2020年10月29日木曜日

2020年10月25日

 2020年10月25日 降誕前第9主日礼拝説教要旨

   「だから、恐れるな」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 10:28ー33節

 「テントウ虫のサンバ」という歌で有名なチェリッシュは、「なのにあなたは京都へゆくの」という曲でデビューしています。「私の髪に 口づけをして/「かわいいやつ」と 私に言った/なのにあなたは 京都へ行くの/京都の町は それほどいいの/この私の 愛よりも」。そしてその次に出した曲は、「だから私は北国へ」でした。どちらも、「なのに」と「だから」という接続詞の効いた曲名となっていて、歌以上によくできた題名だと思いました。

 今日の聖書の箇所にも「だから」という言葉が、何度か出てきます。「だから」は理由を表す接続詞です。理由があるわけです。イエスさまは「だから、恐れるな」と言われました。単に「恐れるな」「怖がるな」ということではなくて、恐れない理由が、恐れない根拠があるということです。

 とるにたらない一羽の雀も守られ、私たちの知らない私たちの髪の毛の数さえも知ってくださっている神さまがおられる。「だから、恐れるな」。私たちには恐れる必要のない確かな理由がある。確かな方が、私たちを守ってくださるのだから恐れるな。あなたがたはたくさんの雀よりもはるかにまさっているのだから。

 「だから、恐れるな」と言われても、恐いものは恐いと思ってしまいます。恐いときはイエスさまから離れてしまうような気がします。使徒ペトロもイエスさまのことを三度知らないと言いました(マタイに福音書26章69-75節)。しかしそうした弱さを持っているペトロを、そして私たちのことを、イエスさまはよく知っておられます。その上で、私たちに語りかけておられます。

 「だから、恐れるな」。私たちには恐れる必要のない確かな理由がある。私たちには神さまが共にいてくださる。私たちは弱く乏しい者だけれども、しかし神さまは私たちのことをすべて知った上で、私たちに救いの御手を差し伸べてくださっている。「だから、恐れるな」。

 臆病者であった弟子たちは、のちにイエスさまの言われた「だから、恐れるな」という言葉を、心から受け入れることになりました。私たちも弟子たちのように、「だから、恐れるな」というイエスさまの御言葉を確かに受け取って歩んでいきましょう。


2020年10月23日金曜日

2020年10月18日

 2020年10月18日 聖霊降臨節第21主日礼拝説教要旨

   「ここにあった。神さまの愛が。」 小笠原純牧師

    ヨハネによる福音書 17:13ー26節

 『オズの魔法使い』は1900年、いまから120年前に書かれました。アメリカ人によってかかれた、はじめてのアメリカの本格的ファンタジーと言われています。ドロシーは竜巻によって飛ばされて、オズの国にやってきました。ドロシーはカンザスに帰るために、とうもろこし畑のかかし、ブリキのきこり、おくびょうなライオンと一緒に、願いをかなえてくれると言われるオズの魔法使いのところに行きます。かかし、きこり、ライオンに、オズの魔法使いは、「もうあなたたちはすでにそれらをもっているじゃないか」と言います。かかし、きこり、ライオンは自分にはないものと思い、旅をしているわけですが、でも実際にはもうすでにそれをもっているのです。

 私たちもどちらかと言いますと、「オズの魔法使い」の、かかしや、ブリキのきこりや、おくびょうなライオンのような感じがします。「わたしって、だめだなあ」「わたし、やっぱりどうしようもない悪い人間じゃないのかなあ」「わたしは神さまからの祝福からもれているのではないだろうか」と思えることが多いです。

 そんな気持ちになってしまう私たちですけれども、イエスさまは「あなたたちは神さまの愛の内にあるのだ」と言われます。あなたたちはすぐに神さまから見捨てられているのではないかとか思うけれども、そうではない。あなたたちは神さまの愛の内にある。イエスさまは【父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください】(ヨハネ福音書17章21節)と祈られました。

 神さまがイエスさまの内におられ、私たちもイエスさまと神さまの内にいる。神さまとイエスさまと私たちは一つである。神さまの愛が私たちと包み込んでいる。あなたたちは鈍感なので気がついていないけれども、ここに神さまの愛がある。

 「神さまの愛が、ここにある」と、イエスさまは言われます。そうした大いなる祝福のうちに、私たちが置かれていることを、感謝をもって受け入れたいと思います。そして神さまの平安のうちを安心して歩んでいきましょう。


2020年10月14日水曜日

2020年10月11日

 2020年10月11日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨

   「勇気を出せ」 村山盛葦牧師

     コリントの信徒への手紙2 5:1-10節

 同胞ユダヤ人との軋轢、国家との軋轢、キリスト教会の問題、様々な困難(難船、飢え渇き、寒さ、盗賊など)を使徒パウロは経験していました。さらに持病を患い健康状態も良くありませんでした。「土の器」の脆さ・弱さ・限界を嫌というほど思い知らされたと思われます。しかしパウロは、四方八方から困難がふりかかってきても、決してへこたれなかった。それは、神が保証として与えてくださった「霊」(プネウマ)が生きて働いていたからです。

 霊(プネウマ)は、大気中や宇宙、そして人間の体内をダイナミックに活動し作用を及ぼす実在物として信じられていました。中国思想や東洋医学に出て来る「気」と似ているかもしれません。気の流れが良いとか、悪いとか言いますが、私たちにも馴染みがあります(「合気道」の「気」、「気合を入れる」の「気」、「元気」の「気」、「病気」の「気」など)。パウロは手紙の中で約120回もプネウマという用語を使い、キリスト信仰と神の働きとの関係を述べています。プネウマは、私たち信仰者の中で働き、共にうめき導いてくれる「神のエネルギー」なんです。ただ、そうは言うものの、私自身を振り返ると、霊的体験やドラマチックな回心体験もありません。むしろ、日常の苦労や辛さ、時には恐怖や怒り、さらには「いずれ人は死ぬ」という現実を見つめると、私の中に神のエネルギーなど、どこにあるのかと思ってしまいます。

