2016年1月25日月曜日

2016年1月10日

2016年1月10日 成人祝福礼拝 説教要旨
  「安心しなさい」 宇野稔牧師
   (マルコによる福音書6章45〜52節)

 イエスは弟子たちを「強いて船に乗せて向こう岸のベトサイダへ先に行かせた」とあります。私たちはこの後、弟子たちが一晩中逆風のために漕ぎ悩むことを知っています。イエスは敢えて嵐に遭遇させたのです。その事を通して弟子たちに教えたい事があったのです。「イエスは祈るために山に行かれた」のです。この時何を祈られたかと考えると、弟子たちが信仰に立てるようにと懸命に祈られたに違いありません。
 苦しい時に誰かが私のために祈っていてくれる。それが私たちを支えます。まして、イエス・キリストが私たちのために祈っていてくれていることを忘れてはなりません。
 逆風に漕ぎ悩む弟子たちを見て、夜明け前にイエスは近づいて行かれます。弟子たちはそのイエスを「幽霊」だと思ったのです。この不思議なことは神と人間の距離が表わされているのです。苦難の時に神は接近してくださるのですが、神の接近は私たちの意図とは全く異なる方法、手段、方向性だから、自分の想像とあまりに違うので、恐れたり戸惑ったりしてしまうのです。そういった悲しい状況を打ち破るものがあります。それが主イエスの言葉です。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。「勇気を出せ、わたしが共にいる。恐れるな」とおっしゃったのです。
 イエスが共にいて下さることで十分なのです。私たちの人生の中でどんな大きな苦難、困難に出会っても、押しつぶされそうになっても、「イエスさえ共にいれば充分なのだ」というのが聖書のメッセージです。
 何故なら、イエスこそ神、嵐を静めることの出来る方だからです。自然界の嵐だけでなく、私たちの身の回りの嵐も、心の中の嵐も静めることの出来る方だからです。
 人生の中で「漕ぎ悩む」時、「勇気を出しなさい。心配しなくてもよい、私だ、私が一緒にいる。恐れても良いのだ」
 そして、私たちが信仰に立って生きられるように、祈り支えていて下さるのです。私たち信頼すべきなのは、イエスの言葉であり、祈りなのです。

2016年1月11日月曜日

2016年1月3日

2016年1月3日 主日礼拝 説教要旨
    「私は良い羊飼い」 宇野稔牧師
(ヨハネによる福音書10章7?18節)

 2016年がスタートしました。この年も「神・共にいます」年です。だからこそ、希望があります。そこに信頼し源をおいて歩む時、この年も祝福されていること間違いなしです。
 「イエスキリストは良い羊飼いである」というのが今日のテーマです。イエスは自分のことをわざわざ「良い羊飼い」と言わなければならなかったのは何故でしょうか。
 ユダヤ人は神を羊飼いと表現しました。そこから自分たちを神のもとに導く人も羊飼いと呼びました。それが自分の民族の政治的独立と重なって力ある指導者を「羊飼い」と呼んだというのです。しかし、そうした試みは何れも失敗に終わっているのですが、その中でイエスは自分こそ本当の「羊飼い」だという意味で「良い羊飼い」と表現しました。
 本当の羊飼いは羊のために生命を捨てるのだとイエスは云われます。我々は「生命をかけて」何々といいます。即ち、失うかもしれないけれども、自分の生命をかけるほど価値あるものを得られるという勘定が働いているのです。しかし「生命を捨てる」と云うイエスの言葉は、万が一にも自分の生命を救うことはないのです。何故、羊飼いは生命を捨てるのでしょうか。自分の生命と引き換えに、羊の生命を救うという行為なのです。
 14節で「自分の羊を知っており、羊も自分を知っているから」だと語ります。羊飼いと羊とではどちらが価値があるかといえば、羊飼いです。しかし、イエスは羊のために生命を捨てるというのです。
 これこそ良い羊飼いなのです。これほどまでの羊飼いが、これほどまでの愛がなければ私たちは生命を得ることはできないのです。羊飼いが羊を愛するように、私たちを愛して下さっているのに、その事に気づかず、知ろうとしていないのです。
 そんな私たちの現実と弱さを十分に知りつつ、その弱さと罪から救い出すためにイエスは「生命を捨てる」というのです。「価値のない私たちのために生命を捨てた人がいる」、常にそこに立ち帰って2016年も歩みましょう。それが私たちの門なのです。そこに真の生命があるのです。

