2018年12月25日火曜日

2018年12月16日

2018年12月16日 待降節第3主日礼拝説教要旨
 「沈黙の疑い」 桝田翔希伝道師
  ルカによる福音書 1:5~25節
 クリスマスを直前に控えたこの時に、聖書日課は洗礼者ヨハネの誕生が予告される場面が選ばれていました。この物語を通して、聖書は私たちに何を問いかけているのでしょうか。ここでヨハネの父親となるザカリアが、神殿で香を焚くことになったということが書かれています。私たちが読むと何でもないようなことに思えてしまいますが、当時にあって祭司は1万人から2万人もいたようで、毎日その中から一人がくじ引きで選ばれ香を焚き、イスラエルの為に祈っていたのだそうです。一度このくじに当たると、その後は二度とくじ引きには参加できなかったのだそうです。ゼカリアは年老いていたということを聖書は語っていますが、やっと巡ってきた大仕事の場面でゼカリアに神の業が臨んだのです。年老いているのに子どもが生まれ、さらにその子どもは人々を導くだろう、そう預言されました。ゼカリアは信じることが出来ず、口がきけなくなってしまいました。
 私たちが生きる社会では「言葉」はとても大切なものになっています。今起こっていることを伝えたり、自分の気持ちを伝えたり、当たり前のように使っています。しかし、「言葉」で表現しきれないことを忘れてはいけないと社会学者の大澤真幸さんは語っておられました。「言葉で共有されることの核には言葉で共有できないことがある」のだそうです。ゼカリアは長年待ち望んだわが子の誕生という時に言葉が奪われ、耳も聞こえなくなりました。自分の気持ちをしゃべりたかったことでしょう。沈黙の中で悩み苦しんだのではないでしょうか。しかし、ここで神は言葉にならない気持ちや共有できないことがあることを思い出させているのではないでしょうか。
 私たちはクリスマスを控え、世界中にある悲しみや苦しみの声にも耳を傾けます。情報社会と呼ばれる今日にあって様々な情報が私たちに知らされます。そんな中で、すべてを知ってしまったような気になってしまいます。しかし、言葉にならないことがあることに気を留め、私たちが未だ知らない事柄に気を留め、静かに祈るものでありたい。

2018年12月18日火曜日

2018年12月9日

2018年12月9日 待降節第2主日礼拝説教要旨
  「耶蘇・基督の公会・地の塩と世の光」 原誠教師
   マタイによる福音書 5:13~16節

 平安教会は創立142年の記念日を迎えました。創立の当初はドーン宣教師宅で結成された京都第三公会を前身とし、それ以前に第一公会、第二公会がありましたが、第二公会会員のうち同志社関係者が同志社教会を組織したことにより第二公会員の残りは第一公会に移籍し、1887年6月に第三公会は第一公会と合併し平安基督教会となりました。

 最初の教会のことを公会と呼びました。またイエス・キリストを耶蘇・基督と漢字であてました。これは欧米の宣教師が中国で活動をはじめて、聖書を含む西洋文献を漢文に翻訳したによるものです。
1859年、宣教師が開国した横浜に到着したとき、キリスト教は禁制でしたが、彼らはこれらの文書を持ち込み、その分冊の聖書を読んだ新島が国禁を犯してアメリカに渡りました。そして10年の学びをおえて宣教師として帰国したのが1874年でした。時代は明治になっていました。1872年に横浜で最初のプロテスタトの教会が設立されたとき、当初、宣教師たちは日本に教派を持ち込むのではなく無教派の教会の設立を考えました。これが「公会」でした。ですから西日本で最初に成立した神戸教会も、当時、摂津第一基督公会といい、平安教会を含む京都の教会も西京公会と称したのです。しかし、のちに「公会主義」は崩れ、教派の教会となっていきました。

 わたしの理解ですが、「教会」よりは「公会」と呼ぶ方が神学的には正しいように思えます。「教会」と言う場合、牧師が高いところから正しいキリスト教を教え、信徒はこれを学ぶ、一種の学校のようです。それに対して「公会」という言葉は、現在は死語のようですが「公会堂」というように、コミュニティ、共同体を指します。教会は実に神が召し集めた、神を主権とする共同体なのです。ここではすべての差異を越えて、ひとつの交わりがあります。

2018年12月10日月曜日

2018年12月2日

2018年12月2日 待降節第1主日礼拝説教要旨
  「はじめの言葉」 桝田翔希伝道師
   ルカによる福音書 21:25~33節
 アドヴェントの第一主日を迎えられましたこと感謝いたします。先日はアドヴェントワークとしまして、クリスマスの飾りつけも行われましたが、クリスマスに向けて様々な準備をする中で祈りながら過ごしていきたいと思います。そんな日の聖書箇所は終末を描いたとても恐ろしい箇所が選ばれていました。私たちは、この日にあって何を問いかけられているのでしょうか。
 ルカによる福音書は、マルコによる福音書を見ながら独自の解釈をしつつ執筆されたと考えられています。この聖書箇所もマルコによる福音書で語られ、エルサレムの滅亡とイエスの再臨を結び付けて語られています。紀元後70年にイスラエルはユダヤ戦争を経験し、ローマ兵によって放火されエルサレムは崩壊してしまいました。そのような辛い経験を踏まえ、マルコはイエスの再臨を信じています。しかし、エルサレム崩落から少し時間が経ったルカは再臨を分けて考えようとしたようです。非常に辛い経験をしたのに、終末は訪れず再臨も起こらなかったからです。
 私たちは終末や再臨をどのように捉えているでしょうか。今年は多くの災害が起き、聖書が語る天変地異のようです。様々な痛みや苦しみを経験しながら、その後に救い主が現れるという現実的な希望は抱いていないのではないでしょうか。釜ヶ崎で働く本田神父は痛みや苦しみの中でこそ人間は力を持つと語っておられました。先日、ケニアで教育活動をされる宣教師の方の講演を聞く機会がありました。「今日生きることにさえリスクがある」子どもたちが東北の震災を知り、昼食を我慢して数万円の寄付を集めてくれたのだそうです。「与えるものを全く持たない貧しい人はいない」そう語っておられました。
 私たちも様々な問題に直面し、悩み苦しみます。しかし聖書はエルサレムの滅亡など、人間が「もう終わりだ」と思うような時でも力が残されていることを語ります。最期に残される力を信じ、共に祈りつつアドヴェントの時を過ごしましょう。

2018年12月4日火曜日

2018年11月11日

2018年11月11日 降誕前第7主日礼拝説教要旨
  「荒れ野の声」 桝田翔希伝道師
   ルカによる福音書 3:1~14節
 POV教会との交流の日曜日であります。それと同時に教団が定める「障がい者週間」の始まりの日でもあります。この日にあって今日の聖書箇所である「洗礼者ヨハネ」の物語は、私たちに何を問いかけているのでしょうか。
 世界中で「障害」に対する様々な動きが1980年代に起こりました。その頃に権利宣言などが出され、社会的・法的に「障害」に対する考えが変わっていきました。さらに社会的な部分だけではなく、運動の中で概念そのものも変わったのだそうです。それまで様々な人が持つ障害というものは、体の中に宿るものであり医学的な方法でそれらは取り除くことが出来ると考えられていました。しかし、そのような考え方に異議が唱えられ、障がいは体の中に宿るものではないと言われ始めたのです。障がいとは、障がいを持つ人と障がいそのものを受け入れない社会との間に生じるものであると言われたのだそうです。私たちは社会の中で生きる中で、自分自身を社会に合わせようとしているのではないでしょうか。その反面、合わせることが出来ない人を排除しているのかもしれません。
 ヨハネは神の言葉を聞き、多くの人たちに教え始めます。聖書は、ヨハネのもとに様々な「身分」の人たちが押し寄せたことを報告しています。救いを求めてヨハネの周りに集まった人々のことを、ルカはわざわざ社会的な身分に分けて描きました。大多数のユダヤ人、収税人、兵士、それぞれが社会的な枠組みの中である程度満たされた生活をしつつも、結局は自分自身をその枠組みにはめ込んでいました。ヨハネはそれぞれの枠組みを外す言葉をかけています。ユダヤ人らしい生活が出来ていることに満足するのではなく、下着をも分け与えること。生活のために集めた税金の一分を自分のものにするのをやめること。雇われ兵士としてそれ以上のことはしないように。社会の中で当たり前と思われていたことをひとつずつ指摘しています。
 私たちも、社会の枠組みに自分や他人をはめ込んでいるのかもしれません。そのような意識の中にこそ「障がい」が生まれるのかもしれません。体の違い、国の違いを持こえて、分け合うことに満足するようにヨハネは語るのです。

2018年11月20日火曜日

2018年11月4日

2018年11月4日 降誕前第8主日礼拝説教要旨
  「未来を拓く力」 横田法子牧師
   マルコによる福音書 16:1~8節
イエスの神の国運動は共に生きるという実践そのもの。それは弱さや孤立から逃げるため強い人に頼るものではなく、弱さを絆に共に連帯していく生き様でした。そこにこそ神の力は生きて働くことを証し、孤独に絶望し不安を抱え自分なんてと項垂れる者でも、神の愛と恵みを分かち合い共に賛美して生きられると証しました。逃げずにイエスの死を見届けた女の弟子たちは、三日後によみがえるという予告を信じていたのでしょう。望みを断たれても横穴式の墓を塞ぐ大きな石という障壁があっても、イエスに従い続けようとしたのは大したもの。それでも躓くのが人間です。現代の聖書学者の定説は、マルコ書は6章8節まで。死の絶望よりも強い神の力が示されても、信じきれない人間の破れでとじられるのです。
香油で体を清めるのは葬りの作法ですが、油は王の即位で注がれるもの。墓に行った女性たちに死んでもなお「王」の力に頼ろうとする姿を見ます。復活のイエスとの出会いは、真の主体性と自由を得さるものです。復活とは「(神によって)起こされる」の意味。復活はイエス以後のキリスト者にもたらされ続けている出来事です。やがて弟子たち(女性も男性も)も十字架のあがないと復活を宣べ伝え、弱さで連帯して支え合い分かち合って生きる群れ(キリスト教共同体)を形作ります。躓きを乗り越えさせたもの…、それはイエスの祈りでした。「先にガリラヤへ行く」とは、裏切りの予告の際のイエスの言葉。ルカ書では「私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とあります。既にすべてが赦されていたことを悟った時、ガリラヤで共に過ごした日々がよみがえり注がれ続けている神の愛を確信したことでしょう。
「祈った人が世を去った後も、その祈りは後に残って活動を続ける。」は、ある宣教史の言葉。世々のキリスト者が生涯を通して示した信仰の証しが、祈りが、共におられる復活のイエスへと向かわせ、それが未来を切り拓く力になることを私は実感しています。

