2016年9月27日火曜日

2016年9月11日

2016年9月11日 主日礼拝説教要旨
  「『見失った羊』に目を注ぐ」宇野稔牧師
  (ルカによる福音書15章1〜7節)

  ここに徴税人が出て来る。当時のユダヤ人社会でローマの手下になって同胞から税を取り立てる忌まわしいとされていたのです。イエスはそのような閉鎖的固定的イメージから人を解放しようとされたのです。だからタブーであったにも関わらず、イエスは「徴税人や罪人」と食事を共になさったのです。(1節)。
 「徴税人」が解放されて、見失われた人が見つけ出されること、天では「大きい喜び」だとイエスは告げます。
 私たちはこの喩えを読む時、自分の外、他者の事柄として読みますが、自分の中の事柄として考えたい。私たちの中に100匹の羊がいて、特別な一匹の羊、迷い出た羊がいる、誰もが見せたくない他にも云えない、出来れば忘れたい一匹を持っているのです。その一匹は時には人を引きずり廻し、人生を狂わせるような一匹です。しかし、イエスはその一匹が大事であり、その一匹を意識の中に呼び出せと云うのです。その一匹が連れ出され意識されることをイエスは一緒に喜ばれるのです。
 もう一つの話しはザアカイの話しです。19章8節にイエスは食事を共にするだけでなく、「今日是非あなたの家に泊まりたい」に対し「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します」と云うのですが、救われたにも関わらず、「弟子の条件」として自分の持ち物を一切捨てねばならない(14章33節)のに「財産の半分」としか云えません。これが人間の現実なのでしょうか。半分を捧げるとしか云えないような「一匹の羊」、つまり弱さを持っているのです。
 しかし、「半分」としか云えない弱さをイエスは受け止めて下さるのです。弱さこそ探し出し、受け止めるイエスについて「私たちの弱さに同情できない方ではない」(ヘブル4章15節)と語ります。
 またパウロは「主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中にこそ十分に発揮されるのだ』と云われました。だからキリストの力が私の内に宿るようなに、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12章)とあります。弱さを神に投げ出して、他の人の中の一匹の羊に配慮出来るものになりたいのです。



2016年9月19日月曜日

2016年9月4日

2016年9月4日 主日礼拝説教要旨
  「必要とされるわたし」宇野稔牧師
  (マタイによる福音書12章9〜14節)

 ある日イエス・キリストが左手の萎えた人と出会います。そして直ちに「手を伸ばしなさい」と云われ、その人を癒やされました。その日は安息日で何もしてはならない日であったので、律法の明確な違反行為でした。
 しかし、キリストはこの行動を通して人々の無関心さを強く批判し、全てのことを差し置いてでも最優先されるべきであることを示されたのです。
 それは、苦しみ悲しみの中で助けを求める人の声を決して聞き漏らさない感性から来る、些細な出会いを決して疎かにされない姿勢でした。「一期一会」という言葉があります。茶の湯の心得を教えているものです。同じことの繰り返しのように思える日常は、実は一期一会の繰り返しなのです。
 この「手の萎えた人」は、不自由があるという身体的な困難を背負っているだけではなく、手が萎えるということを罪を犯した結果であると決められていて、罪意識を植え付けられ「罪人」として差別されるという苦しみの中で、どれほど悲しい暗い日々を過ごして来たかということに気づかねばなりません。必要なことは想像力なのです。
 安息日に会堂を訪れ、神の恵みと慰めとを求めている者と、その切実な思いを無視してなおその人を差別しようとしている人々と対比の中にイエス・キリストは自らの行動を通して模範を示されたのです。
 「今、この時に自分を必要としている」人との出会いは日常のどのような時にも起こります。その機会を決して見逃さないのが、イエス・キリストの示す神の愛なのです。自分のためにだけ生きようとしてはなりません。自分を必要としている誰かがいるということに想像力を働かせましょう。イスラエルの人たちは律法を守るということに一生懸命になり過ぎ、人の状況がみえなくなってしまっていたのです。それは、自分一人が神の前に正しい者(律法を守っている)になりたいという願いからでした。
 信仰に熱心な人は律法を正しく守ることを考えますが、イエスはそういうものを逆転させる方だったのです。

