2016年3月27日日曜日

2016年3月13日

2016年3月13日 主日礼拝説教要旨
  「人間さん、今日は!」金田義国牧師
           (アメリカ・サンディエゴ)
  (ルカによる福音書19章1〜10節)

 イエスは本当に特別な方でした。そこらの街を歩き回っておられる時、ありふれた平凡な人々、乞食たち、子どもたち、社会からののけ者、貧しい人々、金持ちの人々も、まるで王様、その人のお人柄、人格をそのまま重んじて、大切な人間として接しられました。ザアカイもそうでした。ザアカイは徴税人の頭でエリコと言う街の大の嫌われ者。大金持ちでしたがローマ帝国のために人々の血税を絞り取るのですから街一番の憎まれ者でした。イエスがエリコに来られると聞き、背が低かったので、大きな木に登ってイエスを見ようとしました。
 イエスは木の上にいるザアカイを見て言われます。「ザアカイさん、急いで降りて来なさい。今日はあなたの家に泊まる事にしているから」。さあ、ザアカイはびっくり仰天します。「私の家に泊まって下さるのですか?何と光栄な。私のような街の嫌われ者をわざわざ選んで、お客さんとして泊まって下さるとは」。街の人たちもびっくりします。なぜ、イエスは嫌われ者であり罪人のザアカイの客tなるのか納得がいきません。
 しかしこれがザアカイにとっては大きな転換点となります。彼はもう嬉しくて嬉しくて、心の底からイエスの言葉と行動に感激したのです。彼はすっかり興奮しきって言い切ります。「先生、私は自分の財産の半分を貧しい人々に施します。もし、不正な取り立てをしていましたら、それを4倍にして返します」。金持ちが自分の財産の半分を寄付する、もし不正をしていたら4倍にして返すと言っているのですから、これは大変な犠牲です。
 一体何がザアカイにこれほど大きな犠牲を払ってまで、そこまでの大きな喜びを表すきっかけを作ったのでしょうか。お金や財産を神様として拝んでいる金持ちが救われるのは不可能です。しかしザアカイはイエスに救われました。「俺はどうせ町中の嫌われ者だ。そんなに俺を見下げるなら、ますます金を貯めてやろうと思っていた。けれどイエス様は違った。先生は俺を初めて人間扱いしてくださった。『木から降りて来なさい、今日あなたの家に泊まるから』、とイエス様は俺を人間として扱ってくださった」。これです。「人間さん今日は」。地獄から天国に変わる言葉。これが福音、よき音ずれなのです。

2016年3月22日火曜日

2016年3月6日

2016年3月6日 主日礼拝説教要旨
  「群衆がかわいそうだ」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書8章1〜10節)

6章の5千人の給食物語と今日の8章とは類似点が多いのですが、8章19節でイエスが弟子たちを叱る場面があるところを見ると、明確に別のこととして語られていることが理解できます。それではどこが違うのでしょうか。5千人の方はガリラヤ地方ユダヤ人い対して行われた奇跡物語なのに、こちらは「異邦人の地」で異邦人に対しておこなわれたものだと推測できます。それは弟子たちの「冷淡さ」です。非常に淡白に描かれているのです。
弟子たちはここは異邦人の地なのだから、自分たちは関わりたくないという思いに支配されていたのです。救いの対象外だという思いが強かったのです。全く弟子たちは愚かです。
しかしここでマルコは、この弟子たちの「信じ難い愚かさ」を強調しているのです。愚かというのは何も考えていないと云うことはなく、本当に考えなければならないことを忘れているということです。私たちも大切なことをすぐにわすれてしまう時があります。日常生活の中で神が私たちをどんなに愛しておられるかということさえ。
2〜3節で群衆からでなくイエスの方から一人一人をご覧になって配慮されたということに注目しましょう。「群衆がかわいそうだ」と云われるのです。それはイエスの深い情愛を示す言葉で「内臓」という意味を語源にもつ言葉です。イエスは群衆を憐れみ愛しておられるのです。
私たちがこの物語を読む時、弟子の立場に身を置いてしまいがちですが、実は私たちは憐れみを受け、愛されているのですから群衆の一人ではないでしょうか。何の資格もない貧しい私たちを神は愛してくださっているのです。この奇跡が「人里離れたところ」、つまり「荒野」です。疲れ果ててしまった時、魂が飢え渇いている時、食べ物のないと思えるようなところでも、神はマナを与えることが出来るお方です。主があなたを愛しておられるが故に、必要な力、知恵、人、道を必ず備えて下さいます。それがイエスが命がけで人々に教えて下さった福音なのです。残されているレントの時間、主の苦しみと受難を、この身に覚えて歩みたいものです。

2016年3月14日月曜日

2016年2月28日

2016年2月28日 主日礼拝説教要旨
  「開け!(エッファタ)」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書7章31〜37節)