2018年11月14日水曜日

2018年10月28日

2018年10月28日 降誕前第9主日礼拝説教要旨
  「空しさの向こう側」 桝田翔希伝道師
   ルカによる福音書 12:13~21節
 教会暦が聖霊降臨節から降誕前節となりました。クリスマスまで9週間を控え新しい節目の日曜日です。イエスの誕生を覚えるクリスマスに向けて、事務的実務的な準備も始まっていますけれども、私たちの祈る心も9週間かけて準備できればと思います。先日、23日から25日と教団総会が行われ部落解放のアピールで私も参加させていただきました。歴史の中で様々な問題、様々な痛みを抱えていますが心の通った話し合いが出来ますよう祈りたいと思いました。
 さて今日の聖書箇所は、あるお金持ちのたとえ話が語られています。ある豊作の時に今まで使っていた蔵を壊しさらに大きな蔵をつくり、作物を蓄えたのでした。しかし神はその人がその日で死んでしまうことを知っていたのでした。死んでしまうのにその富をどうするのか、イエスはそう語りかけるのです。聖書が書かれた時代から時が流れ21世紀に私たちは生きています。しかしこの時に語られた「豊かさ」より数段上の豊かさの中で私たちは生きています。
 ここで語られているお金持ちの人のように、私たちも貯金をします。不景気をはじめ不安定な時代にあって、私たちを襲う不安をお金は解決してくれます。さらに今日の社会は様々な場面でお金が必要になります。道を歩いていて急に何かが食べたくなるようなときもありますし、急な事故や病気など、様々な場面でお金が必要になります。お金は大事というわけですがお金がなければ住む場所も食べる者も着るものも手に入りません。お金がなければ生きることを許されないような社会に生きています。しかし聖書の中では「豊かさ」に対して注意を促しています。金銭的、肉体的な豊かさは神を忘れてしまう。神から与えられた命の大切さに忘れてしまうというのです。
 将来の不安は上げだすときりがありません。私たちは何が不安の原因なのかわからない、言いようのない不安に追われているのではないでしょうか。そんな中で神から与えられた命の大切さに忘れてしまっているのではないでしょうか。今日、この日に私たちが向き合わなけらばならないものに目を向けよ、とイエスは語っておられるのではないでしょうか。

2018年11月6日火曜日

2018年10月21日

2018年10月21日 聖霊降臨節第23主日礼拝説教要旨
  「絶妙ブレンド」 横山順一牧師
   創世記 11:1~9節
 四月に天に召された榎本てる子さんは、生前「ブレンディング・コミュニティ」を作る夢をたびたび語っておられた。性をはじめ様々な立場の人間が「混ぜあわされた」豊かな多様性の社会を目指したてる子さんの夢に賛同する。ちなみに沖縄の踊り「カチャーシー」も、混ぜるという意味。
 かつていた教会でいただいたブリューゲルの「バベルの塔」のパズル絵を眺めていて、ふと、塔の下で鞭打たれ働かされている庶民の姿から気づかされた。つまりそのような強制・強要をしないと塔の建設は不可能だということ。
 テキストはニムロドが建てたバベルの塔の箇所。「有名になりたい」という願望は誰にもあろう。しかし実際にできる人は限られる。基本的にそれは「権力者」ではないか。口語訳ではニムロドは「地上で最初の権力者」だと訳される。
 「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」(1節)とあるが、戦時中の日本が他国の言葉や文化を奪う同化政策を推進したのと同様を示している。そうでなければ戦争という塔の建設ができなかった。
 神が怒りをもって塔を壊されたのは当然の結末だった。神がなさったのは混乱のためではなかった。バラルにはごちゃ混ぜという意味がある。無理に一つとされた民たちに、それぞれの言葉を使い、それぞれ自由に生きて良いという神からの示し。また違うが故に、互いに聞き合わねばならないという神の思い。それがバベルの塔の物語の骨子だろう。
 弟子たちがそれぞれの言葉で語り出したという使徒言行録のペンテコステの出来事も、それぞれが自由に語って良い、語るべきという神の愛の思いを示している。
 ごちゃ混ぜとは、無造作なバラバラを意味しない。神の配慮に満ちた絶妙なブレンドである。聖書は、太古から多様性の大切さを記していた。

2018年10月29日月曜日

2018年10月14日

2018年10月14日 聖霊降臨節第22主日礼拝説教要旨
  神学校日礼拝 「田舎者の涙」 桝田翔希伝道師
   マルコによる福音書 14:66~72節
 高校時代、推薦の枠が余っていたので神学部に進むことにしました。その頃の私は、キリスト教はあまり好きではありませんでした。そして、ボランティアというものも好きではありませんでした。そんな私に当時の聖書科の先生に、夜の10時から1時間、京都駅を歩き野宿しておられる方に声をかける「京都夜回り」に参加してみなさいと言われました。個人的にはあまり気の進まないまま参加し、一度行ったらそれで終わろうと思っていたのですが、最後に「来週も来るやんな?」と聞かれました。どう断っていいかわからず「はい」と言ってしまい。それから大学にいる間は夜回りに参加するようになりました。振り返ってみると、夜回りは受洗するきっかけとなり、教職を志すきっかけにもなりました。ボランティアもキリスト教もあまり好きではありませんでしたが、次第に様々なことに関わるようになりました。大学にいた間、私が持っていた意思や計画の多くは打ち砕かれたのでした。
 命が危険になってもイエスに従う(31節)と言ったペトロでしたが、汚い言葉まで使ってイエスの弟子であることを否定しました。イエスが逮捕された後は、隠れながらもイエスの後についていきましたが(54節)、いざ弟子であることを追及されると嘘をついてしまったのです。頭では信じていても体が逃げてしまったのです。都会の真ん中で、言葉のなまりのせいで田舎のガリラヤから来たこともばれ、追及されたペトロはイエスの言葉を思い出し最後には身を投げ出して涙を流しています。この物語では、人間の不安定な意思、どんな状況でも揺るがない神の意思が描かれています。
 今日の社会を見ていると閉塞感が漂う中で完璧主義が貫かれているような気がします。社会学者の岸政彦さんはコラムの中で「果てしなく不寛容に、完璧主義に、一切のミスを許さない社会になるほかないのだろうか」と語っておられました。私たちが求められる完璧主義は人間の意思であることを忘れてはいけません。イエスを信じるというペトロ(人間)の意思は無残に打ち砕かれました。しかしそれを知ってなお、イエスは「先にガリラヤに行く」と語ったのでした。私たちの意思はいつ砕かれるかわかりません。しかし、打ち砕かれたその先に、涙のその先にイエスは待っておられるのです。

2018年10月21日日曜日

2018年10月7日

2018年10月7日 聖霊降臨節第21主日礼拝説教要旨
 【世界聖餐日・世界宣教の日 讃美礼拝】
   「歌い続ける歌」 桝田翔希伝道師  聖餐式:横田法子牧師
     詩篇 40:1~7節 マタイによる福音書 26:26~30節
 チャペルコンサートに引き続き、讃美礼拝を守ることが出来感謝であります。私たちは教会で讃美歌をはじめ様々な音楽を通して聖書や神と触れ合います。一方聖書の中には詩篇と呼ばれる部分があります。詩編に関してはわからないことも多いのですが伴奏をつける歌であったことが想定さていれます。このことから音楽を通して神に触れるということはとても昔から続けられてきました。今日の礼拝では、説教を通して聖書に聴く場面が強調される傾向があるかもしれません。説教と言うと、言葉ではっきり語りますから「客観的なもの」と言えるかもしれません。一方、音楽を通して神に触れるということは「感性的なもの」ということが出来るのではないでしょうか。
 11月7日は教団により「世界聖餐日・世界宣教の日」と定められています。世界聖餐日が定められたのは1940年代、様々なキリスト教の教派の連合により呼びかけが始まりました。1940年代ですから世界中で戦争が起こり、平和を願いながらも恐怖や嫌悪、悲しみが渦巻いていた時代であったことが想像されます。そんな時代にあって、平和を願いキリスト教の様々な教派を越えてイエスの食卓・聖餐式を共に行い祈るためにこの日が定められたのです。
 平和を願いながら、讃美礼拝を守るこの日にあって、聖書は私たちに何を問いかけているのでしょうか。当時イエスと敵対していた人たちに対して、イエスの語り方は非常に含みを持ったものと言えるかもしれません。断罪するでもなく、質問に質問で答える。客観的と言うよりも、感性的なものとも言えるかもしれません。私たちは平和を願いつつも泥沼に足を突っ込んだように、もがきながらも、他人を言葉で客観的にさばいているかもしれません。しかし、イエスは危機的な時に讃美歌を歌いました(マタイ26:30)。客観的な破れのない言葉ではなく、感性を共にするような新しい歌を口ずさみながら平和を願う者でありたい。

2018年10月15日月曜日

2018年9月23日

2018年9月23日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨
  「勝利の入城」 山下毅伝道師
   ルカによる福音書 19:29~44節

 イエスの公生涯は、3年半続きました。公生涯の終わりに近づき、イエスはメシアとしてエルサレムに入城され、日曜日の午後に入城され、金曜日に十字架にかけられます。今、この入城される時、非常に緊迫した状態です。イエスはこの入城に際し、子ロバに乗ることをのぞまれます。それは旧約聖書ゼカリア書9章9節の「彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ロバに乗って来る――」この預言が成就されなければならないので、イエスは、子ロバを必要とされたのです。イエスのエルサレム入城は、民衆、弟子達の思いは、勝利の王として、メシア的王国が出来上がることを期待していますが、イエスの思いは、十字架にかかることによって、自分を全人類の救いの為、贖いの業のために、父の御心が成就されるために、入城されるのであり、父なる神に御自分をささげられた勝利者として入城されるのです。大きな開きがあります。弟子達が「ホサナ」(どうぞわれらを救って下さい)という叫びに、パリサイ人達は抗議します、「イエスがメシアであるという叫びは、神への冒涜だ。」と思ったからです。イエスは答えられます「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と言って、メシアとして迎えるのは当然だと、おっしゃいます。かたくなな、リーダたちの姿を見て、エルサレムに近づき、都が見えた時、大粒の涙を流され、声をあげて泣かかれた。イエスはすべての人を救いたいと思っておられました。イエスを拒否したエルサレムは紀元70年ローマ軍によって崩壊します。イエスは愛に満ちた方です。私たちは、社会の問題も、教会の問題も、家庭の問題も、みんな、神様にしていただかなければ、出来るものではありません。そのためには、ただひたすら神様の言葉を聴く、という生活をしなければなりません。神の言葉を聴いて慰められまた励まされ、また召し出されていくところに私たちの生活があります。

