2024年4月27日土曜日

2024年4月21日

 2024年4月21日 復活節第4主日礼拝説教要旨

「あなたならできる」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 21:15-25節

 食品をこの氷温域に設定することによって、おいしく安全に貯蔵したり加工したりする氷温技術は、山根昭美農学博士の失敗によって発見され研究が進んだ技術です。機械が故障し、4トンの二十世紀梨がマイナス4度で保存をされたのがはじまりです。

 キリスト教の一番の特色は、失敗者によって広められた宗教だということです。イエスさまのお弟子さんたちはみんなイエスさまを裏切った失敗者でした。

 ペトロはイエスさまから「わたしを愛しているか」と問われたとき、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。ペトロは「はい、主よ、わたしはあなたを愛しています」と答えませんでした。ペトロは「わたしが愛している」とか「わたしがどうである」ということよりも、「イエスさまがどうである」「イエスさまがご存知である」ということを自分の生きていく拠り所としたのです。自分がどうするこうするということから、イエスさまに自分をお委ねする生き方へと導かれていったのです。

 イエスさまはそういうペトロに、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。イエスさまは自信を失っているペトロを励まされました。「ペトロ、あなたにはできる」という気持ちを込めて、「わたしの羊を飼いなさい」と言われたのです。

 私たちは人生においていろいろな失敗をします。「こうしたらよかった」とか「ああしたらよかった」とか思います。「おれはだめなやつだ」「わたしはだめな人間だ」。そんなふうに思えるときがあります。どんなに計画をたててやったとしても、人間のすることですから、やっぱりいたらないことがあります。「こうしたらよかった」「ああしたらよかった」というのは、人間の常なのです。でもやっぱり失敗すると落ち込んだり、自信がなくなったりします。そして次の一歩が踏み出せないときがあります。

 でもイエスさまは「だいじょうぶなんだ」と言われます。「あなたはだいじょうぶ。あなたならできる。わたしが共にいるから」。イエスさまはそう言って、私たちを導いてくださっています。使徒ペトロに「わたしの羊を飼いなさい。あなたにはできる」と言ってくださったイエスさまは、私たちにも「あなたならできる」と言ってくださっています。イエスさまは私たちを導き、私たちを励まし、そして私たちを用いてくださいます。イエスさまの招きに応えて、安心して歩んでいきましょう。


2024年4月19日金曜日

2024年4月14日

 2024年4月14日 復活節第3主日礼拝説教要旨

「未来を拓く」 内山宏牧師

  ルカによる福音書 24:36-49節

 イースターの賛美歌を一つ選ぶなら、こどもさんびかの「イースターのあさはやく」を選びます。各節にある「じゅうじかでしんだ/あのイエスさまが」という言葉が、共に生き、神の愛を伝えたのに、十字架の死によってもう会えない、「あの」イエス様が本当によみがえられたという驚き、喜びを表します。

 2番では、十字架の出来事に絶望し、エマオへ向かう二人の弟子の物語が歌われます。共に歩み始めた復活の主に、二人は心を塞がれ気づきませんが、食事の席で「あのイエスさま」に気づきます。この物語に続くのが今日のみ言葉です。二人の弟子が、使徒たちにこの出来事を話していた時に、復活の主が現れます。「あなたがたに平和があるように」と挨拶され、御自身であることを示されますが、弟子たちはうろたえます。その弟子たちにイエス様がなさったことがおもしろい。「何か食べ物があるか」と言われ、差し出された魚を食べられました。おいしそうに魚をむしゃむしゃと食べるイエス様を想像します。

 イエス様のユーモアです。ユーモアは、人が行き詰まった時に、肩の力をぬき、本来の力を取り戻す力があります。昔読んだ話ですが、野球の試合が進み、一発逆転されそうなピンチを迎えます。コントロールを失ったピッチャーに、監督はタイムを要求して伝令を送り、一言伝えます。ピッチャーは落ち着きを取り戻し、危機を乗り越えます。みんなが不思議がって監督に聞くとこう言ったそうです。「たかが野球じゃないか」。叱咤激励ではなく、この一言がピッチャーの力を取り戻させます。これがユーモアです。イエス様のユーモアがこのように戸惑う弟子たちを回復させます。

 この物語は、10章の「七十二人を派遣する」という話を念頭に記されたと言われ、言わば復活の主がそれを再現したことになります。ここに二つの意味があります。一つは、十字架の出来事によって破れた関係を取り戻し、共同性を回復することです。第二は、回復された共同体がどこに向かうかを示すことです。弟子たちを宣教へと送り出す備えです。過去を修復し、未来を拓きます。

 もう一つ、復活の主と再会しながら、うろたえる弟子の姿に私は慰めを感じます。人生においても、戸惑い、恐れ、うろたえることがあります。いつも元気とはいきません。けれども、それで良いと思います。イエス様は私たちにも弟子たちと同じようにしてくださるからです。み言葉によって、あるいは他者の言葉や行動かも知れませんが、それぞれにふさわしいあり方で、私たちを回復し、未来も拓いてくださいます。弟子たちの物語は、私たちの物語です。


