2022年8月27日土曜日

2022年8月21日

 2022年8月21日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨

 「イエスさまは幼子を抱き上げた」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 10:13-16節

 若井克子さんの『東大教授 若年性アルツハイマーになる』は、若井克子さんの夫の若井晋さんが若年性アルツハイマー病になり、そして天に召されるまでのことについて書かれてあります。若井克子さんと若井晋さんはクリスチャンでした。若井克子さんと若井晋さんは、若井晋さんがアルツハイマー病になったことを、ご自分たちの信仰をよりどころにしながら、その出来事を受けとめていきます。「彼は若年性アルツハイマー病になって、知識を、地位を、職を失った。世間からは「天国から地獄に落ちた」ように見えるかもしれない。だが私には、むしろ、すべて失ったことで「あるがまま」を得て、信仰の、人生の本質に触れたように感じられるのだ。 ーー若井克子」。

 人々はイエスさまのところに、自分たちの子供たちを連れてきました。イエスさまに触れてもらって、神さまからの祝福をいただこうと考えたからでした。しかしイエスさまのお弟子さんたちは、イエスさまのところに子供たちを連れてくる人たちを叱ります。

 私たちの社会は助け合いによって作られている社会です。どんな人も病気になることがありますし、小さなこどもたちは自分の力で生きていくことはできません。小さいこどものときもそうですが、年を取るとやはり自分の力だけで生きていくことはできません。しかしどんなときも、どんな人もみんな、神さまから与えられた命を生きているのです。

 子供たちのように力の弱い人たち、立場の弱い人たちを、邪魔者扱いすることは、神さまの御心に反することだ。神さまの国は子供たちのような力の弱い人たち、立場の弱い人たちのものなのだと、イエスさまは言われました。

 「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と、イエスさまは言われました。あなたたちが見習わなければならないのは子供たちだ。あなたたちはこの世の力を頼りにして、自分の力で生きていると思い込んでいるけれども、それは大きな間違いだ。あなたたちは自分の力で生きているのではなく、神さまから与えられた命を生きているのだ。だから子供たちのように、素直に神さまを信じ、神さまにより頼んで生きていきなさい。神さまはあなたたちのことを愛し、あなたたちのことを守ってくださる。

 イエスさまは子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福されました。イエスさまは私たちをも祝福してくださっています。イエスさまを信じ、私たちの社会が分かち合いの良き社会でありますようにとの祈りをもって歩んでいきたいと思います。


2022年8月19日金曜日

2022年8月14日

 2022年8月14日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨

 「塩を持ち、平和に暮らす」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 9:42-50節

 「カルメン」で有名なプロスペル=メリメは、「マテオ・ファルコーネ」という短編小説を書いています。マテオの息子のフォルトナトはかくまっていたお尋ね者を、曹長の誘惑に負けて売り渡してしまいます。マテオはそのことのゆえに、フォルトナトを殺します。「どこにいるの、あの子は」。「谷のなかだ。これからほうむってやる。あの子はキリスト教徒として死んだ。あの子のためにミサをあげてもらおう」。なかなか衝撃的な話です。

 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」。今日の聖書の箇所は、新約聖書のなかでも、際立ってすごみのある聖書の箇所であると言えるでしょう。「片手があなたをつまずかせるのであれば、片手を切り捨ててしまえ」「片足が悪いことをするのであれば、片足を切り捨ててしまえ」「片目が罪を犯すのであれば、片目をえぐり出せ」「さもないと地獄へ行くぞ」「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」。

 旧約聖書は裁きの神さま、新約聖書は愛の神さま。そんなふうに言われたりもします。イエス・キリストによって救われた私たちは、神さまの憐れみの中にいて、そして神さまの愛に包まれ、守られている。そんなふうに私たちは一般的に考えています。それは確かなことであるわけですけれども、しかし新約聖書のなかにも、今日の聖書の箇所のように、強烈な言葉が記されています。

 私たちは神さまから赦されていると思って、自分自身に対して甘いことをしてしまうことがあります。私たちは信仰生活を送っていて、「いいよ、いいよ」というふうに流されていってしまうことがあります。しかしそれぞれ、折に触れて、自分が自分自身に対して「いいよ、いいよ」になっていないだろうかと、問うてみなければならないのだと思います。

 「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」と、イエスさまは言われました。アジア・太平洋戦争のことを思い出すとき、自分自身の内に塩を持たなければ、平和を造り出すことはできないと思います。クリスチャンとしての高い志を大切にしなさいと、イエスさまは言われます。イエスさまは小さな者、弱い立場にある人たちを大切にしなければならないといわれました。しっかりとした志をもち、そして互いに責め合ったり、傷つけ合ったりするのではなく、思いやりを忘れず、平和に過ごしなさい。イエスさまはそのように、私たちを招いておられます。


