2019年6月24日月曜日

2019年6月16日

2019年6月16日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨
  「空のカラス・野のアザミ」 木村良己牧師
   ルカによる福音書 12:22~31節

(1) 「等価交換の法則」に生きる現実!
(2) 「空のカラス・野原のアザミ」
■「空の鳥・野の花」と呼ばれる有名なテキスト。教会学校に通っていた頃のCSカードでは、両手を天に向けて広げたイエス様がいて、その手の周りを小鳥が舞っていて、足下には百合が咲いているイメージだった。しかし「空の鳥」は、ギリシャ語では「コラクス」という言葉が使われ、マタイでは「鳥」、ルカでは「カラス」と特定されていて、小鳥ではない。また「野の花」は、ギリシャ語では「クリノン」という言葉が使われ、マタイでは「野の花」、ルカでは「野原の花」と訳されている。かつて文語訳聖書で特定された「野の百合」というよりは、棘があってはびこる「野アザミ」ではないかとの説もある。何しろ「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草(28節)」という表現が続くのだから。 
■イエスが「空の小鳥・野の百合」ではなくて、「空のカラス・野原のアザミ」を考えてみなさい」と語ったのだとしたら……? あなたがたカラスのように疎まれ、野アザミのように厄介者扱いされている者たちよ。神はあなたがたにこそ目にとめ、美しく装ってくださる。まさに、切り捨てられ、排除を余儀なくされた人たちへの励ましと祝福に満ちた言葉、その一方で奢り高ぶる人たちへの厳しい批判に満ちた言葉、それが元来イエスが語った「空の鳥・野の花」=「空のカラス、野のアザミ」のたとえだったのではないか?
(3) 「父に感謝する日」(6月第三日曜日)
■「…親とは、5人いるのに4切れしかアップル・パイがないのを見ると、即座に『パイは好きじゃないの』という人のことだ!」
(4) 「等価交換を超えた法則」
■「等価交換の法則」=「Give and Take」というよりは、「等価交換を超えた法則」=シンドサを抱えた仲間たちへの「えこひいき」に満ちた愛が、聖書には描かれている。イエスが指し示した「空の鳥=カラス」や「野原の花=アザミ」に目をとめ、その背後で働く「見えざる御手」の導きに想いを馳せると共に、「ただ、神の国を求め(31節)」、「喜びながら犠牲を払って生きる」…そんな生命(いのち)の使い方でありたい。

2019年6月17日月曜日

2019年6月9日

2019年6月9日 ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝説教要旨
  「聖霊降臨」 榎本栄次牧師
     使徒言行録 2:1~13節
 今日はペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝を守っています。イエス亡きあと、弟子たちは人々からの迫害を恐れて隠れて集まりをしていました。そのような弟子たち一人ひとりの上に聖霊が下りました。すると彼らは怖れを捨て、外に出て人々の言葉でみ言葉を語り出しました。ペンテコステの出来事です。今日は教会の誕生日です。 
 教会という言葉には二つの呼び名があります。一つはエクレシア(集められた者)です。集められた者は、無欠陥のエリートたちではなく、むしろ世間からははみ出した変わり者であり、負け組の閉じこもりの人たちでした。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マタイ9:13)と言われたとおりです。
復活後、主イエスは「力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒言行録1;4)と言われました。教会は、逃げ込むところです。集められた者は、祈ります。泣きます。助けを求めます。待ちます。叫びます。共に食事をします。話を聞き合います。そこに聖霊が下るのです。完全な受身形です。牧師も信徒も待つ者でなければなりません。
もう一つはディアスポラ(散らされた者)という言葉です。外に出ていくのです。追い出されるという意味もあります。遣わされたところでもあります。そこは「狼の群れに羊を送り込むようなもの」(マタイ10:16)です。礼拝を終え、ここからそれぞれ違ったところに散らされていくのです。その散らされた所が、ディアスポラとしての教会、キリストの体です。キリストは弟子たちを「強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」られました。(マタイ14:22)教会が教会になっていくためにはこの二つのことが必要です。
聖霊を与える。その約束を頂くために私たちは週毎に集まってくるのです。そして、主の使命を受けて散らされていくのです。約束を信じ待つ時、必ず主は助け主を送って下さいます。そこに主の教会があるのです。

2019年6月10日月曜日

2019年6月2日

2019年6月2日 復活節第7主日礼拝説教要旨
  「歩いて七日」 桝田翔希伝道師
     マタイによる福音書 28:16~20節
 ペンテコステを控えた6月2日から8日は、「アジアエキュメニカル週間」と呼ばれ、様々な状況にあるアジアの教会やキリスト者を、教派を越えて覚える時とされています。京都教区では40年間「ネパール・ワークキャンプ」の活動が現在まで続けられてきました。この活動は、人と人が出会い学びあう「草の根の活動」というあり方が大切にされてきました。私もワークキャンプでネパールを訪れた時、様々な出会いを与えられました。ある時、ネパール語を話すことができる研究者の方と一緒に、いつも滞在していた村に行きました。村のおじいさんはいつも私たちに微笑みかけ、世話をして下さいました。おじいさんと研究者の方が話しておられるのを見ていると、急におじいさんは銃を構えるジェスチャーをしました。何のことかと思い後で聞いてみると、「内戦で娘が殺された、という話だった」との事でした。よく行く村でしたが、私たちが想像できないような歴史を人々が抱えていたことに衝撃を受けました。人と人が出会う、そして異文化の中で出会うということの難しさを感じました。
 復活した後、最後にイエスはガリラヤの山で弟子たちに語りかけます。無残に殺されたイエスを前にして「疑う者(17節)」もいましたが、「命じておいたことをすべて守るように教えなさい(20節)」と山の上で語ります。「命じておいたこと」とは、マタイによる福音書の文脈で考えると、生活での実践的な教えを次々と語った「山上の説教」の場面が思い出されます。みんながいきいきと生きるために、それらを教えて「すべての民」を私の弟子にしなさいと語るのです。
 ここで「すべての民」という言葉は、ある研究者によると、当時のギリシャ語用法から「個人個人」という意味が強いのではないか、とも考えられます。「速さ」が求められる情報化社会の中で生きる私たちは、少しの労力で大人数を扇動することも容易な時代に生きています。「すべての民」と言われると、大人数を相手にするように命じられているような気になります。しかし、この後で弟子たちは疑いをもつ者もいながら、自らが歩き語り伝えるものとなりました。それは、「速さ」を重視した扇動ではなく、「個人個人」と出会いながらゆっくりとなされる「草の根」のようなものであったように思います。効率が求められる今日にあって、私たちはどのように出会い、語っているのでしょうか。

