2019年3月26日火曜日

2019年3月17日

2019年3月17日 受難節第2主日礼拝説教要旨
  「人の心の中に」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 11:14~26節
 受難節(レント)に入って二回目の日曜日です。この時にあって聖書日課では、「ベルゼブル論争」とそれに続く箇所が挙げられていました。前の週では悪魔という言葉が出てきましたが、ここでは悪霊というものが出てきました。悪魔と悪霊という言葉の違いを見つつ、この聖書箇所が私たちに何を問いかけているのか考えたいと思います。
 悪魔と悪霊という言葉は、ギリシャ語では音も非常に似ているのですが、ここで出てくる「悪霊」という言葉が他の箇所でどのように使われているのかを見てみますと、病気を引き起こすものとして描かれています。この悪霊をイエスは追い出し、病気を癒しているのですが律法学者たちは「イエスは悪霊の親玉、ベルゼブルだ」と言うのでした。他の宗教の神の名前に由来するベルゼブルという言葉を使い「あなたはベルゼブルだ」という悪口は、私たちの想像を超えるようなひどい悪口でありました。病気で苦しむ人を目の前にしながら、律法学者はイエスへの敵意をむき出しにして、人格を否定するような言葉を吐きかけたのでした。
 そこでイエスは「悪霊の親玉と言うが、内輪でもめれば悪魔でさえ国は成り立たない」と説きます。ここでは律法学者とイエスの対立がありありと語られています。イエスのこの言葉は人間同士でさえ、内輪もめしてはいけないと諭しているのではないでしょうか。
 研修で訪れた沖縄で、基地建設を巡り推進派と反対派という構造を目の当たりにし、基地推進派の行政が行う暴力に怒りを覚えました。しかし、そのような闘争の現場で大切にされていることは「非暴力でただ座ること」であるそうです。色々な意味がある言葉だと思います。私たちは意見の違う人を目の前にした時、どうしようもない敵意を抱くことがあります。しかし、律法学者に敵意を向けられたイエスはそれでも対話を試みています。どんな状況にあってもあきらめず話し合う大切さを忘れないようにしたいものです。





2019年3月18日月曜日

2019年3月10日

2019年3月10日 受難節第1主日礼拝説教要旨
  「ひと時、悪魔が離れる」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 4:1~13節
 6日に「灰の水曜日」をむかえ、教会暦は受難節(レント)の期間が始まりました。この時にあって聖書日課は、イエスが荒れ野で悪魔に「誘惑を受ける」とされている箇所でありました。この物語を通して私たちは何を問いかけられているのでしょうか
 そもそも悪魔とは何を指しているのでしょうか。この物語で悪魔はイエスに3つの言葉をかけています。旧約聖書の言葉を引用しながら「空腹ならば石をパンに変えたらどうか」などと語りかけます。「悪魔の誘惑」とありますが、それ自体そんなに悪いことを悪魔が言っているわけでもありません。石をパンに変えることができれば、国の権限を手に入れることができれば、天使に体を守られるならば、教会の活動はもっと豊かになるように思えます。悪魔の誘惑とは決して、目に見えて悪い方向に人間をさせようとするものではありません。善く目える形で人間に迫ってきます。
 「悪魔」に並んで「荒れ野」もこの物語ではキーワードとなっています。荒れ野とは当時にあっては、「城壁の外」、「忌み嫌われる病気にかかった人が追いやられる場所」、「神の愛が届かない場所」とされていました。今日の私たちが生活している状況は、城壁の中と言えるのでしょうか。「荒れ野」に住んでいるようなものかもしれません。何が正しいことなのかもわからない、そんな場所で悪魔の言葉がイエスを試しているのです。このやり取りを見ていると、悪魔もイエスも聖書の言葉を使いますが、そこには大きな違いがあります。悪魔は聖書の言葉を自分の立場を強める為や、他人を審判するために使います。しかしイエスは中立なものとして、言葉そのものを神の言葉と受け止めて話しています。私たちも荒れ野のようなこの社会に生きる中で、自分の為に聖書の言葉を解釈してしまう時があるかもしれません。しかし、今日の聖書箇所は、そのような考えが悪魔であると指摘しているのではないでしょうか。イエスでさえ悪魔が離れたのはひと時であったとルカによる福音書は伝えます。イエスの宣教の道のりは、そのような「悪魔」との対峙であったのかもしれません。私たちも同じような世の中に生きていると言えるのではないでしょうか。

2019年3月4日月曜日

2019年2月24日

2019年2月24日 降誕節第9主日礼拝説教要旨
  「ひとり祈る姿に」 桝田翔希伝道師
   ルカによる福音書 5:12~16節
 今日の聖書箇所では、重い皮膚病にかかった人がイエスによって治ったという奇跡物語が語られています。イエスの治癒奇跡は福音書の中で度々語られていますが、科学的な常識に生きる今日にあってはなかなか信じることができるものでもありません。イエスの治癒奇跡は私たちに何を問いかけているのでしょうか。
 専門が異なる7人の著者によってイエス像が分析された『人間イエスをめぐって』(教団出版局、1999年)という本の中で、医師である川越厚さんはイエスがどのように病気と向き合ったのかということに注目されていました。現代医学は科学主義に根差しているが故に、症状を見た時にその根本的な原因が重要視されるのだそうです。例えば糖尿病を発症すると手足の壊死や失明など、様々な症状が現れますが、血糖値をコントロールする処置が行われます。症状を一つ一つ対処するのではなく、根本的な原因が究明されるのです。一方イエスはどのように病気に向き合ったのか、川越さんはイエスの治癒の特徴として「治すのではなく、癒している」と分析しておられました。イエスが治癒の対象とした病気は、当時の社会にあっては発症すると共同体から疎外されてしまうものがほとんどでした。特定の病にかかるということは神からの裁き、神からの愛の断絶とも理解された状況にあって、イエスは病を「癒した」のです。
 重い皮膚病に関して旧約聖書のレビ記では、その対応がくわしく規定されています。イエスの時代には「病は神からの罰である」という考え方がなされていたことが想像できますが、レビ記を見るとどのような症状が「神の罰」なのか、ということよりもどうすれば治るのかということに注意が払われています(関田寛雄、1989年)。科学的な考え方に生きる今日にあって、私たちは人間を忘れて根本的な原因を中心としてしまう時があるように思います。イエスが行った治癒奇跡は、自らの力を示すものでも、祭司や律法学者に対抗するための業ではなく、「疎外からの解放」を意味しました。イエスの奇跡を読むとき「治す」ことにばかり気が向いてしまいますが、関係性の回復である「癒し」を通して示された神の愛を実践する人でありたいものです。