスは自分の手で食べ物を配るよう命じます。それは目の前の人々を「大勢」として一括りにしていた彼らを、その一人ひとりと出会わせるためではなかったかと思うのです。食べ物を配りながら、弟子たちには一人ひとりの苦しみや悲しみが見えてくる。パンをもらって喜ぶ子供の顔、泣きやむ赤ちゃんの顔、安心する親の顔、そこには感謝と喜びの出会い、ひと時の交わりがあったことでしょう。弟子たちにしてみれば、群集は「人数」から「人間」に戻ったのではないでしょうか。いやむしろ、弟子たちが人間に戻ったと言うべきでしょう。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」というイエスの言葉は「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と言って立ちすくむ私たちに、人と出会う勇気を与えてくれるのではないでしょうか。

2019年10月7日月曜日

2019年9月29日

2019年9月29日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨
   「『赦して』と言えないけれども、ごめんなさい」 小笠原純牧師
     ルカによる福音書 15:11~32節
 放蕩息子のたとえには、限りなく深い神さまの愛が示されています。おろかな息子を愛して、愛してやまない父の姿として、神さまの愛が表されています。
 この放蕩息子のたとえのクライマックスは、帰ってきた息子を父が抱きしめて迎えるというところでしょう。そうしたことから考えると、前半で終わっていても良いと思います。そうしたら心地良い話として、このたとえは語り伝えられただろうと思います。しかし後半に兄が出てきて、なんとなく心地悪い話で、たとえは終わることになります。
 この放蕩息子のたとえには、どうして前半と後半があるのか。わたしはここに二つの問いかけがあると思います。一つは、「神は赦しても、わたしは赦せない」という問いかけと、「赦さない人がいる中で、わたしは神さまから赦されても良いのか」という問いかけです。
 放蕩息子のたとえは、前半と後半があることによって、私たちに人を赦すことのむつかしさ、また神さまから赦されているということがただならぬ出来事であることを、私たちに教えています。私たちの罪が赦されている。神さまが私たちの罪を赦してくださっているということは、本来はありえないような出来事であるということです。  
 神さまに対しても、また直接迷惑をかけてしまった父に対しても、弟は赦しを乞います。そして「もう息子と呼ばれる資格はありません」と言い、本来、赦してもらいたいと言うようなおこがましいことを言うべきことではないのだと言っています。たやすく「赦してください」などと言うことはできないと思う。人が「あなたのことは赦さない」と言うのは当然だ。そのようなことをしてしまったのだから。赦されないことなのだ。そうしたことをわかった上で、それでも赦しを乞う以外にないということです。  
 弟は、「「赦して」と言えないけれども、ごめんなさい」と言いました。 赦されない、赦されないことだと思うけれども、しかし神さまの憐れみのうちに生きていくしかない。それが自分の罪に向き合う人のありようであると、聖書は私たちに語っています。  
 そして、私たちがどんなにおろかで罪深いものであったとしても、神さまは私たちを愛しておられる。私たちを憐れみ赦してくださる。放蕩息子の父親が、弟が帰ってくるのを待ち続けたように、神さまは私たちが神さまのところに帰ってくるのを待っておられます。 神さまの深い愛に感謝して、悔い改めつつ歩んでいきましょう。




2019年9月30日月曜日

2019年9月22日

2019年9月22日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨
   「わたしたちの十字架」 桝田翔希伝道師
     ルカによる福音書 14:25~35節
 10月22日は天皇の即位儀礼が行われるため、いわゆる「祝日」になるということを最近知りました。元号が変わったことにより、関心度が高まっているように思うと同時に、日本における血縁による意識のあり方を捉え直す時が来ているように感じています。
 この聖書箇所は、イエスの後を付いて来た群衆がいたことを伝えています。「ついてくる」という言葉からは野次馬のような印象を受けそうになりますが、ここでは「旅をする」とも解釈できる単語が使われています。もしかすると、「なんとなくついてきた」のではなく、それ相応の覚悟や情熱を持った人たちがイエスの後にはいたのかもしれません。しかしイエスは「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」を捨てるよう彼らに言い放っています。私たちにとっても「家族」はとても大切で捨てられるようなものではありません。様々な解釈ができる言葉かと思いますが、当時の社会背景においてはどのような意味がある言葉だったのでしょうか。血縁関係に起因する様々な利権があったのではないかと思います。今日の日本ではどうでしょうか。歴史は違いますが、やはり血縁関係は重要視されているように思います。しかしこのような意識に裏付けられる「立場」にどれほどの意味があるのでしょうか。
 パウロはコリントの共同体に向けて書いた手紙の中で、共同体で起きた分裂を指摘しています。商業都市として栄えていたコリントの共同体は「私はパウロにつく、私はケファにつく」などの事を言いあい、それぞれの階層が生まれていたようです(犬養光博、2018年)。私たちも様々な方法で自分の立場を表明しているのではないでしょうか。しかし「どこに立つのか」という問いが私たちには迫っているのです。
 イエスは「あなたの十字架は何か」と問われました。私たちは何を背負い、どのような立場にいるのでしょうか。止揚学園の福井達雨先生は「生命は重たい。生命を担ぐ人間は、コンクリートを担ぎ、鉄を担いで猛スピードで走る人間について行けない。それが自分の実感だ。」と語っておられたそうです。生命が軽視される今日にあって、いわれのない意識に依るのではなく生命に向き合いながらイエスの後を従うものでありたいと思います。





2019年9月23日月曜日

2019年9月15日

2019年9月15日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨
   「みんなで生きる」 小笠原純牧師
     ルカによる福音書 14:7~14節
「やどりぎは宿主には益がない」ということです。まあふつうは「人生持ちつ持たれつやないか」というわけですが、「やどりぎは宿主には益がない」のです。それでも宿主は、やどりぎを受け入れているわけです。まあ木のことですから、「わしに手があったら、やどりぎをのけるがな」と言うかも知れませんが・・・。
 招かれたときには「宴会では上席に座るな」と、イエスさまは言われました。また招くときには、お返しのできない人を招きなさいと言われました。箴言25章にも「身分の高い人々の場に立とうとするな。高貴な人の前で下座に落とされるよりも上座に着くようにと言われる方がよい」という言葉があります。
 しかしイエスさまは今日の箇所で、処世術を越えて、どのように生きるのかということを、私たちに問うておられます。処世術というのは、「このように生きれば、かどがたたない」という作法の極意というようなものです。「宴会では上席に座るな」というのは、処世術であるわけです。しかしイエスさまはその「宴会で上席に座るな」ということを、私たちに教えたかったわけではないのです。そうではなくて、私たちの心の中にある、「人よりも少しでも上にいて、下の者を見下してやりたい」というあさましい思いについて、「それはよくないだろう」と言われたのでした。イエスさまは処世術ではなくて、根本的な生き方に対する問いを、私たちに与えて下さっているのです。
 私たちは人生の中で、失敗をしたり、お世話になったすることがあります。また人の失敗を補ったり、また人のお世話をすることもあるでしょう。そうしたことをいちいち、「益だ、損だ」、「借りだ、貸しだ」というようなことを考えるのではなく、もっと大らかに、どちらにしても、【正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる】と思えるような歩みでありたいと思います。迷惑をかけてしまったときは、神さまがあの人に報いて下さるようにと祈る者でありたいと思います。また何かしてあげたときは、「復活するとき報われるから、得したなあ」と思えるような歩みでありたいと思います。
 互いに思い合って、祈りながら歩んでいきましょう。あまりこだわらず、神さまが良き道を備えてくださることを信じて、神さまにおまかせして歩んでいきましょう。神さまは大きな御手でもって、私たちの歩みを支えていてくださいます。









2019年9月16日月曜日

2019年9月8日

2019年9月8日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨
   「自分のこととして考えてみようよ」 小笠原純牧師
    ルカによる福音書 14:1~6節
 わたしは昔、「病院ってお見舞いに行くところ」と思っていました。伝道師、2年目、わたしは甲状腺機能亢進症という病気で入院することになりました。わたしは自分が入院して、はじめて、病院って、だれしも病気になり、自分もまた入院するところであることに気づきました。なんかとても高慢な思いになっていたことに気づかされました。
 安息日に人や牛が井戸に落ちたときどうすればよいのかということについては、ユダヤの法律のなかで、いくつもの凡例があるそうです。イエスさまは「自分の息子か牛が井戸に落ちたら」と言っておられます。たんに人が井戸に落ちたときとか、牛が井戸に落ちたときの話をしているのではないということです。「あなた」の息子、「あなた」の牛が落ちたら、あなたはどうするのだ。安息日だからといって助けないのか。一般的な話のときは、自分の説を披露して、わたしの解釈はこうだというだろうけれど、「自分」の息子や牛が落ちたときは、やっぱり安息日であっても助けるだろうと、イエスさまは言われました。
 イエスさまは「自分の身になって考えようよ」と言われました。イエスさまは律法というのは、「人にしてもらいたいと思うことを、あなたが人にしてあげることだ」(マタイ福音書7章12節)と言われました。「これしてあげたら、あの人喜ぶだろうなあ」とか「あれしてあげたら、あの人うれしいだろうなあ」。そうした優しさの中にあるのが、律法に従って生きていくということだよ。律法に書いてあるから、これをしなければならない。やっていないあの人は律法に違反している悪い人だというようなのは、律法の正しい用い方ではないよ。イエスさまはそのように言われました。
 私たちもファリサイ派の人々や律法の専門家のように、ときに冷たい考え方や行ないをしてしまうことがあります。でもやっぱり私たちのこころの中にある優しさを大切にしたいと思います。
 イエスさまは私たちを愛して、私たちのために十字架についてくださいました。私たちはそのイエスさまの愛に包まれて生かされています。神さまは私たちに良き賜物を与えてくださり、その賜物いかして、世の人々と共に歩みなさいと言っておられます。神さまの愛に満たされて、私たちの中にある優しい気持ちを大切にして、思いやりをもって歩んでいきましょう。