2019年5月27日月曜日

2019年5月19日

2019年5月19日 復活節第5主日礼拝説教要旨
  「『しもべ』ではなく」 桝田翔希伝道師
    ヨハネによる福音書 15:12~17節
 ここでイエスは、弟子たちに対して「あなたたちは僕ではなく友である」と語っています。そして並んで「友のために命を捨てる」とも語っています。この言葉は有名なもののように思いますが、第二次世界大戦中の日本の姿を思い起こされました。
先日研修で訪れた沖縄で、現在建設が進められている自衛隊や米軍の基地を案内して頂き、現状や不条理を目の当たりにしました。さらに戦争中に病院として使われていた「ガマ(洞窟)」や集団自決が起こった崖などを見ました。当時、沖縄は捨て石として利用されるなかで、軍国主義の中で土地の言葉は禁止され、捕虜として捕まることは許されないこととされました。政府から言われることに、疑問を持つことは許されませんでした。戦いで死ぬことが美徳とされました。このことは、元号が代わり天皇制が色濃く報道される状況で、強く思い出される事でもあります。
 イエスが「しもべ」という言葉を使った背景には、当時の奴隷制度がありました。僕は主人に言われた仕事は、理由や目的も知らされずに従わなければいけませんでした。そこに疑問を持つことは許されなかったのです。しかしイエスは神と人との関係は、奴隷と主人のような有無を言わせない関係ではないと語るのです。軍国主義の中で疑問を持つことが許されなかった構造とよく似ています。そして「友のために命を捨てなさい」と語ります。
 「命を捨てる」この言葉は、原語のギリシャ語を見ますと様々な解釈をすることができるということがよく言われます。「捨てる」とされている単語は「置く」という意味にも使われます。「命を置く」「生活を置く」というようにも解釈することができます。現代社会に生きる私たちは、互いに顔を合わせずとも生活できるようになってきました。しかしそのような状況にあっても、他人の為に心を置くようにイエスは語っておられるのです。それは単なる命令ではありません。互いに愛し合うために、この世へと召し出されているのです。

2019年5月21日火曜日

2019年5月12日

2019年5月12日 復活節第4主日礼拝説教要旨
  「父の御心」 桝田翔希伝道師
   ヨハネによる福音書 6:34~40節
 ここ数週間は元号の変更という社会の流れの中で、メディアでは繰り返しの報道がなされました。違和感を覚える状況でありますが、この時にあって母の日の礼拝を守っています。世界各地で「母の日」は守られているようですが、様々な起源があるそうです。日本で守られている母の日はイギリスやアメリカでの出来事が元になっているそうです。アメリカで社会活動にもかかわっていた「アン」という女性がいたそうです。彼女は早くに亡くなられたのですが、そのことを偲んで生前好きだったカーネーションを持ち寄り記念会が行われたのだそうです。1900年初めごろの出来事でありました。ここから母の日が祝われるようになったのだそうです。しかし後に、この日にはカーネーションが高額で売られるようになり、アンを知る人たちは心を痛めたのだそうです。母の日は商業主義に取り込まれていきました。
 聖書日課では、「5千人の給食」の後の場面が選ばれていました。2匹の魚と5つのパンで5千人が満たされるという奇跡の後に、その群衆たちはイエスの後を追います。ここには、さらなる奇跡を見てみたいという群衆の思いを見ることができます。湖の対岸まで船でやって来た群衆に対してイエスは「命のパン」を語ります。群衆たちは見ていませんでしたが、この時イエスは湖の上を歩いて渡るという奇跡を行っていました。しかしその奇跡を語ろうとはしませんでした。5千人の給食を体験した群衆は、イエスの承認となる存在でした。しかし肉体的な満足を経験し、当時言われていた「政治的・熱狂的な救い主」を求める姿があります。当時大切にされた価値観と、神の御心は違うということをイエスは語ります。
 日本でも母の日は、商業ベースに乗っかったものがうたわれているように思います。この社会で生きる私たちは、この世的な価値観に大きく翻弄されるのも事実です。メディアで言われることをそのまま受け入れてしまう時もあります。しかしこの時にあって神の御心を知ることが大切であると語られているのです。私たちはすべての人が等しく神に命を与えられ、神の命を生きています。お互いの与えられた命を祝いながら、尊重しながら「母の日」を覚えたいと思います。

