2017年9月25日月曜日

2017年9月10日

2017年9月10日 主日礼拝説教要旨
「新しい権威ある教え」 宇野 稔牧師
ルカによる福音書4:31~37節
 故郷ナザレで人々の怒りを買って殺されそうになるという事件があり、イエスはカファルナウムにやって来ます。イエスの宣教の本拠地とも云われています。安息日に礼拝があり、そこで会堂に入って聖書について人々に教えるのですが、「その言葉には権威があった」と記されています。しかし、具体的な内容については何も語られていません。「人々は非常に驚いた」のですから、今まで聞いていたものとは全く違う教えだったということでしょう。その中身を考えるためにルカが書いているのが「汚れた霊に取りつかれた男が癒される」という物語です。
 古代ユダヤ人が「汚れた霊」と云う言葉でイメージするのは、人間の心と体に悪いことを生じさせる、目に見えない力のことです。パウロはガラテヤ書5章19節で数多くのリストを上げ、その他この類のものと云っていますが、人間が居るとトラブルがあり、これは日常茶飯事ではないかと云うのです。根本的には危険が人間全体を襲っていることのサインだと云うのです。つまりこの物語を読む時に私たちはこれを客観的に見ている人間の一人として読んでしまうのですが、実はこの汚れた霊につかれている人は私たちだということです。
 人間は「汚れた霊」に支配されているのです。私たちの日常は「汚れた霊」に襲われるような生活をしているのです。自分が傷つき、相手を傷つけるような生き方をし、それを嘆き苦しみながら生きているのではないでしょうか。ところが今日の聖書は、イエスが言葉を語ると、人は悪魔から解放されて生きるようになったと云うのです。それはどんな言葉だったのでしょうか。それはルカ福音書6章20節以下の山上の説教だったのではないかと考えています。それは本当に驚く言葉であり、信じられないような言葉でした。この信じられない宣言が力をもつのは「神があなたを愛しておられる」という事実があるからなのです。この新しい基盤に立ちましょう。

2017年9月11日月曜日

2017年8月27日

2017年8月27日 主日礼拝説教要旨
「良物件」 桝田翔希伝道師
マタイによる福音書 12章43~45節
福音書の中でイエスは様々な奇跡を起こします。目の見えない人を癒したり、悪霊を追い出したり、様々な奇跡が福音書の中で語られています。福音書の中で、イエスの奇跡は一瞬でなされることが多いです。しかし、この聖書箇所でイエスはそのような奇跡によって悪霊が出て行ったとしても、その後のことの方が本当は大切なのだと語っているのではないでしょうか。44節では家の中は整えられていたとありますが、この「整える」という言葉は、飾り立てるとも訳せます。私たちは普段、自分をよく見せようとしたり、プライドや誇りを持ちながら生きていることは、当然のことと言えると思います。しかし、この箇所では自分を飾り立てたりよく見せようとすることは結局、中身が空っぽで悪魔の住むことが出来る良い家になってしまう、何かが最後まで住み続けていないといけないと語るのです。
沖縄に生まれ反戦活動に取り組まれた阿波根昌鴻さんは、伊江島に農民学校を創ろうとしていた中で沖縄戦が起こり、息子は死に、学校を立てようと思っていた土地は米軍に取られました。彼はそのような中で、反戦地主という活動に取り組みました。米軍に奪われた土地を軍用地として契約することに対して反対する活動です。そのような反戦地主に対して政府はあの手この手で圧力をかけ、復帰当初は3000人もいた反戦地主はわずか5年の間に400人足らずまで減ってしまったのです。そんな中で阿波根さんは「ただ一人でも最後まで耐えるなら、勝利は絶対確実である」と語り、不屈の精神を貫き通したのです。
年々、クリスチャンの人口が少なくなっているこの頃にあって、教会以外の生活の場で私たちはマイノリティになります。しかしそんな状況でも、自分が最後の一人になったとしても、自分を飾り立てて良い家に見せるのではなく心に何を宿すのか、何を貫くことが出来るのかということが問われているのではないでしょうか。