2018年10月1日月曜日

2018年9月16日

2018年9月16日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨
 「どこにもいかんといてね~共におられる神さま」 小笠原純牧師
  マタイによる福音書 28:16~20節
 本日は、敬愛する平安教会の皆様と、礼拝を守ることができ、とてもうれしく思います。
わたしの母はアルツハイマー認知証で、18年前に天に召されました。わたしの父は長い間、その母の介護をしました。わたしはこの10数年間の、父と母の生活を見ながら、なにか大きなことをなし得るということよりも、誠実に人生に向き合って、目の前にいる大切な人とともに、精一杯生きていくということに、人生のかけがえのなさというものがあるような気がしました。
 わたしが帰省したとき、父と母と三人で川の字になって寝ていると、夜中に母が目を覚まして、起き上がって、こう言いました。「おとうさん、どこにもいかんといてね」。母はだんだんと記憶がなくなってきて、何もできなくなっていくのです。記憶がなくなるわけですから、みんな自分を置いて、どこかに行ってしまうような気持ちになるのでしょう。父は「どこにもいかんから、さあおやすみ」と言いながら、起き上がっている母を寝かせてあげていました。
 わたしは折にふれてこの小さな出来事を思いだします。そして父が「どこにもいかんから、さあおやすみ」という言葉の通り、母が帰天するときまで母と共にいたこと。そして「共にいる」ということの大切さ。また「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という御言葉の確かさを思い起こします。神さまは確かに、記憶がなくなり恐れと不安の中にあった母と共にいてくださいました。
 人生の中で、私たちはいろいろな出来事に出会います。とても悲しい出来事に出会うときもあります。とてもつらい出来事に出会うときもあります。そんなとき、だれか、わたしのそばにいてほしいと思えます。そばにいる人に「どこにも行かないでね」「どこにもいかんといてね」と言いたいときがあります。
 聖書は私たちに告げています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。イエス・キリストは私たちに約束してくださいました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。私たちの救い主であるイエスさまは、どんなときも私たちと共にいてくださいます。私たちはこのことを信じています。どんなときも、私たちと共にいてくださる、イエスさまと共に、こころ平安に歩んでいきましょう。

2018年9月25日火曜日

2018年9月9日

2018年9月9日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨
  「身の回りに」 桝田翔希伝道師
   マルコによる福音書 14:1~9節
先日、テレビが4Kの最新式になり、あれこれ録画できるようになりました。そんな折、相模原障害者施設殺傷事件を扱った番組がありました。その中で、小児科医である熊谷晋一郎さんが今日の社会を「だれもが自分がどれほど能力があるのか証明しようと躍起」になり「自分に能力があることを証明するために他人の能力のなさを見つける社会」と説明されていました。
さて、今日読んでいただきました聖書箇所はイエスを殺そうとする緊迫した状況で始められています。そこに女性が突然入ってきて非常に値段の高い油をイエスにかけ、弟子たちはそれを強く非難しました。私たちの価値観からすれば7500人分の食事を用意できる価値に当たるような油を、イエスにかけるという行為はなかなか賛成できるものではありません。貧しい人たち困っている人たちを助けなさいともありますから、弟子たちが怒った理由は一方では間違ったものではありません。
イエスにとって香油をかけられた瞬間は、緊迫した状況で「受難」が理解された瞬間でありました。しかし受難がわからない弟子たちにとっては、「間違った行いをする女性を見つけた」瞬間であったのではないでしょうか。この女性を批判した弟子たちの姿は、競争社会で生きて他人より上に立とうとする人間の姿が映し出されているのかもしれません。そしてイエスは続けて、貧しい人たちに施せと言うがいつでもできるではないか、と語っています。弟子たちは今までどのようにしてイエスにつき従っていたのでしょうか。困っている人を目の前にしつつも癒すことが出来ず、律法学者との議論に熱中してしまうこともありました。
ここでイエスは様々な事を指摘しますが、その中で弟子たちの姿だけを見るならば、私たちと重なる部分があるように思うのです。私たちは様々な視点を持つ社会に生きています。そして競争社会と言われる厳しい社会で生き、相手の出来ない部分を見つける、批判することで自分の能力を優位にすることに陥っているかもしれません。しかしイエスは、施しはしたいときに出来ると語るのです。身の回りをよく見なさいと語るのです。

2018年9月18日火曜日

2018年8月26日

2018年8月26日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨
  「泣きながら、後ずさりしつつ神の国」 髙濱心悟牧師
   ルカによる福音書 14:15~24節
◇苦しいことや辛いことから遠ざかることができるように、我々は自然と「無難」を祈り願うものです。しかし、思い通りになることはほとんどない、というのが、6年間の牧会で得た学びでした。様々な欠乏や困窮を抱えながら生きる私たちは、不足を満たしたいですし、出来る事なら何ものにも困らず生きて行きたいという願望を持つのです。
◇教会も一緒です。教会が財政難なら、お医者さんや社長さん、お金持ちのたくさん献金してくれる人が来てほしいものです。働き手がいなければ、若い人たちにたくさん来てほしい。でも、それは、「私」の願望であって「神の国」ではないのです。私たちのいう事を何でも聞いてくださる神様は、神様ではありません。
◇「神の国」というのは、そういった、我々の願望の延長線上にあるのではありません。むしろ、その願望や、わたしの思いというものが断絶される場所です。それを私たちは拒否するのです。言い訳する。そして、後ずさりして、そんな所に行くのは嫌だいやだと言い、泣きながら強引に連れられて行かれるところが神の国です。自分の意志や良心や正義感で、そこに行ったり、形作ったりするのではなくて、むしろ、失敗や、悲しみや、様々な挫折の結果として招き入れられていく先に、神様のみ旨があるのです。そこに本当に良いものがあるのだ、そこが、一番素晴らしい宴の席だ。そう信じ、自分の願いや希望とはかけ離れたところに立たされるとしても、それが「この身になりますように」と祈ることが、我々に求められている、主イエスへの応答の業ではないでしょうか。
◇泣きながら、後退りしつつ、それでも引きずられるようにして連れて行かれる所、そこが、神の国です。神様が私たちのために用意しておいてくださる宴席なのです。私たちはそこに、呼ばれ、招かれているのです。

2018年9月3日月曜日

2018年8月19日

2018年8月19日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨
  「神の国の情報は信仰によって」 佐藤博牧師
   ヨハネによる福音書 2:1~11節
 私たちはヨハネ福音書の初めに登場する奇跡物語によって「神の国」とは何かを教えられます。イエス様は、私たちの営み生活の只中に足を踏み入れて下さいまして、そこに必要な物、無くてはならない物を与えてくださいます。今日も「神の国」は近づいた(マルコ1:15)と語って下さって、その恵みと救いに与らせようと招いて下さっています。私たちはこの「神の国」の情報を教会も信じる者も、あまりにも知らなさすぎるのではないでしょうか。逆に「人の国」の情報のみが溢れているという現実に教会は「神の国」の無知、その恵みに生かされ、神の与えて下さる喜び、命が余りにも貧弱である現実に見舞われています。
 このイエス様による水をブドー酒に変えられる神の国の奇跡は、唯「水がめに水をいっぱい入れなさい」(7節)のお言葉に、マリアの勧め(5節)もあって、その家の「召使たち」(7節)は大変な困難の中、黙々と従いました。困難や課題に直面した時、私たちはイエス様の前に出て、イエス様よりのお言葉を聞こうとするでしょうか。自分や教会の手の中にお金や力を数えるか、人や国が助けてくれるかどうかで、終わってしまうのではないでしょうか。百人隊長が僕の癒しを願って「ただひと言おっしゃってください」(マタイ8:8)とのイエス様のお言葉をひたすら求める信仰を持たせていただきたいものです。信仰(ピスティス)はペイソー(説得する)からきています。イエス様のお言葉により、本当に救われた、助けられた、喜びを与えられたという、お言葉の真実に説得されるまでイエス様のお言葉に近づきたいものです。
 「この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」(11節)とありますように、今日も私たちの生活の場、教会の営みの場に、イエス様の栄光が現れ、イエス様の「しるし」は継続しています。ただイエス様とそのお言葉への信仰、即ちカール・バルトが残しています「神の言葉に対する聴従」が希薄になっているようです。

2018年8月28日火曜日

2018年8月12日

2018年8月12日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨
  「真の平和を求めて」 村上みか教師
   マタイによる福音書 10:34~39節
 8月に入るとメディアでも戦争の問題が取り上げられ、私たちは改めて平和を願う時をもちます。戦争の悲惨な光景を目にするたびに、やはり戦争はだめだ、平和な社会でなければ、と多くの人が思うでしょう。しかし、この聖書の箇所には、平和を願う私たちの思いを打ち砕くようなイエスの言葉が記されています。「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。」これは、伝道へ派遣される弟子たちに、この世で伝道することの困難を語ったイエスの言葉の一つです。信仰に生きることはこの世ではなかなか理解されず、人々と対立することになるだろう。信仰に生きるということは、したがってこの世の血縁関係や人間関係を断ち切って、自分の十字架を担い、キリストに従うことなのだ、というのです。
 私たちは、この世と葛藤して生きているでしょうか。この世の楽しみに案外満足し、できればこの世で平穏に生きたいと思っていないでしょうか。そのために神でなく、人間関係に多くを頼っているところもあるでしょう。しかし、そのような表面的な平穏ばかりを求めていると、私たちは聖書の教える真の平和とは関係のないところで生き始めてしまいます。その中で私たちにできることは、神から離れて安易な平穏に頼り、自分の命を得ようとする、そのような自らを知り、神の前で悔いるということ、まさに自分の十字架を担う、ということです。こうして神に立ち帰ることを知った人こそが、実は神に支えられて真の愛を実現し、真の平和をもたらす存在となるのです。
 「平和、平和と告げられるところに、平和はない。十字架、十字架と告げられるところに、十字架はない」(ルター「95箇条の提題」より)。平和というのは、それを単純に求めて実現されるものではなく、自らの十字架を担う人によりもたらされるのです。対立や争いが繰り返される現実の中で、私たちも真の平和を願い、それを作りだす者となりたいものです。

2018年8月20日月曜日

2018年7月29日

2018年7月29日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨
   「『放蕩息子』のたとえ」 山下毅伝道師
   ルカによる福音書 15:11~32節
 イエスはファリサイ派、律法学者の人々と対話しておられます。そのテーマは誰が神の国に入れるのか?と言うテーマです。12、13節 弟の方が父親に、「私が頂くことになっている、財産の分け前をください」と言います。普通ユダヤ人社会では考えられない遺産相続ですが、父親はそのことを許します。遠い国、異邦人の国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまいます。何もかも使い果たした時、その地方に大飢饉がおこり、彼は食べるにも困り、豚の世話をし、いなご豆を食べて、飢えをしのぎます。豚飼はユダヤ人にとっては、これ以上落ちることのない零落した状態をさしています。弟はわれに帰って、最悪の状態から目を覚ました。息子は「お父さん、わたしは天に対して、またお父さんに対しても罪を犯しました――雇人の一人にして下さい」と、最初は心の中で、もう一度は、父の前で言い表します。悔い改めは心の中で思うと共に神の前で言い表さなければなりません。父親は、年長者である威厳を投げ捨てて、走り、息子に口づけし、「一番よい着物」、「指輪」、「サンダル」を与え、子牛を一頭屠って、宴会を開きます。この弟は悔い改めた者の象徴です。
一方、兄はこのことに怒ります。「わたしは何年もお父さんに仕えています、―― 子山羊一匹すらくれなかった」と、悔い改めた弟と一緒に宴席に入ることを拒否します。兄の最大の誤りは、自分を正しいとし、自分の業によって、父との関係は保たれると思っていることです。この侮辱的兄を、父親が出て来てなだめています。――イエスは、宴会(神の国)に入る唯一の方法は、自分の弱さと罪を認めることだと教えられました。神はわたしの最悪を最善に変えて下さいます。神は私たちを贖われたのは、私たちの資質や立派さや才能ではありません。全く放蕩息子のように、ボロをまとった姿の私たちを、破れたままの姿の私たちを、受け入れてくださいます。