2019年5月13日月曜日

2019年5月5日

2019年5月5日 復活節第3主日礼拝説教要旨
  「この子どものように」 桜井希牧師
   マルコによる福音書 9:33~37節
イエスは受難予告の度に、弟子たちに「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えています。しかし弟子たちはそのことを理解しておらず、自分たちの中で「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」と言います。弟子たちの姿は、当時イエスに敵対していたファリサイ派や律法学者たちの姿でもあります。彼らは律法解釈を根拠に人々を清い者と汚れた者、祝福される者と裁かれる者とに分断し、神の国を独占しようとしました。律法を忠実に守ることを神の国に入る要件とする彼らにとって、憐れむ神、赦す神は必要ありませんでした。一方イエスはそうして罪人とされた者たちと食卓を囲みました。「すべての人の僕になりなさい」という時の僕は食卓の給仕を意味します。食卓は命の糧を分かち合い、生きる喜びを味わう場所です。僕は独占された神の恵みをすべての人に行き渡らせることをその務めとするのです。
イエスは子どもを抱き上げ、「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言います。ユダヤ教社会において子どもは、律法を守るという点から見れば未熟で不完全な者です。子どもは律法を知らないために、この世の汚れや罪に対して無防備だと見なされていました。だからこそ律法の専門家は子供たちが一日でも早く、一つでも多くの律法を知り、守るようにと律法教育に努めるのです。しかしイエスは幼子を教育の対象としてではなく、そのままで受け入れることを求めました。私たちは誰もがこの世に誕生する時、人生の最初に「生かされる」という体験を経ています。幼子はありのままで、見返りを求めない、無償の愛を受けて生きています。そのような愛によって救われた私たちは、今度はその愛をもって人に仕える生き方が求められています。すべての人がありのままに生きることのできる場所をつくっていきたいと思います。


2019年5月6日月曜日

2019年4月28日

2019年4月28日 復活節第2主日礼拝説教要旨
  「イエスは生きておられる」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 24:13~35節
 関係性が希薄になってきた現代社会は、無縁社会とも言われるようになりました。そんな折、先日送られてきた教団新報にイースターの説教が一面に載っていました。見るとよくお世話になっている方の原稿でしたので読んでみますと「関係性の喪失は死を意味する」との言葉に考えさせられました。「復活節第二主日」と「労働聖日」の日にあって、私たちは聖書に何を問いかけられているのでしょうか。
 物語はイエスの死に落胆した二人が歩いている所から始まります。そこにイエスが臨みますが、この二人はイエスだと気付きませんでした。イエスは「何を話しているのか」と問います。この二人はイエスがどのような人で、何があったか、を語りますが全てが過去形で語られています。この物語では「イエスは生きておられる」を中心として展開しています。過去のことばかり話していた二人は、イエスに語られ食事を共にする中で、イエスに気づき「時を移さず」にエルサレムへと喜びの中で出発します。今を生きる人へと変えられていったのです。イエスの死を前に多くの人が自分から逃げ去りました。イエスとの関係性を絶ちました。しかしそれでもイエスから歩み寄り、関係性をあらたに作られる姿があります。
 大阪の釜ヶ崎は「寄せ場」と呼ばれ世間から差別的な扱いを未だに受けています。釜ヶ崎には労働者が多く集まる「労働センター」という施設があるのですが、先月の3月31日に移転に伴い閉鎖されることになりました。移転とは言いつつも、そこには行政による労働者排除の思想が感じられました。寄り合う場所として、人々の関係性が守られる場所としてのセンターが閉められようとしたのです。しかし、当日には多くの人が集まり、センターは閉まりませんでした。人と人の関係性という意味での命は無くならなかったのです。
 今日の社会状況の中で、関係性は複雑化し希薄化しています。今まであったものが崩れ、全く新しい関係性のあり方を模索する時なのかもしれません。しかし、人間に力がないということではないのです。イエスが私たちの間に生きておられるのです。私たち一人一人が神とのつながりの中で生き、この世に遣わされています。どんなことがあっても私たちに寄り添って歩まれるイエスがおられるということが、私たちの希望として迫っているのではないでしょうか。

2019年4月29日月曜日

2019年4月21日

2019年4月21日 復活節第1主日礼拝説教要旨
  「イエスがおられるところ」 横田法子牧師
    ルカによる福音書 24:1~7節
使徒言行録は、ルカ福音書と同じ記者による続編の関係にあると考えられます。そしてイースターとペンテコステが同じ範疇の経験として意識されているように思います。使徒言行録に描かれる最初期キリスト教共同体は多様性に富んだ人々の群れで、構成も父権性の概念には収まりません。
さて墓場の証言において、マタイ・マルコに記された「あなたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」を、ルカは「ガリラヤにおられた頃、お話になったことを思い出しなさい」としています。「弟子たちに告げよ」もなく、彼女ら自身が当事者だという視点を見出します。未来は人任せにすることではなく、今ここから私によって拓かれます。イエスがお話しになったことは46節以下にあります。ここに罪のゆるしと悔い改めの宣言があることが重要です。弟子らはイエスの言動と共に自分の言動も思い出したはずです。ゆるされがたい罪や弱さや失態も含めてイエスに受け入れられていた。「すべての民族に」真に罪の許しを得させるために、真の悔い改めが宣べ伝えられるためにイエスは苦しみを受けられ復活された。イエスが示そうとした神の愛や福音がようやく経験として迫ってきたことでしょう。けれども時は満ちていない。「高いところからの力に覆われるまでは都にとどまっていなさい。」です。
欠けや破れや弱さを抱えた等身大の自分自身を見つめることなしに、復活の主によって贖われ新たに起こされる私自身の復活ストーリーは始まらない。復活の主を確信する場、それは私たちが生きる場です。復活の主は、命や人権や人格がないがしろにされて痛む人と共にいて、痛みのただ中で連帯する者を待っておられる。痛みの中で孤立する人と共にあろうとする時にここそ、私たちは主イエスによって起こされ主の力を得る。イエスは弱く小さくされた者の側に立ち続けました。弱さに徹して十字架に付けられてしまった。弱さが強さにかえられたわけでも、負けから勝ちに逆転したわけでもない。それを神さまが肯定し復活の主とされたのです。しんどいところに立つのはとても勇気がいるけれど、そこにこそ臨んでくださるのが私たちが仰ぎ見る主なのです。