2015年12月27日

2015年12月27日(日) 礼拝説教要旨
    「夜のうちに」 宇野稔牧師
 (マタイによる福音書2章13〜15節)

 クリスマスの喜びも束の間、羊飼いの告げた天使の歌声のことにしても、見知らぬ異邦の博士がささげた賜物にしても、ヨセフに訪れたこれら次々の事件にヨセフが陥った混乱と困惑の有様は目に見えるような気がします。
 そしてやっと一息ついた時、再び主の使いが夢に表われて「エジプトに逃げよ」と命じるのです。今では飛行機で2時間位の旅ですが、生まれて間もない幼子と産後まだ日も浅い妻を連れて、行ったこともないエジプトまでの遠い熱砂の道を行くことは、決して易しいことではありません。躊躇して当たり前のことです。しかし、ヨセフは、起きて夜のうちに幼子と母を連れてエジプトへ出発しました。(14節)朝まで待ちませんでした。
 ヨセフは神の言が与えられた時、直ちに行動を起こしたのです。何もわからぬまま神の命令にすぐに服従したのでした。
 聖書の出来事には「もし……だったら」という仮定法でものを考えるのは無意味なことなのですが、しかし、私たちは時々考えてしまいます。
 もしあの時にヨセフが疑問をもってすべてを明らかにしようとして「もう少し待ってください」とか「何故この話が必要なのですか」とか「エジプト以外のもっと近くに言い所はないのですか」などと反問したり、呟いていたら、幼子イエスがヘロデ王の虐殺から逃げることが出来ただろうかということです。
 多分ヨセフはこのような気持ちで先祖たちがモーセに導かれて通った砂漠の道を、逆の方向にエジプトに向けて旅をしたのです。
 これが信仰の服従であり、忠実さではないでしょうか。私たちにとって、イエスを迎えるということは、人生に一つの不安を呼び起こす事だと思います。私たちが不安になるほど深くイエスを迎え入れなければ、イエスを信じたことにはならないと思うのです。
 信仰とは、イエスを私の中に迎え、受け入れることであって、自分が僕になることなのです。舞台の主役を自分からイエスに譲ることなのです。ヨセフと共に直ちに行動を起こす者となりましょう。

2015年12月20日

2015年12月20日 降誕日(クリスマス)礼拝
    「喜びあふれて」 宇野稔牧師
(マタイによる福音書2章1〜12節)


  クリスマスおめでとうございます。
 占星術の学者たちは異邦人であり、救われる資格の無い人間だと考えられていた人たちでした。しかし、彼らは救い主に会うために星を頼りに旅を始めます。自分の仕事を投げるのも同然でした。旅は心細くても「キリストが生まれた」という知らせに全存在をかけていたのです。一方ヘロデ王は、王宮に住み安定した生活でしたが、それは神を必要としない生き方を意味しております。この両者は各々、その後どんな人生を体験するのでしょうか。
 ヘロデは、キリストの降誕を聞いて不安におののき、恐れが殺意を生み悲惨へと連鎖して行くのでした。恐れが殺意を生み悲惨へと連鎖して行くのです。学者たちは、旅することの不安の中でも「星に導かれている」ことを確信し、神の御手のうちにあることを知り、神と出会って行くのです。そこには「喜びあふれる」と表現される喜びを発見します。今まで知らなかったことを新しく知ったという喜びなのです。私たちの人生の中でも同様です。即ち、キリストと出会うということは、私たちが今まで経験できなかった喜びを発見することです。
 クリスマスを迎えました。神の子の誕生の知らせをキリスト教の行事だと考えて済ませてしまうことは、神を必要としないあのヘロデの生き方に通じるのではないでしょうか。
 マタイがこの物語を通して語りかけているのは、主の誕生を知らされた者は、主の言葉に望みをおいて生きるという決断をしなければならないという呼びかけです。学者たちのように全てを神に献げて生きる決断をしなさいとの呼びかけなのです。故に、自分の善悪も含めて、そこから新しい歩みを始めるということです。御言葉という星に導かれて新しく生きる決断をするということなのです。
 この決断は私たちを新しい出会いへと導きます。私たちは神に導かれ、愛されているという事実に出会わせるのです。その時、私たちも「喜びあふれる」のです。新しい出会いの喜びに感謝しましょう。