2016年9月11日日曜日

2016年8月28日

2016年8月28日 主日礼拝説教要旨
  「あなたは幸いなのだ」宇野稔牧師
  (マタイによる福音書5章1〜12節)

 マタイ福音書はマルコ福音書を底本にして編集されたと考えられていますが、その大きな違いの一つは、イエス・キリストの説教に重きが置かれていることです。マタイはイエスの言葉を伝えたいという想いがあって編集されたと考えて良いでしょう。
 今朝の箇所は、そのイエスの説教の冒頭にあたり「マタイが一番伝えたかったこと」なのだと考えるのです。イエスの下に大勢の群衆が集まって来ていますが、「色々な病気や苦しみに悩む者、悪霊にに取り憑かれた者、あらゆる病いの人たち」でした。病を持つことが罪の結果であると考えられていた当時の社会では、これらの人々は魂の孤独の中にいた人々に違いありません。その人たちに、「あなたは幸いだ」と語られたのです。貧しい人、悩み苦しんでいる人、柔和な人とは、不当な苦しみに耐えなければならない人のことであったり、明日の食物にも困っている飢え渇いている人等など、イエスの前には日々現実の中で、その苦しみに喘いでいる人たちだったのです。
 その人たちに向かって「幸いだ」というのは無意味でまやかしであると批判も出来るでしょう。しかし、イエスの言葉として話されたのです。もし現実離れしたまやかしであるなら、マタイが後世の人々に伝えたでしょうか。2000年の時を経て私たちは聞くことが出来るでしょうか。この言葉が苦しみ、悲しみの中にいる人に力を、励ましを、希望を与えたからこそ私たちもこの言葉を受け継いでいるのです。
 イエスが語ったからといって彼らの現実がすぐに代わるわけではありません。何が彼らに力を与え、何が変わったのでしょうか。それは「イエスが共にいる」ということです。すなわち、いかなる時にも「私があなたと共にいる」のだと宣言されたのです。
 あなたは一人で戦うのではない、一人で耐えるのではない、わたしが共にいて、共に苦しみを担おうという決意で、この山上の説教を語り出したのです。悲しみや苦難の状況の中にあってもイエスは「大いに喜びなさい」と語られます。私たちはイエスによって愛されているからです。

2016年9月10日土曜日

2016年8月21日

2016年8月21日 主日礼拝説教要旨
  「全ては神から出て、神に向かう」宇野稔牧師
  (ローマの信徒への手紙11章33〜36節)

 人間の不従順さえ、信仰に変えてしまう神の救いの業(32節)にパウロは感嘆し、歌をうたうように書き出したのが、この箇所です。
 その内容は、「神の富、知恵、知識の何と深いことか」(33節)で始まります。パウロはこの3つのものに感動しています。神の富、それはどんなものでしょうか。私たちが求める、豊かさはそれが金銭的であれ、心の豊かさであれ「豊か」であることを求めています。
 しかし、神の豊かさは「貧しくなる」ことでした。神は神であることを捨てて、人間となってくださったのです。貧しくなって一緒に生きてくださったのです。その豊かさをもたらしたものが「神の知恵」でした。私たちの知恵は最終的に自分の欲得にあり、他者との間に悲しい虚しいものしか残せないようなものなのです。パウロは人間の知恵に対して、神の知恵に感動しているのです。他の存在のために自分を捨てることを決断し、愛を貫いて死に向かうのです。それが豊かな関係を生み出していくのです。イスラエルから始まって、世界を変えてゆき、今も福音は世界に広がりつつあるのです。
 神の知恵の前に神の知識があり、即ち、神の認識があったのです。神における人間の姿は、神を裏切り続け、離反し続ける存在でした。しかし、神はそのような人間の現実を知りつつ、人間を愛すべき存在として認識してくださったのです。パウロはその点にも感動しています。
 私たちは教会に集まり自らの事としてこのパウロの姿勢に注目しなければなりません。私たちは、救いに値する立派な点や素晴らしい点があったわけではありません。ただ神がこの私たちのために貧しくなってくださり、その知恵をもって愛を貫いてくださり、神の知識を持って「愛すべきもの」と認識してくださり、私たちを救ってくださったのです。
 私たちもパウロと共に神を讃美しましょう。私たちは神によって生まれ、導かれ、神を目指して歩んでいます。36節のことばは、パウロがそのことを語っているのです