2019年4月15日月曜日

2019年4月7日

2019年4月7日 受難節第5主日礼拝説教要旨
  「追い返し投げ捨てる」 桝田翔希伝道師
   ルカによる福音書 20:9~19節
 イースターを目前に控え、レントの期間も残り少なくなってきました。この時にあって、聖書日課では「ブドウ園農夫のたとえ」とされる箇所が挙げられていました。この物語ではマタイによる福音書とマルコによる福音書でも語られており、ルカによる福音書と同じようにイエスの神殿での出来事である「宮清め」の後の部分に位置づけられています。このたとえ話を読んで、私たちが生きる世界と対比することもできますが、「宮清め」の記事に続いて書かれていることを踏まえると、当時の神殿が祭司長たちによって私物化されていた状況をイエスが批判したことが想像できます。19節でも、この話を聞いて律法学者や祭司長たちが腹を立てている様子が伺えます。マルコやマタイの記述を見ても、このたとえ話が律法学者など特定の人たちに向けて語られたとされていますので、権力者に向けた批判としてこのたとえ話は伝承されていたようです。
 しかしルカによる福音書は、他の福音書とは明らかに書き変えている部分があります。この物語は祭司長など一部の人に向けた話ではなく、民衆に向けて「見つめながら、じっと注視しながら(17節)」語ったとしているのです。初めは僕を侮辱するだけだった農夫は、次第に主人の一人の子どもを殺すほどにエスカレートしたことを語ります。ここにはイエスの物語から少し時間がたって、ルカによる福音書が書かれた当時に、書かれているたとえ話を自分のこととして聞くことの出来ない読者を想定してのことなのかもしれません。急速な変化を迎えている今日の社会では、今までの文脈では理解できないような事柄が起きています。ヘイトスピーチや新元号の発表に伴い注目される天皇制、すべての人に悪い形として私たちに迫ってくるものではないのかもしれませんが、様々な事柄が起きています。自分のこととしてどれほど受け取ることができているのでしょうか。
 そしてイエスは「家を建てる者が捨てた石が隅の親石となる」と語るのです。捨てられるような石こそが一番大切なのだと語るのです。私たちは聖書のたとえ話を読んでも、どこかただの物語としてとらえているかもしれません。しかし、イエスは私たちをじっと見ながらこのたとえ話を語られるのです。私たちが忙しさの中で捨ててしまっている物や事は何でしょうか。

2019年4月8日月曜日

2019年3月31日

2019年3月31日 受難節第4主日礼拝説教要旨
  「変化する力」 浅居正信牧師
    ルカによる福音書 9:28~36節
 イエスは、弟子の3人を連れ、祈るために山に登られました。
 「祈っておられる内に、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。イエスにとって、祈りは、神の御心を知り、その道を歩む力を受ける場でした。「祈っておられる内に、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。この「奇跡」と「変貌」には決定的な違いがあります。それは、「奇跡」は、イエスが言動をもって主体で動かれましたが、「変貌」は、キリストは完全に受け身だったのです。イエスの変貌は、救い主であるイエスの本質をあらわすため、神が天から一方的に与えられたのでした。
 雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので弟子達は恐れた。すると、「これは私の子、選ばれた者。これに聞け」と言う声を雲の中から聴いたのです。このキリストの変貌を見た経験は、やがて弟子たちが、イエス・キリストを救い主と信じた時に信仰を支えたのでした。
 イエスは、祈るため山に登られます。イエスはひとり山に登られたのでもなく、三人の弟子たちを連れて、祈りに赴かれました。オリーブ山の祈り(ゲツセマネの祈り)の場合も同じことが言えます。そこに将来の教会の姿、イエス・キリストの祈りに励まされて共に祈る弟子たちの姿の先取りをイエス・キリストはなさっておられるのではないでしょうか。
 福音書には、祈りの途中で眠り込んでしまった弟子たちが、イエスの十字架と復活のあと、ペンテコステの日に「心を合わせひたすら祈りをしていた」(使徒1:14)弟子たちの姿がありました。イエスの祈りの姿によって励まされて弟子たちは祈りへと招かれ、苦難の道を歩みつつ、イエスに従いゆくべく、イエスは生涯の重大な場面で祈ることのできない弟子たちを連れて山へ登られたのです。
 イエスの姿が変わったように、わたしたちにも変化を促しているのかもしれません。無理解な弟子たち、弱さや欠けの多い弟子たちが、イエスに招かれ出会いました。わたしたちひとりひとりは、イエスに出会うことによって変化をする力を備えてくださっているのです。