2018年8月7日火曜日

2018年7月15日

2018年7月15日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨
  「信じていればなんでもできる」 桝田翔希伝道師
   マルコによる福音書 9:14~29節
この一週間は、暑い一週間ではありましたが、西日本豪雨の被害が続々報告された一週間でありました。何もできない自分の無力さを改めて実感させられます。
今日読んでいただいた聖書箇所では、まずイエスの弟子たちが律法学者たちと議論している場面で始められています。そんなところにイエスがやって来るとある一人の人が「私の息子を癒してほしい」と駆け寄ってきました。この人の息子は霊に取りつかれていて、弟子たちに癒してほしいと言ったができなかったと話します。そして子どもが小さい時から病に苦しみ、「できるならば」「私たち」を助けてほしいと頼んでいます。しかしイエスは、「できるならば」と言った人を叱ります。ここでイエスに向けられた「できるなら」という言葉は謙虚そうに見えながら、何もできなかった弟子たちを前にイエスをも「できるできない」の価値観で図ろうとしている言葉なのかもしれません。
大船渡で医師として働く傍らで、ケセン訳の聖書も発行された山浦玄嗣さんは3・11の地震の後でインタビューを受ける中で「神様はなぜ、まじめな人たちをこのような目に合わせたのか」という事を何度も聞かれたと語っておられます。何度も何度も聞かれて非常に腹が立ったと書かれていました。私たちの発想からするとごく普通の問いのようにも思えてしまいます。山浦さんは、「なぜ神様はこのような事を起こしたのか」という質問は「お前たちが拝んでいた神様は、お前たちを見捨てたではないか」という意味を持つ言葉であると語っておられました。
「なぜ神はこのような事を起こしたのか」という質問と、今日の聖書箇所で出てくる「できるならば」という信仰には通じる部分があるのではないでしょうか。イエスはその人の苦しみをよく聞き、祈りを通して願うことの大切さを語っています。私たちは辛い時、なぜこんなことが起こるのかと神を疑いたくなる時もあります、また自分自身、色々なことが出来なくて失望するときもあります。災害があり、私たちの持つ力は小さいという事を実感する日々でありますが、何もしないという事ではなく、何もできない無力さを受け入れ信じ祈ることが大切なのではないでしょうか。

2018年7月23日月曜日

2018年7月8日

2018年7月8日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨
  「見失った羊」のたとえ」 山下毅伝道師
   ルカによる福音書 15:1~10節
 ルカによる福音書15章では、3つの物語が語られています。「見失った羊」のたとえ、「無くした銀貨」のたとえ、「放蕩息子」のたとえが語られています。何かを失ったとき、それを見つけた時の神の喜びをあらわしています。この物語の共通テーマは神の国には誰が入れるか?と言う問題です。ファリサイ派の人々は当時、「口伝律法」を重んじ、羊飼い、女性、「いなくなった息子」「放蕩息子」を軽蔑していました。イエスは軽蔑されていた、徴税人や罪人達と共に、食事をします。「見失った羊」の羊飼はイエスです。イエスはいなくなった羊の一匹を求めて捜し歩かれます。「悔い改めた一人の人」を指しています。神の小羊のことを思うたびに、「まばたきの詩人」水野源三さんのことを考えざるをえません。脳性小児麻痺になった源三さんは、手足を自由に動かせず、ものも言えなくなってしまいます。しかし幸いなことに、源三さんにキリストの福音が伝えられ。国語辞典に書いてある「あいうえを」の表を使い、母親が指をさし、源三さんが目で合図し、詩を作っていきます。源三さんが作った詩の中に「わたしのようなものが」と言う詩があります。「主イエス様の御姿は見えない 御声は 聞こえない だけど――わたしのようなものが 喜びにあふれ 望みにみちて生きている。」何という奇跡的な信仰でしょうか。イエスはどんな人にでも、甦りの喜び、命の復活を与える方として働いていらっしゃいます。99匹は悔い改める必要のない人々を指しています。
ドラクメ銀貨を十枚持っていた女性は一枚を無くします。これは大切な花嫁料で、結婚指輪と同じくらい大切なものです。見つかったら、近所の女達を集めて喜びます。一人の悔い改めは、神の天使たちに喜びがあります。この三つの物語は、三位一体の神の物語ともいえます。子なる神はいなくなった羊を捜し、無くした銀貨を聖霊の火をともして捜し、父なる神は、本来の私に戻ることを望んでおられます。

2018年7月17日火曜日

2018年6月24日

2018624日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨
「善きサマリア人のたとえ」 山下毅伝道師
ルカによる福音書 10:2537
 「善きサマリア人のたとえ」は聖書の中でも、よく知られた箇所です。イエスは70人の弟子達を2人一組にして伝道に派遣しました。70人の弟子たちは派遣から帰って来て大喜びでイエスに報告しました。神の言葉は単純素朴な霊的に幼子のような人に、お示しになりました。――その報告を聞いていた律法学者は、不愉快に思い、イエスに尋ねます。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスは「律法には何とかいてあるか。」と言われると、律法学者は答えます。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」と答えます。イエスは言われた、「正しい答えだ。それを実行しなさい。」と答えられます。
しかし、なおも律法学者な「では、わたしの隣人とはだれですか」と言います。イエスは答えられます。「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、追いはぎに襲われ、半殺しにしたまま立ち去った。」「祭司、レビ人がその人を見ると、道の向こう側を通っていった。」ところが、サマリア人は、そばに来ると、その人を見ると憐れに思い――宿屋に連れて行って介抱した。」「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になった思とうか?」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」当時サマリア人はユダヤ人から軽蔑されていた。雑婚や異教などが入り込み、律法の純粋性を保とうとする、ユダヤ人は交わりさえしませんでした。

結論  隣人愛を持っている人は人種を越えて人を助けます。「永遠の命」はイエス・キリストを信じることによって与えられます。ヨハネ316節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とのべられています。

2018年6月25日月曜日

2018年6月10日

2018年6月10日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨
  【花の日・子どもの日合同礼拝】
  「それは燃える生命」 桝田翔希伝道師
  マルコによる福音書 5:1~10節
 私は小さい頃から「おばけ」が苦手で仕方ありませんでした。ある時、母に曾祖母のある言葉を教えられました。「おばけより生きている人間の方がよっぽど怖い。」
 今回は、悪霊に取りつかれ墓場につながれている男性が登場しています。墓場というのは聖書の中で「死の領域」とされて人間が住むところからは離されていました。すなわち、この男の人はみんなから嫌われ、怖がられて、「生の領域」には入って来れないように鎖でつながれていたのです。とても深い悲しみの中にあったのではないでしょうか。墓場に来たイエスに対して男は「私とあなたにどんな関係があるんだ(構わないでくれ)」と言います。恐らく墓場につながれていたこの人にも家族がいたことでしょう。また友だちもいたかもしれません。今まで関係のあった人たちに心配された時もあったでしょうが、今はそんな人もおらずただただ一人ぼっちで過ごすしかありません。しかしイエスは拒絶されながらも名前を聞くのです。名前はその人の人格であり、生き様なのです。鎖をちぎって生きようとする生命にイエスは語りかけているのです。しかし、その男は自分の名前を「レギオン」と言います。これは当時ユダヤ人を支配していたローマの軍隊の中で、数千人の兵士がいる部隊につけられていた名前でした。
 墓場につながれた人を病気以上に苦しめたのは、彼をいじめ、嫌がり、怖がった多くの人びとであったと思います。レギオン・軍隊のように大勢で力があり暴力的な人々に見えたことでしょう。私たちが生きている社会も、大多数と少数で別れてしまいます。自分が大多数の中にいる時、少数のことを気にしない時があるのではないでしょうか。生きている人間の方がよっぽど恐ろしい存在になる時があるのです。
 墓場につながれた男は、それまで関係のあった人たちからも差別を受け苦しめられていました。私たちも、気持ち悪いとか怖いという事だけで人を見るのではなく、イエスが名前を通して知ろうとしたような、人が持つ燃える生命を見つめるものでありたい。

2018年6月11日月曜日

2018年5月27日

2018年5月27日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨
「イエスの母」 金田義国牧師
  マルコによる福音書 3:31~35節
  ヨハネによる福音書 19:25~30節

私たちのプロテスタント教会はマリアをあまり大きく取り上げない癖があります。そこで今朝はマリアを中心に聖書から学びたいと思います。
私の心に焼き付くマリアの物語がふたつあります。一つ目は、プイと家出してしまったイエスにマリアが会いに来る場面です。イエスは一家を支える稼ぎ手であったことでしょう。しかしイエスは「神の御心を行うものは、誰でも私の兄弟姉妹であり母である」と言うのです。マリアはどれほどがっかりしたことでしょうか。ここにマリアの人間性を想像することが出来ます。
もう一つの場面はイエスの十字架のそばにマリアがいる場面です。ここではマリアの神性があります。第二次世界大戦の時、私は小学生でした。ある日母と電車に乗っていると、戦闘機が急降下してきて、「ダッ!ダッ!ダッ!ダッ!」と機銃射撃をしてきました。電車は急停車し、皆が大慌てで窓から外に逃げ出しました。すぐまた戦闘機が引き返してきました。その時、母は私に覆いかぶさり守ってくれました。「私は死んでも、この子には生きていてほしい。」この時「犠牲の母の姿」を教えられました。ローマの兵士たちが囲む中でマリアは「愛する息子を助けてやりたい」そう思ったでしょう。あれほどイエスを信じると言っていた弟子たちは逃げてしまいました。しかしマリアは、イエスが死ぬのを最後まで見守ったのでありました。ここにマリアの「犠牲の母の姿」を見ることが出来ます。すなわち、マリアは敗北と絶望を目の前にしながら「たたずむ勇気」を持っていたのです。
私たちはここから学びたい。人生には絶望や失望がある。その時マリアの「たたずむ勇気」を思い出しましょう。人生のどん底をじっと見つめましょう。十字架に耐える勇気です。そしてイースターが与えられるのです。それが復活の朝なのです。

