2019年2月25日月曜日

2019年2月17日

2019年2月17日 降誕節第8主日礼拝説教要旨
  「後ろを振り向くとイエス様が」 佐藤博牧師
    ルカによる福音書 20:11~18節
政治の世界には、「腐敗しない権力はない」との法則があります。その人間世界の法則とは対照的に中世にルターと同様に宗教改革を行ったプロテスタントの指導者カルヴィンは、彼の聖書注解で「聖書の教えは何時でも、どこでも、きわめて十全で完全なものである。だから私たちの信仰に欠けているものは全て、私たち聖書に対する無知のせいによる」と記しています。
2人の弟子はマグダラのマリアの知らせで墓に行きましたが、墓が空でしたので彼らは「家に帰った」と伝えています。墓の周辺は危険なことが多いため、彼らは家に帰ったようです。創世記冒頭の2節に「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面に動いていた」とあります。神の創造の御業・救いの御業が行われるとき、暗闇の深淵と人が受け取り難い堅実がそこにあります。それ故、暗闇は神の救いの御業の始まりであるとの信仰があるです。
マリアは2人の弟子たちの所に墓が空であることを知らせましたが、その空の墓にマリアは残ったとヨハネは伝えています。イエス様との関係は、連れ立った集団の行動では成り立たないようです。人間の希望と救いの始まりも、マリアが一人で耐え、歩み生きようとするところから始まりました。
マリアが天使たちとのやりとりの後に「後ろを振り向くと」という所ですが、この「振り向く(ステレフォー)」は、「振り返る、方向を変える、心を入れかえる」の意味をもちます。人間の心と体の向く方向は、常に水平、すなわち人や地上の物の方向です。しかしイエス様や神の真実は、人間の向く方向とは逆の後ろの・天の・神の方向です。この聖書の箇所では、神の霊の導きによって主のお声で名を呼ばれ、墓とは逆に心と体の向きを変えて復活の主との出会いが始まりました。人が心の向きを変えることは人の力、理性では実現できないことを示しているのです。

2019年2月19日火曜日

2019年2月10日

2019年2月10日 降誕節第7主日礼拝説教要旨
  「卑怯に使った安息日」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 6:1~11節
 日本基督教団で2月11日は「信教の自由を守る日」とされています。神武天皇が即位したことに由来してなのか、日本の法律ではこの日を「建国を偲び、国を愛する心を養う」為に建国記念日とされています。この日を覚えて、政治の思惑にとらえられない信仰、そして平和を祈りましょう。そんな中で読んでいただいた聖書箇所では、イエスが安息日を批判している場面でした。イエスが、当時の安息日の守り方を批判する場面は、福音書の中で度々語られています。結果的にこれらの行為が原因で死刑に処されたわけですが、なぜこれほどまでに当時の安息日を批判したのでしょうか。
 安息日の起源を考えてみますと、申命記には「奴隷や家畜」もこの日には休んでもらわなくてはいけない、と宗教的な側面だけではなく、社会的な意図を読み取ることができます。しかしイスラエルが戦争のせいでバビロン捕囚という経験をする中で、目には見えないけれど自分がユダヤ教徒であるアイデンティティの為に安息日は様々な意味が付け加えられたと推測できます。さらにイエスが生きた時代には、安息日に様々な解釈が付け加えられ、他人を裁く道具になっていたことがこの聖書箇所からもうかがい知ることができます。イエスはここで、本質からかけ離れた安息日の守り方を批判しているのではないでしょうか。
 環境問題が叫ばれる今日にあって、私たちはなるべく環境にやさしいものを使おうと心がけています。しかし、環境問題にも言及する神学者ジョン・コッブJr.は、GDPなどの指標が追及される中で、それぞれの分野が孤立化し、全体状況への無責任が生じていると警鐘を鳴らしていました。具体的には、風力発電機など、環境に良いとされるもの一部は製造過程において、大量の放射性廃棄物を生み出す現状があるのだそうです。複雑化した社会の中で、それら一つ一つを自分で見分けるということは安易ではありません。しかし聖書に立ち返りイエスの姿を見ると、複雑化し自らの考えを押し付けるかのように利用されていた安息日規定を批判しながら、大事にしたのを自分の前に立たされた人間でありました。様々な思惑の中でも、日常の中で一つ一つの出会いを大切にしなさいと、イエスは語っているのではないでしょうか。

2019年2月4日月曜日

2019年1月27日

2019年1月27日 降誕節第5主日礼拝説教要旨
  「きれいなものではなく」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 21:1~9節
 「やもめの献金」という物語はよく知られたものですが、聖書日課では「神殿の崩壊を予告する」、「終末のしるし」も続けて指定されていました。やもめの献金だけ読みますと、自分の持っているものを全て神にささげ、お金ではなく神に信頼を置く生き方を教えられますが、この聖句は更に他のことも問いかけているのではないかと思います。
 イエスは福音書の中で「石」を用いたたとえ話をよくされました。イエスの職業について一般的には「大工であった」と言われることが多いかと思います。マルコによる福音書6章3節で故郷に帰り語ったイエスは「この人は大工ではないか」と言われて疑われています。「大工」を意味するギリシャ語は「オイコドモス」と言う単語で「家を建てる者」という意味があります。しかし、ここで「この人は大工ではないか」と言われた「大工」はオイコドモスというギリシャ語ではありません。「テクトーン」という単語で、これは石を切り・削り・掘るような職業を指すものであります。当時のユダヤ人が最も嫌った職業の一つでした(本田哲郎、2010年)。作業中に出る粉塵のせいで、健康被害があることが原因であったようです。日本ではイスラエルと違い石造の建築物はあまりありませんが、有名なものでは「国会議事堂」があります。外国に倣って石造りの立派な議事堂を造る事になったようです。国産にこだわった数十種類の石材が日本全国から集められて建造され、従事した労働者は200万人にものぼるようです。その中には多くの「外国人労働者」が利用されたそうです。
 エルサレムの神殿をダビデがどのように建てたのか、歴代誌22章が記録しています。賢者を意味する職人たちも多く集められたようですが、国内の寄留者も多く集められ、採石労働者、すなわち石を切る労働もありました。2レプトンを奉げる人がいる一方で、多額の寄付を喜び神殿の美しさにしか思いの及ばない人たちをイエスは見て、働き人の姿を思い出したのではないでしょうか。イエスは誰が石を削り、誰が粉まみれになっているのかを知っていたのです。現代の日本でも、不安定で便利な労働形態は増えながら、見かけの豊かさや綺麗さが追い求められています。しかし、神に従うことはそのような豊かさとは違うということをイエスは語っているのではないでしょうか。