2019年9月10日火曜日

2019年9月1日

2019年9月1日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨
 「愛のない世界に生きたいですか」 小笠原純牧師
   ルカによる福音書 13:10~17節
法律で罰せられるか、罰せられないかということが唯一の基準であり、倫理的なことはあまり関係がないかのような、愛のない振る舞いをする政治家が増えてきたような気がします。わたしはどうしてそんな感じになったのかなあと思うときに、世の中自体が、神さまのことを忘れてしまっているからではないかと思います。そしてもっともっと神さまのことを宣べ伝えていかなければならないと、牧師としてわたしは思います。
イエスさまは安息日に18年間苦しんでいた女性を癒されました。会堂長は「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」と言って、イエスさまを非難しました。しかしイエスさまは会堂長を偽善者とののしり、反論しました。
安息日はもともと毎日働かざるを得ない人々が、一日、休むことができるための日として定められたものでした(出エジプト記20章8−10節)。安息日は神さまが与えてくださった愛に満ちた休息の日でした。だから神さまが喜ばれるようなことをしてあげたら良いのだ。18年間病気で苦しんでいた人をいやしてあげるのは、神さまが喜ばれることであり、安息日にふさわしいことだ。会堂長の言葉には、それは合理性があるかもしれないけれども愛がないと、イエスさまは言われました。
わたしはものごとを合理的に考えることがどちらかと言えば好きで、そしてそれゆえに自分のなかに愛が少ないということを感じることが多いです。ですからわたし自身もこの会堂長のように考えがちだなあと思わされます。「愛がない」のです。「愛がない」。しかし私たちは愛のない世の中には生きていけないのです。
ただこの会堂長たちはとてもえらいなあと、わたしは思います。イエスさまから「あなたたちには愛がないのだ」と言われ、そのことに対して会堂長たちは皆そのことを恥じました。彼らは恥じ入る素直さを持っていました。
讃美歌21の493番は「いつくしみ深い」という賛美歌です。私たちのイエスさまは「いつくしみ深い」方です。深い愛でもって、私たちを包んでくださる方です。私たちはイエスさまの愛によって生かされています。私たちはイエスさまが教えてくださった愛のある世界に生きたいと思います。私たちのこの世界が神さまの愛に満ちあふれた世界となりますようにと祈りつつ歩みましょう。







2019年8月25日

2019年8月25日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨
  「救われる人と」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 12:35~48節
 この箇所では、自分の職務をきっちりと守り主人を待つ僕のたとえ話などを通して、終末が訪れるまでにどのように生活するべきなのか語られています。当時のイスラエルで婚宴とは、現代とは違い数日にわたって行われるものでした。ですので、婚宴に出かけた主人が何時・何日に帰ってくるかわからないものでありました。またイエスは「主人が僕に食事の世話をする」と終末を説明します。私たちは終末をどのように捉えるべきなのでしょうか。
 当時のパレスチナは、ローマ帝国による厳しい支配下にありました。苦しい状況の中で、ローマ帝国ではなく「神による支配」を多くの人たちが求めました。しかしその考えは次第に、宗教的敬虔さを求めることとなり、聖書の決まり事を守ることだけが重要視され、ユダヤ人は「義人」と「罪人」へと分けられていきました。神の支配を求めながらも、宗教的敬虔さという思い込みにより、当たり前のように差別は正当化されたのです。イエスの活動はそのような「終末を待ち望む社会」でないがしろにされた〈いのち〉に向き合う、「見せかけの宗教的敬虔さゆえに〈いのち〉を損なっているあり方をみいだした」ものであったのかもしれません(上村静、2011年)。
 私たちも神が支配する平和な世の中を求めながら、見せかけの価値観を抜け出せていないのかもしれません。「食べへんかったら大きいなれへんで!」と小さい時によく言われました。この歳になって、同じことを教会で子どもたちに言っている自分に気づきました。そんな中、「ちお・おは」という言葉を先日知りました。これは「ちいさい・おおきい」、「おそい・はやい」を縮めた言葉だそうです。「大きいことはいいこと」、そんな考えは昔からあるように思います。しかし、小さいこともいいことです。スポーツでは長所になることがあります。「大きいことはいいことだ」という価値観が様々な差別に関係しているのではないでしょうか(山田真「(ち・お)ってなんだ?」)。
 この聖書箇所で、ペトロがイエスに問うています。ペトロもまたイエスに従っていながら、求めていた救い主のイメージは当時の世間で流布してた力強いメシア像でした。そんな見せかけの価値観は、イエスの死を前に、イエスとの関係性を偽りながら否定し、涙の中で打ち砕かれていきました。終末とは、私たちの見せかけの価値観や二元論とは違う、人々を「救われる人」と「そうでない人」に分けてしまうような価値観ではない、と聖書は語っているのではないでしょうか。

2019年8月27日火曜日

2019年8月18日

2019年8月18日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨
  「世界の中心で「自分は正しい」と叫びたい私」 小笠原純牧師
     ルカによる福音書 10:25~42節
大阪教区の総会議長をしていたとき、こちらの人からも、あちらの人からも、「それは違う」と言われることがよくありました。あんまり「それは違う」と言われ続けると、わたし自身も疲れてきて、「自分は正しい」と叫びたい気持ちに襲われるときがありました。世界の中心で「自分は正しい」と叫びたいときというのが、私たちにはあります。
私たちにとって大切なことは何なのか。永遠の命を得るためには何をしなければならないのか。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛すること。また、隣人を自分のように愛しなさい』。そして、いろいろなわずらいを超えて、ただイエスさまが語られる神さまのことを聞くこと。そのように聖書は、私たちに教えてくれています。
そのように教えられていることはわかるわけですが、わたしはこの「善いサマリア人」「マルタとマリア」という聖書の箇所を読みながら、自分を正当化しようとした律法の専門家の気持ち、またイエスさまに対して「何ともお思いになりませんか」となじったマルタの気持ちがとても気になりました。
律法の専門家やマルタはその後、どうしたでしょうか。世界の中心で「自分は正しい」と叫んだあと、部屋に帰って落ち着いたときに、彼女たちはどうしたでしょうか。「やっぱりイエスさまは大切なことを、わたしに必要なことを教えてくださった」と思い直しただろうと、わたしは思います。そして正しくないわたしを招いてくださる神さまがおられることに気づいただろうと、わたしは思います。
心が弱くなって、イエスさまの言われることを素直に受けとめることができないときが、私たちにはあります。「そんなこと言われたって、イエスさま、・・・・。わたしだけが悪いって言うのですか・・・」。しかし落ち着いて、祈りつつ歩むときに、イエスさまは私たちに永遠の命に通じる道を示してくださっていることに気づかされます。
正しくないわたしを招いてくださる神さまがおられます。「ぜったいわたしが正しい」との思いにとらわれて、高慢な思いになってしまうわたしを諭してくださる神さまがおられます。罪深い私たちを赦し、私たちに慰めを与えてくださる神さまがおられます。神さまは私たちを愛してくださり、私たちに永遠の命を備えてくださいます。












2019年8月19日月曜日

2019年8月11日

2019年8月11日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨
   「自分の弱さを受け入れる」 小笠原純牧師
      ルカによる福音書 9:51~62節
ヤコブとヨハネは、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。わたしはヤコブやヨハネのようなちょっと調子に乗った言葉を聞くと、なんか「ああ、この人たち、わたしとおんなじやなあ」と、妙に安心してうれしくなります。ほんとにいいかげんで、お調子者で、どうしようもない弟子たちです。
イエスさまたちは、サマリアの人々からは歓迎されませんでした。ユダヤの人々はサマリアの人々を差別して、蔑んでいました。サマリアの人々もまたユダヤの人々をよく思っていないわけです。ですからユダヤの人であるイエスさまを歓迎しませんでした。サマリアの人々を蔑む気持ちが、ヤコブやヨハネにあったからでしょう。ヤコブやヨハネは「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。それでイエスさまはヤコブとヨハネを、「戒められた」のでした。
イエスさまは「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」という人には、「そんなこと言っても、わたしと一緒にきてもろくなことないよ」と言われます。しかしまた別の人に対しては、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われます。無理して気負ってイエスさまのところにやってきた人には、水をかけたのに、煮えきらない人に対しては、こんどは葉っぱをかけるのです。
人は自分の弱さを受け入れられないときに、自分に対しても、人に対しても「こうあらねばならない」という正しさを求めます。ほんとうに神さまにより頼むとき、神さまに罪ゆるされたと思えるとき、人は使徒パウロのように【自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません】(2コリント12章5節)と言えるのだと思います。神さまは私たちの弱いところに働いてくださるのです。
自分の弱さ、なさけなさ。ひきょうな自分、ずるい自分。それを強がったり、こうでなければならないという気持ちで、ごまかすのではなく、まず初めに自分の弱さを受け入れたいと思います。そして私たちの弱さを知った上で、招いてくださるイエスさまについていきましょう。私たちの弱いところに働いてくださる神さまに委ねて歩んでいきましょう。






