2023年7月28日金曜日

2023年7月23日

 2023年7月23日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

 「よき働き人として」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 8:1-3節

 恵泉女学園の創立者である河井道は、アジア・太平洋戦争中も国家に対して戦争の愚かさを語る人でした。「満州国が建国されて皆が喜んでおりますが、正と義と愛がその土台でありましょうか、剣をもって建てた国は剣をもって滅びなければなりません」。河井道はイエスさまに付き従った女性でした。

 イエスさまの弟子たち、いわゆる十二弟子と言われる人々やまたその他のお弟子さんたち、そしてマグダラのマリアや、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも、みんなイエスさまの御言葉に従って歩もうとしていました。イエスさまの御言葉によって養われていたのです。【人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる】(マタイによる福音書4章4節)と、悪魔の誘惑を、イエスさまが受けられたとき、悪魔に言われたイエスさまの御言葉のとおりです。みんなイエスさまの御言葉によって養われていました。しかしそれでも人は弱いですから、イエスさまの弟子たち、熱心な女性たちと言えども、イエスさまの御言葉から離れてしまうときがあったと思います。

 そしてみんな考えたのです、自分はどんな土地なのだろうか。わたしは道端なのではないだろうか。いやわたしは石地ではないだろうか。わたしはやっぱり茨の中ではないだろうか。御言葉の種が蒔かれても、それを成長させることができず、イエスさまの教えからすぐに離れてしまう弱い者ではないだろうか。そのように、自らの信仰の弱さを思ったのだろうと思います。そして私たちもまた、弟子たちや女性たちのように、自分たちはどんな土地なのだろうかと、自らに問いかけます。そして自分たちの心の弱さを思います。イエスさまが御言葉でもって養ってくださるのに、そのことを忘れてしまって、不安になったり、心配したり、また誘惑に負けてしまったりする、自分の弱さを思います。

 それでも私たちは自分の弱さや無力さを越えて、神さまが私たちに働いてくださり、豊かな実を結ばせてくださるということを知っています。神さまの御言葉は、私たちの弱さに関わらず、【良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結】ぶのです。どんなに私たちがだめな信仰者であったとしても、神さまはかならず私たちの地に神の国をもたらしてくださるのです。

 私たちは弱く、だめなところも多いですけれども、それでも御言葉に養われている者として、イエスさまに付き従った女性たちのように、神さまの良き働き人として歩んでいきたいと思います。


2023年7月21日金曜日

2023年7月16日

2023 年 7 月 16 日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

 「わたしの罪も赦してほしい。」 小笠原純牧師

   ルカによる福音書 7:36-50 節

ファリサイ派のシモンという人が、イエスさまを食事に招きました。この町にいた一人の罪深い女性が、イエスさまがファリサイ派のシモンの家で食事をされるということを聞いてやってきます。女性は泣いていました。そしてイエスさまの足を涙で濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、イエスさまの足に接吻をして、もってきた香油をイエスさまの足に塗りました。その様子をみた、ファリサイ派のシモンは、「この人がもし預言者であるなら、自分に触れている女性が、どんな人か分かるはずだ。この女は罪深い女なのだから」と思います。

ファリサイ派のシモンは、「この女は罪深い女なのだから」と思いました。まあファリサイ派らしいなあと思います。ファリサイ派の人はいつも裁き人になってしまうのです。自分は正しいという位置に立って、人を裁くわけです。「この女性は罪深い女性だ」。じっさい、この女性は一般的に見て、罪深い女性だったのだと思います。そうした仕事をしていたということでしょう。しかしイエスさまはファリサイ派のシモンに、「そういう問題ではないのだ」と言われるのです。「シモン、この人は罪深いとか罪深くないとかではなく、あなたがどうであるのかということが大切なのだ」と、イエスさまはファリサイ派のシモンに問われたのでした。

私たちもすぐ人のことが気になります。「あの人は、どうだ」「この人は、こうだ」「あの人に傷つけられた」「この人に、こう言われた」。まあ私たちは人間ですから、人のことが気になるわけです。わたしも、人と比べて、自分の方が良い人間ではないだろうかと思いたい。

しかし大切なことは、イエスさまの愛のうちに、私たちがいるのだということです。イエスさまは女性に、「あなたの罪は赦された」「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました。女性は、イエスさまの愛のうちに自分がいるということに、とても安心しただろうと思います。「わたしにはイエスさまがおられるんだ」と、女性は思っただろうと思います。

ファリサイ派のシモンもまた、イエスさまの愛のうちにあるのです。ですからファリサイ派のシモンは、「罪深い女なのに」と思うのではなく、「この女性の罪が赦されるなら、わたしの罪も赦してほしい」と思うことができれば良かったと、わたしは思います。

私たちもまた、イエスさまの愛のうちを歩んでいます。自らの罪深さを認めつつ、イエスさまに素直に「わたしの罪も赦してほしい」とお願いする歩みでありたいと思います。


2023年7月14日金曜日

2023年7月9日

 2023年7月9日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨

「説法を聞けば直ちに眠りを催し」 山下智子牧師

   使徒言行録 20:7-12節

 「説教を聞けば直ちに眠りを催し」。新島襄は若き日を振り返り、自身がそのような居眠り青年であったことを正直に告白しています。この告白は同志社が創立されて3年半ほどたった1879年5月17日、新島が京都四条で行った演説の原稿「霊魂の病」に明らかです。

 使徒言行録にもトロイアの出来事としてエウティコという名の居眠り青年が出てきます。礼拝や授業の際に眠くなるのは誰でも経験のあることでしょう。しかし青年の場合、礼拝での居眠りが命に係わる大事件へとつながりました。彼は窓に腰を下ろしてパウロの話を聞いていましたが、話が夜中まで続いたのですっかり眠り込んでしまい、アッと思った時には3階から地上に落下し、命を落としてしまいました。

 最近日本でよく聞かれる「自己責任論」ならば「居眠りするのが悪い」「そんな場所に座るとは不注意だ」と冷ややかに評され、青年は命の責任のすべてを自分で負うことが求められることでしょう。しかし、新島襄によるならば自分が人より正しい者であると思い傲慢なのは誤ったことで深刻な「霊魂の病」です。新島は自身の経験から、この病を癒す大きな力を持つキリストにより「人間の本位」を取り戻すことができると確信したといいます。

 エウティコが落下した時、パウロは青年の元に駆け付けると、彼の上にかがみこみ、抱きかかえて、「騒ぐな、まだ生きている」といいました。すると驚いたことに青年は生き返りましたが、聖書はこの奇跡中の奇跡を非常にあっさりと伝えています。

 なぜでしょうか。青年の死は、彼自身も含め、皆が彼の命に対して当たり前の注意を怠った結果のあってはならない残念な死といえます。人々は「危ないと起こさせばよかった」「室内に座れるよう詰めればよかった」、パウロは「話が長く難しすぎたのだろうか」「説教に夢中で会衆が見えてなかった」などと後悔の念に駆られていたことでしょう。

 だからこそ、「わたしは復活であり、命である」と言われたイエスが、ヤイロの娘を「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ」と起こされた時の様に、神が一同を深く憐れんで下さり、青年が生き返った喜びと慰めはあまりにも大きなものでした。個人としても教会としても他人事として「良かったですね」などと軽々しくはとても言えない、自分事として「ああ、命を救っていただいた」と十分な言葉も見つからないまま、深い感動と感謝の内に共に聖餐にあずかり、さらに朝まで主の深い恵みを語り合ったのです。