2024年4月13日土曜日

2024年4月7日

 2024年4月7日 復活節第2主日礼拝説教要旨

「平安をもたらす神さまの聖霊」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 20:19-31節

 荒木優太の『サークル有害論 なぜ小集団は毒されるのか』(集英社新書)は、なんとも挑戦的なタイトルです。「一人ひとりは心優しい人間だとしても、全てのメンバーが互いをよく知っている小規模で親密な集いには、親密でよく通じ合っているが故に発生してしまう「毒」がある。その集いは人々の間のミクロな違い、その隙間に巣くうコミュニケションによって「有害な小集団」と化し、わたしたちを日々毒す」(表紙裏)とあります。人の集りというのは、なかなかむつかしいもので、良い人たちの集りであっても、なんかうまくいかず、疲れたり、傷ついたりする出来事に出会うということがあります。

 イエスさまのお弟子さんたちの集まりも、ときどきぎくしゃして、互いに対立したりしています。それでもイエスさまを慕って集まり、イエスさまについて歩んでいきます。しかし最終的に、イエスさまが十字架につけられたとき、みんなイエスさまを裏切って逃げ去ったわけです。ちりじりになって逃げてもよさそうなものであるわけですが、なぜかひとところに集まります。そして一つのところに集まりながらも、自分たちはイエスさまを裏切ったという暗い影に脅えていました。

 そうした不安を抱える弟子たちのところに、イエスさまはきてくださり、弟子たちの歩むべき道を示してくださいました。それは聖霊を受けて、神さまを信じて生きるということです。イエスさまは弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言われました。そして互いに赦しあって生きることの大切さを示されました。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。もしかしたら誰かが自分を裏切るかも知れない。そのような疑心暗鬼な気持ちに包まれている弟子たちに、イエスさまは赦しあって生きることが大切だと言われました。だれかから赦すことができないという思いになるようなことを受けたとしても、赦しあって生きていきなさい。確かな気持ちをもって、自分が人生の主人公として生きていきなさい。あなたが罪を赦したら、その罪は赦されるのだ。いつまでも罪に囚われるのではなく、あなたが罪を赦し、あなたが人生の主人公として生きていきなさい。そのようにイエスさまは言われました。

 赦しあい、助け合い、神さまの聖霊を信じて、健やかに生きていく。復活されたイエスさまは、私たちにそのように呼びかけ、「あなたがたに平和があるように」と、私たちを祝福してくださっています。


2024年4月6日土曜日

2024年3月31日

2024年3月31日 復活節第1主日礼拝説教要旨

「イースター、穏やかな日常へ」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書28章1-10節


 イースター、おめでとうございます。

 よみがえられたイエスさまは女性たちを通して弟子たちに「ガリラヤで出会う」ということを伝えます。ガリラヤというところは、イエスさまや弟子たちの多くの出身の町です。弟子たちはイエスさまにガリラヤで出会い、そしてイエスさまと共に歩みます。イエスさまが十字架につけられるときに、弟子たちは逃げ出してしまいます。しかしイエスさまがよみがえられたあと、弟子たちはまたガリラヤから新しく歩み始めるのです。

 ガリラヤは弟子たちがイエスさまと出会った場所というだけでなく、「異邦人のガリラヤ」と言われる地域でした。「異邦人のガリラヤ」という言い方は、その地域に住んでいる人たちに対する蔑みの言葉であるわけです。「ガリラヤからすばらしい人が出るはずがない」というような言われ方をするのが、ガリラヤでありました。そうしたエルサレムという中心から離れた地域がガリラヤであるわけです。ガリラヤはまた貧しさを抱え、蔑みを受けるところでありました。イエスさまはそのガリラヤで、復活のあと、弟子たちに会われたのでした。

 ガリラヤの地もいろいろな問題や課題を抱えるところでありました。それは私たちの生きている世の中や、私たちの生活でもあることです。私たちも生活の中で、いろいろな悩みや困難に出会います。そういう意味では、私たちの生活しているところも、ガリラヤであるわけです。すべてのことがうまくいっているわけでもないですし、私たちにとって不都合なことも起こります。ひとから誤解を受けるようなこともありますし、ひとから傷つけられることもあります。さみしい思いをすることもありますし、また自分が人を傷つけてしまい、そのことでまた自分自身が傷つくというようなこともあります。そういう意味では、私たちの生活しているところも、ガリラヤであるわけです。

 イエスさまはいろいろな問題や課題があるガリラヤで、よみがえられたあと、弟子たちに会われます。いろいろなことがあるけれども、しかしその場所からまた新しい思いになって歩み始めることを、イエスさまは望んでおられます。

 私たちの毎日の生活の中で、イエスさまは私たちに伴ってくださり、私たちの歩みを支えてくださっています。

 イースター、弟子たちがガリラヤに帰ったように、私たちもまた穏やかな日常に帰っていきたいと思います。イエスさまが私たちの歩みを導いてくださいます。よみがえられたイエスさまと共に、健やかな歩みをしていきたいと思います。


2024年3月29日金曜日

2024年3月24日

 2024年3月24日 受難節第6主日礼拝説教要旨

「背筋を伸ばして、胸をはって」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 18:1-11節

 イエスさまはこの聖書の箇所で、「わたしである」と二度言われます。「わたしである」という言葉は特別な言葉です。ギリシャ語の「エゴー・エイミー」と言われる言葉です。この言葉は、聖書の中では特別な言葉とされ、神さまが自分のことを人間に表わすときの言葉とされています。「神顕現」の言葉とされています。そうした特別な言葉であるので、イエスさまを捕らえにきた手下たちは、後ずさりして倒れるわけです。イエスさまは自分を捕らえにきた人々に、「わたしである」と言われ、自分が逃げも隠れもしないことを宣言されます。イエスさまは「わたしである」と言いつつ、背筋を伸ばして生きています。誰の前にも恐れることなく、神さまの御心に従って歩まれます。