2018年5月28日月曜日

2018年5月13日

2018年5月13日 復活節第7主日礼拝説教要旨
  「母の日に」 桝田翔希伝道師
  ヨハネによる福音書 19:25~30節
 母の日とアジアエキュメニカル週間、召天日を覚えて聖書が私たちに何を問いかけているのかを考えてみたいと思います。母の日は1900年代初めのアメリカで、早くにして亡くなったアンという女性をしのんで、彼女の好きだったカーネーションを470人もの人たちが持ち寄った記念会がきっかけなのだそうです。しかし、商業主義の中で母の日の近くになると、アンの好きだったカーネーションは高い値段がつけれらるようになりました。キリスト教の行事は日本でも商業主義の中で取り上げられています。私たちは母の日をどうとらえるべきなのでしょうか。
 今日の聖書でイエスは、自分がこの世を去ってしまった後、弟子たちが互いに大切にしあい、永遠の命を生きるよう(生き生きと生きることが出来るよう)に守ってほしいと執り成しの祈りをしています。ここで「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです(10節)」はキーワードになるのではないでしょうか。私たちはお金さえあれば楽に一人で生きて行くことが出来ます。しかし、この言葉は私たち一人一人の命が「生かされていること」を気付かせてくれます。私たちは母の日はどうとらえるべきなのでしょうか。母に感謝することの根本的な部分は、「当たり前」の命を、創られた命を感謝することなのではないでしょうか。
 今日の聖書を読む中で、ネパールの田舎の村でよく聞いた「村の生活は厳しい」という言葉を思い出しました。ネパールでは機械化されていない農業や生活があり、また簡単に治る病気のせいで多くの人が死んでいきます。この言葉に人間が生きることは本来大変なものであることを教えられました。
 私たちはついつい、便利な社会の中で、自分の命が作られた恵みを忘れてしまいそうになります。しかし、10節にあるように「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」というイエスの祈りに立ち返らなくてはいけないのではないでしょうか。「当たり前」の生活、「当たり前」の命を目の前にして、互いの命を祝いあい、感謝しあいましょう。

2018年5月14日月曜日

2018年4月29日

2018年4月29日 復活節第5主日礼拝説教要旨
  「お米をください」 桝田翔希伝道師
  マタイによる福音書 12:38~42節
1900年代に、近代産業が発達する中で労働者階級が生まれ、労働問題が生まれだします。そのような問題に向き合うことから職域伝道という考えが始まります。今日の「労働聖日」は1960年ごろに「職域伝道」の働きから定められました。
さて今日の箇所ではイエスと敵対していた律法学者とファリサイ人とのやり取りが描かれています。「先生、しるしを見せてください」と言われ、イエスは突っぱねています。私たちも目の前で、実際に何か奇跡的なことが起ればもっと簡単に聖書の言葉を信じることが出来るかもしれません。しかしここでは、ファリサイ人や律法学者が目の前にイエスという人を見ておきながらも、「しるし」という肩書や保証を通してでしか、間接的にしかイエスに出会おうとしない姿が描かれています。職域伝道という考えは神から教会に与えられた恵みを社会に広めるという考えではなく、神は教会よりも先に苦しみに気づき宣教しておられるという考えが根底にありました。最後に釜ヶ崎の「いこい食堂」で働かれた金井愛明牧師が炊き出しの為に書かれた「お米をください」という手紙(『イエスが渡すあなたへのバトン』p.253)の一部を紹介したいと思います。
主の聖名を讃美いたします。今日はお米が欲しくてお願いの手紙を書きました。炊き出しが始まって18年になるが、私は毎日炊き出しをみつめてきた。豊かだと言われる日本で1000人が食を求めて並んでいる姿を目の前にしている。もう一度原点に帰って炊き出しに並んでいる労働者を救済の対象ではなく、戦いの同志であることを確認しながら、炊き出しを続けていきます。ここから始めます。皆さんの祈りと、こころをおにぎりにして釜ヶ崎の人びとに届けます。おにぎりを握りにきてください。
金井先生が神の福音を労働者に教えるのではなく、同志である労働者から受け取っている姿を感じました。私たちはどこから始めたらいいのでしょうか。信じられない、保証が欲しいと今日の箇所のように私たちも求めてしまいそうになります。私たちが求めるような神の業はどこにあるのか、それは社会の隅々の悲しみの中に神がすでに赴き広めておられるのです。そのような業に気づきながら神を証するものでありたい。

2018年5月8日火曜日

2018年4月22日

2018年4月22日 復活節第4主日礼拝説教要旨
  「エマオ途上のキリスト」 山下毅伝道師
   ルカによる福音書 24:13~53節
内村鑑三の娘ルツ子は、確かなキリストの信仰を持っていました。臨終の3時間前両親と共に聖餐にあずかり、ルツ子は「感謝」の言葉を語り、顔には歓喜の光がただよっていました。1912年1月12日「もう行きます」との言葉を残して息絶えました。彼女の死顔には口元に微笑(ほほえみ)が浮かんでいました。ルツ子の魂には復活されたイエスの聖霊が宿っていました。この出来事は内村鑑三に大きな影響を与えます。――復活とはどんな出来事でしょう。復活は向こう側から来る真理です、神は生きておられます。イエス・キリストは私たちの目の前にある死の墓を越えて生きておられます。ヨハネによる福音書11章25節に「わたしは復活であり、命である、わたしを信じるものは、死んでも生きる」と述べられています。
ルカ24章でクレオパ等二人の弟子が、エルサレムから今、逃れて歩いています。彼らは期待していたイエスが十字架にかかり、絶望の中を暗い顔をして歩いていました。歩いているときもう一人の方が、共に歩いてくださり、二人の弟子たちに、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光にはいるはずではなかったか」と聖書全体を説き証します。心がにぶくなった弟子たちをおいて、イエスはさらに進もうとされますが、弟子たちが引き留めて、食卓を共にします。聖餐にあずかるのです。その時、パンを裂かれているのは、復活されたイエスだと二人の弟子たちは分かります。内村鑑三の娘ルツ子も聖霊を受けたように、弟子たちも聖霊を受けたのです。 「どんな人でも、聖霊によらなければ、イエスを主だといえません。」復活のイエスとの出会いは、私たちを根本的に変革します。人生に絶望している人間でも、復活のイエスに「助けてください!」と心から叫ぶのなら、私たちの人生に根本的な変革が与えられるのです。イエス・キリストは死に勝利したように、私たちも死に勝利するのです。

2018年4月30日月曜日

2018年4月15日

2018年4月15日 復活節第3主日礼拝説教要旨
   「わたしにつながっていなさい」 佐藤博牧師
    ヨハネによる福音書 15:1~10節
教会の営みから身を引くも、勿論クリスマス、復活節等の教会の動きはわかりますが、宗教改革記念日が近づいているのには気づきませんでした。昨年の9月に入って、今年10月30日はルターの宗教改革記念日より500年目だと気付きました。現役ではありませんので、何かの機会でと、少し遅れて今朝の説教となりました。
教会と信仰者の救い主イエス様と「つながり」に最も危機感を抱いていたのが、今朝のイエス様の「ぶどうの木」の譬えを残した福音書記者ヨハネだと思います。そのヨハネがキリストに「つながる」事の啓発者が、パウロであると理解しています。今朝の「ぶどうの木の譬え」の前半部分で前置詞「エン」単独で「私とつながる」ことを4回に渡り強く訴えています(2・4・5・11節)。ローマ書6章11節に「キリスト・イエスにあって」は口語訳・新共同訳では「…に結ばれて」と訳されています。ヨハネはこの「ぶどうの木の譬え」の1~10節間で10回の動詞「メノー」と前置詞「エン」を重ねて、例えば4節の「わたしにつながっていなさい」の文章をパウロの時代より約40年後、私たちに訴えています。ヘレニズムの文化の影響が非常に強くなって、イエス様との「つながり」が薄まっていたのでしょうか。なりふり構わず、少し泥臭い表現ですが、「メノー」「エン」を重ねて、イエス様への「つながり」の希薄化に対抗しているようです。
何をもってイエス様との「つながり」を強く現すかは、ヨハネ15章7節の「私の言葉があなた方の内(エン)、いつもあるならば(メノー)」とあります。この「言葉」レーマは「口から発せられた声」の意味です。イエス様との「つながり」が人格的に最も強いことを示唆しています。パウロはローマ書10章17節で「実に信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉(レーマ)を聞くことによって始まるのです。」と語ります。パウロの最晩年のイエス様との「つながり」は何が一番中心かを強く教えています。ルカやヨハネもこの言葉(レーマ)の意味を訴え、教会とキリスト者の信仰の中心に据えようとしました。

2018年4月16日月曜日

2018年4月8日

2018年4月8日 復活節第2主日礼拝説教要旨
  「あなたに」 桝田翔希伝道師
  マルコによる福音書 16:14~18節
この一週間、ニュース番組では舞鶴市で行われた大相撲巡業でのことが繰り返し報道されました。日本の神様にささげる相撲の土俵には女性は上がってはいけないということなのだそうです。今日わたしたちが生活している社会では、ほとんど宗教による制約を感じることは無くなっています。しかし、世界を見渡してみますと宗教上の理由で男女をわけ隔てたり、人をわけ隔てるようなことはごく普通にあります。私たちはそのような光景を「自分たちには関係のないこと」としてとらえているように思います。しかし、今日の聖書箇所を読んで、私たちも宗教に基づいて人をわけ隔てることがあるように思いました。
 さて、この聖書箇所では「生き返った」ことを信じない弟子たちの前にイエスが現れ、「全てのものに福音を宣べ伝えなさい」と語っています。次に洗礼を受ける者は救われる、と排他的にも感じることも語っています。ここでは、クリスチャンにならないと救われない、そう語られているように見えます。洗礼と言われますと、どこか私たちは入信儀礼のように思ってしまいます。しかし、キリスト教が始まった頃の礼拝を研究している学者は、洗礼がユダヤ教のあるグループで清さを保つために繰り返し行われていたことも紹介しています。私たちは洗礼の「罪の洗い流し・罪の気付き」という意味を忘れてはなりません。
 洗礼を受けないものは救われない、イエスはそう語っているわけですが、これは狭い意味でクリスチャンでなければ救われないということではないと思うのです。そして、すべてのものに福音を宣べ伝えなさい、そうとも語っているわけです。これは宗教をも超えた真理をイエスが示しているのです。私たちもついつい、宗教によって、キリスト教によって人をわけ隔ててしまう時があります。しかしイエスが復活を通して弟子たちに示した「復活の真理」、自分の命をも超えた真理はわけ隔てるような狭いものではありません。復活節にあって、イエスの真理を共に歩みましょう。