2019年4月1日月曜日

2019年3月24日

2019年3月24日 受難節第3主日礼拝説教要旨
  「自分も知らない」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 9:18~27節
 3週目の受難節をむかえました。この時にあって聖書日課に与えられた聖書箇所は、イエスが祈った後に弟子たちに対して「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と問う場面でありました。今日の社会状況の中で、このイエスの問いかけは何を意味しているのでしょうか。
 総務省の調査によると年々インターネットの利用者が急増しているのだそうです。数年前までは想像もできませんでしたが、スマートフォンの普及も手伝ってインターネットによる生活の変化は大きなものとなりました。教会の活動も、インターネットを利用して行おうとする動きがよく見られるようになりました。いつでもどこでもインテーネットを介して他人とつながることができる、情報を知ることも発信することもできる、そのような時代へと変わろうとしています。しかし便利な反面、インターネットによる差別事件が多く起こっているという実態もあります。「ウソ」で「差別的」な情報がインターネットには多く流れるようになりました。私たちは多くの情報に囲まれて生きていますが、その情報が真実なのか一人一人がしっかりと考えなくてはいけないということが強くなってきています。
 イエスに問われた弟子たちは、巷で流れていたイエスに対する噂話を語ります。「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「預言者の生き返り」これらの噂話はヘロデ王も聞き、イエスに対して危機感を覚えたものでありました(9:7~9)。これらの噂話を聞き、イエスは弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問い、ペトロは「神からのメシア」だと答えました。十字架の上で無残に痛みの中で殺されるイエスの受難を前に、「神からのメシアである」とのペトロの告白は、彼の想像を超えた意味を持っていました。イエスによる「あなたはどう思うのか」という問いかけ、今日の社会状況の中で強い意味を持つものではないでしょうか。多くの情報に囲まれる中で、私たち一人一人がどのように考えるのか、何を信じるのかということはいよいよ大切になっています。イエスの受難を知っている私たちは、ペトロのように「神からのメシアです」と告白することができるのか、そう問われているのかもしれません。

2019年3月26日火曜日

2019年3月17日

2019年3月17日 受難節第2主日礼拝説教要旨
  「人の心の中に」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 11:14~26節
 受難節(レント)に入って二回目の日曜日です。この時にあって聖書日課では、「ベルゼブル論争」とそれに続く箇所が挙げられていました。前の週では悪魔という言葉が出てきましたが、ここでは悪霊というものが出てきました。悪魔と悪霊という言葉の違いを見つつ、この聖書箇所が私たちに何を問いかけているのか考えたいと思います。
 悪魔と悪霊という言葉は、ギリシャ語では音も非常に似ているのですが、ここで出てくる「悪霊」という言葉が他の箇所でどのように使われているのかを見てみますと、病気を引き起こすものとして描かれています。この悪霊をイエスは追い出し、病気を癒しているのですが律法学者たちは「イエスは悪霊の親玉、ベルゼブルだ」と言うのでした。他の宗教の神の名前に由来するベルゼブルという言葉を使い「あなたはベルゼブルだ」という悪口は、私たちの想像を超えるようなひどい悪口でありました。病気で苦しむ人を目の前にしながら、律法学者はイエスへの敵意をむき出しにして、人格を否定するような言葉を吐きかけたのでした。
 そこでイエスは「悪霊の親玉と言うが、内輪でもめれば悪魔でさえ国は成り立たない」と説きます。ここでは律法学者とイエスの対立がありありと語られています。イエスのこの言葉は人間同士でさえ、内輪もめしてはいけないと諭しているのではないでしょうか。
 研修で訪れた沖縄で、基地建設を巡り推進派と反対派という構造を目の当たりにし、基地推進派の行政が行う暴力に怒りを覚えました。しかし、そのような闘争の現場で大切にされていることは「非暴力でただ座ること」であるそうです。色々な意味がある言葉だと思います。私たちは意見の違う人を目の前にした時、どうしようもない敵意を抱くことがあります。しかし、律法学者に敵意を向けられたイエスはそれでも対話を試みています。どんな状況にあってもあきらめず話し合う大切さを忘れないようにしたいものです。





2019年3月18日月曜日

2019年3月10日

2019年3月10日 受難節第1主日礼拝説教要旨
  「ひと時、悪魔が離れる」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 4:1~13節
 6日に「灰の水曜日」をむかえ、教会暦は受難節(レント)の期間が始まりました。この時にあって聖書日課は、イエスが荒れ野で悪魔に「誘惑を受ける」とされている箇所でありました。この物語を通して私たちは何を問いかけられているのでしょうか
 そもそも悪魔とは何を指しているのでしょうか。この物語で悪魔はイエスに3つの言葉をかけています。旧約聖書の言葉を引用しながら「空腹ならば石をパンに変えたらどうか」などと語りかけます。「悪魔の誘惑」とありますが、それ自体そんなに悪いことを悪魔が言っているわけでもありません。石をパンに変えることができれば、国の権限を手に入れることができれば、天使に体を守られるならば、教会の活動はもっと豊かになるように思えます。悪魔の誘惑とは決して、目に見えて悪い方向に人間をさせようとするものではありません。善く目える形で人間に迫ってきます。
 「悪魔」に並んで「荒れ野」もこの物語ではキーワードとなっています。荒れ野とは当時にあっては、「城壁の外」、「忌み嫌われる病気にかかった人が追いやられる場所」、「神の愛が届かない場所」とされていました。今日の私たちが生活している状況は、城壁の中と言えるのでしょうか。「荒れ野」に住んでいるようなものかもしれません。何が正しいことなのかもわからない、そんな場所で悪魔の言葉がイエスを試しているのです。このやり取りを見ていると、悪魔もイエスも聖書の言葉を使いますが、そこには大きな違いがあります。悪魔は聖書の言葉を自分の立場を強める為や、他人を審判するために使います。しかしイエスは中立なものとして、言葉そのものを神の言葉と受け止めて話しています。私たちも荒れ野のようなこの社会に生きる中で、自分の為に聖書の言葉を解釈してしまう時があるかもしれません。しかし、今日の聖書箇所は、そのような考えが悪魔であると指摘しているのではないでしょうか。イエスでさえ悪魔が離れたのはひと時であったとルカによる福音書は伝えます。イエスの宣教の道のりは、そのような「悪魔」との対峙であったのかもしれません。私たちも同じような世の中に生きていると言えるのではないでしょうか。