 だれの前にもしっかりと立って、自分が自分であることを宣言するということは、とても大切なことです。だれの前でも「わたしである」と言えると良いと思います。しかし私たちは人間ですから、何か都合の悪いことができると、そこから逃げてしまいたいというような思いにかられるときがあります。人をごまかし、自分をごまかして、逃げてしまおうとするときというのがあります。

 最近、わたしの見たテレビドラマに「セクシー田中さん」というドラマがあります。このドラマの「背筋を伸ばして生きていく」という設定は、とてもすがすがしい気持ちを、わたしに与えてくれました。

 わたしはクリスチャンに大切なことは、「胸をはって生きていく」ということだと思っています。もちろん私たちは人間であり、罪人ですから、こころのなかに邪な思いをもちますし、またじっさいに悪いことをしてしまうということがあります。神さまの前にふさわしくないものであることは、重々承知であるわけです。しかしそんな私たちを愛し、私たちの罪を赦し、私たちを祝福してくださる神さまがおられるのです。「安心していきなさい」と、私たちを励まし導いてくださる方がおられるのです。ですから、私たちは背筋を伸ばして、胸をはって生きていきたいと思います。自分により頼んで生きるのではなく、神さまに、イエスさまにより頼んで生きていきたいと思います。

 棕櫚の主日を迎え、受難週に入りました。イエスさまが私たちの罪のために十字架についてくださいます。私たちの罪を担い、私たちを新しい命へと導いてくださるために、イエスさまは十字架についてくださいます。神さまの、イエスさまの深い愛を信じて、背筋を伸ばして、胸をはって歩みたいと思います。


2024年3月23日土曜日

2024年3月17日

 2024年3月17日 受難節第5主日礼拝説教要旨

「一粒の麦」 森田喜基牧師

 ヨハネによる福音書 12:20-26節

 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。」イエスがなぜこのタイミングでこれを語られたのでしょうか。エルサレム入城で大歓迎を受け、フィリポとアンデレにギリシア人たちがイエスに会いたいので仲介してほしいと頼んできた時、彼はどれほど嬉しく、また誇らしかったでしょうか。ところがイエスは彼らの喜びや大きく膨らんだ期待を一蹴するかの如く、語り始めたのです。それがこの一節です。通常「一粒の麦」が「死んで」芽が出たとは言わず、「芽を出した」と言うでしょう。しかしイエスは、あえて「死」という言葉を用いて、ご自身の十字架の上の死を重ねて語られました。ここで「一粒の麦」が語られた理由は、これから歩まれる十字架への道が、弟子たちの抱く期待、人々の歓声とは全く違う方向に向かうものだったからです。多くの人々がイエスを歓迎し、期待する時、弟子たちはその人々の期待をイエスが裏切らないように望みました。イエスが弟子の足を洗われた際、ペトロは「私の足など決して洗わないでください。」と人々に仕える模範を示されたイエスを拒みました。ヨハネ福音書4章には、イエスとサマリアの女との交流が描かれますが、この女性との関わりは、ユダヤ人からは受け入れがたいものでした。イエスの歩みは、人々の期待に必ずしも沿うものではなく、むしろ受け入れがたい方向へと進み、皆から歓迎され、尊敬される立場に執着し、留まることをされませんでした。それが正に十字架への道であり、そのお苦しみの中で、イエスは皆から拒絶され、その結果、孤独の中に生きる人々と寄り添われたのです。ここに希望があります。25節「自分の命を愛する者は、それを失う」とは、自分の大事にしているものを手放さず、執着する生き方であり、神に支えられて生きよというメッセージに、自分を委ねることのない生き方です。26節「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」十字架へと歩まれたイエスの生き様に学びつつ、私たちが今、誰と出会い、誰と共に生きることが、真の命、永遠の命に生きることなのか、改めてこの受難節に自らの歩みを見つめたいと思います。そしてまた私たちがどんなに挫折し、苦悩することがあっても、一粒の麦として十字架の道を歩まれ、そして復活されたイエス・キリストが、私たちの前を十字架を背負って歩んでおられ、共にいてくださることに、全てを委ねて歩んでまいりましょう。に出会う歩みへと招かれたい。


2024年3月15日金曜日

2024年3月10日

 2024年3月10日 受難節第4主日礼拝説教要旨

「わたしもイエスさまに香油を塗りたかった」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 12:1-8節

 歴史学者である中島岳志は、『「利他」とは何か』という本のなかで、近代・現代社会は人間の意志によってすべての行為が行われているということが強調されすぎていると言います。しかし私の意志とは思えないような思いに駆られて、このことをしたいと思うということがあるわけです。「ヒンディー語では、「私はうれしい」というのは、「私にうれしさがやってきてとどまっている」という言い方をします。」・・・。「私はあなたを愛している」というのも、「私にあなたへの愛がやってきてとどまっている」。私が合理的にあなたを解析して好きになったのではなく、どうしようもない「愛」というものが私にやってきた」。