2022年8月12日金曜日

2022年8月7日

 2022年8月7日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨

 「神さまの平和が来ますように。」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 9:33-41節

 今日は私たちが属しています日本基督教団が定めた「平和聖日」です。「神さまの平和が来ますように」と祈りを合わせたいと思います。

 イエスさまのお弟子さんたちは、自分たちのなかで一番偉いのはだれかというような話をしたり、イエスさまの弟子でもないのに、弟子のように振る舞う人がいてはだめだ、私たちが正統なイエスさまの弟子なのだというようなことを考えていて、なんとなく高慢になってしまっていました。

 社会学者の岸政彦は『はじめての沖縄』という本のなかで、若いとき沖縄に出会って、自分は「沖縄病」にかかっていたということを記しています。何かに夢中になると、それに取りつかれたようになることがあります。沖縄に行って、沖縄に取りつかれて、沖縄のことばかりを考えているというような感じが、「沖縄病」ということでしょう。わたしは自分自身、ちょっと冷めたところがありますから、そんなに何かに夢中になるということもあまりないので、「沖縄病」というのはうらやましくもあります。ただ「病」とついているし、岸政彦が「そうとう気持ち悪い奴だったと思う」と言っていますから、悪い面もあるわけです。それは「沖縄のことはわたしがよく知っている」「自分は沖縄の人たちの気持ちがわかっている」という過剰な気持ちになることなのだろうと思います。

 イエスさまは自分たちが正統なイエスさまの弟子なのだと高慢になっている弟子たちを諭され、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と言われました。自分はこのことがよくわかっている、自分が正しいのだと思い込むのではなく、こころを開いて、互いに力を合わせるということを考えなさい。大切なことはあなたが正しいということではなくて、困っている人や悩んでいる人が安心できるということなのだと、イエスさまは弟子たちに言われました。

 私たちは、平和を求めつつ対立したり、良き社会になることを求めつつ争っているというようなことをしてしまいます。いつのまにか「平和」さえも、自分をえらく見せるための道具にしてしまい、自分の正しさを主張するようなことになってしまうときがあります。

 謙虚な思いになって、「神さまの平和が来ますように」と祈りたいと思います。自分をえらく見せようとしたり、力でもって人をやりこめようとするようなあり方ではなく、神さまの愛を届けていくことに喜びを感じる生き方ができますようにと祈りたいと思います。


2022年8月6日土曜日

2022年7月31日

 2022年7月31日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

 「信仰の生まれるところ」 山下毅牧師

  マルコによる福音書 9:14-29節

 イエスは3人の弟子を伴って高い山に登られます。そこで復活の姿の片鱗、栄光の姿に変わられ、素晴らしい霊的な時を、弟子たちは過ごします。そして山を下りられました。山の麓には9人の弟子が待っていました。イエスが不在のときに、「てんかん」の病を抱える父親と子が訪ねてきます。弟子たちは病を癒そうとしましたが、癒せません。途方にくれる弟子たち、その周りでは律法学者、群衆がとり囲み騒いでいます。その姿をイエスはご覧になり、「なんと信仰のない時代なのか、いつまであなたがた共にいられようか。あなたがたに我慢しなければならないのか」と述べられます。――しかしイエスが使われた「我慢する」という言葉は、「受け止める」、「寄り添う」とギリシャ語で訳すことが可能です、担ってあげている、耐えている私達に対するイエスの愛は変わらないという言葉でもあるのです。イエスは弟子たち、私達の不信仰を非難しつつも、何とかしして、その不信仰から、「信仰を生み出そう」なさいます。

 イエスに対して父親は「おできになるならば、わたしたち(親子)を憐れんで下さい」と語ります。「できれば」という、父親、私達の信仰生活に、条件を付け、制限を付けてしまう不信仰に対して、「わたしを信じなさい」「信じる者には何でもできる」とイエスは言われます。イエスの信仰の信頼の中に、父親を、私どもを呼び込まれます。

 「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」この信仰の告白は、多くの信仰者が大切にする言葉です。私達は神を信じるものですが、その信仰の不完全な点に目をとめられるならば、全く不信仰な者に等しいのです。しかし神はただ寛容をもって私達をゆるし、不完全な信仰の中にある、わずかばかりの信仰の故に、私達を信ずる者と見なして下さるのです。――自分の中には不信仰しかない自分を助けてくださいと言って、自分を主イエスにすべて預けてしまうのです。信じる確かさを、主イエス・キリストの中だけに置くのです。それが信じることです。

 この後主イエスは、「てんかん」の子を癒されます、その癒しは死んだ人間の状態から甦らせていただく(復活)の徴しでした。 パウロは「てんかん」と思われる病を抱えながら、主の真実のあまりの素晴らしさに感謝しつつ伝道に命をかけました。イエスは深い痛みをかかえつつ、私達を担い、耐えて、世の終わりまで運んでくださいます。「信じます、信仰のない私たちを助けてください。」この信仰の言葉を、私どもの共通のことばとして、日々感謝しつつ歩んで行きたいと思います。