2019年8月11日日曜日

2019年8月4日

2019年8月4日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨
   「ちいさな者だけれど、平和を祈る。」 小笠原純牧師
       ルカによる福音書 8:1~3節
私たちの平安教会が属しています日本基督教団は8月の第一主日を、平和聖日としています。あさっては、8月6日、74回目の広島原爆記念日を迎えます。
ドイツで行なわれた反ナチス運動に、「白バラ」というのがあります。ショル兄姉とその友人たちは、ナチスドイツに反対するビラをつくり大学などで蒔きました。そしてゲシュタポにつかまり、逮捕されて四日で、ギロチンで処刑をされました。「あの人たちは何も超人的なことを企てたのではないのです。・・・。ある単純なこと、つまり個人の権利と自由、各人の自由な個性の発達と自由な生活への権利とを、背負って立ったにすぎないのです。・・・。彼らの欲したことはみんなが、わたしもあなたも、人間的な世界に生きうるということだったのです」(『白バラは散らず ドイツの良心 ショル兄妹』、未来社)。ショル兄妹たちのその精神は引き継がれていきます。白バラは散らず、白バラは散らない。白バラは咲き続けるのです。小さな花であるかも知れないけれども、しかし白バラは咲き続ける。ショル兄妹たちはふつうの小さな人たちでしたが、しかしそのふつうの小さな人たちの良心が、この世界を支えています。
イエスさまの周りには、十二弟子たちと、そしてガリラヤから付いてきた女性たちがいました。イエスさまが十字架につけられたときも、そしてイエスさまがよみがえられたときも、女性たちはイエスさまのことを忘れることがありませんでした。女性たちは「自分の持ち物を出し合って」とあるように、自分たちのできる範囲のことを、誠実に行ないながら、イエスさまにお仕えしたのです。彼女たちは他人のものをもってくるのではなく、「自分の持ち物を出し合う」のです。もちろんそれでは足りないということもあったでしょう。それはそれで仕方のないことです。足りないことは神さまにお任せして、自分たちは自分の持ち物を出し合って、誠実に歩んでいったのです。マグダラのマリア、ヨハナ、スサンナの名前は記されていますが、しかしそのほかの多くの女性たちの名は記されることはありません。それでもやはり誠実に、イエスさまにお仕えして歩んだのです。
私たちもまた小さな者ですが、多くの女性たちのように誠実に歩みたいと思います。74回目の広島原爆記念日を迎え、そして8月9日の長崎原爆記念日、8月15日の敗戦記念日を迎えます。神さまの平和を求めて、祈りつつ歩みたいと思います。






2019年8月4日日曜日

2019年7月28日

2019年7月28日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨
   「あなたの罪は赦された」 小笠原純牧師
     ルカによる福音書 7:36~50節
 田口ランディは「魂のコード」(「根を持つこと、翼をもつこと」、晶文社)というエッセーのなかで、自分のもつ弱さやずるさ、人としての冷たさを素直に書いています。
イエスさまがファリサイ派のシモンの家で食事をされた時、罪深い女と言われていた女性が、イエスさまの足もとに近寄り、泣きながらイエスさまの足に接吻して香油を塗りました。それをみてシモンは「この人が預言者なら、罪深い女が自分に振れていることが分かるはずだ」と思い、この人は大した人ではないと、心の中で決めつけました。
 わたしは「高みの見物としてのキリスト教」というものと、「わたしが赦される出来事としてのキリスト教」ということがあると思います。「高みの見物としてのキリスト教」は、キリスト教がどうであるかとか、イエスさまがどうであるのかということに関心があてられています。ファリサイ派のシモンは「高みの見物としてのキリスト教です」。彼は自分が高みにいて、イエスさまに対する評価を下します。
 もう一方の「わたしが赦される出来事としてのキリスト教」というのは、自分を救っていただきたいということ関心があてられています。罪深い女と言われていた女性は、「わたしが赦される出来事としてのキリスト教」です。この女性は自分の罪を悔いながら、イエスさまに救っていただきたいと思っていました。
 イエスさまは「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言われました。わたしは自分の心の冷たさが嫌いです。「この冷たい固まりに触れると、世界が音を立てて凍ってしまうのではないかと思える、私の中にあるこの冷たい凍った固まりをどうにかしてほしい」という思いをもっています。
 イエスさまは罪深い女と言われていた女性に、「あなたの罪は赦された」と言われました。「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」を聞くと、ちょっと元気がなくなってしまうわたしですが、この「あなたの罪は赦された」という言葉には、大きな安らぎを感じます。この女性の罪を赦してくださった方は、わたしの罪をも赦してくださると思えるからです。
 私たちの神さまは、私たちの罪を赦してくださる神さまです。私たちはこのことを謙虚に、感謝をもって受け入れるものでありたいと思います。

2019年7月30日火曜日

2019年7月21日

2019年7月21日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨
  「一人一人が生き生きと」 小笠原純牧師
    マタイによる福音書 28:16~20節
 学生のときに聞いた天国に関する小噺によると、天国に入るときは天国の門の前で自分の罪を思い出し、悔い改めながら、自分の犯した罪をチョークで書いていくそうです。(小噺省略)。みなさんは天国に行くときに、だれが天国に連れていってくれると思っておられますか。わたしを天国に連れていってくれるのは、信徒の皆さんだと思っています。わたし自分を天国に連れていってくれる人と一緒に、教会生活を送っていると思っています。
 神さまによって、ひとりひとりが召されています。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」という言葉は、教会に集うひとりひとりに語られています。そして「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という言葉は、ここに集うひとりひとりに語られているのです。
 わたしがこうなればいいなあと思う平安教会のイメージは、こうです。ペトロとヨハネが天国で、平安教会の話をしています。「ああ、平安教会か、あの教会はええ教会やねえ」。「ほんと、あの教会はええ教会や」。「平安教会には、信徒のAさんがおるわ。あの人は熱心や」。「そうそう、平安教会には、信徒のBさんもおるわ。りっぱな人や」。「あ、それから信徒のCさんも平安教会や。あの人の信仰には頭がさがるわ」。「ああ、Dさんもおるわ。あの人はほんとに謙虚な人や」「そうや、平安教会はええ教会だから、平安教会の牧師のところに、天国から贈り物をしようよ」。「そりゃ、ええ考えや。さすがペトロさん、ええこと言うわ。グッド、アイデアや」。そして使徒ペトロが、最後に使徒ヨハネに尋ねます。「それは、そうと、平安教会の牧師って、だれっだけ?」。
 この話は天国での話ですが、現実に世界でも、「平安教会の牧師の名前は知らないけれど、平安教会には信徒のFさんがいる」というような教会であってほしいと思います。もちろんわたしも「平安教会には、かっこよくて男前の牧師さんがおられる」というふうに言われるように、一生懸命にこころを込めて、伝道・宣教のわざに励みたいと思います。
 教会は自由なみんなの広場です。ひとりひとりが自由に、そして生き生きと神さまから与えられた賜物を生かしてわかちあう、みんなの広場です。私たち一人一人、みんなが主役です。そしてひとりひとりが神さまに召された者として、共に尊敬しあって歩んでいきましょう。

2019年7月22日月曜日

2019年7月14日

2019年7月14日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨
  「支えあって生きる」 小笠原純牧師
    マルコによる福音書 9:30~37節
わたしが牧した三条教会のある、新潟県三条市の近くに伝えられる民話を紹介いたします。ある貧しい男が毎日花売りに来て、余ると、川に投げ入れて乙姫様にあげていました。ある日、乙姫様に招かれ、お礼に「トホウ」という子どもをもらいます。トホウは汚れているけれど、何でも願い事をかなえてくれます。男は家を、着物を、お金をトホウに出してもらいます。男は大金持ちになります。大金持ちになると、どこにでも付いてくる汚れたトホウが邪魔になります。男がトホウを追い出します。トホウが家を出ると、たちまち家も、着物も、すべてのものがもとどおりになってしまいました。男は途方(トホウ)にくれてしまいました。この民話はトホウに象徴される小さき者を除け者にしていく人を風刺しています。昔の人々は民話をとおして、小さき者に対する配慮を忘れてはならないという大切なことを、子に、孫に伝えていったのです。
イエスさまはご自分の死と復活とを弟子たちに告げられました。しかし弟子たちは理解することができませんでした。弟子たちが望んでいたことは、イエスさまがダビデ王のようにえらくなることであり、そのときには自分たちもえらい者になることであったからです。そうした弟子たちに対して、イエスさまは仕える者になることを教えられ、子どもに象徴される小さき者を大切にするあり方を示されました。
申命記24章5節以下には「人道上の規定」という表題のついた聖書の箇所があります。そこには寄留者・孤児・寡婦に対する配慮することが、神さまの命令として記されています。イスラエルの民は、エジプトの国で奴隷になっていたときに、神さまが救いだしてくださったことを忘れず、寄留者や孤児、寡婦に対しての配慮について、申命記のなかで記しています。日本の民話のトホウの話のように、自分たちが救われて、豊かな生活ができるようになったときに、小さい者たちへの配慮を忘れてはいけないとの思いが、イスラエルの民の中にしっかりと根付いていたのでした。
私たちは強いときもありますし、弱いときもあります。そして私たちはみな弱い部分を抱えて生きています。支えあい、励まし合って、生きていく。だれかがだれかを支配したり、だれかがだれかの上に立つというのではなく、互いに仕え合う。イエスさまが示してくださった愛の道を、私たちも一緒に歩んでいきましょう。