 マリアが香油をイエスさまの足にぬったのをみて、イスカリオテのユダがマリアを叱ります。人の家のお金に使い方について、どうこういうというのは、現代であれば控えるべきことであるような気もします。しかしイスカリオテのユダの言った「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」という言葉も、そんなにおかしなことでもないような気がします。合理的な正しい意見のような気がします。

 しかし正しい意見であるからこそ、そこに愛がないことに配慮をしなければならないのだと思います。イスカリオテのユダの言ったことは、正しいけれども、愛がないのです。そしてまた先のことは、私たちにはわからないのです。イエスさまが十字架につけられたあと、みんなあとから思ったのです。「ああ、あのとき、マリアがイエスさまの足に香油を塗ってさしあげて、葬りの備えをしてあげることができて、ほんとによかったよね」。そのようにみんなあとから思ったのです。「わたしもイエスさまに香油をぬってさしあげたかった」とみんな思ったのです。「合理的に考えるとなんかちょっと変だよねと思えることだったし、イスカリオテのユダがそのことをはっきりと口に出して、マリアを叱ったけど、でもなんかマリアは何かに突き動かされるように、イエスさまの足に香油を注いだんだよね。いまから考えると、あのとき、マリアがイエスさまに香油を塗って差し上げて、ほんとによかったよね。神さまの導きとしか思えないね。聖霊の働きだよね」。

 私たちもまたイエスさまに仕えるマリアであるのです。イエスさまのために良いものをおささげしたいという思いをもっています。自分の思いとも思えないほど、きれいな思いが私たちのこころのなかにあるのです。神さまが私たちにくださる愛による思いなのです。神さま、どうか私たちを、あなたの良きことのために用いてくださいと祈りつつ、このレント・受難節のときを過ごしたいと思います。


2024年3月3日

 2024年3月3日 受難節第3主日礼拝説教要旨

「人は去っても、われらは信ずる」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 6:60-71節

 私たちの教会が属しています日本基督教団は、1941年6月24日に30数教派の教会の合同によってできました。アジア・太平洋戦争の時代です。日本基督教団は国家による宗教団体管理の流れのなかで、国家によって合同させられたという面があります。ナチス・ドイツまたもドイツの教会を国家の管理下に置こうとしました。そうしたなかでこうした国家主義的な教会の動きに反対する告白教会と言われるグループが出てきます。告白教会の人々は迫害にさらされながらも、ナチス政府を批判し、神さまの言葉に教会が固く立つことを求め続けました。

 ヨハネによる福音書は、ヨハネの教会がとても大きな危機的状況の中にあるときに書かれてあります。ユダヤ教から異端として追放されるという状況の中で、自分たちの信仰を確立するか、あるいは会堂から追放されることを恐れてユダヤ教にとどまるのかということが問われたのでした。そして実際にヨハネの教会に残る者とヨハネの教会から去っていく者が出てきました。

 信仰というものは、とても不安定なものです。イエスさまから離れていかないような強い人には、信仰は必要ないのです。イエスさまから離れていく弱い者に、信仰は必要なのです。でも弱い者が持っている信仰ですから、その信仰は強いものではないでしょう。私たちは使徒ペトロのように信仰を告白しながらも、一方で自分の中にイスカリオテのユダを抱えて生きているわけです。私たちは「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と告白しながら、心の中にイスカリオテのユダを抱えているのです。しかしもう一方で、私たちは「イエスさまから離れたくはない」という思いを持っています。この弱い信仰しかもっていない、弱く惨めなわたしを救ってくださる方は、イエスさましかおられないという思いを持っています。

 ヨハネによる福音書は「人は去っても、われらは信ずる」という信仰に立って書かれています。しかしそれは自分たちがりっぱな信仰をもっているということではありません。「わたしはりっぱな人間だから、たとえ人は去っていっても、わたしはイエスさまを信じます」ということではありません。「自分は弱く惨めな者で、自分の中には確かなものなどない。だからこそ、永遠の命の言葉をもっておられるイエスさまにすがるしかないのだ」ということなのです。

 信仰生活の中で私たちは自分たちの信仰の弱さに出会います。ちっぽけな信仰しか持ち合せていない自分に出会います。しかし弱く惨めな私たちだからこそ、イエス・キリストは私たちを憐れみ、御手でもってしっかりと支えてくださっています。イエス・キリストを信じて、この方により頼んで歩んでいきましょう。


2024年3月2日土曜日

2024年2月25日

 2024年2月25日 受難節第2主日礼拝説教要旨

「わたしに注がれる神さまの愛がある」 小笠原純牧師

 ヨハネによる福音書 9:1-12節

 青木優牧師は、ヨハネによる福音書9章3節の御言葉に出会い、クリスチャンになり、牧師になりました。「ただ神のみわざが彼の上に現れるためである」。青木優『行く先を知らないで』(日本基督教団出版局)の中にかかれてあります。「私は、イエスが「お前の失明を通して、お前でなければなしえない神の仕事をするのだ」と語りかけておられるのを感じた」(P.32-34)。

 私たちの生きている日本社会は、ここ数十年、ゆとりがなくなり、自分のことだけを考える人たちが増えてきました。自己責任ということが過剰に言われるようになり、弱い立場の人たちを攻撃して、悪者探しをするようなことがよく行われました。悪者を探し続けましたが、あまり良い社会になりませんでした。