 ナウエン神父は、「愛をほとんど経験したことがないとしたら、どうやって愛を選ぶことが出来るでしょうか。機会あるごとに、愛の小さな一歩を踏み出すことで、私たちは愛を選びます。微笑み、握手、励ましの言葉、電話をかける、カードを送る、抱き締める、心のこもった挨拶、助ける仕種、注意を払う一瞬、手助け、贈り物、財政的な援助、訪問、これらのものはみな、愛に向かう小さな一歩です。それぞれの一歩は、夜の闇の中で燃えている一本のろうそくのようなものです。それは闇を取り去ることはありませんが、闇の中を導いてくれます。」(『今日のパン、明日の糧』213頁)と語っています。

 私たちは、滅びゆく「地上の住みか」である幕屋、日々衰えていく「外なる人」、「土の器」に生きていますが、しかしそのただなかに偉大な神の宝・霊が与えられているのです。それは、目の前の闇を完全には取り去ることはできないけれども、闇の中を共に導いてくれる。今日の箇所でパウロは、「わたしたちはいつも心強い」(6節、8節)、と繰り返して述べていますが、「心強い」という単語の、もともとの意味は、「元気である、勇気がある」です。小さな一歩、小さな勇気、灯の霊が、すでに神から与えられている。そこに私たちの存在を賭けて行きたいと思います。主イエスに喜ばれる者でありたいから、それぞれの地上の住みかで小さな一歩・勇気を積み重ねていきたい。それは終末の報いにつながるのですから。


2020年10月8日木曜日

2020年10月4日

 2020年10月4日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨

    「良い業を行なう」 小笠原純牧師

      ヨハネによる福音書 10:31ー42節

 『すばらしい新世界』というアンチ・ユートピア小説で有名なオルダス・ハクスリーの名言に、「生涯を通して人間の問題に関心を持ち続け、最後に忠告として言えるのが、『もうすこしだけ親切にしよう』だけでしかないのは、少し恥ずかしくもある」というものがあります。この「少し恥ずかしくもある」というのが良いですね。わたしは「親切にする」ということをもう少し広げて、「小さな良き業に励む」という歩みでありたいと思っています。まあどれだけできているかは別ですけれども。

 イエスさまは自分のことを信じないユダヤ人たち対して、「わたしは神さまの業を行なっている。その業でわたしのことを判断しなさい」と言われました。わたしが行なっていることを見れば、神さまがわたしのうちにおられること、わたしが神さまのうちにいることを知ることができるだろう。そうしたら、わたしのことを信じることができるようになるだろう。

 クリスチャンは昔からずっと、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイによる福音書25章40節)との御言葉を大切にしてきました。

 小さな良き業に励むことは、世の中にとって良いことであるのと同時に、自分自身にとっても良いことです。私たちの心の中には良き思いと、悪い思いがあります。やさしい思いと、いじわるな思いがあります。小さな良き業を行なっていると、自分の中にある良き思い、やさしい思いを養っていくことになります。

 私たちの世の中は、神さまが望んでおられないこと、神さまのみ旨に反するようなことが起こります。腹立たしいことも起こりますし、私たちの意に沿わないようなことも起こります。そうしたなかにあっても、やはり私たちクリスチャンは落ち着いて、神さまが喜ばれる良き業に励みたいと思います。それは小さな、小さな業かも知れません。しかし神さまが喜んでくださる良き業です。人を励まし、人を支え、打ちひしがれた人のこころに愛を届ける歩みでありたいと思います。


2020年10月2日金曜日

2020年9月27日

 2020年9月27日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

   「聞く耳をもって歩む」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 10:22ー30節

 昔、「今日、耳日曜」というギャグがありました。日曜日は休日ですから、耳日曜で耳もお休み、「聞こえない」「聞いてない」という意味です。しかし私たちクリスチャンにとって、「今日、耳日曜」というのは、「聞こえない」「聞いてない」ということではなく、「しっかりと聞いている」ということです。日曜日はしっかりと聞く日です。

 ユダヤ人たちはイエスさまに「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と言います。それに対してイエスさまは、「「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」と言われ、「あなたたちはわたしが何を言ったとしても信じないのだから、もういいではないか」と言われます。

 ユダヤ人たちはイエスさまの声に聞き従うことはありませんでした。イエスさまの声に耳を傾けた人々は、この世で重荷をおっている人々でした。病気の人や徴税人であったりしました。彼らはイエスさまの慰めに満ちた言葉に耳を傾けました。またイエスさまの言葉を聞くことによって、自分の罪深さと出会いました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」とイエスさまが言われたとおり、彼らはイエスさまの声をしっかりと聞き、従いました。

 キリスト教のメッセージの中には、「そのままでいいんだよ」というメッセージがあります。『アナと雪の女王』の主題歌の「ありのままで」ということです。そしてもう一方、「そのままでいいのかな?」ということです。イエスさまの時代の人々も、救いを求めてイエスさまのところにやってきたのです。私たちはそのままでいいわけないのです。「そのままでいいんだよ」というメッセージは「そのままでいいのかな?」というメッセージも含んでいるのです。キリスト教はこのことを、「人は罪人である」という言葉で表わしてきました。神さまに救いを求める罪人である私たちは、聞く耳をもってみ言葉を聞かなければなりません。

 イエスさまは言われました。【わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない】。私たちはイエスさまの羊として大いなる祝福をいただいています。しっかりとイエスさまのみ言葉に耳を傾ける者でありたいと思います。