2018年4月9日月曜日

2018年4月1日

2018年4月1日 復活節第1主日礼拝説教要旨
  「新たな歩みへ披(ひら)かれて」 小﨑眞牧師
  ヨハネによる福音書 20:24~29節

 今年度、平安教会の代務者として招かれ心より感謝致します。さらに本日のイースターには受洗者も与えられ、不思議な出会いと導きを大変嬉しく思います。さてトマスの伝承を通して主イエスの復活の喜びに出会いたく思います。私たちの多くは「見ないで信じること」の意義を学ぼうとしてきました。その姿勢は聖書の中で重要なテーマでもあります。しかし、私たちは日常生活の中で自身が体験した「過去の物語:見た事、聞いた事」」に常に縛られています。そもそも聖書の中で、信じることは「人間の側からの何ものかではなく、主の側からの何ものかであり」、「信じることのできる原動力、主導権は神の側」にあると理解されてきました(小野一郎『ヨハネによる福音書』)。一方、「見ないのに信じる」姿勢は倫理のごとく迫り、その姿勢を絶対化します。「見て信じる」姿勢は不信仰なのでしょうか。その責任は人間にあるのでしょうか。
 山浦玄嗣(ケセン語聖書翻訳者として著名)さんはこの箇所を「しょぼくれるなトマス」との副題を付けケセン語(東北ケセン地方の言葉)で翻訳しています(『ガリラヤのイエシュー』)。彼は復活の主とトマスの言葉の行間に本質を聴取します。弟子集団に居ながらも孤独感や寂寥感にさいなまれるトマスに関心を払いつつ以下のごとく記します。
お前はその眼で俺を見だからやっと本気にしたが?
      んでもな、いいんだ、気にすんな!当たり前だ。
 「気にすんな!当たり前だ」とのイエスの語りは多くの励ましを与えます。私たちの信仰生活においても想定外の出来事に対して「なぜ私が」との嘆きや疑いを発する場面があります。この人間の悲嘆の只中に主が介入する事実をトマスの伝承は語っています。以下の言葉を通し主イエスの真理に出会いたく思います。
人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか、人間は神様に会うことはできない。(森有正『土の器に』)
 恥じや苦悩の只中にある私たちに対して、主イエスは十字架上の傷を示し、痛みを分かち合おう(共苦)と迫ってきます。ここに私たちの思いを超えた新たな世界が切り披かれ、イースターの喜びが創出します。

2018年3月25日

2018年3月25日 棕梠の主日礼拝説教要旨(宇野牧師最終)
  「神とみ言葉にあなたがたをゆだねます。」 宇野稔牧師
  使徒言行録 20:17~35節

 3年間の勤めを終えるにあたり皆さまとの最終礼拝及び、受難週初日の礼拝に臨んでいます。「季節の風」春号と併せて受け止めてください。
パウロはユダヤ人中心のエルサレムの教会から疎まれながら命がけで地中海全体に教会を創ってユダヤ人以外にもイエス・キリストを宣べ伝えたのでした。そう云うパウロの働きはエルサレムにいるユダヤ人たちにとって許しがたいもののように思えたのですが、彼はどんな抵抗があっても自分の確信を曲げることなく邁進したのです。パウロは世界の都であるローマに行きたいと願いつつ、その前にエルサレム教会を訪ね地中海の至る所にキリスト教会が生まれ、育っている事実を伝えなければならないと決意しました。エルサレム教会がユダヤ人だけでかたまり、パウロが生み育てた教会が分裂することを危惧したのでしょう。
しかし、ユダヤ民族の裏切り者というレッテルを貼られているパウロがエルサレムに行くことは危険極まりないものでした。旅路の途中ミレトスにはエフェソの長老たちを呼んで遺言のような説教をしました。それは彼が教会という群れを世話し守っていくように最後に云い残した言葉でした。すなわち「交わり」です。教会においては愛の交わりが実現していることが大切なのです。だからこそ、何時も祈りと聖書に真剣に学ぶことです。み言葉が真理だからです。
パウロは3年間のエフェソの教会では嬉しい楽しいのみならず、夜も昼も涙を流していたともありますが、目を覚まして真理の到来を見つめているのです。それがキリスト者だと云います。涙を流す状況にでもキリストが存在するのを見つめて祈るのです。パウロは離れざるを得ないのです。困難があるだろうけれども彼自身何も出来ないのです。だからその中で「神とみ言葉にあなた方をゆだねます」と語りました。み言葉が人を造り上げるのです。3年間でしたが共に信仰生活が楽しく生き生きとできたことを大変嬉しく思います。お祈りありがとうございました。

2018年3月18日

2018年3月18日 受難節第5主日礼拝説教要旨
  「新しい権威ある教え」 宇野稔牧師
  ルカによる福音書 4:31~37節

 故郷ナザレで人々の怒りを買い殺されそうになるという事件の後、イエスはカファルナウムの街に移り、そこで会堂にて聖書について語りますが「その言葉に権威があった」と記されています。具体的な内容については、示されていませんが、「人々は非常に驚いた」のですから、今まで聞いていた話とは全く違った教えだったのでしょう。
 そのイエスの言葉の中身を考えるためにルカが書いているのが「汚れた霊に取りつかれた男が癒される」という物語なのです。ここで語られている汚れた霊とは何のことでしょうか。「汚れた霊」という言葉でイメージするのは、人間の心と体に悪いことを生じさせる目には見えない力のことです。パウロはガラテヤ書5章19節に日茶飯事に起こる数々の事柄を述べていますが、根本的な危険が人間全体を襲っていることのサインだと云っているのです。逆に云うと、それほど人間の日常が悲しい状況であると物語っているのです。つまり、これを読むときに客観的に見ている人間の一人として読んでしまうのですが、実は汚れた霊に取りつかれている人とは、私たちなのだということです。人間は「汚れた霊」に支配されています。私たちの日常は「汚れた霊」に襲われるように生活していないでしょうか。そして自分が傷つき相手を傷つけるような生き方をし、それを嘆き苦しみながら生きているのではないでしょうか。
ところが今日の聖書は、イエスが語ると悪霊から解放されて生きることが出来るようになったと云うのです。さて、それはどんな言葉かというと、ルカ6章20節以下の山上の説教だったのではないかと考えます。汚名を着せられている人は幸いだと語ったのです。本当に驚くべきことであり、信じられないような言葉でした。しかし、信じられない宣言が力を持つのは「神があなたを愛しておられる」という事実があるからです。この事実で基盤が変わるのです。イエスの教えは生活の基盤が「神の愛」であるという宣言なのです。言葉が力あることを知り、力ある「救いの言葉」であると驚いたのです。

2018年3月26日月曜日

2018年3月11日

2018年3月11日 受難節第4主日礼拝説教要旨
 「救い主は我々の間におられる」 宇野稔牧師
 ルカによる福音書 4:16~30節
 ルカはイエスの宣教を書き始めるにあたって、故郷ナザレに帰った話から始めます。安息日に会堂に入って礼拝を守るのです。聖書の朗読が行われ会堂長からイエスは指名されます。渡されたのはイザヤ書61章でした。読み終えて巻物を返した時、ナザレ村の人々は一斉にイエスに注目したと云います。読まれた中に驚く言葉が「今日、この言葉は実現した」というのです。人々は驚きと同時に「この人はヨセフの子ではないか」と云います。それに対してイエスは毅然として「預言者は故郷では歓迎されない」と云い二人の預言者を挙げて、救いの言葉はむしろ異邦人の中から実現されると話したのです。それを聞いたナザレの村の人々は激怒しました。イエスを殺そうと思うくらいに激しい怒りをぶつけて来たのです。
 しかし、イエスは怒涛の中、人々の間を通り抜けたとあります。どんな方法か、様相だったかわかりません。ただ、憤る人々のただ中を当たり前のように歩まれたのです。大変不思議なことですが、何故人々はイエスを殺そうと思うほどに怒ったのでしょうか。ガリラヤは革命的な雰囲気の強い町で、この時期は資本の集中が進み、地域経済が破滅しかかっていたのです。ナザレの村も例外でなく土地を手放し小作労働の貧農として生きなければならない人が多かったのです。人々の不満は爆発寸前にありました。その人々が最後の望みとしていたのが、イザヤ書の「復興預言」でした。それを実現する救い主を待望していたのです。
 その時イエスが語ったのは、復興の実現ではなくむしろ異邦人に対する神の憐みだったのです。敵と思っている異邦人にも神の恵みは与えられるという意味が「今日、実現した」という宣言だったのです。神が敵のような私を愛して下さったのだから、あなた方も恩讐を捨ててイエスの愛を生きる者になりなさいと云われています。
受難節、イエスの苦しみは赦すための苦しみでした。愛と赦しのキリストが我々の間にいて下さるのです。

2018年3月20日火曜日

2018年3月4日

2018年3月4日 受難節第3主日礼拝説教要旨
  「優れた方とは」 宇野稔牧師
   ルカによる福音書 3:15~22節
 混乱と困惑の時代にバプテスマのヨハネが現れて、神の裁きの日が近いので悔い改めるようにと人々にすすめます。神の前に悔い改める必要があると説いたヨハネの言動に人々はヨハネこそメシアではないかと思うのです。しかしヨハネは自分が救世主であることを否定し16節を語り、自分はやがて来るメシアと比べるなら僕の値打ちもないと云ったのです。ただイエスが来ることを人々に宣べ伝え、何者であるかについて語ったことこそヨハネの使命だとルカは考えたのです。さらに重要な役割がイエス・キリストに洗礼を授けたということでした。しかしながら、ヨハネの洗礼は神の前に罪を犯した人がそのことを悔い改めるものでしたが、どうしてイエスはこの洗礼を受けられたのでしょうか。
 確かにイエスは神の子なのですから、全てを支配することが出来るでしょう。その方がその権威と力の一切を行使せず、洗礼を自ら受けることによって本当の救い主とはどういうものかを示されたのでした。全能の神が人間に徹底的に共にいようとする、悲しみ、辛さ、寂しさ、切なさ、全てを担い背負う、そういう愛が人を本当の意味で救うということを示すことだったのです。罪の洗礼を人と共に受けることに置いて、救い主の姿を表して下さったのです。ヨハネはイエス・キリストを「私より優れた方」と紹介していましたが、優れたという「にんべん」は人間が互いに支え合っている姿です。「あなたの憂いを自分の憂いとする」のです。ご自分の痛みをご自身の痛みとして下さった、それが神の愛なのだということをイエスの洗礼は示しているのです。
 私たちは神に愛されている存在です。全能者の愛を受ける存在なのです。神はここにおられ、ここであなたを愛し、あなたと共に常に一緒です。私たちの憂いをそっと担おうとして下さっているのです。優れた方が来られる。ヨハネは私たちに救い主を紹介したのです。確かに受け止めましょう。