2017年9月3日

2017年9月3日 主日礼拝説教要旨(振起日)
「弱さを抱えるあなたでいい」 宇野 稔牧師
コリントの信徒への手紙Ⅱ12:7~10節
 パウロは7節で「わたしの身に1つのトゲが与えられた」と云っています。このトゲは病気と解釈されますが、病気はパウロ自身だけでなく周囲の人々にとっても「試練」であったことです。一般的には「さげすんだり」「忌み嫌われる」可能性があったことが分かります。この苦しみが取り除かれるようにパウロは3回、主に祈ったと云うのです。3回祈るということは、イエスのゲツセマネの祈りを思い起こさせる言葉でもあります。「神様、どうかこの苦しみを去らせて下さい。取り除いて下さい。」しかし、それに対する神の応えは9節「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中にこそ十分発揮されるのだ。」というものでした。人間の弱さを神が必要としているのだと語りかけるのです。しかし、私たちの生きる社会は、その思想とは逆で動いています。弱いところイコール悪いところとして数え上げます。人間は弱さや悪いところを見せないように、取り繕おうとします。他人の前に常に良い自分であろうと努力します。弱さを持たない人など一人もいません。
 パウロは9節で「キリストの力がわたしの内に宿るようにむしろ大いに誇りましょう」と云います。誇るという言葉は「信頼を寄せる」「願いを託す」という意味があります。だからパウロは「自分の弱さ」をないものと考えたり卑下するのではなくそこにこそ願いを託してみよう、弱さこそキリストが用いて下さるのですから。
 私たちの人生は、全てうまくいくわけではありません。しかし私たちが挫折したように感じることがあっても自分の足りなさを嘆く時も、神が全てを完成させて下さるのだから満足することさえできるのです。パウロは力強く語ります「わたしは弱いときにこそ強いからです」この強いという言葉は神の力を表す「デュナトス」が使われています。私たちの弱さは余計なものではなく、私たちの弱さが神につながっているのです。イエスの十字架は私たちを愛するものです。弱さを抱える人に、もう苦しまなくてもいいよと伝え、自分の弱さに出会う時、それは神と出会うのです。

2017年9月3日日曜日

2017年8月20日

2017年8月20日 主日礼拝説教要旨
「人は赦される」 宇野 稔牧師
マタイによる福音書 12章22~32節
 イエスがファリサイ派から罠にはめられそうになる、そんな場面です。この物語の前で、安息日に片手の萎えた人を癒したことがきっかけになり、イエスはファリサイ派から命を狙われるようになるのです。ファリサイ派の人々はイエスを理解することよりも排除すること、つまり殺すことを計画しています。
 22節に目が見えず話すこともできない人は、ファリサイ派に利用され連れてこられたのかもしれません。しかし、この人が癒された時、ファリサイ派の人々は24節で「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と云っています。つまり「イエスは悪霊の頭と同等であり人々を癒し祈るようにみえるけれど、自作自演にすぎない」と云っているのです。そして、ファリサイ派は益々腹を立てて、イエスを悪霊に仕立て上げようとしたのに自分たちの矛盾を指摘され、自分たちでその矛盾を認めざるを得なくなったのです。さらにイエスは31~32節で赦されることと、赦されないことがあるといい、本来これは赦しの宣言であります。
 私たちは主の祈りをします。赦すことが大切だと分かっていながら、赦せない出来事があるのも事実です。怒りと憎しみで心がいっぱいになる時があります。怒りと憎しみは他者から与えられるように思えますが、それは自分自身の心の中から湧き上がってくるものです。人は許し合うよりも怒りの原因を責め、取り除こうとします。何と悲しい生き方なのでしょうか。これが人間の抱える罪です。
 けれどもイエスは、人は赦されると宣言されます。赦せない思いを抱いたまま生きる私たちを、神は赦して下さるのです。十字架は人間の罪の象徴です。無実な人を殺してしまうほどの罪です。けれども同時に十字架は、その人間を愛する神がいることを教えているのです。愛に押し出されて生きるのです。