2023年11月23日木曜日

2023年11月19日

 2023年11月19日 降誕前第6主日礼拝説教要旨

「おまえのものはおれのもの!」 川江友二牧師

  出エジプト記 3:7-14 節

 「おまえのものはおれのもの!」は、ドラえもんに出てくるジャイアンのセリフ。のび太が失くしたランドセルをジャイアンが必死になって取り戻してくれた理由として発したのが、この言葉でした。

 今日の聖書箇所で神は、その名前をこう打ち明けています。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と。また、この後の6章では「わたしは主(ヤハウェ)である」と言っています。この語源を考えると「わたしは命、生きる者、生かす者」と理解ができます。古代世界において、名前はその人の存在全体や生き方、つまりその人が何者であるかという本質を表すものだと考えられていました。

 では、その本質は具体的にどのように示されるのでしょうか。神は7節でこう語っています。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」と。ここに神が人と共にあろうとする在り方、人を生かす命の神である在り方が示されています。

 イスラエルのガザへの攻撃は激化の一途をたどり、パレスチナの死者は12,000人を超え、その内子どもの死者は4,100人以上に上っています。現地の人々のうめき、叫びを私たちはどう受け止めたらよいのでしょうか。

 このような理不尽な死や苦しみに直面するとき、思い出す本があります。それはアウシュビッツを生き抜いたエリ・ヴィーゼルが記した『夜』です。子どもが絞首刑にあって苦しみ続け、「神さまはどこだ」と叫ぶ問いに、神は共に絞首台にぶら下がっておられるという内なる声を聞いたと言います。

 それは、今日モーセに語る神と同じです。7節の言葉とは、まさに人々の苦しみ、痛みを神ご自身が味わい尽くしたことを意味しているからです。そして苦しみの中で信じられない民に、神は繰り返し「わたしはあなたと共にいる」と述べます。そうだとすれば、現在も神はパレスチナやイスラエルで、共に死の苦しみを何度も味わっておられるのではないでしょうか。

 この一見すると無力な神を信頼し、絶望を分かち合うことから、希望は見出されていくことを聖書は示してくれています。そして、そこに神を見つけたらならば、私たちは黙っていてはならないのでしょう。わたしたちの信じる神は、私たちの痛みを知る神であり、泊まる場所なく生まれ、力なく十字架にかけられたイエスさまであるからです。

 「あなたの痛みはわたしの痛みだ。だからこそ、わたしはあなたの命であり、神なのだ。」その声に耳を傾け、私たち自身も命に寄り添い、命のために声を挙げていくものでありたいと心から願うのです。


2023年11月18日土曜日

2023年11月12日

 2023年11月12日 降誕前第7主日礼拝説教要旨

「確かな方につながって生きる」 小笠原純牧師

 ヨハネによる福音書 8:51-59節

 宮沢賢治の「雨にも負けず」という詩は、次のような言葉ではじまります。「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち 欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている」。病床の宮沢賢治の望んだものは、「丈夫な体」と「健やかなこころ」なのでしょう。この世にいる間は、それはとても大切なものだと思えます。

 私たちの救い主であるイエスさまは、私たちを永遠のいのちを受け継ぐ者としてくださいました。イエスさまにつながって生きる時、私たちは神さまの恵みを受けて、永遠のいのちを受け継ぐ者としての祝福に預かることができるのです。わたしはこのことは、私たちクリスチャンがこの世で生きる上で、とても大切な祝福であると思っています。

 私たちは人生のなかで、思わぬ出来事を経験することがあります。病気になることもありますし、神さまのところに愛する人を送られるということを経験することもあります。職場で大きな失敗をして、非難をされるような出来事を経験することもあります。自分ではどうしようもない出来事を前にして、こころが折れてしまうような時もあります。このことを頼りに生きていこうと思っていたものが、意外にもろく崩れ去ることを経験することもあります。確かなものであると思っていたのに、確かなものではないことを知り、大きな戸惑いのなかに投げ込まれてしまう時もあります。

 しかしそうしたなかにあって、私たちには救い主イエス・キリストがおられます。イエスさまは私たちに「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われ、私たちがイエスさまにつながることによって、神さまから永遠の命を受け継ぐ者とされることを教えてくださいました。

 イエスさまは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われました。マルコによる福音書13章31節の御言葉です。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。

 私たちは確かな方につながって生きようと思います。神さまの御子イエス・キリストにつながり、イエスさまを頼りにして歩んでいきたいと思います。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。どんなときも、私たちを守り、導き、祝福してくださる確かな方がおられます。イエスさまを信じて歩んでいきましょう。


2023年11月11日土曜日

2023年11月5日

 2023年11月5日 降誕前第8主日礼拝説教要旨

「私たちの道を照らす光」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 3:13-21節

 今日は召天者記念礼拝です。ご家族の皆様ととともに、天に召された方々を覚えて礼拝を守ります。

 ユダヤ人でファリサイ派のニコデモという議員が、イエスさまのところを尋ねてきます。ファリサイ派の人たちの多くは、イエスさまと考えが違って、論争をしかけてくるということがありました。しかしニコデモはイエスさまの教えが気になって、イエスさまのところに尋ねてきました。