2018年3月13日火曜日

2018年2月25日

2018年2月25日 受難節第2主日礼拝説教要旨
  「霊の力に満ちて」 宇野稔牧師
    ルカによる福音書 4:14~15節
 イエスは宣教を始める前、荒野で祈りつつどのような仕方で人々を救うか考えられ、徹頭徹尾神の愛によって人を救うという結論に至り、その宣言の箇所です。ポイントは「霊の力に満ちていた」という言葉をどう理解するかでしょう。イエス・キリストに従うのがキリスト者なのですから「霊の力に満ちている」という表現もイエスの姿として描かれると同時に、キリスト者がどのようなものであるかを語っている所と云えます。
 教会の中には非常に熱心な伝道活動をする教会があります。しかし、多くの教会は「聖霊を受ける」ことを強調されているように思えます。「霊」というものは、聖霊のことで「見えないけれど私たちに働きかける神の力」のことです。さらにもっとも重要な決定的な霊の働きとしては神と人間を結びつけることです。不思議なことに今まで何でもなかったキリストの言葉が今の自分自身への神のメッセージとして響いてくることがあるのです。ある時は決断を促す言葉として、ある時は忍耐を求める言葉として迫ってくるのです。それこそが聖霊の最も大きい働きなのです。モーセはエジプトで奴隷であったイスラエルを導いてエジプトから脱出し約束の地に人々を導いた時、とても苦しい状況の中で神は必ず民を救って下さると確信し何事にもうろたえなかったのです。パウロは獄中にとらえられていつ殺されるかわからない状況の中で「喜びの手紙」を書き「感謝」「恵み」という言葉が出て「霊の力に満ちて」いるからと云うのです。
 この二人は死と隣り合わせの毎日を送っているのですから、心の中には焦燥が生まれ、不安と闘っていたことでしょう。その思い当たるのがキリストは十字架の死に至るまで徹頭徹尾耐えられたし、へりくだられ、愛して下さったという事実でした。その恵みを私たちは信じているのですから、苦難の中でも喜び感謝して生きているのです。それが「霊の力に満ちる」という生き方です。

2018年3月6日火曜日

2018年2月18日

2018年2月18日 受難節第1主日礼拝説教要旨
  「神殿で献げられる」 宇野稔牧師
   ルカによる福音書 2:25~38節
 シメオンとアンナという2人の人物が登場します。シメオンというのは「聞き入れられる」という意味です。同様のことはアンナにも言えます。2人を支えてきた願いは、それはイエスを拝することによってかなえられたということです。しかし、何故赤ちゃんイエスに出会ったことがそんなに重要なのでしょうか。もう一つ不思議なことはシメオンは赤ちゃんイエスを祝福してから、マリアに対して不穏なことを伝えているのです(34~35節)。即ち「倒されたり、立ち上がらせたりする」とは、戦いがあるということでしょう。救い主の登場とこの悲劇な歌は矛盾しているように見えますが、決して矛盾していないとシメオンは云います。救いというのは、たとえ私たちの人生の絶頂の時に訪れるのではなく、困惑し、混乱し、恐れ悲しんでいる時に訪れるのです。
 むしろ、順風満帆の時は神の業を発見することが出来ないのです。知らずして自分の力を過信するようになり、何事も自分の魅力と能力でやり遂げてしまうと考えているのです。ところが絶頂期とは反対に、もう終わりだという時に神の働きを救いとして経験します。共にいて下さっているイエス・キリストと出会うのです。実はこのシメオンの言葉は十字架の預言です。キリストが来たことは喜びであり同時に十字架の死が預言されているのです。
では何故2人は喜んだのでしょうか。それは29節からのシメオンの歌「主よ今こそ(ヌンクデミタス)」と呼ばれ、世々の教会で愛唱されてきたのです。幼子の中にシメオンが見たものは何かと云えば、神の意志であり、十字架についてまで人間を救済するのだという神の強い決意、云いかえれば、自らを悲惨の極みに赴くという生き方、神の救いを人々に啓示するという神の愛を見たのです。シメオンとアンナは「今、この時に神の愛は自分に向けられている」それが「主よ今こそ」の意味に他なりません。

2018年2月28日水曜日

2018年2月11日

2018年2月11日 降誕節第7主日礼拝説教要旨 ~信教の自由を守る日~
 「平和を実現する人々は幸いなり」 宇野稔牧師
   マタイによる福音書 5:9節
 イエス・キリストは山上の教えの中で「平和を実現する人々は幸いである」と語りました。この言葉はギリシャ語でエイレーノポイオス(複数形)と云い聖書の中ではここ1ヶ所しか使われておりません。当時のローマ社会では一般に単数形で使われていた言葉です。「平和を実現する人」とはローマ皇帝その人であったのです。「すべての道はローマに通ず」と云われるぐらいローマの支配は確たるものとなっていたのです。特に、軍事力、経済力、政治力でした。周辺諸国を侵略し、力による支配をいきわたらせたのです。「ローマの平和」はこの圧倒的な力の支配によるものだったのです。しかしイエスは「平和を実現する人」ではなく「平和を実現する人々」と語っています。ローマ皇帝だけではなく、一人ひとりが「平和を実現する者たち」であると告げています。
 それはイエスの周りに集まっていた人々、ローマの支配のもとに置かれ、抑圧と搾取の中で貧しい生活を余儀なくされている人々、その人に向かってイエスは「あなた方、平和を実現する人々は幸いである」と告げ、その人々こそ神の子たちと呼ばれるのです。その人々とは、言葉を変えれば「愛に生きる」人々のことです。さらに「敵を愛し自分を迫害するもののために祈りなさい」を実行する人々です。それは暴力によってではなく、人を支配し人の上に立とうとするのではなく、キリストが私たちに仕えられたように互いに仕え合う道なのです。
 平和とは、イザヤが預言したように「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ。主の中を歩もう。(イザヤ2章4節)」今私たちに出来ること『ハチドリのひとしずく』という書物から示され教えられました。イエスは「平和を実現する人々は幸いである」と語られた時、何万何十万もの大きな運動を意味されているのではなく、平和のために今あなたが出来ることをしていくことを語られているのです。今できることは何かを見つけましょう。主の導きを祈りつつ。

2018年2月19日月曜日

2018年2月4日

2018年2月4日 降誕節第6主日礼拝説教要旨
 「当たり前のこと」 宇野稔牧師
  ルカによる福音書 2:41~52節
 イエスが12歳になった時の物語で、ルカにしか記述がありません。慣例に従って両親は過ぎ越しの祭りにエルサレムへ巡礼に行くのです。ナザレからエルサレムへ行くのにおおよそ3日間の旅だと云われています。祭りに参加するため、何日か滞在した帰り道で両親はイエスがいないことに気づきます。両親は翌1日かけてエルサレムに戻り、そして3日目に神殿にいるイエスを発見します。その間の両親の気持ちは心配を越えた「悶え苦しむ」という意味を示します。48節の両親の言葉に対して49節のイエスの言葉は両親にとって意味が不明であったとも書かれています。
 ではこの物語がなぜ書かれているのでしょうか。何か重要な意味を持っているのでしょうか。まず「3日」という数字です。つまり3日という数字を出すことで、これはイエスの十字架と復活に関する物語だと云っているのです。次に「捜す」「見つける」です。つまり「捜す、見つける」は死んだような存在に再び生命を与える神の愛を示します。だからこの物語は12歳の少年イエスの物語を借りながら、実は十字架と復活のことを語っているのです。ルカはイエスの言葉として「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのが当たり前だということをご存じなかったのですか」と記しました。当たり前という言葉は原語で「神が定められた」という意味を持っています。つまり十字架と復活のイエスこそ救いの中心であってこれが神の定められたことなのだというのです。イエスの両親は見失ったと思い、悶え苦しみました。しかし彼らは3日目に出会います。
イエスは自分を裏切り見捨てた人間のために十字架につかれました。イエス自ら十字架の苦難を負うことによって愛とは何か、愛によってつくる神と人間の関係は何かを具体的に教えてくださったのです。復活して生命となって下さったのです。その3日目のイエスこそ救いの中心です。神が定められたことであり「当たり前のことだ」とルカは語ります。私があなたを愛していることは「『当たり前のこと』なのです」と。

2018年2月12日月曜日

2018年1月28日

2018年1月28日 降誕節第5主日礼拝説教要旨
  「ペトロ イエスの足跡」 山下 毅伝道師
  ルカによる福音書 5:1~11節
 内村鑑三の門下生には、商売人の方が多くいました。その商売人に対して「まず神の国と、神の義を求めよ」そして、神のために商売せよ、と述べています。
 イエスも現実の生活に関心を持たれていました。ルカ5:1―11には、ペトロはガリラヤ湖でまる一昼夜漁をしていたけれども、何も捕れなかったという物語があります。失望に落ち込んでいるペトロの「空の船」にイエスが乗り込んで来られます。イエスの指示に従って、網を下したところ、多くの魚が網にかかりました。この出来事は、漁の経験豊かなペトロにとって、驚きでした。イエスがペトロとともに漁師として働いて下さり、ペトロの「空の船」を満たして下さるのです。ペトロの「空の船」は、私達に、意味深長な教訓を与えてくれます。ですから、私達は、人生を歩む道で、「空の船」になる場面がありますが、絶望してはならないのです。悲しく苦しい時、まさに父なる神が私達を、訪ねて下さる良いチャンスなのです。多くの人は、この世の中で、肉の欲とこの世の誇りに従って世俗に酔って、人間の知恵と手段と方法で、何のために生きるのか知らずにいきています。
マタイ6:33には、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」これは私達に人生の真の目的を教えてくれる言葉です。主を信じる私達は人生を生きて行く目的を、この世の経済や名誉を高めることに置かないで、神の国とその義とを求めることに置くとき、父なる神の恵みの中を進んで行くとき、世の中に生じて来るすべての必要な問題は父なる神が解決して下さることを体験します。主はいつも教会の中だけにおられ、「霊魂」の問題だけを解決されるのではありません。イエスは御言葉を伝えられた後、ペトロと事業に参加されました。イエスは私達と共に、職場に、家庭に、事業場に訪れて現実の問題を解決して下さるのです。

2018年2月5日月曜日

2018年1月21日

2018年1月21日 降誕節第4主日礼拝説教要旨
  「質素に」 桝田翔希伝道師
  マタイによる福音書 6:25~28節
12月の初め、家の冷蔵庫が壊れました。変な音がしていてどうしたんかなぁと思い2~3日様子を見ていたのですが、冷凍庫の氷が溶け出してしまいました。新しい冷蔵庫を買わんといかんなぁとは思ったのですが、今週買いに行こうと思いながら1ヶ月が終わってしまいました。結局、今でも冷蔵庫なしの生活をしているのですが、無くても案外生活できるなぁと思っています。
さて今日の聖書箇所では思い悩まずに、私たちの周りに普通に生きている鳥や、普通に生えて咲いている花をよく見なさいと語られています。考えてみますと、私たちは2000年前の人たちと変わらないような悩み事も抱えていますけれども、それ以上に多くのことで自分をよく見せよう、着飾ろうとして悩んでいるようにも思うのです。私たちの生活は2000年前に比べて非常に便利になりました。車や携帯、様々なもののおかげで私たちの生活は非常に便利なものになりました。しかし、便利なもので着飾るような生活のなかで私たちの生活は逆に「余裕」がなくなってきたように思います。そもそも私たちは野の花や空に飛ぶ鳥を眺めるような時間や心の余裕を持っているのでしょうか。冷蔵庫がなくても電気を使わないエコな生活ができると思いましたが、結局のところ自動販売機やコンビニと言った電気を使ったものに頼り切っている自分に気づきました。私たちの生活は、公害などの人の悲しみを含みながらも、ある程度後戻りできないようなものになりつつあります。着飾らない質素な生活はとても難しい生活なのではないでしょうか。
この聖書箇所では長々と思い悩まないようにと奨めていますが、最後に神の国と義を求めなさいと要約されています。一見すると難しいことを求められているようにも思いますが、野の花を見よという言葉と並んで語られていることに意味があるのだと思うのです。野の花を見るように、そんな自然な姿で、日々神に向き合いなさいと奨めているのではないでしょうか。空を飛ぶ鳥を仰ぐように神を思う生活を送りたいものです。