 イエスさまのお弟子さんたちは、生まれつき目の見えない人を見て、イエスさまに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と言いました。弱い立場の人を見て、その人や家族の人たちに罪を見いだそうとして、自己責任の世界にありがちな、犯人探しをしたわけです。

 しかしイエスさまは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われました。私たちの神さまは、困っている人や立場の弱い人たちをおとしめたりするような社会を望んでおられるはずがない。神さまは愛に満ちた方であるから、困っている人や立場の弱い人が健やかに生きていくことができるために、私たちをお遣わしになっているのだ。「神の業がこの人に現れるために」、だれしも神さまの愛の内を歩んでいて、神さまの業がその人のうえに働くのだ。私たちはだれも神さまの愛の中に生きている。すべての人に神さまの愛が注がれているのだ。そのようにイエスさまは言われました。

 いろいろな出来事の中で、不安になったり、行き詰まったりすることが、私たちにはあります。「どうしてわたしがこんな目にあわなければならないのか」。そうした出来事に、私たちは出会うことがあります。神さまの祝福から、わたしは外れているような気がする。そうした気持ちにさえなることが、私たちにはあります。

 しかし生まれつき目の見えない人が、イエスさまによっていやされたように。イエスさまから「神の業がこの人に現れるためである」と声をかけられたように、私たちにもまた神さまの愛が注がれているのです。

 わたしに注がれる神さまの愛があるのです。恐れることなく、神さまを信じ、神さまを信頼して歩みたいと思います。神さまを見上げつつ、こころ平安に歩んでいきましょう。


2024年2月24日土曜日

2024年2月18日

 2024年2月18日 受難節第1主日礼拝説教要旨

「罪人らしく連帯しようよ」 熊谷沙蘭牧師

 ルカによる福音書 16:1-13節

 神学者のケネス・E・ベイリーはこの箇所の直前にある「放蕩息子のたとえ」と重ねて読むことができると解釈しています。「不正な管理人のたとえ」と「放蕩息子」にはいくつもの共通点があります。1つ目は身勝手な人が登場して、それを驚くほど寛大に受け止める人がいること。2つ目はお金を浪費する人が登場すること。3つ目は、お金を浪費した人はそのことを父や主人に受け止めてもらうことで新しい道が切り開かれていくこと。4つ目は、お金を浪費した人の運命は父や主人が握っており、父や主人の憐れみにすがることによって生きることができていることです。

 このたとえは、主人が神を表し、管理人が人間を表しています。管理人は主人のお金を横領して好き勝手している姿は、神から与えられているものを好き勝手して生きる人間の姿です。断罪される時が来た時に、不正な管理人は真剣に生き残る道を考えました。その生き残りを賭けた方法が他者の借金を棒引きするという驚くべき方法でした。借金は神への罪を表します。好き勝手してきた人間は生き残るために、他者の罪を勝手に赦すという、他者と共に連帯して生きていく方法を取るのです。決して褒められたやり方ではないですが、好き勝手な生き方をしてきた人間がここでようやく、誰かと共に生きる道を探し出すのです。主人(神)はその方法を褒めました。罪深い人間の打算的な行動であっても、他者と共に生きるという道を神は褒められたのです。

 私たちが神を信じて生きることも、不正な管理人と同じではないでしょうか。「隣人を愛せよ」と言われるイエスの言葉を、どこか打算的に自分の保身を計算しながら行おうとします。また自分も罪深い人間でありながら、人の罪を赦してあげようとします。私たちはどうやってもイエスの憐れみにすがらなければ、信仰を持って生きていると言える人間ではないのです。私たちが誰かと共に生きるということは、打算も身勝手さも引きずりながら、それでも神様、互いを助け合い生きていきますよと神の前に立つことなのではないでしょうか。美しくも綺麗でもないこの姿を神は褒められています。そこにこそ神の救いと憐れみが表れているのです。

 罪人であることは開き直ることでも、諦めることでもありません。互いが神・イエスの憐れみを得て生きるということなのです。信仰生活とはそのことを通して他者と連帯していくことなのです。


2024年2月17日土曜日

2024年2月11日

 2024年2月11日 降誕節第7主日礼拝説教要旨

「小さきわたしを用いられる神さま」 小笠原純牧師

 ヨハネによる福音書 6:1-15節

 美学者の伊藤亜紗は初めてアイマスクをして伴奏者と走る経験をすることによって、人を信頼することがなんと気持ちの良いことであるのかということと、そしていままで自分がいかに人を信頼していなかったかということに気づきます。(伊藤亜紗の『手の倫理』、講談社選書メチエ)

 この伊藤亜紗の経験は、私たちが信仰ということを考える時に、「ああ、たしかにこういうことってあるよね」と思える経験です。はじめは神さまを信じ始める時、ちょっとおどおどしながら信じているわけですけれども、しかし「やっぱりわたしは信じたい」という思いで信じます。するといままでになかった安心感を得ることができます。神さまを信じて生きていくことの幸いを、私たちは感じます。もちろんときに信じられなくなったり、不安になったりすることもあるわけです。しかしそれでも私たちは神さまが私たちを守ってくださり、良き道を備えてくださることを信じて歩みます。

