2018年5月28日月曜日

2018年5月13日

2018年5月13日 復活節第7主日礼拝説教要旨
  「母の日に」 桝田翔希伝道師
  ヨハネによる福音書 19:25~30節
 母の日とアジアエキュメニカル週間、召天日を覚えて聖書が私たちに何を問いかけているのかを考えてみたいと思います。母の日は1900年代初めのアメリカで、早くにして亡くなったアンという女性をしのんで、彼女の好きだったカーネーションを470人もの人たちが持ち寄った記念会がきっかけなのだそうです。しかし、商業主義の中で母の日の近くになると、アンの好きだったカーネーションは高い値段がつけれらるようになりました。キリスト教の行事は日本でも商業主義の中で取り上げられています。私たちは母の日をどうとらえるべきなのでしょうか。
 今日の聖書でイエスは、自分がこの世を去ってしまった後、弟子たちが互いに大切にしあい、永遠の命を生きるよう(生き生きと生きることが出来るよう)に守ってほしいと執り成しの祈りをしています。ここで「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです(10節)」はキーワードになるのではないでしょうか。私たちはお金さえあれば楽に一人で生きて行くことが出来ます。しかし、この言葉は私たち一人一人の命が「生かされていること」を気付かせてくれます。私たちは母の日はどうとらえるべきなのでしょうか。母に感謝することの根本的な部分は、「当たり前」の命を、創られた命を感謝することなのではないでしょうか。
 今日の聖書を読む中で、ネパールの田舎の村でよく聞いた「村の生活は厳しい」という言葉を思い出しました。ネパールでは機械化されていない農業や生活があり、また簡単に治る病気のせいで多くの人が死んでいきます。この言葉に人間が生きることは本来大変なものであることを教えられました。
 私たちはついつい、便利な社会の中で、自分の命が作られた恵みを忘れてしまいそうになります。しかし、10節にあるように「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」というイエスの祈りに立ち返らなくてはいけないのではないでしょうか。「当たり前」の生活、「当たり前」の命を目の前にして、互いの命を祝いあい、感謝しあいましょう。

2018年5月14日月曜日

2018年4月29日

2018年4月29日 復活節第5主日礼拝説教要旨
  「お米をください」 桝田翔希伝道師
  マタイによる福音書 12:38~42節
1900年代に、近代産業が発達する中で労働者階級が生まれ、労働問題が生まれだします。そのような問題に向き合うことから職域伝道という考えが始まります。今日の「労働聖日」は1960年ごろに「職域伝道」の働きから定められました。
さて今日の箇所ではイエスと敵対していた律法学者とファリサイ人とのやり取りが描かれています。「先生、しるしを見せてください」と言われ、イエスは突っぱねています。私たちも目の前で、実際に何か奇跡的なことが起ればもっと簡単に聖書の言葉を信じることが出来るかもしれません。しかしここでは、ファリサイ人や律法学者が目の前にイエスという人を見ておきながらも、「しるし」という肩書や保証を通してでしか、間接的にしかイエスに出会おうとしない姿が描かれています。職域伝道という考えは神から教会に与えられた恵みを社会に広めるという考えではなく、神は教会よりも先に苦しみに気づき宣教しておられるという考えが根底にありました。最後に釜ヶ崎の「いこい食堂」で働かれた金井愛明牧師が炊き出しの為に書かれた「お米をください」という手紙(『イエスが渡すあなたへのバトン』p.253)の一部を紹介したいと思います。
主の聖名を讃美いたします。今日はお米が欲しくてお願いの手紙を書きました。炊き出しが始まって18年になるが、私は毎日炊き出しをみつめてきた。豊かだと言われる日本で1000人が食を求めて並んでいる姿を目の前にしている。もう一度原点に帰って炊き出しに並んでいる労働者を救済の対象ではなく、戦いの同志であることを確認しながら、炊き出しを続けていきます。ここから始めます。皆さんの祈りと、こころをおにぎりにして釜ヶ崎の人びとに届けます。おにぎりを握りにきてください。
金井先生が神の福音を労働者に教えるのではなく、同志である労働者から受け取っている姿を感じました。私たちはどこから始めたらいいのでしょうか。信じられない、保証が欲しいと今日の箇所のように私たちも求めてしまいそうになります。私たちが求めるような神の業はどこにあるのか、それは社会の隅々の悲しみの中に神がすでに赴き広めておられるのです。そのような業に気づきながら神を証するものでありたい。

2018年5月8日火曜日

2018年4月22日

2018年4月22日 復活節第4主日礼拝説教要旨
  「エマオ途上のキリスト」 山下毅伝道師
   ルカによる福音書 24:13~53節
内村鑑三の娘ルツ子は、確かなキリストの信仰を持っていました。臨終の3時間前両親と共に聖餐にあずかり、ルツ子は「感謝」の言葉を語り、顔には歓喜の光がただよっていました。1912年1月12日「もう行きます」との言葉を残して息絶えました。彼女の死顔には口元に微笑(ほほえみ)が浮かんでいました。ルツ子の魂には復活されたイエスの聖霊が宿っていました。この出来事は内村鑑三に大きな影響を与えます。――復活とはどんな出来事でしょう。復活は向こう側から来る真理です、神は生きておられます。イエス・キリストは私たちの目の前にある死の墓を越えて生きておられます。ヨハネによる福音書11章25節に「わたしは復活であり、命である、わたしを信じるものは、死んでも生きる」と述べられています。
ルカ24章でクレオパ等二人の弟子が、エルサレムから今、逃れて歩いています。彼らは期待していたイエスが十字架にかかり、絶望の中を暗い顔をして歩いていました。歩いているときもう一人の方が、共に歩いてくださり、二人の弟子たちに、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光にはいるはずではなかったか」と聖書全体を説き証します。心がにぶくなった弟子たちをおいて、イエスはさらに進もうとされますが、弟子たちが引き留めて、食卓を共にします。聖餐にあずかるのです。その時、パンを裂かれているのは、復活されたイエスだと二人の弟子たちは分かります。内村鑑三の娘ルツ子も聖霊を受けたように、弟子たちも聖霊を受けたのです。 「どんな人でも、聖霊によらなければ、イエスを主だといえません。」復活のイエスとの出会いは、私たちを根本的に変革します。人生に絶望している人間でも、復活のイエスに「助けてください!」と心から叫ぶのなら、私たちの人生に根本的な変革が与えられるのです。イエス・キリストは死に勝利したように、私たちも死に勝利するのです。