 神さまは、神さまの独り子であるイエスさまを、私たちの世に遣わしてくださいました。イエスさまを信じることによって、人は永遠の命を得ることができる。神さまは私たちを裁くのではなく、私たちを救うために、御子イエスさまを、私たちの世に遣わしてくださいました。

 神さまの御子であるイエスさまのことを信じないということが、もうすでに裁きになっている。それはイエスさまが世を照らす光となって、私たちの世にきてくださった。イエスさまを信じて健やかに歩むことができるのに、イエスさまを信じないでよくないことに心を騒がせて、暗闇へと導かれていく。そのこと自体がもう裁きになっているということです。神さまに導かれて、イエスさまに導かれて、良き生き方をする。光の中を歩んでいく。それはとても幸いなことであり、とても健やかなことであるということです。

 自分自身の振る舞いを考えてみるときに、反省をさせられるときがあるわけです。自分のことだけを考えて、身勝手な振る舞いをしているうちに、いつのまにかだれも自分の周りに人がいなくなってしまっていたりするようなことになっていないか。だれからも馬鹿にされたくないと思い、力で人をやっつけているうちに、周りの人が自分から離れていっているということになっていないか。

 わたしは合理的な考え方が好きで、自分勝手なところがありますから、すぐに愛のない方へと生き方が向かっていくのではないかということが心配になることがあります。自分だけがよければそれでいいというさもしい考え方に支配をされてしまい、高慢になり、恥ずかしい人生を歩んでいながら、そのことに自分で気がつかないというようなことになってしまっているとしたら、まさにそれは、神さまの裁きということなのだろうと思います。

 聖書は、そうした生き方になることがないようにと、光となって私たちを照らしてくださる方がおられると、私たちに告げています。暗闇の中を歩むのではなく、光の中を歩みなさいと、私たちを照らしてくださる方がおられると、聖書は私たちに告げています。


2023年11月3日金曜日

2023年10月29日

 2023 年 10 月 29 日 降誕前第9主日礼拝説教要旨

「創造の時の円舞(ロンド)」 山本有紀牧師

  創世記 1:1-5,24-31 節

 礼拝の暦はこの主日から新しい季節に入る。全部で 9 週ある「降誕前」節の後半4 週は「待降節」。救い主が幼子の姿で地上に降る、クリスマスまでを指折り数える。そして前半の 5 週は、救い主の到来という「約束」の成就に至る、神様と人間との間に紡がれた「契約の物語」を、世のはじめから順に辿る。今年の場合は、「天地創造の祝福」>「アダムとエヴァへの約束」>「アブラハムとサラへの約束」>「モーセと出エジプトのイスラエルへの約束」、そして、最後の 5 週目は(毎年必ず)、救いの約束の最終目的である「神の国の到来」を覚えて「再臨の、栄光に輝くキリスト」に関わる箇所を読む(再臨の希望の内に、「最初の到来」を待つ季節へ)。農耕のサイクルでは、収穫の祭りの季節に、私たちは礼拝生活のサイクルにおいても、神が耕し、蒔き、守り育ててその収穫を心待ちにされる、この「被造世界」とこれを保全する務めを委ねられた私たちの人生と、社会全体の歴史がもたらす「実り」の在り様について、信仰の先達が辿った道を記念しつつ、深く吟味するように導かれている。

 イスラエルの民がこの「天地創造物語」を生み出したのは、民族にとって最も暗い時代=バビロニア捕囚の時代だった。国も王家も滅び、礼拝を捧げる神殿もなく、モーセが授かったという十戒の石の板も奪われた。彼らが「神の民」であることの印が消失した時代、かつて祭司であった人たちが、この創造物語を生み出した。そこには、イスラエルの神がこの世を「良いもの」として祝福し、美しく整え、その秩序の保全者として自分たちを選んだという信仰が示される。だから捕囚の民はこの物語に生かされて、天地創造の秩序、即ち安息日を命にかえて守り、被造世界のサイクル、蒔き、育て刈り入れる祝福のサイクル、この世の被造物すべてが参与する円舞(ロンド)を、自らの「神の民」としての再生の希望を胸に、躍り続けたのだった。

 今も、この円舞は続く。私たちの人生も、社会の歴史も、自然のリズムもすべてがこの円舞の内にある、と天地創造神話は物語る。成功だけでなく、失敗も裏切りも罪も背徳もこのサイクル内で繰り返される。飢饉も不作も洪水も疫病も地震も、あらゆる自然災害も、そして差別や不正義、戦争も。秋を収穫の感謝として迎えることのできない場所も人も毎年存在する。それでも私たちには、この被造世界を「良い」ものとして保全する務めが課せられている。世のはじめの救い=祝福の約束を、この年も私たちはそのままに守り、いのちのサイクルの円舞を続けていかねばならない。その務めを共に担う仲間でありたい。