 この「五千人に食べ物を与える」という物語は、とても具体的な話です。悩みは具体的なものであり、そしてとても切実なものです。そして切実なるがゆえに、また「ほんとうにその望みは叶うのだろうか」という疑うこころも私たちの中に起こります。弟子たちはイエスさまの奇跡をいままで経験しているわけです。それでも弟子たちの中には、信じきれない気持ちがあります。

 しかしイエスさまは、少年の持っていた大麦のパン五つと魚二匹を用いてくださり、五千人に食べ物を与えるという奇跡を行われます。弟子たちからすれば、「何の役にも立たないでしょう」と思えるものを用いて、イエスさまは五千人の人々を満腹にされました。

 小さな者である私たちを愛し、そして私たちを用いてくださる神さまがおられます。私たちは神さまの祝福のなかを歩んでいきたいと思います。そしてまた神さまに用いていただきたいと思います。私たちのわざは小さな業かもしれません。しかし神さまは私たちのその小さなわざを喜んでくださり、私たちを豊かに用いてくださいます。神さまにお委ねして歩んでいきましょう。


2024年2月10日土曜日

2024年2月4日

 2024年2月4日 降誕節第6主日礼拝説教要旨

「神さまのお守りの中にある。」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 5:1-18節

 沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史』(岩波ブックレット)には、全国のハンセン病療養所に建てられている貞明皇后の歌碑について書かれてあります。「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて」という短歌です。国家によって隔離政策がとられ、家族から棄てられ、以前の友だちに連絡を取ることもできず、孤独を味わった人たちにとって、この歌は、慰めの歌であったのでした。

 エルサレムの羊の門のそばにベトザタという池がありました。その池にときどき天使がやってきて、池の水が動く時に、一番先に水の中に入ることができると、どんな病気であってもいやされるというふうに言われていました。そのため病気の人たちは、近くの回廊に横たわって、水の動く時を待っていました。そのなかに38年もの間、病気で苦しんでいる人がいました。

 このベトザタの池も、なかなかしんどいところです。いつ水が動くということがわかっていないわけですから、まあそれまでは病人同士で、「こうしたらちょっと痛みが和らぐよ」というような話がなされ、いたわりあいがあるのではないかと思います。でも水が動いたら、そうしたいたわりあいなどなかったかのように、我先にと水の中に飛び込まなければなりません。そうでなければ、自分の病気は治らないのです。38年間病気であった人は、38年間、自分も含めた病気の人たちの争いを見続けてきたのです。こころもすさんでくることになります。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」という彼の言葉は、そうした絶望の叫びの言葉であるのです。

 イエスさまはこの病気の人を癒やされました。安息日の出来事でしたので、ユダヤ人たちは安息日違反だと、イエスさまを非難します。イエスさまは「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と言われました。神さまは憐れみ深い方で、苦しんでいる人、悲しんでいる人を、見過ごされる方ではないと、イエスさまは言われます。あなたがいくらお祈りしても、今日は安息日なので、あなたのお祈りを聞くことができないのだと、神さまは言われない。神さまは悲しみの中にある人、苦しみの中にある人のために、いつも働いておられる。だからわたしも神さまと同じように、安息日であろうと、病気で苦しんでいる人々を癒やすのだと、イエスさまは言われました。

 私たちの神さまは、私たちの悩みや苦しみ、またやるせない気持ちをご存知です。そして私たちを愛してくださり、私たちに良き道を備えてくださいます。神さまが私たちのために働いてくださっている。このことを信じて、私たちもまた神さまの御心にそった歩みでありたいと思います。共に祈りつつ、共にこころを通わせ合いつつ歩んでいきましょう。


2024年2月2日金曜日

2024年1月28日

 2024年1月28日 降誕節第5主日礼拝説教要旨

「神の国を目指して」 老田信牧師

  マタイによる福音書 20:1〜16節

 イエスは天の国の一つのイメージをとして、「ぶどう園の労働者のたとえ」を語られました。しかし、私たちはこのたとえにつまずきます。というのも、私たちの多くがこの話の中で、夜明けから丸一日働いた人と5時から働いた人が同じ賃金であることに不公平さを感じるからです。結果、このイエスのたとえが腑に落ちず、歓迎できません。

 しかし、このたとえには次のようなことが書かれてあります。「午後5時ごろにも…人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『誰も雇ってくれないのです』と言った」。明け方から働ける人というのは、誰が見ても申し分のない働き盛りの男性であり、「役に立つ」人です。午後5時になっても雇ってもらえない人は、反対にどこの雇い人も雇いたいとは思わなかった人だということです。彼らは決してサボっていたわけではありません。

 雇い人が雇いたいと思わない人とはどのような人なのか考えてみると、障がい者、高齢者等、少なくとも働き盛りの健康な男性ではありません。つまりマイノリティです。

 マジョリティとマイノリティは、「多数派」「少数派」に加え、「特権側」と「従属側」あるいは「周辺側」という意味を持ちます。

 午後5時まで職探しに明け暮れていた彼らは、明らかに周辺に置かれた者です。イエスは中央のエルサレムではなく、ガリラヤのナザレでお育ちになり、自らもそのような存在となりました。またまずガリラヤで伝道し、周辺の人たちに向けて福音を宣べ伝えたのでした。このようにして社会が後ろに置きがちな人のところへと先に来たのです。しかし全ての人が1デナリオンをもらっているように、神は誰一人として不足な状態に追いやるのではなく、満たしています。そしてそのようなところを「天の国」と言っているのです。