2018年1月29日月曜日

2018年1月14日

2018年1月14日 降誕節第3主日礼拝説教要旨
 「まことの礼拝」 宇野稔牧師
  ヨハネによる福音書 4:23~24節
  民数記 15章32~36節(研修会テーマ「礼拝」)
イスラエルの人々が神の示しによってエジプトを脱出し、神の約束の地カナンに向けての旅にあった時、一人の人が安息日に焚き木を集めていました。これを見た人々は彼を捕えてモーセのところに連れて来ました。その時、主はモーセに「その人は必ず殺さなければならない。全会衆は宿舎の外で彼を石で打ち殺さなければならない。」と云われたのです。そこで人々は彼を外に連れ出し、石で打ち殺したのです。まさに残酷物語です。しかもこのようなむごたらしい仕打ちが神の命令であるということは、私たちにとって大きなショックです。なぜ神はたかが焚き木を集めたくらいの人にこのような残酷な仕打ちを命じたのでしょうか。殺しとか盗みとか不品行をしたとかというならまだしも……。しかしイスラエルの人々が神の約束の地に到達するのには、こうした厳しさが必要だったのではないでしょうか。
イスラエル民族の出エジプトの記事は、私たちに自分の信仰生活の姿を見るようなことがあります。御言葉に従って生きて行こうとする者の信仰も確かに出エジプトです。肉の国エジプトにいながら神の約束に与ることはできません。私たちはこうした信仰生活を全うするためにはやはり厳しい態度が必要です。
気が向いた時に教会に行ったり行かなかったり、聖書を読んだり読まなかったり、この様な信仰生活ではこの世の誘惑や自分の弱さに打ち勝つことはできません。「安息日でも焚き木を集めよう」という甘いささやきに対して、石をもって立ち向かうような厳しさがなければ、決して神の国に入ることはできないのです。私たちはどんな嵐にも破船してはなりません。その為に大切なことは、自己に対して厳しくあるということです。その最も具体的な生活は聖日厳守ということです。まことの礼拝とはヨハネ4章23~24節に尽きるのです。研修会でさらに学びます。資料をお読みください。

2018年1月22日月曜日

2018年1月7日

2018年1月7日 降誕節第2主日礼拝説教要旨
 「神に栄光、地に平和」 宇野稔牧師
 ルカによる福音書 2:14~20節
 クリスマス物語になれ親しんでいる者にとって、羊飼いの物語は当たり前のように読んでしまうところなのですが、実はここには驚きをもって読むところではないでしょうか。当時の社会の中で律法を守らないで救いから最も遠い人間だと考えられていた羊飼いに、救い主誕生の最初の知らせがもたらされたというのが最初の驚きです。次の驚きは飼い葉桶に寝かせる赤ちゃんに対面するのですが、自分たちより貧しい弱い存在だったのに、神をあがめ讃美したという点です。さらに信仰心がないはずの彼らは羊を置いてイエスを礼拝しに行った事です。
 こう考えてみると驚くことに常識が逆転しているような物語です。つまり救い主が生まれたということは価値観がひっくり返っている出来事に違いありません。私たちは今、出会っている様々な事柄を一生抱え込まねばならないのかと思うのですが、「そうではない」と聖書は宣言するのです。そこでルカは一人の人マリアを登場させるのです。マリアは一連の事柄、即ち受胎告知、エリサベトの訪問、ベツレヘムの旅、馬小屋での出産、見知らぬ羊飼いたちの訪問に「思い巡らしていた」のです。この「思い巡らす」というのは、あれこれ考えていたのではなく一つ一つを集めて大きいものを考えるという意味で使われているのです。即ち、これらの出来事の多くは辛く、悲しく、惨めなことに思えるけれど、それをつなぎ合わせていく、そこに人智を越えた大きな神の計画を考えていたというのです。
一連の出来事は理不尽で惨めさを残しながらも、もっと大きい所から神は私たちを導き、何よりも愛して下さっているということを確信するという生き方、それがマリアの思いを巡らすという言葉に代表されています。私たちも一つ一つの出来事を紡ぎながら大きな神の愛に感謝し、崇め、讃美しつつ新しい年を歩んでいくのです。天使の告げた<神に栄光、地に平和>は神からの私たちへの応援歌なのです。

2018年1月15日月曜日

2017年12月31日

2017年12月31日 降誕節第1主日礼拝説教要旨
 「ナザレ人と呼ばれる」 山下 毅伝道師
 マタイによる福音書 2:13~23節
 妻マリアの聖霊による懐妊は、ヨセフにとって大変な苦悩をもたらしました。その時代のユダヤの法律では、マリアにとって、石打の刑に当たるものでした。ヨセフはただ神様を信頼し、全てをゆだねます。「御子の誕生」という、最高の喜びに満ちた出来事を守られます。
「救い主の誕生」を知った、その頃ユダヤの地を支配し暗黒政治を行っていたヘロデ王は、二歳以下の男の子ども達を一人残らず殺してしまいます。その残虐を神様の導きによって知ったヨセフは「幼子イエス様」と、マリアとともにエジプトに逃れます。ヨセフは、この世の中の政治の矛盾に満ちた現実の中で、神様の指示に従って、ただ服従して従って行きます。ヨセフはただ黙って従っているように見えますが、心の中には大変な戦いがあったと思われます。神の言葉に従う、信仰の歩みは、私たちにとっても戦いの歩みです。
イヌイット(日本で昔エスキモーと呼称していたアラスカ先住民)の人々の伝道のために、殉教した一宣教師がいました。その地には飢餓に苦しむイヌイットの人々が、期限をきって、イヌイットの人々に食料である「鯨」を与えるように要求します。宣教師は必死になって祈りますが、「鯨」は期限までに与えられません。宣教師は崖から突き落とされ、死んでしまいますが不思議にその死体のそばに「鯨」が一頭、イヌイットの人々に与えられました。この奇跡に、イヌイットの人々は宣教師が仰ぐ神様に改宗します。宣教とはこんなに厳しいものだと思います。イエス・キリストは現在も生きて、私たちのそばにいてくださることは、私たちの救いであり慰めです。ヨセフ達は、神様の導きによりナザレの地に住みます。ナザレはその頃のユダヤの地においては辺境の地であり、田舎の地です。しかし、その地名はイエス・キリストの低さ、謙遜さ、を表わす地名です。私たちは、謙虚に、主を仰ぐとき私たちの魂の中にイエス・キリストは住まわれ、私たちは生きる勇気を与えられます。

2018年1月7日日曜日

2017年12月24日

2017年12月24日 降誕日(クリスマス)礼拝説教要旨
  「主の母 マリア」 宇野稔牧師
  ルカによる福音書 1:46~56節
 ここには「マリアの賛歌」又はマニフィカートと呼ばれる歌が伝えられています。これは妊娠した後のマリアが天使のお告げによって、エリサベトを訪問した時に歌われたものでした。マニフィカートはギリシャ語では「メガリュノー」という言葉で、「メガ」というギリシャ語は「大きい」という意味があります。日本語では「私の魂は主をあがめ」と訳されていますが、直訳すると「私の心は主を大きくする」となります。つまり神をあがめるということは、神を大きくすることです。逆に言えば、私たちの心の中で神を小さくしているのではないかと問われているのです。
具体的にマリアが歌ったことは神の力によって起きる「逆転」であるのです。大人になれば何でもできる、そしてできることこそ素晴らしいことで価値のあることと感じる社会に私たちは生きています。しかし赤ちゃんの周辺だけは違います。強いもの、大きいものが低くなって、小さくて弱いものを大切にするのです。マリアは何よりもまず、主は大きい、主の恵みは大きいと声を上げたのです。何と比べたのでしょうか。自分は小さいけれど、主はこの小さいものに目をとめて下さる、主の恵みは大きいと歌っています。神はまさにこのような世界を形づくるためにイエスを最も弱い赤ちゃんという形をとってこの世に送って下さったのです。
私たちは自らが弱く小さかった時のことを大人になりこの世的な強さを身に着けるにつれて忘れてしまいます。大きい者と小さい者が共に生きていく社会を忘れてしまっているのです。神がご自身を低くして人間になられたという逆転が起こったこのクリスマス、主の母となり、恐れや不安の中にあっても本当の強さに気づき「私の心は主を大きくする」と神を讃美したマリア。彼女のように神の前で傲慢に生きてしまいそうになる自分を小さくし、一人ひとりの心に主を大きく迎えたいと思うのです。クリスマスという大逆転の今この時、私たちの周りにいる人に目を向け、共に生きる歩みを始めたい。

2018年1月2日火曜日

2017年12月17日

2017年12月17日 待降節第3主日(アドベント)礼拝説教要旨
   「罪を許すという宣言」 宇野稔牧師
   ルカによる福音書 7:36~50節
 イエスはシモンというファリサイ派の律法学者のもとに招待されました。「食事の席につく」という表現は珍しい表現であり情景です。ところがそこに「罪深い女性」がいたのです。彼女は社会の歪みの中にある被害者の一人なのですが、その非難は集中するのです。その彼女がシモンの家に入ってきて、泣きながら自分の髪でイエスの足の汚れを拭い、イエスの足に接吻し香油を塗ったのです。私たちは驚きますが、さらに驚くことはファリサイ派の家に入ったということです。彼女は自分の存在の全てをイエスにより頼んでいると云えます。
 一方それを見たシモンは、それが何者か見抜けるだろうと心の中で思います。イエスは見抜いています。このファリサイ派シモンが自分の罪に気付かずに神の前に傲慢な人間であることを見抜き、借金を帳消しにしてもらったたとえ話をして、自分の罪を知った人間が神の愛に応答できるのだということを示します。ファリサイ派シモンはイエスを招きましたが、その態度は無礼だったのです。イエスはシモンの接待とこの女性の態度を比べて47節の言葉を語ります。イエスが示したのは、神の愛と出会った者は、そして神の赦しを知った者は、愛に生きるのだというのです。この箇所を間違って解釈すると「神に赦してほしければ、多く愛しなさい」と受け取ってしまいますが、それでは倫理であり道徳です。信仰とはイエスと出会いながら生きることなのです。
 罪深い女性と呼ばれ続けてきた彼女は、イエス以外に自分を救う者がいないという確信を持ったのだと思います。その確信があったからこそ、彼女は神の愛と出会うことが出来たのです。彼女が全てを捨てて、全てから解放されてシモンの家に来て、ベールを捨てて素顔のままでイエスに仕えたということの背景はこれ以上考えられません。神が赦すと云うのですから、だれも責めることが出来る人はいません。だから「安心して行きなさい」とイエスは私たちに語りかけておられます。