2019年7月15日月曜日

2019年7月7日

2019年7月7日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨
  「大きな丸太が目の中から」 小笠原純牧師
    マタイによる福音書 7:1~5節
今日は敬愛する平安教会の皆様と共に、礼拝を守ることができ、とてもうれしく思います。7月1日(月)から平安教会での歩みが始まりました。わからないことだらけですので、桝田翔希伝道師にお聞きしながら、いろいろなことを始めております。
わたしは16年ほど前まで、四国の伊予小松教会という教会の付属の保育園で、園長をしていました。キリスト教主義の保育園でしたから、目を閉じてお祈りをするということがありました。お祈りの歌を歌ったあと、お祈りをします。保育士の先生がお祈りをし、そしてお祈りが終わったあとに、先生のところにやってきて、「先生、聖子ちゃんが、お祈りのとき、目をあけていました」と教えてくれるこどもがいます。先生は言います。「ほんと?。教えてくれて、ありがとう。でもどうして聖子ちゃんがお祈りのとき目を開けていたって、明菜ちゃんにわかったの?」。
イエスさまは「人を裁くな」と言われました。人を裁くとき、あなたも同じようなことをしていることがあることに気づきなさい。そして「自分が裁くと、人もあなたを裁く」と言われました。裁きの世界に生きている限り、互いに裁きあい、傷つけ合うだけだと、イエスさまは言われました。
ヤコブの手紙5章15節には【信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます】とあります。「主が赦してくださるのです」。ですから私たちのすべきことは、裁くことではなくて、祈ることです。
イエスさまは「人を裁くな」という話をされたときに、「まず自分の目から丸太を取り除け」と言われました。もちろん人の目の中に丸太があるわけはありません。イエスさまは「裁くな」という深刻な話をするときに、ちょっと極端なことを言って、話の場を和ませたのです。正しいことを言うときは、少し配慮をしなければならないと、イエスさまは私たちに教えておられるのです。このことも大切なことだと、わたしは思います。
人を裁いたりすることの多い私たちです。しかし自分の目の中に丸太があるのではないかと思う、謙虚な気持ちを忘れることなく、歩んでいくことができるようにと、神さまにお祈りいたしましょう。

2019年7月2日火曜日

2019年6月23日

2019年6月23日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨
  「招かれた食卓」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 14:15~24節
6月23日は沖縄では「慰霊の日」として守られる日です。私事ですが、3月に沖縄研修旅行に参加させていただき、様々なことを見せていただき聞かせていただきました。宮古島での住民の危険を顧みない基地の建設や、辺野古での基地建設、戦争の記憶、など様々なことを見聞きしました。「帰ったらこのことを伝えてね」と私たちを温かく迎えて下さいました。「行こう」と思い研修に参加しましたが、「招かれた」ような感覚を覚えました。
 沖縄県知事室の屏風には「万国津梁の鐘」に刻まれている漢文が書かれています。この文章には、沖縄・琉球が近隣の国と平和に外交を行い、懸け橋のような役割を担ってきたことが書かれています。しかし次第に日本により支配されるようになり、第二次世界大戦にあっては本土の捨て石として利用され、現在でも軍事基地が多く存在します。沖縄出身の平良修牧師は「万国の橋渡し役ではなく、常に侵略国家の政治の一端を担わされることになった」と著書の中で語っておられました。本土から見て「小さな島」は支配下に置かれてしまっています。
 与えられた聖書箇所は、ファリサイ派の人たちが集まる中でイエスがたとえ話を語り、張り詰めた空気の食事会の様子を伝えています。その中でイエスがたとえ話を語ります。宴に招かれた人たちはそれを断り、打って変わって街の隅々を探して人が集められました。その範囲は小道にまで及びましたが、これはこの世の端っこや周辺という意味も含まれているようです。この箇所の冒頭では、ある人が「神の国で食事をする人は何と幸いなことでしょう」と語ったことがわざわざ記録されています。私たちも自分こそが正しいという風に思ってしまうものですが、この言葉の背景には「自分こそが正しく救いに預かることができる」という思いを読み取ることができます。私たちの社会では、都会ばかりが栄え「田舎」は利用されどんどん貧しくなります。ここには「中心と周辺」の構造があります。ファリサイ派の発言を受けイエスの語った物語で、食卓に招かれたのは小道や町の端っこにいる人たちでありました。
 私たちの身の回りには、このたとえ話に登場するようなキツイ生活を余儀なくされる痛みがたくさんあります。しかし、ついつい自分を中心に生きてしまいます。この世の中の端っここそイエスは大切にされたのです。「小さいから」と、ないがしろにしないイエスの姿勢に学ぶものでありたい。

2019年6月24日月曜日

2019年6月16日

2019年6月16日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨
  「空のカラス・野のアザミ」 木村良己牧師
   ルカによる福音書 12:22~31節

(1) 「等価交換の法則」に生きる現実!
(2) 「空のカラス・野原のアザミ」
■「空の鳥・野の花」と呼ばれる有名なテキスト。教会学校に通っていた頃のCSカードでは、両手を天に向けて広げたイエス様がいて、その手の周りを小鳥が舞っていて、足下には百合が咲いているイメージだった。しかし「空の鳥」は、ギリシャ語では「コラクス」という言葉が使われ、マタイでは「鳥」、ルカでは「カラス」と特定されていて、小鳥ではない。また「野の花」は、ギリシャ語では「クリノン」という言葉が使われ、マタイでは「野の花」、ルカでは「野原の花」と訳されている。かつて文語訳聖書で特定された「野の百合」というよりは、棘があってはびこる「野アザミ」ではないかとの説もある。何しろ「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草(28節)」という表現が続くのだから。 
■イエスが「空の小鳥・野の百合」ではなくて、「空のカラス・野原のアザミ」を考えてみなさい」と語ったのだとしたら……? あなたがたカラスのように疎まれ、野アザミのように厄介者扱いされている者たちよ。神はあなたがたにこそ目にとめ、美しく装ってくださる。まさに、切り捨てられ、排除を余儀なくされた人たちへの励ましと祝福に満ちた言葉、その一方で奢り高ぶる人たちへの厳しい批判に満ちた言葉、それが元来イエスが語った「空の鳥・野の花」=「空のカラス、野のアザミ」のたとえだったのではないか?
(3) 「父に感謝する日」(6月第三日曜日)
■「…親とは、5人いるのに4切れしかアップル・パイがないのを見ると、即座に『パイは好きじゃないの』という人のことだ!」
(4) 「等価交換を超えた法則」
■「等価交換の法則」=「Give and Take」というよりは、「等価交換を超えた法則」=シンドサを抱えた仲間たちへの「えこひいき」に満ちた愛が、聖書には描かれている。イエスが指し示した「空の鳥=カラス」や「野原の花=アザミ」に目をとめ、その背後で働く「見えざる御手」の導きに想いを馳せると共に、「ただ、神の国を求め(31節)」、「喜びながら犠牲を払って生きる」…そんな生命(いのち)の使い方でありたい。

2019年6月17日月曜日

2019年6月9日

2019年6月9日 ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝説教要旨
  「聖霊降臨」 榎本栄次牧師
     使徒言行録 2:1~13節
 今日はペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝を守っています。イエス亡きあと、弟子たちは人々からの迫害を恐れて隠れて集まりをしていました。そのような弟子たち一人ひとりの上に聖霊が下りました。すると彼らは怖れを捨て、外に出て人々の言葉でみ言葉を語り出しました。ペンテコステの出来事です。今日は教会の誕生日です。 
 教会という言葉には二つの呼び名があります。一つはエクレシア(集められた者)です。集められた者は、無欠陥のエリートたちではなく、むしろ世間からははみ出した変わり者であり、負け組の閉じこもりの人たちでした。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マタイ9:13)と言われたとおりです。
復活後、主イエスは「力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒言行録1;4)と言われました。教会は、逃げ込むところです。集められた者は、祈ります。泣きます。助けを求めます。待ちます。叫びます。共に食事をします。話を聞き合います。そこに聖霊が下るのです。完全な受身形です。牧師も信徒も待つ者でなければなりません。
もう一つはディアスポラ(散らされた者)という言葉です。外に出ていくのです。追い出されるという意味もあります。遣わされたところでもあります。そこは「狼の群れに羊を送り込むようなもの」(マタイ10:16)です。礼拝を終え、ここからそれぞれ違ったところに散らされていくのです。その散らされた所が、ディアスポラとしての教会、キリストの体です。キリストは弟子たちを「強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」られました。(マタイ14:22)教会が教会になっていくためにはこの二つのことが必要です。
聖霊を与える。その約束を頂くために私たちは週毎に集まってくるのです。そして、主の使命を受けて散らされていくのです。約束を信じ待つ時、必ず主は助け主を送って下さいます。そこに主の教会があるのです。