 私たちはこのような神の国の実現を待ち望む者として、教会に集まっています。最も良いところとして、主イエスが示してくださっています。しかしただ待ち望むだけではもったいない。せっかく最も良いところのイメージを与えてくださっているのですから、具体化して予行演習をしたいのです。教会はそのような神の国の予行演習の場として与えられています。ぜひとも平安教会の皆さんが今の平安教会ならではの神の国を表現してください。そしてそれを多くの人と分かち合い、さらに発展させていくことが出来ますように祈りましょう。


2024年1月27日土曜日

2024年1月21日

 2024年1月21日 降誕節第4主日礼拝説教要旨

「水汲み人生に起きる最初の奇跡」 宮岡信行牧師

  ヨハネによる福音書 2:1-12節

 イエス様の奇跡は福音のしるしです。カナの婚礼はイエス様の最初の奇跡であり、同時に私たちに与えられた最初のしるしです。そもそもぶどう酒は神様の祝福の象徴であり、婚礼ではぶどう酒こそが最上の喜びでした。ところが、その婚礼でぶどう酒が無くなるという問題が起こります。その時、母マリアだけがイエス様と召使たちを仲介するように声をかけます。母マリアがイエス様にとりなしたことで奇跡の予兆が示されました。そして、これが世にある教会の働き、この地に建てられた教会の役割なのです。喜びを失う世界に教会があるのはなぜか。私たちが主日の礼拝をするのはなぜか。それは神の恵みとキリストの復活を信じる教会の喜びが、この世に神の救いを指し示す大切なしるしになるからです。

 一方で、思いがけない良いぶどう酒の登場に大喜びする宴会の世話役は、まだ天の国の喜び、救いの恵みに気付いていない人の姿です。宴会のような華やかな人生に満足しながらも、見えないものに目を注いでより善く生きるような最上の喜びを知らないのです。私たちの周りにもぶどう酒に変わった水を飲んで大喜びしてもらいたい人がいるのではないでしょうか。

 この時、召使たちが水をくんで淵までいっぱいにした6つの石の水がめはおよそ合計600㍑ほどでした。水汲みは地味で単調な作業です。その努力が形や成果にならず、どれだけ水がめに汲んでも使えば何も残りません。にもかかわらず、イエス様はぶどう酒という喜びがなくなりそうな困難な時にも、いつものように水くみをしなさいと言われるのです。誰もが何の役に立つのか分からなかったことでしょう。ところが、水を汲んだ召使いたちが宴会の世話役のところに水を運んだところ、水はぶどう酒に変わっていました。

 水がぶどう酒に変わる。この奇跡を目の当たりにしたのは、水を汲んできた召使いだけでした。思いがけない神の恵みが広がるところにいた召使いたち。彼らこそ私たち自身なのです。カナの婚礼は繰り返しキリのない水汲みのような人生に、初めて起きた神さまの祝福のしるしを語ります。誰もが楽しむ婚礼の席に、神さまの恵みを持ち込むのは私たちです。喜びが失われたところに最上のぶどう酒を運ぶのは私たちの役割です。これほど喜ばしいことがあるでしょうか。水汲み人生に最初に起きる奇跡、すなわち私たちが主イエスに呼び集められ、教会で礼拝を献げて、この世に証しを立てる、神の救いのしるしになる。この喜びを抱いて歩む者でありたいと切に願っています。


2024年1月20日土曜日

2024年1月14日

 2024年1月14日 降誕節第3主日礼拝説教要旨

「イエスさまに引き寄せられて」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 2:1-22節

 わたしの友人は高校浪人をしているときに、教会の高校生会のキャンプに誘われて、教会に来るようになりました。なんだか引き寄せられるように、教会に来るようになったのです。「高校浪人中だから、勉強をしなければならないので、教会の高校生会の夏のキャンプになんか参加できるわけがないだろう」と言っても良かったわけですが、彼は夏の高校生会の夏のキャンプに参加をするのです。そしてイエスさまに引き寄せられて、彼の信仰生活が始まるのです。

 マルコによる福音書などの、イエスさまの弟子選びの話では、「二人はすぐに網を捨てて従った」というように、弟子たちの側の信仰の勢いのようなことが語られています。信仰とは一面ではそうした、「わたしが信じる」「わたしがついて行く」という面があるわけです。使徒信条のように、「われは天地の創り主、全能の父なる神を信ず」というように、「われは信じる」のです。

 ヨハネによる福音書では、どちらかというと、弟子たちはイエスさまに引き寄せられるように、イエスさまについて行きます。アンデレは洗礼者ヨハネの弟子であったわけですが、「見よ、神の小羊だ」というヨハネの言葉を聞いて、イエスさまに呼ばれているわけでもないのに、イエスさまに従います。ナタナエルなどは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」というようなことを言っていたわけですが、イエスさまと話をして、イエスさまに引き寄せられるように、イエスさまを信じて歩み始めます。