2019年3月4日月曜日

2019年2月24日

2019年2月24日 降誕節第9主日礼拝説教要旨
  「ひとり祈る姿に」 桝田翔希伝道師
   ルカによる福音書 5:12~16節
 今日の聖書箇所では、重い皮膚病にかかった人がイエスによって治ったという奇跡物語が語られています。イエスの治癒奇跡は福音書の中で度々語られていますが、科学的な常識に生きる今日にあってはなかなか信じることができるものでもありません。イエスの治癒奇跡は私たちに何を問いかけているのでしょうか。
 専門が異なる7人の著者によってイエス像が分析された『人間イエスをめぐって』(教団出版局、1999年)という本の中で、医師である川越厚さんはイエスがどのように病気と向き合ったのかということに注目されていました。現代医学は科学主義に根差しているが故に、症状を見た時にその根本的な原因が重要視されるのだそうです。例えば糖尿病を発症すると手足の壊死や失明など、様々な症状が現れますが、血糖値をコントロールする処置が行われます。症状を一つ一つ対処するのではなく、根本的な原因が究明されるのです。一方イエスはどのように病気に向き合ったのか、川越さんはイエスの治癒の特徴として「治すのではなく、癒している」と分析しておられました。イエスが治癒の対象とした病気は、当時の社会にあっては発症すると共同体から疎外されてしまうものがほとんどでした。特定の病にかかるということは神からの裁き、神からの愛の断絶とも理解された状況にあって、イエスは病を「癒した」のです。
 重い皮膚病に関して旧約聖書のレビ記では、その対応がくわしく規定されています。イエスの時代には「病は神からの罰である」という考え方がなされていたことが想像できますが、レビ記を見るとどのような症状が「神の罰」なのか、ということよりもどうすれば治るのかということに注意が払われています(関田寛雄、1989年)。科学的な考え方に生きる今日にあって、私たちは人間を忘れて根本的な原因を中心としてしまう時があるように思います。イエスが行った治癒奇跡は、自らの力を示すものでも、祭司や律法学者に対抗するための業ではなく、「疎外からの解放」を意味しました。イエスの奇跡を読むとき「治す」ことにばかり気が向いてしまいますが、関係性の回復である「癒し」を通して示された神の愛を実践する人でありたいものです。

2019年2月25日月曜日

2019年2月17日

2019年2月17日 降誕節第8主日礼拝説教要旨
  「後ろを振り向くとイエス様が」 佐藤博牧師
    ルカによる福音書 20:11~18節
政治の世界には、「腐敗しない権力はない」との法則があります。その人間世界の法則とは対照的に中世にルターと同様に宗教改革を行ったプロテスタントの指導者カルヴィンは、彼の聖書注解で「聖書の教えは何時でも、どこでも、きわめて十全で完全なものである。だから私たちの信仰に欠けているものは全て、私たち聖書に対する無知のせいによる」と記しています。
2人の弟子はマグダラのマリアの知らせで墓に行きましたが、墓が空でしたので彼らは「家に帰った」と伝えています。墓の周辺は危険なことが多いため、彼らは家に帰ったようです。創世記冒頭の2節に「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面に動いていた」とあります。神の創造の御業・救いの御業が行われるとき、暗闇の深淵と人が受け取り難い堅実がそこにあります。それ故、暗闇は神の救いの御業の始まりであるとの信仰があるです。
マリアは2人の弟子たちの所に墓が空であることを知らせましたが、その空の墓にマリアは残ったとヨハネは伝えています。イエス様との関係は、連れ立った集団の行動では成り立たないようです。人間の希望と救いの始まりも、マリアが一人で耐え、歩み生きようとするところから始まりました。
マリアが天使たちとのやりとりの後に「後ろを振り向くと」という所ですが、この「振り向く(ステレフォー)」は、「振り返る、方向を変える、心を入れかえる」の意味をもちます。人間の心と体の向く方向は、常に水平、すなわち人や地上の物の方向です。しかしイエス様や神の真実は、人間の向く方向とは逆の後ろの・天の・神の方向です。この聖書の箇所では、神の霊の導きによって主のお声で名を呼ばれ、墓とは逆に心と体の向きを変えて復活の主との出会いが始まりました。人が心の向きを変えることは人の力、理性では実現できないことを示しているのです。

