2022年6月26日日曜日

2022年6月19日

 2022年6月19日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨

 「予想外の答え」 大林叡貴師

   ヨハネ9:1-3とローマ12:6−8 

 今年の4月に、京都教会の担任教師に就任いたしました、大林叡貴と申します。

 なぜ私がキリスト教徒に、そして牧師になったかお話をさせていただきたいと思います。

 2014年のことだったと思いますが、父が教会へ行ってみてはどうかと勧めてくれました。行ったのは日本基督教団豊橋教会でした。しばらくそこに通わせていただいているときに、教団が出している『心の友』に、今は廃止されてしまいましたが、「今月の説教」というコーナーがあり、ある牧師さんが『ヨハネによる福音書』の第9章1〜3節を取り上げ、「障害をどうとらえるか」と題して説教されておられました。

 私は全盲であり、光覚も全くありません。『ヨハネ福音書』の9章の彼同じく、生まれつきの視覚障碍者です。そこで、「自分が全盲ってどういうことなのだろうか」を問い直すことになったわけです。その答えを出すには、かなりの時間がかかりましたが、最終的には、イエス様がおっしゃっている通り、「神様の業が現れるため」だという結論に至りました。問題だったのは、私に対する神の業とは?というものでした。

 その答えは、『ローマの信徒への手紙』第12章6〜8節にありました。この手紙を書いたパウロという人は、相手先の教会員に対し、「あなた方は何らかの賜物を持っていますから」という言葉で始まる文を書いています。そのあとの個所も含めて、私はこう思ったのです。「神様は、誰にでも賜物をくださったわけだけれども、全盲の私には、見えないからこそのたまものを神様はくれたはずだ。そうであるのならば、私はそれをどう生かすべきか。そう、伝道ではないか。」と。つまり、今日の聖書個所の一つ、『ヨハネによる福音書』第9章1〜3節のうち、3節でイエス様がおっしゃっている言葉を伝えることだというわけです。

 『ヨハネによる福音書』第9章1〜3節は、イエス様が生まれつき目の見えない人に出会われるシーンですが、重要なのが弟子との問答で、弟子は当時のユダヤ教の考えに従って2節のような質問をしたのです。ところが、その考えを全否定する予想外の答えをイエス様は返され、それが3節の言葉です。「この言葉を伝えることを、神様はミッションとされた」と私は確信しております。まさに、2節のような疑問をいまだに持っている人に対して。

 障害のある人の生きる意味は、「神の業が現れるため」と考え、伝道をされた方として、今駒泰成牧師がおられ、私も彼と同じ考えを持っておりますので、引き続きこれについて考え、伝道してまいりたいと思います。


2022年6月18日土曜日

2022年6月12日

 2022 年 6 月 12 日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

 「わたしはだれ。あなたはわたしの愛する子。」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 1:9-11 節

 マリリン・モンロー主演の映画に「お熱いのがお好き」の題名は、イギリス童謡の「マザー・グース」に由来します。「お熱いのが好きな人もいれば 冷たいのが好きな人もいる 中には 9 日前から鍋に残っているのが好きな人もいる」。いろいろな人がいるということが良いことなのだということがあるのでしょう。マリリン・モンローは、「アメリカのセックスシンボル」というように言われ、いまでも

 偶像化されています。しかしマリリン・モンロー自身はいつまでも「アメリカのセックスシンボル」と言われることが嫌だったと言われています。

 私たちはよく人からどのように見られるのかということに、こころを惑わします。そしてできればよく見られたいと思います。自分を押し殺してでも、人からの評価に自分を近づけたいと思ったりします。しかし、あまり人の評価ばかりを気にしていると、いったい自分は何者であるのかということがわからなくなります。自分がどのように生きたいのか、自分は何を大切にしていきていきたいのか。そうした人生における大切な問いを見失ってします。

 「わたしはだれなのか」。人からの評価にさらされ、自分はだめな人間ではないかと沈みがちな、私たちに対して、神さまは言われます。「あなたはわたしの愛す

 る子、わたしの心に適う者」。私たちにとって大切なことは、私たちが神さまから愛されているということです。私たちが何かができることが大切なのではありません。私たちが神さまから愛されているということが大切なのです。私たちが神さまからの愛を受けて生きている、神さまの愛する子であることが大切なのです。

 使徒パウロは、「信仰による義」ということを言い、救いは私たちが何かをすることによって与えられるものではなく、神さまから無償で、神さまの憐れみによって、神さまの愛によって与えられるものだと言いました。使徒パウロは私たちがなにかできることが大切なのではなく、神さまが私たちを愛して下さっているということが大切なのだと言いました。