 なんらかの出来事で、教会に来ることになり、いわゆる求道者生活を送るようになりますと、わたしは本当に、神さまを、イエスさまを信じているということになるのだろうか、というような思いにかられることがあります。「わたしが信じている」ということの問題を考えるのです。信仰とは、「わたしが信じている」ということの大切さがあるからです。しかしもう一方で、やはりイエスさまに引き寄せられているということがあるのです。言葉では説明がつかないけれども、イエスさまに引き寄せられて、教会に集い、礼拝を守ります。いつのまにか、「わたしはイエスさまのことが大好きなんだ」という思いで生きるようになります。イエスさまに引き寄せられるのです。

 イエスさまは私たちを招いてくださり、「あなたはわたしの大切な人だ。わたしを信じて、わたしについてきなさい」と、私たちに語りかけてくださっています。イエスさまを信じて、イエスさまにより頼んで歩んでいきましょう。


2024年1月13日土曜日

2024年1月7日

 2024年1月7日 降誕節第2主日礼拝説教要旨

「この方こそ、わたしがついていく方」 小笠原純牧師

 ヨハネによる福音書 1:29-34節

 マーガレット・F・パワーズという人の書いた「フットプリント あしあと」という詩があります。私たちはときとして、神さまはおられないのではないと思えるような出来事に出会うことがあります。イエスさまは共にいてくださると信じていたのに、そのように思えないということがあります。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」(「あしあと」)

 洗礼者ヨハネはヨルダン川で悔い改めの洗礼を人々に授けていました。洗礼者ヨハネは自分のあとに、救い主がこられ、そして世の罪をあがなってくださる。自分はその救い主が来られる前に、少しでもこの世を神さまにふさわしい世にするために、悔い改めの洗礼を授けている、それが自分に与えられた仕事なのだと思っていました。

 洗礼者ヨハネはイエスさまを見て、「わたしが言っていたのはこの方のことである」と言いました。ついにわたしが言っていた方がこの世に来られた。わたしはこの方のために人々に水で洗礼を授けて、悔い改めの洗礼を行っていたのだと、洗礼者ヨハネは言いました。

 洗礼者ヨハネが言いたかったことは、「この方こそ、わたしがついていく方だ」ということです。そして洗礼者ヨハネは実際にそのように生きたのです。イエスさまの前に現れていたのだけれども、しかし洗礼者ヨハネはイエスさまに従って歩んだ人でした。そして人々に悔い改めの洗礼を授けながら、「この方について行きなさい」と、イエス・キリストを証しした人でした。

 イエスさまは私たちを見捨てることはありません。私たちはそんなにりっぱな者ではないですし、力ある者でもありません。しかしそれでも私たちは心の中で、「この方こそ」「この方こそ」、「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをもっています。私たちは自分がこの方の役に立つとか、自分はこの方にふさわしいとかということとは関係なく、ただただ「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをもって、イエスさまについて行きます。

 イエス・キリストは私たちを見捨てることなく、私たちを支え、守り、導いてくださいます。私たちは2024年も、「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをしっかりと思って、イエスさまにお仕えして歩んでいきましょう。


2024年1月5日金曜日

2023年12月31日

 2023年12月31日 降誕節第1主日礼拝説教要旨

「すべての人の救いを見る」 山下毅牧師

  ルカによる福音書 2:21-28節

 クリスマスから数えて8日後の大晦日の日を迎えています。本日の聖書の箇所は、神殿で幼な子であられるイエス・キリストと主を待ち望む熱心な信徒であるシメオンが出会う場面です。この歌は<シメオンの賛歌>と呼ばれます。

 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救いを見たからです。これは万民のまえに整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

 神学者ヘンリ・ナウエンは、<シメオンの賛歌>、イエス・キリストとの出会いは大きな救いの出来事である。老人にありがちな悲観的な見方、気の滅入るような物の見方を打ち砕いてくれます。老いの訪れは、目も耳も開かれ、光に向かう道になる、と述べています。

 何故シメオンはこのような救いの確信を得たのでしょうか。それは、「聖霊」によって、神の霊に捕らえられ、神の霊によって導かれ、神の霊に支えられ、自らの救いのために、イスラエルの救いのために、全世界の救いのために、熱心に祈っていたのです。救いを見るまでは、自分は死ぬわけにはいかないと言う祈りをささげていたのです。 

 祈りは厳しい仕事です。祈りは暇人のやることではないのです。教会に生きる者皆がやることです。いやここにこそ教会の姿があります。神から救われなければ、人間は自分を救うことは出来ません。どんなに知恵があっても、だんなに科学が発達しても、救われる道はないのです。

 シメオンは幼な子を見ました。幼な子イエスという、目に見える事実となったのです。神の聖霊に導かれて、心を開かれたわれわれは、他の人々の見ない神の救いを幼な子イエスの中に見るのであります。――信じてこれを見るものにとっては、ここにシメオンが主ご自身を抱いて与えられたのと同じ、幼な子イエスの恵みにあずかるのであります。私達は、聖霊のみちびくままに、深い祈りに生きたいと思います。その祈りとひとつとなった愛に生きたいと思います。そしてその祈りに答えて、幼な子イエスがわれわれの手に与えられた事実を、年老いていようが、病んでいようが、どんな苦労の中にあろうが、信仰をもって堅く受けとめたいと思います。そして日本の救いのために、世界の救いのために、熱い祈りにひたすら走り続けたいと思います。