2015年12月13日

2015年12月13日 アドベント第3主日
    「三つの宝物」 宇野稔牧師
(マタイによる福音書2章1〜12節)

 クリスマスの場面で思い浮かべるものといえば、3人の学者がらくだに乗って東の国から御子の誕生を祝うために駆けつける場面です。
 東の国という言葉から、御子の誕生がユダヤ民族の枠を超えて東に広がる非ユダヤ的世界全体への神の救いの広がりを暗示していると考えることが出来ます。この記事によれば幼な子イエスを王として拝したのは学者たちだけであって、ユダヤ人たちは誰一人としてこの出来事に関心を寄せていなかったのです。
 いずれにしても当事者であるユダヤ人から遠く離れた人々に出来事の事実が明らかにされているということを抜きには、この出来事の意味を考えることは出来ません。
 また神の側から見ればクリスマスの出来事は「隠されていた」ということです。幼な子イエスの惨めさ、弱さ、貧しさは救い主イエスにとっての本質的なものであります。この世の権力とは決定的に違うのです。
 東の国の学者たちも、この世的な価値観の中に生きていました。「宝物」はそれらの象徴と考えられないでしょうか。
 しかし、彼らはそれを主イエスに差し出すのです。献げものを携えて幼な子の貧しさの前にひざまずく時、クリスマスの真の意味を感じることが出来るのです。学者たち献げた宝とは何か。それは自分にとっての大事なもの。かけがえのないものを差し出してしまうのです。それはつまり、この幼な子主イエスに対しての徹底的な服従を意味するのです。これから後の自分の命のよりどころとなるものを預けてしまうということです。それまでとは異なる価値観に生きる新しい生活に向かって歩み始める決意がそこにあるのです。
 クリスマスは、私たちの新しい歩みをもたらすための出来事です。学者たちは来た道と別の道を通って帰って行きました。自分の生活を神に委ねて変えて行こうとしたのです。
 神は呼びかけられます。「あなたも宝の箱を開きなさい」、自分の大切なものは何かを確認しなさい。それをイエスに委ねなさい。その時来た道とは別の道の発見があるのです。

2015年12月6日

2015年12月6日 アドベント第2主日 礼拝説教要旨
    「まことの光」 宇野稔牧師
(ヨハネによる福音書1章1〜13節)

 クリスマスはイエス・キリストの誕生日の日ですが、何故神の子が人間となってこの地上に来る必要があったのだろうか。
 聖書は「すべての人を照らすまことの光」としてこの世に来られたとあります。2千年前に既に光としてイエス・キリストは来ました。キリストの誕生が元年。この事実は変わることはありません。ではそれを私たちはどう受け止めるべきでしょうか。
 今日の聖書、ヨハネは降誕物語をもって始めるかわりに、言(ロゴス)、命(ライフ)、光(ライト)という三つの言葉をもって描き出しています。この言はその最も深い意味でキリストご自身と主が私たちに与えて下さったものを表しています。9節のこの世を照らすために来られたという言葉は、この世界は闇の世界であるということです。この世界は神様が創造された時は「非常によかった」と神が評価した世界でした。
 しかし、人間に罪が入って来たことにより、今は世界に悪が溢れているということです。即ち、「まことの光」であるということは、偽物の光もあるということです。民がキリストを受け入れなかったのは、偽物の光が溢れているから、敢えてキリストを求める必要がなかったのです。罪の世界に住んでいる私たちは、闇の世界であっても生活できるのです。しかし、電源が切れると消えてしまうような偽物の光に私たちを幸せにする力はありません。キリストが来られたのは偽物の光の中、幸せであるかのように振る舞う私たちのために来られたのです。
 そのために、キリストは神の栄光の全てを捨てて来られました。神は私たちが救われるために何でもなさいます。故に、まことの光を受け取るように求められています。この光であるイエス・キリストを受け入れるならば、神の子となることが可能なのです。
 先ずは自分自身がまことの光にいつも照らされ続けていることです。それはただ、イエス・キリストを心に迎え入れ、キリストが私の内で輝くことを求めるのです。