 「わたしはだれなのか」という問いに対して、私たちは「わたしは神さまの愛する子。神さまの御心に適う者」と答えます。私たちは神さまから愛されている一人一人、かけがえのない神さまの子です。神さまは私たちのことを愛してくださり、「あなたはわたしの愛する子」「あなたはわたしの心に適う者」と、私たちを祝福してくださっています。神さまの愛のうちを、安心して歩んでいきましょう。


2022年6月10日金曜日

2022年6月5日

 2022年6月5日 聖霊降臨節第1主日礼拝説教要旨

 「聖霊に満たされた私たちの歩み」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 3:20-30節

 ペンテコステおめでとうございます。

 一番最初のペンテコステの出来事のときも、聖霊を受けた弟子たちのことをあしざまにいう人たちがいました。「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた」と記されています。

 あざけったり、あしざまに言ったりと、私たちはこころないことをしてしまうときがあります。イエスさまは「国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない」と言われました。内輪もめをして争っていれば、立ち行かず、滅びてしまう。たしかにそうだと思います。正しいことを言っているつもりであっても、だんだんと周りの人々が離れ去ってしまうというようなことがあります。わたしが絶対に正しいと思っていることも、ほかの人からすればそんなに正しいことではないということもよくあることです。だからなんでも譲歩しなさいということではないのですが、ただあざけったり、あしざまに言ったりするのではなく、やはり愛をもって話し合うということを心がけるべきなのだろうと思います。

 今日はペンテコステです。さきほどお読みいたしました聖書のペンテコステの箇所にはこうあります。「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。聖霊に満たされた弟子たちは、自分の国の言葉で話し出したのではなく、ほかの国々の言葉で話し出しました。それは自分の都合ではなく、相手の都合で話すということです。自分勝手に話すということではなく、相手の立場に立って話すということです。

 「あの男は気が変になっている」「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「彼は汚れた霊に取りつかれている」。イエスさまはそのように人々からあしざまに言われました。イエスさまの弟子たちも聖霊を受けたとき、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っている」と人々からあしざまに言われました。そうしたことは、ままあるわけです。聖霊に満たされた私たちの歩みがあると、聖書は私たちに伝えています。それは人のことをあざけったり、人のことをあしざまに言ったりするのではなく、愛を持って話し合うということです。

 聖霊降臨日、ペンテコステの今日、私たちは聖なる霊を受けたのです。私たちには神さまの霊である聖霊が宿っています。神さまの祝福を受けて、愛をもって健やかに歩んでいきましょう。


2022年6月4日土曜日

2022年5月29日

 2022年5月29日 復活節第7主日礼拝説教要旨

 「栄光を表す時」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 17:1-13節

 人の祈りはうまく聞こえます。みんなの前で祈るのは苦手だと思う方がおられると思います。わたしも苦手です。辞典には「祈祷は賜物として神から与えられ、人は祈り得るものとさせられる」とあります。なぜ人の祈りはうまく聞こえるのかと言いますと、本来祈りというものは、神さまから与えられるものだからです。私たちは祈る時に、格好をつける必要はないのです。

 イエスさまは大祭司として、弟子たちのために神さまに対して執り成しの祈りを献げてくださっています。イエスさまは「彼らは、御言葉を守りました」「彼らはあなたのものだからです」というように、弟子たちが神さまのものであることを、一生懸命に神さまに祈っておられます。

 イエス・キリストの歩みを思い起し、イエス・キリストの大祭司の祈りを思うときに、私たちはとても励まされます。神さまのみ旨にしたがってキリスト者として生きていくとき、たとえ私たちの歩みがみじめな歩みであったとしても、私たちは栄光に包まれています。イエス・キリストもこの世から敗北と見える十字架の道を歩まれました。そしてそのイエス・キリストが、私たちのためにとりなしの祈りをささげてくださっているのです。

 格好のいい生き方、ソツのない生き方というものに、私たちはどうしてもあこがれます。わたしもそうです。姿形がかっこよくないのだから、せめて生き方くらいちょっとはかっこよくありたいと思います。「なんで自分はもっとかっこよくふるまうことができないのだろう」。そんな思いがどうしても私たちの心にはわきあがってきます。しかしそれは自分がよく見られたいという自分の栄光のためであって、神さまの栄光とは関係のないことです。

 「もっとかっこよく、もっとそつなく」というような気持ちがすべて悪いということはないと思います。しかし私たちは神さまと向き合うときくらい、そうした思いから解放されて、素直に自分を表わしたのでいいのです。神さまに向き合う祈りのときでさえ、私たちは自分の格好や自分の栄光ということのほうが気になったりします。しかしほんとうに神さまが私たちに求めておられることは、そうした私たち自身の格好の良さではなく、素直な気持ち、素直な祈りなのです。

 イエスさまは神さまの栄光をあらわすために、自分は十字架につかれました。私たちは自分の栄光を求めるのではなく、神さまの栄光があらわれるような生き方へと歩んでいきましょう。