 ここに聴力に障がいがあり、話すことが充分でない人がいます。聞こえない、話せないということはコミュニケーションが困難だということですが、機能的に限らず意味を考えるならば孤独に悩む私たちの姿に重なります。
 イエスの前にこの人は連れて来られ、イエスは人々から彼を切り離し、1対1になります。そこで奇跡が行われるのです。指を耳に入れ、唾をつけて舌に触れられることで聞こえるようになれという行為でしょう。唾は癒す力があると考えられていたのです。
 しかし注意する点は、ここでこの人が完全に癒されたのではないということです。イエスはここで、先ず天を仰ぎ、深く息をつく「ため息」をついたという行為です。ため息には、よく疲れた時にため息をつきますが、もう一つは、大切なことを全力でやり遂げた時です。イエスが癒しを行う時にため息をつく、それは人のために全力を尽くしたということでしょう。全身全霊を込めた祈りを行ったということですし、機能回復だけを願ったのでなく、この人の生涯を覆っていた苦難への共感が伴っていたのです。イエスはこの人の生涯を全身で受け止め、全身全霊で共感し、体の中から絞り出すように祈り、天の力を求めて癒しを行われたのです。
 この男性が癒されたのは、「エッファタ」という言葉によるものだけでなく、機能として聞くこと話すことに、さらに生きる根拠を与えられたということです。神に愛されているという根拠です。
 イエスは常に私たちが話せる、聞こえるようになるために全身全霊をもって臨んで下さるのです。神の言葉を聞き、語るために、そして隣人の言葉を聞き語り合うためなのです。さらに神の全身全霊を用いて私たちが本当の友となるために全力を尽くして下さったのです。この人はその愛を人々に語りました。口止めされてもなお語りました。それくらい抑え切れない衝動だったのです。
 私たちも、今本当の言葉、本当の友人、本当の愛を与えられている者として証ししていきましょう。

2016年3月10日木曜日

2016年2月21日

2016年2月21日 教区交換講壇礼拝 説教要旨
  「今を生きる」(能登川教会) 谷香澄牧師
   (コヘレトの言葉3章1〜11節)

 ギリシャ語にはクロノスとカイロスという時間を表す言葉があります。クロノスというのは時計などで計ることができる、人間が時計を発明して作り出した人間の時間です。カイロスは、人間が作ったり、管理したりすることができない時間です。管理するのではなく、いつ訪れるか分からない時を待つこと、見極めること、それがカイロスという時間を生きることです。クロノスが人間のつくった時間であることに対して、カイロスは神が備えてくださる時間だと言えます。私達は、先のことを見越して色々な計画を立てます。ところが、必ずしも計画通りにことが運ぶとは限りません。むしろ、思いがけないことが起こってきたりします。コヘレトは言います。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」つまり、人生の出来事は、全て起こるべくして起こっている、というのです。私達の人生において、偶然と言うことはありません。なぜなら、全ては神の計画に従って起こっているからです。
しかし、この定められた時を、自分の自由にならないといって嘆くのか、それともここには神の配慮があると見るのかでは、大きな違いがあります。人生は一度きりであり、やり直しが利きません。二度と帰ってこない大事な時です。しかも、神の計画のうちに備えられた時なのです。自分で自分の人生の意味を見出せないとしても、そこには神が与えた人生の意味がある。どんな時であったとしても、私たち自身でも意味を見いだせないと思う時でさえ、ちゃんと意味があるのです。コヘレトの言葉は、「コヘレトは言う。なんという空しさ。なんという空しさ、すべては空しい」という言葉で始まりますが、神を見出した人の生涯は、決して空しくなりません。神もいなく、何の計画もない中での苦しみならば、私たちはどっちの方向を向けばいいのかも分かりません。しかし、神のなさることの全部はわからなくても、神の計画の中に生きていることが分かっているならば、私たちは神の方を向いていけばいいということになります。神は私たちにこれからどんな時を用意されているのか。時宜にかなった、美しい時を用意してくれているはずです。そのことを信じて、委ね、希望を持って生きていきたいと思います。

2016年3月2日水曜日

2016年2月14日

2016年2月14日 主日礼拝 説教要旨
  「信じる力」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書7章24〜30節)


 ティルスは地中海沿岸の町で、イスラエルにとっては異邦の地です。ユダヤ人は異邦人と接触を嫌うはずなのにイエスはむしろ自分からティルスに向かうのです。ユダヤ人から離れるということが目的だったのです。イエスは傲慢で頑なな人間に疲れ果ててしまったのではないでしょうか。
 そのティルスでイエスは一人の異邦人女性と出会います。この人は母で病気の娘をなんとか直して欲しいと願っています。そこには、その女性の心に起きた明らかな変化が書かれています(マタイにある記事も参照、15:21から)。両方合わせて読むと意味がよく解ります。初めは苦しんでいる「娘」を助けてくださいという考え方であったが、次に娘が問題ではなく「わたし」
を助けてくださいと願い問題は自分にあるという様に変わっています。
 私たちも様々な問題に出会うとその原因を人に求めやすい。ここに出てくる女性もその原因は自分にあり、自分が救われるのが一番大事であると気づく。イエスが示されている点もここなのです。キリスト教信仰は徹底的に個人主義でなければならないのです。キリスト信者である私たちは人に対して配慮するあまり、自分のことをおろそかにしやすい。しかし、私たちは自分自身の救いに徹し切ることが大事だと思うのです。
 イエスはその母の姿に感動するのです。疲れ果てたイエスにとってこの母こそ神の啓示であったに違いありません。疲れ果てた者を力づけるのはなんでしょうか。それはだれかが支えてくれるという信頼なのです。イエスはひれ伏す母の姿を見て大切なことはなんであるかということを確認したのではないでしょうか。母の姿は無限に広がる子どもへの愛です。そして、その母の愛よりも深く広い愛がイエスによって注がれています。人間一人一人に注がれているのです。
 この現実の中に、策謀渦巻くユダヤの中にも、いや、そこにこそ神はおられるのです。その確信を得てイエスは再び宣教の現場ガリラヤへ帰って行かれるのです。ぶれることのない信じる力をみにつけましょう。