2019年2月19日火曜日

2019年2月10日

2019年2月10日 降誕節第7主日礼拝説教要旨
  「卑怯に使った安息日」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 6:1~11節
 日本基督教団で2月11日は「信教の自由を守る日」とされています。神武天皇が即位したことに由来してなのか、日本の法律ではこの日を「建国を偲び、国を愛する心を養う」為に建国記念日とされています。この日を覚えて、政治の思惑にとらえられない信仰、そして平和を祈りましょう。そんな中で読んでいただいた聖書箇所では、イエスが安息日を批判している場面でした。イエスが、当時の安息日の守り方を批判する場面は、福音書の中で度々語られています。結果的にこれらの行為が原因で死刑に処されたわけですが、なぜこれほどまでに当時の安息日を批判したのでしょうか。
 安息日の起源を考えてみますと、申命記には「奴隷や家畜」もこの日には休んでもらわなくてはいけない、と宗教的な側面だけではなく、社会的な意図を読み取ることができます。しかしイスラエルが戦争のせいでバビロン捕囚という経験をする中で、目には見えないけれど自分がユダヤ教徒であるアイデンティティの為に安息日は様々な意味が付け加えられたと推測できます。さらにイエスが生きた時代には、安息日に様々な解釈が付け加えられ、他人を裁く道具になっていたことがこの聖書箇所からもうかがい知ることができます。イエスはここで、本質からかけ離れた安息日の守り方を批判しているのではないでしょうか。
 環境問題が叫ばれる今日にあって、私たちはなるべく環境にやさしいものを使おうと心がけています。しかし、環境問題にも言及する神学者ジョン・コッブJr.は、GDPなどの指標が追及される中で、それぞれの分野が孤立化し、全体状況への無責任が生じていると警鐘を鳴らしていました。具体的には、風力発電機など、環境に良いとされるもの一部は製造過程において、大量の放射性廃棄物を生み出す現状があるのだそうです。複雑化した社会の中で、それら一つ一つを自分で見分けるということは安易ではありません。しかし聖書に立ち返りイエスの姿を見ると、複雑化し自らの考えを押し付けるかのように利用されていた安息日規定を批判しながら、大事にしたのを自分の前に立たされた人間でありました。様々な思惑の中でも、日常の中で一つ一つの出会いを大切にしなさいと、イエスは語っているのではないでしょうか。

2019年2月4日月曜日

2019年1月27日

2019年1月27日 降誕節第5主日礼拝説教要旨
  「きれいなものではなく」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 21:1~9節
 「やもめの献金」という物語はよく知られたものですが、聖書日課では「神殿の崩壊を予告する」、「終末のしるし」も続けて指定されていました。やもめの献金だけ読みますと、自分の持っているものを全て神にささげ、お金ではなく神に信頼を置く生き方を教えられますが、この聖句は更に他のことも問いかけているのではないかと思います。
 イエスは福音書の中で「石」を用いたたとえ話をよくされました。イエスの職業について一般的には「大工であった」と言われることが多いかと思います。マルコによる福音書6章3節で故郷に帰り語ったイエスは「この人は大工ではないか」と言われて疑われています。「大工」を意味するギリシャ語は「オイコドモス」と言う単語で「家を建てる者」という意味があります。しかし、ここで「この人は大工ではないか」と言われた「大工」はオイコドモスというギリシャ語ではありません。「テクトーン」という単語で、これは石を切り・削り・掘るような職業を指すものであります。当時のユダヤ人が最も嫌った職業の一つでした(本田哲郎、2010年)。作業中に出る粉塵のせいで、健康被害があることが原因であったようです。日本ではイスラエルと違い石造の建築物はあまりありませんが、有名なものでは「国会議事堂」があります。外国に倣って石造りの立派な議事堂を造る事になったようです。国産にこだわった数十種類の石材が日本全国から集められて建造され、従事した労働者は200万人にものぼるようです。その中には多くの「外国人労働者」が利用されたそうです。
 エルサレムの神殿をダビデがどのように建てたのか、歴代誌22章が記録しています。賢者を意味する職人たちも多く集められたようですが、国内の寄留者も多く集められ、採石労働者、すなわち石を切る労働もありました。2レプトンを奉げる人がいる一方で、多額の寄付を喜び神殿の美しさにしか思いの及ばない人たちをイエスは見て、働き人の姿を思い出したのではないでしょうか。イエスは誰が石を削り、誰が粉まみれになっているのかを知っていたのです。現代の日本でも、不安定で便利な労働形態は増えながら、見かけの豊かさや綺麗さが追い求められています。しかし、神に従うことはそのような豊かさとは違うということをイエスは語っているのではないでしょうか。

2019年1月29日火曜日

2019年1月20日

2019年1月20日 降誕節第4主日礼拝説教要旨
  「みんなちがって、みんないい」 藤浪敦子牧師
    コリントの信徒への手紙 Ⅰ 12:18~26節
 私たち一人ひとりの個性は神が与えてくださったものだから、互いに認め合い、受けいれあっていくことが大切だとパウロは伝えています。しかも、人の弱さや足りなさ、至らなさといった負の部分も、神が与えられた大切な個性であり、「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて」(12:24)、その個性をその人に与えられたと記しています。自分自身の弱い部分、人よりも見劣りする部分、情けない部分を受けとめることは簡単なことではありません。人との関わりの中であれば一層難しいことです。自分自身の個性であれ、人の個性であれ、神が与えられた個性、お互いの違いをどう理解し受けとめていったらいいのでしょうか。
 違いを認め合うことの大切さ、人の弱い部分をも神が与えられた大切な個性であると記した、その後に続けて、コリントの信徒への手紙1の13章に「愛」について書かれていることは大切なことです。「愛」というと、私たち自身が愛を実践していくことが心に浮かびます。しかし「愛」の中心は、何よりもまず「神の愛」であることをパウロは伝えています。人の弱さや小ささをもありのままに受けとめ導いてくださる神の愛の確かさが、私たちの命の源、信仰生活の基にはあるのです。
 この神の愛の事実を思うとき、たとえ自らの信仰の正しさや熱心さでお互いの違いを受け入れること、個性を認め合うことができなかったとしても、私たち一人ひとりに注がれている神の愛を信じ、委ねてみることならばできるのではないでしょうか。そして、神の愛を信じ受けとめるところから、次第に私たち自身も神の愛を実践する者へと導かれていくことができたらと思います。
 与えられているこの命、人生、日々の歩みの中に込められている神様の深い配慮を信じつつ、自分の力、正しさや信仰の強さではなく、神様の愛のゆえに与えられているこの命であることを心に刻み、主を仰ぎ、これからも信仰の道を一歩一歩、大切に歩む者でありたいと願います。