2015年11月29日

2015年11月29日 アドベント第1主日 礼拝説教要旨
    「告知を受け入れる信仰」 宇野稔牧師
(マタイによる福音書1章18〜25節)

 
 クリスマスは神ご自身で救いの出来事を完成することができるはずなのに、沢山の人を登場させ人を用いてクリスマス物語を生み出されたのです。神が人々を選んで救い主誕生の物語を紡いで下さったといえます。
 また、視点を変えて人から見ればクリスマス物語は神の告知を受け入れる信仰の物語です。ヨセフを通してみますと、婚約者マリアの妊娠が知らされます。その時いくつかの選択がありましが、彼はこの話しを公にしないで離縁することにしたのです。それによってマリアは別の場所に移り住みそこで子どもを産むことになるのです。
 ところが天使が登場し夢の中で「マリアと結婚しなさい。マリアの子どもは聖霊によって宿ったものである」といったのです。
 皆さんがヨセフなら、夢を信じるでしょうか。婚約者マリアの事実は受け入れ難いものに違いないと思うのです。しかし、告知を受け入れることは受け入れ難い事実を受け入れることを意味したのです。
 私たちも同様に受け入れ難い事実の前に立たされることが多くあります。愛する人を失った時、病いを負った時、理不尽な苦しみに直面した時、「受け入れられない」と感じます。その事実の中に身をおいて、あなたは何を信じるのかと神は問われているのです。
 ヨセフは夢で与えられた神の告知を信じます。マリアを妻として迎え救い主は誕生したのです。ヨセフが偉かった訳ではありません。神は人間の信仰を用いて降誕の業を実現して下さったのです。それは私たちへの招きなのではないでしょうか。私たちも受け入れ難い事実の前にいます。そしてその事実の前で、神にあって希望を持つようにと奨められているのです。マリアもヨセフも受け入れました。クリスマスは「神、我らと共にいます」を信じる時です。神はあなたと共にいます。どんな苦しい状況にあっても、それは変わらない神からの告知なのです。告知を受け入れて信じるものとなり、クリスマスを迎えましょう。

2015年11月22日

2015年11月22日 収穫感謝日 説教要旨
    「主がくださった恵み」 宇野稔牧師
(申命記26章5〜11節)

 
 こんな実験をした人がいます。フラスコに真水を入れて1種類だけのバクテリアをこの水の中に放したのです。バクテリアが育つために適当な栄養と酸素を供給しました。するとどんどん増えて来て、やがて栄養物がなくなって酸素も足りなくなり、みんな死んでしまうのです。
 それでは、フラスコの中でバクテリアが生き延びるためにどうしたらよいか、それは1種類だけではだめで色々の種類のバクテリアがいて、はじめてお互いに互助関係で共存できるのです。面白いのは、色々なバクテリアがいて、強いもの弱いものもいるという所です。でも強いバクテリアが自分のことばかり考えていると、弱いバクテリアはみんな死んでしまうのです。
 強いバクテリアが自分の力を弱くして、弱いバクテリアが排出するものを栄養にして生きれるようにしたら、両方とも生きられるのです。バクテリアが生き残るためには弱いバクテリアが必要ということなのです。
 この実験結果には、神が教えてくださっている大切な点と共通するものがあります。フラスコは地球です。色々な人が住んでいます。強い人も弱い人も。社会は強い人が偉いとか、凄いとか云われています。でももし強い人だけが地球の中に残ったら結局皆んな滅んでしまうのです。皆んなが一緒に生きていくためにはお互いが自分の気持ちを少し我慢して自分のもっているものを分け合わなければいけないのです。弱い人と一緒に生きることで皆んなが生きることになり、神の恵みを分け合うことでともに生きられるからです。
 いのちも、家族も、持ちものも、食べもの全て神様よりいただいた恵みなのに、すぐに忘れてしまい「自分のものだ、自分で手に入れたものだ」と思い込んでしまいます。でもこの考え方は「強いバクテリアだけで生きようとする」ことと同じで、結局皆んなが滅んでしまう道です。
 今日は収穫感謝の礼拝です。沢山の恵みを下さった神に心からの感謝をささげる日です。そして、それを皆んなで分かち合うことが神のみ心であるということを皆んなで確かめあって分かち合って一緒に生きましょう。