2019年6月10日月曜日

2019年6月2日

2019年6月2日 復活節第7主日礼拝説教要旨
  「歩いて七日」 桝田翔希伝道師
     マタイによる福音書 28:16~20節
 ペンテコステを控えた6月2日から8日は、「アジアエキュメニカル週間」と呼ばれ、様々な状況にあるアジアの教会やキリスト者を、教派を越えて覚える時とされています。京都教区では40年間「ネパール・ワークキャンプ」の活動が現在まで続けられてきました。この活動は、人と人が出会い学びあう「草の根の活動」というあり方が大切にされてきました。私もワークキャンプでネパールを訪れた時、様々な出会いを与えられました。ある時、ネパール語を話すことができる研究者の方と一緒に、いつも滞在していた村に行きました。村のおじいさんはいつも私たちに微笑みかけ、世話をして下さいました。おじいさんと研究者の方が話しておられるのを見ていると、急におじいさんは銃を構えるジェスチャーをしました。何のことかと思い後で聞いてみると、「内戦で娘が殺された、という話だった」との事でした。よく行く村でしたが、私たちが想像できないような歴史を人々が抱えていたことに衝撃を受けました。人と人が出会う、そして異文化の中で出会うということの難しさを感じました。
 復活した後、最後にイエスはガリラヤの山で弟子たちに語りかけます。無残に殺されたイエスを前にして「疑う者(17節)」もいましたが、「命じておいたことをすべて守るように教えなさい(20節)」と山の上で語ります。「命じておいたこと」とは、マタイによる福音書の文脈で考えると、生活での実践的な教えを次々と語った「山上の説教」の場面が思い出されます。みんながいきいきと生きるために、それらを教えて「すべての民」を私の弟子にしなさいと語るのです。
 ここで「すべての民」という言葉は、ある研究者によると、当時のギリシャ語用法から「個人個人」という意味が強いのではないか、とも考えられます。「速さ」が求められる情報化社会の中で生きる私たちは、少しの労力で大人数を扇動することも容易な時代に生きています。「すべての民」と言われると、大人数を相手にするように命じられているような気になります。しかし、この後で弟子たちは疑いをもつ者もいながら、自らが歩き語り伝えるものとなりました。それは、「速さ」を重視した扇動ではなく、「個人個人」と出会いながらゆっくりとなされる「草の根」のようなものであったように思います。効率が求められる今日にあって、私たちはどのように出会い、語っているのでしょうか。

2019年5月27日月曜日

2019年5月19日

2019年5月19日 復活節第5主日礼拝説教要旨
  「『しもべ』ではなく」 桝田翔希伝道師
    ヨハネによる福音書 15:12~17節
 ここでイエスは、弟子たちに対して「あなたたちは僕ではなく友である」と語っています。そして並んで「友のために命を捨てる」とも語っています。この言葉は有名なもののように思いますが、第二次世界大戦中の日本の姿を思い起こされました。
先日研修で訪れた沖縄で、現在建設が進められている自衛隊や米軍の基地を案内して頂き、現状や不条理を目の当たりにしました。さらに戦争中に病院として使われていた「ガマ(洞窟)」や集団自決が起こった崖などを見ました。当時、沖縄は捨て石として利用されるなかで、軍国主義の中で土地の言葉は禁止され、捕虜として捕まることは許されないこととされました。政府から言われることに、疑問を持つことは許されませんでした。戦いで死ぬことが美徳とされました。このことは、元号が代わり天皇制が色濃く報道される状況で、強く思い出される事でもあります。
 イエスが「しもべ」という言葉を使った背景には、当時の奴隷制度がありました。僕は主人に言われた仕事は、理由や目的も知らされずに従わなければいけませんでした。そこに疑問を持つことは許されなかったのです。しかしイエスは神と人との関係は、奴隷と主人のような有無を言わせない関係ではないと語るのです。軍国主義の中で疑問を持つことが許されなかった構造とよく似ています。そして「友のために命を捨てなさい」と語ります。
 「命を捨てる」この言葉は、原語のギリシャ語を見ますと様々な解釈をすることができるということがよく言われます。「捨てる」とされている単語は「置く」という意味にも使われます。「命を置く」「生活を置く」というようにも解釈することができます。現代社会に生きる私たちは、互いに顔を合わせずとも生活できるようになってきました。しかしそのような状況にあっても、他人の為に心を置くようにイエスは語っておられるのです。それは単なる命令ではありません。互いに愛し合うために、この世へと召し出されているのです。

2019年5月21日火曜日

2019年5月12日

2019年5月12日 復活節第4主日礼拝説教要旨
  「父の御心」 桝田翔希伝道師
   ヨハネによる福音書 6:34~40節
 ここ数週間は元号の変更という社会の流れの中で、メディアでは繰り返しの報道がなされました。違和感を覚える状況でありますが、この時にあって母の日の礼拝を守っています。世界各地で「母の日」は守られているようですが、様々な起源があるそうです。日本で守られている母の日はイギリスやアメリカでの出来事が元になっているそうです。アメリカで社会活動にもかかわっていた「アン」という女性がいたそうです。彼女は早くに亡くなられたのですが、そのことを偲んで生前好きだったカーネーションを持ち寄り記念会が行われたのだそうです。1900年初めごろの出来事でありました。ここから母の日が祝われるようになったのだそうです。しかし後に、この日にはカーネーションが高額で売られるようになり、アンを知る人たちは心を痛めたのだそうです。母の日は商業主義に取り込まれていきました。
 聖書日課では、「5千人の給食」の後の場面が選ばれていました。2匹の魚と5つのパンで5千人が満たされるという奇跡の後に、その群衆たちはイエスの後を追います。ここには、さらなる奇跡を見てみたいという群衆の思いを見ることができます。湖の対岸まで船でやって来た群衆に対してイエスは「命のパン」を語ります。群衆たちは見ていませんでしたが、この時イエスは湖の上を歩いて渡るという奇跡を行っていました。しかしその奇跡を語ろうとはしませんでした。5千人の給食を体験した群衆は、イエスの承認となる存在でした。しかし肉体的な満足を経験し、当時言われていた「政治的・熱狂的な救い主」を求める姿があります。当時大切にされた価値観と、神の御心は違うということをイエスは語ります。
 日本でも母の日は、商業ベースに乗っかったものがうたわれているように思います。この社会で生きる私たちは、この世的な価値観に大きく翻弄されるのも事実です。メディアで言われることをそのまま受け入れてしまう時もあります。しかしこの時にあって神の御心を知ることが大切であると語られているのです。私たちはすべての人が等しく神に命を与えられ、神の命を生きています。お互いの与えられた命を祝いながら、尊重しながら「母の日」を覚えたいと思います。

2019年5月13日月曜日

2019年5月5日

2019年5月5日 復活節第3主日礼拝説教要旨
  「この子どものように」 桜井希牧師
   マルコによる福音書 9:33~37節
イエスは受難予告の度に、弟子たちに「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えています。しかし弟子たちはそのことを理解しておらず、自分たちの中で「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」と言います。弟子たちの姿は、当時イエスに敵対していたファリサイ派や律法学者たちの姿でもあります。彼らは律法解釈を根拠に人々を清い者と汚れた者、祝福される者と裁かれる者とに分断し、神の国を独占しようとしました。律法を忠実に守ることを神の国に入る要件とする彼らにとって、憐れむ神、赦す神は必要ありませんでした。一方イエスはそうして罪人とされた者たちと食卓を囲みました。「すべての人の僕になりなさい」という時の僕は食卓の給仕を意味します。食卓は命の糧を分かち合い、生きる喜びを味わう場所です。僕は独占された神の恵みをすべての人に行き渡らせることをその務めとするのです。
イエスは子どもを抱き上げ、「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言います。ユダヤ教社会において子どもは、律法を守るという点から見れば未熟で不完全な者です。子どもは律法を知らないために、この世の汚れや罪に対して無防備だと見なされていました。だからこそ律法の専門家は子供たちが一日でも早く、一つでも多くの律法を知り、守るようにと律法教育に努めるのです。しかしイエスは幼子を教育の対象としてではなく、そのままで受け入れることを求めました。私たちは誰もがこの世に誕生する時、人生の最初に「生かされる」という体験を経ています。幼子はありのままで、見返りを求めない、無償の愛を受けて生きています。そのような愛によって救われた私たちは、今度はその愛をもって人に仕える生き方が求められています。すべての人がありのままに生きることのできる場所をつくっていきたいと思います。


2019年5月6日月曜日

2019年4月28日

2019年4月28日 復活節第2主日礼拝説教要旨
  「イエスは生きておられる」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 24:13~35節
 関係性が希薄になってきた現代社会は、無縁社会とも言われるようになりました。そんな折、先日送られてきた教団新報にイースターの説教が一面に載っていました。見るとよくお世話になっている方の原稿でしたので読んでみますと「関係性の喪失は死を意味する」との言葉に考えさせられました。「復活節第二主日」と「労働聖日」の日にあって、私たちは聖書に何を問いかけられているのでしょうか。
 物語はイエスの死に落胆した二人が歩いている所から始まります。そこにイエスが臨みますが、この二人はイエスだと気付きませんでした。イエスは「何を話しているのか」と問います。この二人はイエスがどのような人で、何があったか、を語りますが全てが過去形で語られています。この物語では「イエスは生きておられる」を中心として展開しています。過去のことばかり話していた二人は、イエスに語られ食事を共にする中で、イエスに気づき「時を移さず」にエルサレムへと喜びの中で出発します。今を生きる人へと変えられていったのです。イエスの死を前に多くの人が自分から逃げ去りました。イエスとの関係性を絶ちました。しかしそれでもイエスから歩み寄り、関係性をあらたに作られる姿があります。
 大阪の釜ヶ崎は「寄せ場」と呼ばれ世間から差別的な扱いを未だに受けています。釜ヶ崎には労働者が多く集まる「労働センター」という施設があるのですが、先月の3月31日に移転に伴い閉鎖されることになりました。移転とは言いつつも、そこには行政による労働者排除の思想が感じられました。寄り合う場所として、人々の関係性が守られる場所としてのセンターが閉められようとしたのです。しかし、当日には多くの人が集まり、センターは閉まりませんでした。人と人の関係性という意味での命は無くならなかったのです。
 今日の社会状況の中で、関係性は複雑化し希薄化しています。今まであったものが崩れ、全く新しい関係性のあり方を模索する時なのかもしれません。しかし、人間に力がないということではないのです。イエスが私たちの間に生きておられるのです。私たち一人一人が神とのつながりの中で生き、この世に遣わされています。どんなことがあっても私たちに寄り添って歩まれるイエスがおられるということが、私たちの希望として迫っているのではないでしょうか。