2019年1月21日月曜日

2019年1月13日

2019年1月13日 降誕節第3主日礼拝説教要旨
  「今日は大漁」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 5:1~11節
 成人の日と言うと若々しいというか、これから始まりという印象を受けますが、成人を迎えない人たちにとっても新しい年が明けて間もないこの時期は同じような心持になるのではないでしょうか。この時にあって、過ぎ去った一年を振り返りながら、「今年こそは」そんな気分になりながら、色々な反省もする時期かもしれません。
 そんな折、社会学者の岸政彦さんの本を読んでいると「自分を差し出す」という文章の中でこのような事を語られていました。私たちは自分を見つめる時、自分にしかないものというものは案外なく、何かの模倣をしたものが多く、よく考えれば「こんなはずじゃなかった」という自分に向き合うしかない。さらに人生を考えると「安定した生活がいちばんよいに決まっているので、そういう道を選んでしまう」。しかし「負けた時に自分を差し出すような賭けをする人々も」その反面沢山いる(岸、2015年)。社会に適合しようとして私たちは何かを模倣しながら無難に生きようとしているのかもしれません。負けてもいいから何かを賭ける、自分の信念を貫くということはなかなか優しいものではありません。
 今日読んでいただいた聖書箇所では夜通しの漁を終えて網の手入れをしていた漁師たちに、イエスが臨んでいます。漁師たちは魚が取れず力なく網を洗っていた様子が想像できます。この後、漁師たちはすべて投げ出してイエスに従いましたが、その「変換点」は決して初めから確固たる意志をもって従っていないことが分かります。「しかしお言葉ですから」ある程度尊敬の念を込めながらも一方では消極的にイエスに従った様子が描かれています。私たちはどこかで劇的な変換点を望んでいるかもしれません。疑いながらもイエスに従おうとする弟子たちを、イエスは温かく見守ったのでした。
 失意のうちに網を洗う漁師たちのように、私たちもいつもうまくいく人生ではありません。成人の日・新年を迎えてわたしたちはどこかに転換点を求めているのかもしれませんが、自分の全てを差し出して何かに賭けるような決断はなかなか勇気のいるものですし、それが全てでもありません。しかし、漁師たちのように、人間が変わる転換点の始まりは疑いの中にもあるのかもしれません。そんな私たちを見守っていると聖書は語っているのではないでしょうか。

2019年1月7日月曜日

2018年12月30日


2018年12月30日 降誕節第1主日礼拝説教要旨
  「慌ただしさの中に告げられた」 桝田翔希伝道師
    マタイによる福音書 2:1~12節
 クリスマスの期間を過ごす中で、様々な方が色々な形で教会を覚え祈って下さっていたことを知らされました。多くの恵みの中でクリスマスの礼拝を守れましたこと感謝です。世間でもクリスマスの時期は特別視されていますが、年末も重なり何かと慌ただしい時期ではないかと思います。大掃除をしたり年賀状の準備をしたり、様々な用事があります。そんな時にあって聖書日課では、東方の学者が救い主イエスの誕生を星に知らされるという物語が選ばれていました。私たちに何を問いかけているのでしょうか。
 ここで言う「学者たち」というのは「ペルシアの学者」と考えられています。ペルシアの学者というのは「司祭」であり天文学や薬学、占星術、夢解釈を行っていた集団で、学問的にはトップクラスのエリートとされていました。学者たちはヘロデ王を訪ね、聖書で救い主はどこに生まれることになっているのかと問います。王宮お抱えの聖書学者たちは「ベツレヘム」と答えましたが、このことが原因でヘロデは子どもを皆殺しにしてしまいました。当時のイスラエルは様々な派閥の対立があり、不安定な状況でありました。ヘロデ王も統治者として様々な気を使っていたことでしょう。そんな時に知らされた「新しいユダヤ人の王」の誕生を喜びの知らせではなく、「めんどくさい」知らせであったのではないでしょうか。
 見つけ出して殺すために東方の学者たちに「見つかったら知らせてくれ」と頼みます。一方で救い主を待ち望んでいたはずの聖書学者たちは、ヘロデを恐れてか何も行動しませんでした。私たちも様々なしがらみや、固定概念の中に生きています。聖書を読みながらも、王宮にいた学者たちのように行って確かめようともしない事もあるかもしれません。栗原康という政治学者はアナーキーという言葉を「支配」などを意味するギリシャ語「アルケー」に否定を意味する言葉が重なりアナーキーという言葉になるのだと説明しておられました。「支配がない」「統治されない」という意味なのだそうです。イエスの生き方は、しがらみや固定観念を越えて人と出会われました。「見つかったら知らせてくれ」と頼まれた学者たちも無視して帰って行ってしまいました。慌ただしさの中にあっても「支配」や「統治」、様々な枠組みを越えて聖書に聞く者でありたい。