2015年11月8日

2015年11月8日召天者記念礼拝 説教要旨
    「信じる者は死んでも生きる」 宇野稔牧師
(ヨハネによる福音書11章23〜27節)

 
 人間にとって大切なもの、イエス・キリストは、それは道であり、真理であり、生命であると云います。ところが私たちの今の時代はその真理を見失っている時代なのです。真理が軽んじられています。皆んなが自分が得することばかりを考えているのです。本当に大切なものを求める気持ちがなくなりつつあるのではないでしょうか。それはちょっとした事から見間違ったり、読み違ったりするからです。
 例えば「貪」と「貧」です。この二つは大変似ている字ですが全く違う意味を持っています。一つは貪欲の貪です。もう一つは貧しいの貧です。共通している点は貝です。貝はお金を意味し、貪の上の「今」はお金を隠す、即ち独占してしまうことを意味します。それが貪欲の正体だというわけです。他方、貧するというのはお金を分けるという意味で上が空いているのです。
 中野孝次が「清貧の思想」という本に、清貧とはただ貧しいということではなく、自然と生命を共にして万物と共に生きることだと書いています。独占することではなく分かち合うことだという生き方がそこにあるのです。
 たとえ貧しくとも心が清らかで、持てるものを互いに分かち合いながら生きること、それが幸福への道であり、神が喜ばれる生き方だと思うのです。
 ここに今までに召天された方が661名おられます。この信仰の先達たちはイエスの道を一生懸命に生きた人々でした。イエスは「わたしは道、真理、いのちである」と云われており、キリスト者の生き様はまさにキリストに支えられ、共に分かち合って生きることを指し示しているのです。
 661名の方々の生を思い起こす時、彼らは召天されましたが、確かに今も私たちに真理を語りかけておられるのです。彼らの肉体は滅びても、彼らの信仰は生きていて、語りかけ続けておられます。まさに、信仰者は死んでも生きるのです。先達たちへの感謝をささげましょう。

2015年11月1日

2015年11月1日主日礼拝 説教要旨
    「あなたは幸いなのだ」 宇野稔牧師
(マタイによる福音書5章3〜12節)

 今朝の個所はイエスの説教の冒頭、山上の説教と呼ばれるはじめの部分のものなのですから、これは「マタイが最も伝えたかったこと」なのだと考えられます。
 イエスのもとに多く集まって来た人々とはどのような人であったかは4章24節に記されています。それは「色々な病気・・・・あらゆる病人」でした。病をもつことは、罪の結果と考えられていた当時の社会では、これらの人々は魂の孤独の中に居たに違いないのです。さらに痛みと悲しみや飢えという苦しみの中にいたのです。
 その人たちに「あなたは幸いだ」と語られたのです。「貧しい人」とは、不当に財産を奪われ、そこで悩み苦しむ人。「飢え乾いている人」は明白に食物に困っている人のことです。しかし、現実に苦しんでいる人たちに向かって「幸いだ」などと言われたのは何故か。このイエスの言葉がもし現実離れしたまやかしであるならマタイが後世の人々に伝えようとしたでしょうか。この言葉が悲しみの中で苦しんでいる人たちに力を与え、励まし、希望を与えたからこそ、私たちも言葉を受け継いでいるのではないでしょうか。
 しかし、イエスが語ったからと云って、彼らの現実の何が変わったのでしょうか。何が彼らに力を与えたのでしょうか。それは何時も「イエスが共にいる」ということです。貧しい時、悲しい時、飢え乾いている時、わたしがあなたと共にいると宣言されたのです。
 あなたは一人で耐えたり、戦うのではない、わたしが共にいて、共に苦しみを担おうという決意でこの山上の説教をされたのです。苦難の状況にあっても12節で「大いに喜びなさい」と。楽しい事ばかりだから喜びなさいというのではなく、厳しく辛いと思う時にも喜びなさいです。何故なら私たちはイエスによって愛されているからです。苦しみや悲しみより、もっと決定的なものに愛されているのです。「悩むものよとく立ちて、恵みの座にきたれや、天の力に癒し得ぬ 悲しみは地にあらじ」(旧讃美歌399)