2019年4月29日月曜日

2019年4月21日

2019年4月21日 復活節第1主日礼拝説教要旨
  「イエスがおられるところ」 横田法子牧師
    ルカによる福音書 24:1~7節
使徒言行録は、ルカ福音書と同じ記者による続編の関係にあると考えられます。そしてイースターとペンテコステが同じ範疇の経験として意識されているように思います。使徒言行録に描かれる最初期キリスト教共同体は多様性に富んだ人々の群れで、構成も父権性の概念には収まりません。
さて墓場の証言において、マタイ・マルコに記された「あなたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」を、ルカは「ガリラヤにおられた頃、お話になったことを思い出しなさい」としています。「弟子たちに告げよ」もなく、彼女ら自身が当事者だという視点を見出します。未来は人任せにすることではなく、今ここから私によって拓かれます。イエスがお話しになったことは46節以下にあります。ここに罪のゆるしと悔い改めの宣言があることが重要です。弟子らはイエスの言動と共に自分の言動も思い出したはずです。ゆるされがたい罪や弱さや失態も含めてイエスに受け入れられていた。「すべての民族に」真に罪の許しを得させるために、真の悔い改めが宣べ伝えられるためにイエスは苦しみを受けられ復活された。イエスが示そうとした神の愛や福音がようやく経験として迫ってきたことでしょう。けれども時は満ちていない。「高いところからの力に覆われるまでは都にとどまっていなさい。」です。
欠けや破れや弱さを抱えた等身大の自分自身を見つめることなしに、復活の主によって贖われ新たに起こされる私自身の復活ストーリーは始まらない。復活の主を確信する場、それは私たちが生きる場です。復活の主は、命や人権や人格がないがしろにされて痛む人と共にいて、痛みのただ中で連帯する者を待っておられる。痛みの中で孤立する人と共にあろうとする時にここそ、私たちは主イエスによって起こされ主の力を得る。イエスは弱く小さくされた者の側に立ち続けました。弱さに徹して十字架に付けられてしまった。弱さが強さにかえられたわけでも、負けから勝ちに逆転したわけでもない。それを神さまが肯定し復活の主とされたのです。しんどいところに立つのはとても勇気がいるけれど、そこにこそ臨んでくださるのが私たちが仰ぎ見る主なのです。

2019年4月15日月曜日

2019年4月7日

2019年4月7日 受難節第5主日礼拝説教要旨
  「追い返し投げ捨てる」 桝田翔希伝道師
   ルカによる福音書 20:9~19節
 イースターを目前に控え、レントの期間も残り少なくなってきました。この時にあって、聖書日課では「ブドウ園農夫のたとえ」とされる箇所が挙げられていました。この物語ではマタイによる福音書とマルコによる福音書でも語られており、ルカによる福音書と同じようにイエスの神殿での出来事である「宮清め」の後の部分に位置づけられています。このたとえ話を読んで、私たちが生きる世界と対比することもできますが、「宮清め」の記事に続いて書かれていることを踏まえると、当時の神殿が祭司長たちによって私物化されていた状況をイエスが批判したことが想像できます。19節でも、この話を聞いて律法学者や祭司長たちが腹を立てている様子が伺えます。マルコやマタイの記述を見ても、このたとえ話が律法学者など特定の人たちに向けて語られたとされていますので、権力者に向けた批判としてこのたとえ話は伝承されていたようです。
 しかしルカによる福音書は、他の福音書とは明らかに書き変えている部分があります。この物語は祭司長など一部の人に向けた話ではなく、民衆に向けて「見つめながら、じっと注視しながら(17節)」語ったとしているのです。初めは僕を侮辱するだけだった農夫は、次第に主人の一人の子どもを殺すほどにエスカレートしたことを語ります。ここにはイエスの物語から少し時間がたって、ルカによる福音書が書かれた当時に、書かれているたとえ話を自分のこととして聞くことの出来ない読者を想定してのことなのかもしれません。急速な変化を迎えている今日の社会では、今までの文脈では理解できないような事柄が起きています。ヘイトスピーチや新元号の発表に伴い注目される天皇制、すべての人に悪い形として私たちに迫ってくるものではないのかもしれませんが、様々な事柄が起きています。自分のこととしてどれほど受け取ることができているのでしょうか。
 そしてイエスは「家を建てる者が捨てた石が隅の親石となる」と語るのです。捨てられるような石こそが一番大切なのだと語るのです。私たちは聖書のたとえ話を読んでも、どこかただの物語としてとらえているかもしれません。しかし、イエスは私たちをじっと見ながらこのたとえ話を語られるのです。私たちが忙しさの中で捨ててしまっている物や事は何でしょうか。

2019年4月8日月曜日

2019年3月31日

2019年3月31日 受難節第4主日礼拝説教要旨
  「変化する力」 浅居正信牧師
    ルカによる福音書 9:28~36節
 イエスは、弟子の3人を連れ、祈るために山に登られました。
 「祈っておられる内に、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。イエスにとって、祈りは、神の御心を知り、その道を歩む力を受ける場でした。「祈っておられる内に、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。この「奇跡」と「変貌」には決定的な違いがあります。それは、「奇跡」は、イエスが言動をもって主体で動かれましたが、「変貌」は、キリストは完全に受け身だったのです。イエスの変貌は、救い主であるイエスの本質をあらわすため、神が天から一方的に与えられたのでした。
 雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので弟子達は恐れた。すると、「これは私の子、選ばれた者。これに聞け」と言う声を雲の中から聴いたのです。このキリストの変貌を見た経験は、やがて弟子たちが、イエス・キリストを救い主と信じた時に信仰を支えたのでした。
 イエスは、祈るため山に登られます。イエスはひとり山に登られたのでもなく、三人の弟子たちを連れて、祈りに赴かれました。オリーブ山の祈り(ゲツセマネの祈り)の場合も同じことが言えます。そこに将来の教会の姿、イエス・キリストの祈りに励まされて共に祈る弟子たちの姿の先取りをイエス・キリストはなさっておられるのではないでしょうか。
 福音書には、祈りの途中で眠り込んでしまった弟子たちが、イエスの十字架と復活のあと、ペンテコステの日に「心を合わせひたすら祈りをしていた」(使徒1:14)弟子たちの姿がありました。イエスの祈りの姿によって励まされて弟子たちは祈りへと招かれ、苦難の道を歩みつつ、イエスに従いゆくべく、イエスは生涯の重大な場面で祈ることのできない弟子たちを連れて山へ登られたのです。
 イエスの姿が変わったように、わたしたちにも変化を促しているのかもしれません。無理解な弟子たち、弱さや欠けの多い弟子たちが、イエスに招かれ出会いました。わたしたちひとりひとりは、イエスに出会うことによって変化をする力を備えてくださっているのです。

2019年4月1日月曜日

2019年3月24日

2019年3月24日 受難節第3主日礼拝説教要旨
  「自分も知らない」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 9:18~27節
 3週目の受難節をむかえました。この時にあって聖書日課に与えられた聖書箇所は、イエスが祈った後に弟子たちに対して「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と問う場面でありました。今日の社会状況の中で、このイエスの問いかけは何を意味しているのでしょうか。
 総務省の調査によると年々インターネットの利用者が急増しているのだそうです。数年前までは想像もできませんでしたが、スマートフォンの普及も手伝ってインターネットによる生活の変化は大きなものとなりました。教会の活動も、インターネットを利用して行おうとする動きがよく見られるようになりました。いつでもどこでもインテーネットを介して他人とつながることができる、情報を知ることも発信することもできる、そのような時代へと変わろうとしています。しかし便利な反面、インターネットによる差別事件が多く起こっているという実態もあります。「ウソ」で「差別的」な情報がインターネットには多く流れるようになりました。私たちは多くの情報に囲まれて生きていますが、その情報が真実なのか一人一人がしっかりと考えなくてはいけないということが強くなってきています。
 イエスに問われた弟子たちは、巷で流れていたイエスに対する噂話を語ります。「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「預言者の生き返り」これらの噂話はヘロデ王も聞き、イエスに対して危機感を覚えたものでありました(9:7~9)。これらの噂話を聞き、イエスは弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問い、ペトロは「神からのメシア」だと答えました。十字架の上で無残に痛みの中で殺されるイエスの受難を前に、「神からのメシアである」とのペトロの告白は、彼の想像を超えた意味を持っていました。イエスによる「あなたはどう思うのか」という問いかけ、今日の社会状況の中で強い意味を持つものではないでしょうか。多くの情報に囲まれる中で、私たち一人一人がどのように考えるのか、何を信じるのかということはいよいよ大切になっています。イエスの受難を知っている私たちは、ペトロのように「神からのメシアです」と告白することができるのか、そう問われているのかもしれません。

2019年3月26日火曜日

2019年3月17日

2019年3月17日 受難節第2主日礼拝説教要旨
  「人の心の中に」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 11:14~26節
 受難節(レント)に入って二回目の日曜日です。この時にあって聖書日課では、「ベルゼブル論争」とそれに続く箇所が挙げられていました。前の週では悪魔という言葉が出てきましたが、ここでは悪霊というものが出てきました。悪魔と悪霊という言葉の違いを見つつ、この聖書箇所が私たちに何を問いかけているのか考えたいと思います。
 悪魔と悪霊という言葉は、ギリシャ語では音も非常に似ているのですが、ここで出てくる「悪霊」という言葉が他の箇所でどのように使われているのかを見てみますと、病気を引き起こすものとして描かれています。この悪霊をイエスは追い出し、病気を癒しているのですが律法学者たちは「イエスは悪霊の親玉、ベルゼブルだ」と言うのでした。他の宗教の神の名前に由来するベルゼブルという言葉を使い「あなたはベルゼブルだ」という悪口は、私たちの想像を超えるようなひどい悪口でありました。病気で苦しむ人を目の前にしながら、律法学者はイエスへの敵意をむき出しにして、人格を否定するような言葉を吐きかけたのでした。
 そこでイエスは「悪霊の親玉と言うが、内輪でもめれば悪魔でさえ国は成り立たない」と説きます。ここでは律法学者とイエスの対立がありありと語られています。イエスのこの言葉は人間同士でさえ、内輪もめしてはいけないと諭しているのではないでしょうか。
 研修で訪れた沖縄で、基地建設を巡り推進派と反対派という構造を目の当たりにし、基地推進派の行政が行う暴力に怒りを覚えました。しかし、そのような闘争の現場で大切にされていることは「非暴力でただ座ること」であるそうです。色々な意味がある言葉だと思います。私たちは意見の違う人を目の前にした時、どうしようもない敵意を抱くことがあります。しかし、律法学者に敵意を向けられたイエスはそれでも対話を試みています。どんな状況にあってもあきらめず話し合う大切さを忘れないようにしたいものです。





2019年3月18日月曜日

2019年3月10日

2019年3月10日 受難節第1主日礼拝説教要旨
  「ひと時、悪魔が離れる」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 4:1~13節
 6日に「灰の水曜日」をむかえ、教会暦は受難節(レント)の期間が始まりました。この時にあって聖書日課は、イエスが荒れ野で悪魔に「誘惑を受ける」とされている箇所でありました。この物語を通して私たちは何を問いかけられているのでしょうか
 そもそも悪魔とは何を指しているのでしょうか。この物語で悪魔はイエスに3つの言葉をかけています。旧約聖書の言葉を引用しながら「空腹ならば石をパンに変えたらどうか」などと語りかけます。「悪魔の誘惑」とありますが、それ自体そんなに悪いことを悪魔が言っているわけでもありません。石をパンに変えることができれば、国の権限を手に入れることができれば、天使に体を守られるならば、教会の活動はもっと豊かになるように思えます。悪魔の誘惑とは決して、目に見えて悪い方向に人間をさせようとするものではありません。善く目える形で人間に迫ってきます。
 「悪魔」に並んで「荒れ野」もこの物語ではキーワードとなっています。荒れ野とは当時にあっては、「城壁の外」、「忌み嫌われる病気にかかった人が追いやられる場所」、「神の愛が届かない場所」とされていました。今日の私たちが生活している状況は、城壁の中と言えるのでしょうか。「荒れ野」に住んでいるようなものかもしれません。何が正しいことなのかもわからない、そんな場所で悪魔の言葉がイエスを試しているのです。このやり取りを見ていると、悪魔もイエスも聖書の言葉を使いますが、そこには大きな違いがあります。悪魔は聖書の言葉を自分の立場を強める為や、他人を審判するために使います。しかしイエスは中立なものとして、言葉そのものを神の言葉と受け止めて話しています。私たちも荒れ野のようなこの社会に生きる中で、自分の為に聖書の言葉を解釈してしまう時があるかもしれません。しかし、今日の聖書箇所は、そのような考えが悪魔であると指摘しているのではないでしょうか。イエスでさえ悪魔が離れたのはひと時であったとルカによる福音書は伝えます。イエスの宣教の道のりは、そのような「悪魔」との対峙であったのかもしれません。私たちも同じような世の中に生きていると言えるのではないでしょうか。

2019年3月4日月曜日

2019年2月24日

2019年2月24日 降誕節第9主日礼拝説教要旨
  「ひとり祈る姿に」 桝田翔希伝道師
   ルカによる福音書 5:12~16節
 今日の聖書箇所では、重い皮膚病にかかった人がイエスによって治ったという奇跡物語が語られています。イエスの治癒奇跡は福音書の中で度々語られていますが、科学的な常識に生きる今日にあってはなかなか信じることができるものでもありません。イエスの治癒奇跡は私たちに何を問いかけているのでしょうか。
 専門が異なる7人の著者によってイエス像が分析された『人間イエスをめぐって』(教団出版局、1999年)という本の中で、医師である川越厚さんはイエスがどのように病気と向き合ったのかということに注目されていました。現代医学は科学主義に根差しているが故に、症状を見た時にその根本的な原因が重要視されるのだそうです。例えば糖尿病を発症すると手足の壊死や失明など、様々な症状が現れますが、血糖値をコントロールする処置が行われます。症状を一つ一つ対処するのではなく、根本的な原因が究明されるのです。一方イエスはどのように病気に向き合ったのか、川越さんはイエスの治癒の特徴として「治すのではなく、癒している」と分析しておられました。イエスが治癒の対象とした病気は、当時の社会にあっては発症すると共同体から疎外されてしまうものがほとんどでした。特定の病にかかるということは神からの裁き、神からの愛の断絶とも理解された状況にあって、イエスは病を「癒した」のです。
 重い皮膚病に関して旧約聖書のレビ記では、その対応がくわしく規定されています。イエスの時代には「病は神からの罰である」という考え方がなされていたことが想像できますが、レビ記を見るとどのような症状が「神の罰」なのか、ということよりもどうすれば治るのかということに注意が払われています(関田寛雄、1989年)。科学的な考え方に生きる今日にあって、私たちは人間を忘れて根本的な原因を中心としてしまう時があるように思います。イエスが行った治癒奇跡は、自らの力を示すものでも、祭司や律法学者に対抗するための業ではなく、「疎外からの解放」を意味しました。イエスの奇跡を読むとき「治す」ことにばかり気が向いてしまいますが、関係性の回復である「癒し」を通して示された神の愛を実践する人でありたいものです。

2019年2月25日月曜日

2019年2月17日

2019年2月17日 降誕節第8主日礼拝説教要旨
  「後ろを振り向くとイエス様が」 佐藤博牧師
    ルカによる福音書 20:11~18節
政治の世界には、「腐敗しない権力はない」との法則があります。その人間世界の法則とは対照的に中世にルターと同様に宗教改革を行ったプロテスタントの指導者カルヴィンは、彼の聖書注解で「聖書の教えは何時でも、どこでも、きわめて十全で完全なものである。だから私たちの信仰に欠けているものは全て、私たち聖書に対する無知のせいによる」と記しています。
2人の弟子はマグダラのマリアの知らせで墓に行きましたが、墓が空でしたので彼らは「家に帰った」と伝えています。墓の周辺は危険なことが多いため、彼らは家に帰ったようです。創世記冒頭の2節に「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面に動いていた」とあります。神の創造の御業・救いの御業が行われるとき、暗闇の深淵と人が受け取り難い堅実がそこにあります。それ故、暗闇は神の救いの御業の始まりであるとの信仰があるです。
マリアは2人の弟子たちの所に墓が空であることを知らせましたが、その空の墓にマリアは残ったとヨハネは伝えています。イエス様との関係は、連れ立った集団の行動では成り立たないようです。人間の希望と救いの始まりも、マリアが一人で耐え、歩み生きようとするところから始まりました。
マリアが天使たちとのやりとりの後に「後ろを振り向くと」という所ですが、この「振り向く(ステレフォー)」は、「振り返る、方向を変える、心を入れかえる」の意味をもちます。人間の心と体の向く方向は、常に水平、すなわち人や地上の物の方向です。しかしイエス様や神の真実は、人間の向く方向とは逆の後ろの・天の・神の方向です。この聖書の箇所では、神の霊の導きによって主のお声で名を呼ばれ、墓とは逆に心と体の向きを変えて復活の主との出会いが始まりました。人が心の向きを変えることは人の力、理性では実現できないことを示しているのです。

2019年2月19日火曜日

2019年2月10日

2019年2月10日 降誕節第7主日礼拝説教要旨
  「卑怯に使った安息日」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 6:1~11節
 日本基督教団で2月11日は「信教の自由を守る日」とされています。神武天皇が即位したことに由来してなのか、日本の法律ではこの日を「建国を偲び、国を愛する心を養う」為に建国記念日とされています。この日を覚えて、政治の思惑にとらえられない信仰、そして平和を祈りましょう。そんな中で読んでいただいた聖書箇所では、イエスが安息日を批判している場面でした。イエスが、当時の安息日の守り方を批判する場面は、福音書の中で度々語られています。結果的にこれらの行為が原因で死刑に処されたわけですが、なぜこれほどまでに当時の安息日を批判したのでしょうか。
 安息日の起源を考えてみますと、申命記には「奴隷や家畜」もこの日には休んでもらわなくてはいけない、と宗教的な側面だけではなく、社会的な意図を読み取ることができます。しかしイスラエルが戦争のせいでバビロン捕囚という経験をする中で、目には見えないけれど自分がユダヤ教徒であるアイデンティティの為に安息日は様々な意味が付け加えられたと推測できます。さらにイエスが生きた時代には、安息日に様々な解釈が付け加えられ、他人を裁く道具になっていたことがこの聖書箇所からもうかがい知ることができます。イエスはここで、本質からかけ離れた安息日の守り方を批判しているのではないでしょうか。
 環境問題が叫ばれる今日にあって、私たちはなるべく環境にやさしいものを使おうと心がけています。しかし、環境問題にも言及する神学者ジョン・コッブJr.は、GDPなどの指標が追及される中で、それぞれの分野が孤立化し、全体状況への無責任が生じていると警鐘を鳴らしていました。具体的には、風力発電機など、環境に良いとされるもの一部は製造過程において、大量の放射性廃棄物を生み出す現状があるのだそうです。複雑化した社会の中で、それら一つ一つを自分で見分けるということは安易ではありません。しかし聖書に立ち返りイエスの姿を見ると、複雑化し自らの考えを押し付けるかのように利用されていた安息日規定を批判しながら、大事にしたのを自分の前に立たされた人間でありました。様々な思惑の中でも、日常の中で一つ一つの出会いを大切にしなさいと、イエスは語っているのではないでしょうか。