2015年10月25日

2015年10月25日主日礼拝 説教要旨
    「杖、一本」宇野稔牧師
(マルコによる福音書6章6b〜13節)

 イエスを巡る情勢は厳しくなっていました。故郷で受け入れられなかったのですが、あえて弟子たちを伝道活動に派遣します。その伝道は「成功」していませんが、13節や30節では彼らの充実、満足が伝えられているのは何故でしょうか。具体的に派遣の内容を見ると、命令は「杖一本」だけ持ってでかけるようにということです。金銭も、食料も、着替えも、文字通り必要なものは持ち合わせなかったのです。弟子たちに与えられたのは杖一本です。
 杖という言葉で思い起こすのはモーセのことです。80歳で召命を受けイスラエルの人々を解放せよという命令です。その時に彼に与えられたのが杖でした。杖一本でファラオの前に立ったのです。いわば杖は信仰の象徴なのです。神が私と共にいるという信仰です。「イエス様、共にいてください」。派遣された弟子たちはそんな祈りの日々を送ったのです。あまりにも知らないこと・恥ずかしいこと・惨めなことに直面しながら、しかし不思議なことに守られてイエスの所に帰ってきたのです(30節)。
 自分たちは何も持っていないことを実感しながら、同時にそれでも守られていることを体験したのです。本当に必要なものは言葉や知識、能力や知恵ではなく、杖一本だけだったのです。そしてその杖とは、イエス・キリストが共にいて下さるという祈りと信仰なのです。
 人間は失敗もします。自分には力が足りない、あれが足りないこれが足りないと、不平不満が心の中を往来します。でも人間が生きて行くのに必要なことは多くありません。いいえ、たった一つなのです。誰かが自分を愛していてくれていること、誰かが自分を必要としていることです。その誰かが「だから一緒に歩もう」といってくれることです。
 そして、変わらない折れることのない杖一本、それはイエス・キリストなのです。その名前の意味は「インマヌエル。神が共にいて下さる」です。共にいて下さるイエスと共に11月も元気一杯に歩みましょう。

2016年1月5日火曜日

2015年5月24日

2015年5月24日ペンテコステ礼拝
    「聖霊の充満」 宇野稔牧師
(使徒言行録2章1~14節)

 ペンテコステを迎えました。教会が宣教を開始した日です。今日はペトロを通して聖霊降臨日のメッセージを考えます。
 ペトロはよくパウロと比べられます。パウロが優等生の扱いなのに対して、聖書に登場するペトロは、実に人間臭い失敗をする人物です。もちろん、弟子集団の指導的な働きとか、教会の大黒柱としてのペトロについても記されています。彼はこのように成功と失敗を重ねながら生きてきた人ですが、最後に決定的な失敗をします。それはイエスを否認すること、即ち第祭司の中庭で「おまえはイエスの仲間だろう」と云われるのですが、大声で「私はイエスなど知らない」と3度繰り返すのです。
 これはイエスへの裏切り、同時に時分という人間の否定でした。この言葉は彼の人生から生きる意味を奪ってしまったのです。
 彼が絶望のどん底にいることを自覚した時、自分に注がれている視線を感じます。それはイエスの眼差しでした。その眼差しはペトロにイエスと出会った時の思いや期待を思い起こさせたのです。ペトロは自分の惨めさを自覚すると同時に、そんな惨めな自分をなお愛してくださるイエスの愛に気づき大声で泣いたのでした。ペトロにイエスは聞きます、「あなたは私を愛するか」。それも3度も。ペトロは復活のイエスと出会って新しい生命を生きる決意をします。それはイエスを愛する人生です。
 そして、ペンテコステの日を迎えました。ペトロたちが集まって祈っていると、彼らは言葉には言い表すことの出来ない大きな力を感じたのです。その力とは神が共にいてくださるという確信でした。そして、その神が表に出てイエスの言葉を宣べ伝えよと語りかけたのです。ペトロは決心します、「今度こそイエスを愛するために自分の人生を生きる」と。そして人々に向かって「イエスこそ救い主」と語り始めます。神が共にいてくださるその確信こそ「聖霊のもたらす最も大きな賜物」なのです。
 聖霊に満たされましょう。そして恐れなく私たちの人生を歩もうではありませんか。