2019年2月4日月曜日

2019年1月27日

2019年1月27日 降誕節第5主日礼拝説教要旨
  「きれいなものではなく」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 21:1~9節
 「やもめの献金」という物語はよく知られたものですが、聖書日課では「神殿の崩壊を予告する」、「終末のしるし」も続けて指定されていました。やもめの献金だけ読みますと、自分の持っているものを全て神にささげ、お金ではなく神に信頼を置く生き方を教えられますが、この聖句は更に他のことも問いかけているのではないかと思います。
 イエスは福音書の中で「石」を用いたたとえ話をよくされました。イエスの職業について一般的には「大工であった」と言われることが多いかと思います。マルコによる福音書6章3節で故郷に帰り語ったイエスは「この人は大工ではないか」と言われて疑われています。「大工」を意味するギリシャ語は「オイコドモス」と言う単語で「家を建てる者」という意味があります。しかし、ここで「この人は大工ではないか」と言われた「大工」はオイコドモスというギリシャ語ではありません。「テクトーン」という単語で、これは石を切り・削り・掘るような職業を指すものであります。当時のユダヤ人が最も嫌った職業の一つでした(本田哲郎、2010年)。作業中に出る粉塵のせいで、健康被害があることが原因であったようです。日本ではイスラエルと違い石造の建築物はあまりありませんが、有名なものでは「国会議事堂」があります。外国に倣って石造りの立派な議事堂を造る事になったようです。国産にこだわった数十種類の石材が日本全国から集められて建造され、従事した労働者は200万人にものぼるようです。その中には多くの「外国人労働者」が利用されたそうです。
 エルサレムの神殿をダビデがどのように建てたのか、歴代誌22章が記録しています。賢者を意味する職人たちも多く集められたようですが、国内の寄留者も多く集められ、採石労働者、すなわち石を切る労働もありました。2レプトンを奉げる人がいる一方で、多額の寄付を喜び神殿の美しさにしか思いの及ばない人たちをイエスは見て、働き人の姿を思い出したのではないでしょうか。イエスは誰が石を削り、誰が粉まみれになっているのかを知っていたのです。現代の日本でも、不安定で便利な労働形態は増えながら、見かけの豊かさや綺麗さが追い求められています。しかし、神に従うことはそのような豊かさとは違うということをイエスは語っているのではないでしょうか。

2019年1月29日火曜日

2019年1月20日

2019年1月20日 降誕節第4主日礼拝説教要旨
  「みんなちがって、みんないい」 藤浪敦子牧師
    コリントの信徒への手紙 Ⅰ 12:18~26節
 私たち一人ひとりの個性は神が与えてくださったものだから、互いに認め合い、受けいれあっていくことが大切だとパウロは伝えています。しかも、人の弱さや足りなさ、至らなさといった負の部分も、神が与えられた大切な個性であり、「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて」(12:24)、その個性をその人に与えられたと記しています。自分自身の弱い部分、人よりも見劣りする部分、情けない部分を受けとめることは簡単なことではありません。人との関わりの中であれば一層難しいことです。自分自身の個性であれ、人の個性であれ、神が与えられた個性、お互いの違いをどう理解し受けとめていったらいいのでしょうか。
 違いを認め合うことの大切さ、人の弱い部分をも神が与えられた大切な個性であると記した、その後に続けて、コリントの信徒への手紙1の13章に「愛」について書かれていることは大切なことです。「愛」というと、私たち自身が愛を実践していくことが心に浮かびます。しかし「愛」の中心は、何よりもまず「神の愛」であることをパウロは伝えています。人の弱さや小ささをもありのままに受けとめ導いてくださる神の愛の確かさが、私たちの命の源、信仰生活の基にはあるのです。
 この神の愛の事実を思うとき、たとえ自らの信仰の正しさや熱心さでお互いの違いを受け入れること、個性を認め合うことができなかったとしても、私たち一人ひとりに注がれている神の愛を信じ、委ねてみることならばできるのではないでしょうか。そして、神の愛を信じ受けとめるところから、次第に私たち自身も神の愛を実践する者へと導かれていくことができたらと思います。
 与えられているこの命、人生、日々の歩みの中に込められている神様の深い配慮を信じつつ、自分の力、正しさや信仰の強さではなく、神様の愛のゆえに与えられているこの命であることを心に刻み、主を仰ぎ、これからも信仰の道を一歩一歩、大切に歩む者でありたいと願います。

2019年1月21日月曜日

2019年1月13日

2019年1月13日 降誕節第3主日礼拝説教要旨
  「今日は大漁」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 5:1~11節
 成人の日と言うと若々しいというか、これから始まりという印象を受けますが、成人を迎えない人たちにとっても新しい年が明けて間もないこの時期は同じような心持になるのではないでしょうか。この時にあって、過ぎ去った一年を振り返りながら、「今年こそは」そんな気分になりながら、色々な反省もする時期かもしれません。
 そんな折、社会学者の岸政彦さんの本を読んでいると「自分を差し出す」という文章の中でこのような事を語られていました。私たちは自分を見つめる時、自分にしかないものというものは案外なく、何かの模倣をしたものが多く、よく考えれば「こんなはずじゃなかった」という自分に向き合うしかない。さらに人生を考えると「安定した生活がいちばんよいに決まっているので、そういう道を選んでしまう」。しかし「負けた時に自分を差し出すような賭けをする人々も」その反面沢山いる(岸、2015年)。社会に適合しようとして私たちは何かを模倣しながら無難に生きようとしているのかもしれません。負けてもいいから何かを賭ける、自分の信念を貫くということはなかなか優しいものではありません。
 今日読んでいただいた聖書箇所では夜通しの漁を終えて網の手入れをしていた漁師たちに、イエスが臨んでいます。漁師たちは魚が取れず力なく網を洗っていた様子が想像できます。この後、漁師たちはすべて投げ出してイエスに従いましたが、その「変換点」は決して初めから確固たる意志をもって従っていないことが分かります。「しかしお言葉ですから」ある程度尊敬の念を込めながらも一方では消極的にイエスに従った様子が描かれています。私たちはどこかで劇的な変換点を望んでいるかもしれません。疑いながらもイエスに従おうとする弟子たちを、イエスは温かく見守ったのでした。
 失意のうちに網を洗う漁師たちのように、私たちもいつもうまくいく人生ではありません。成人の日・新年を迎えてわたしたちはどこかに転換点を求めているのかもしれませんが、自分の全てを差し出して何かに賭けるような決断はなかなか勇気のいるものですし、それが全てでもありません。しかし、漁師たちのように、人間が変わる転換点の始まりは疑いの中にもあるのかもしれません。そんな私たちを見守っていると聖書は語っているのではないでしょうか。

2019年1月7日月曜日

2018年12月30日


2018年12月30日 降誕節第1主日礼拝説教要旨
  「慌ただしさの中に告げられた」 桝田翔希伝道師
    マタイによる福音書 2:1~12節
 クリスマスの期間を過ごす中で、様々な方が色々な形で教会を覚え祈って下さっていたことを知らされました。多くの恵みの中でクリスマスの礼拝を守れましたこと感謝です。世間でもクリスマスの時期は特別視されていますが、年末も重なり何かと慌ただしい時期ではないかと思います。大掃除をしたり年賀状の準備をしたり、様々な用事があります。そんな時にあって聖書日課では、東方の学者が救い主イエスの誕生を星に知らされるという物語が選ばれていました。私たちに何を問いかけているのでしょうか。
 ここで言う「学者たち」というのは「ペルシアの学者」と考えられています。ペルシアの学者というのは「司祭」であり天文学や薬学、占星術、夢解釈を行っていた集団で、学問的にはトップクラスのエリートとされていました。学者たちはヘロデ王を訪ね、聖書で救い主はどこに生まれることになっているのかと問います。王宮お抱えの聖書学者たちは「ベツレヘム」と答えましたが、このことが原因でヘロデは子どもを皆殺しにしてしまいました。当時のイスラエルは様々な派閥の対立があり、不安定な状況でありました。ヘロデ王も統治者として様々な気を使っていたことでしょう。そんな時に知らされた「新しいユダヤ人の王」の誕生を喜びの知らせではなく、「めんどくさい」知らせであったのではないでしょうか。
 見つけ出して殺すために東方の学者たちに「見つかったら知らせてくれ」と頼みます。一方で救い主を待ち望んでいたはずの聖書学者たちは、ヘロデを恐れてか何も行動しませんでした。私たちも様々なしがらみや、固定概念の中に生きています。聖書を読みながらも、王宮にいた学者たちのように行って確かめようともしない事もあるかもしれません。栗原康という政治学者はアナーキーという言葉を「支配」などを意味するギリシャ語「アルケー」に否定を意味する言葉が重なりアナーキーという言葉になるのだと説明しておられました。「支配がない」「統治されない」という意味なのだそうです。イエスの生き方は、しがらみや固定観念を越えて人と出会われました。「見つかったら知らせてくれ」と頼まれた学者たちも無視して帰って行ってしまいました。慌ただしさの中にあっても「支配」や「統治」、様々な枠組みを越えて聖書に聞く者でありたい。