2018年6月25日月曜日

2018年6月10日

2018年6月10日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨
  【花の日・子どもの日合同礼拝】
  「それは燃える生命」 桝田翔希伝道師
  マルコによる福音書 5:1~10節
 私は小さい頃から「おばけ」が苦手で仕方ありませんでした。ある時、母に曾祖母のある言葉を教えられました。「おばけより生きている人間の方がよっぽど怖い。」
 今回は、悪霊に取りつかれ墓場につながれている男性が登場しています。墓場というのは聖書の中で「死の領域」とされて人間が住むところからは離されていました。すなわち、この男の人はみんなから嫌われ、怖がられて、「生の領域」には入って来れないように鎖でつながれていたのです。とても深い悲しみの中にあったのではないでしょうか。墓場に来たイエスに対して男は「私とあなたにどんな関係があるんだ(構わないでくれ)」と言います。恐らく墓場につながれていたこの人にも家族がいたことでしょう。また友だちもいたかもしれません。今まで関係のあった人たちに心配された時もあったでしょうが、今はそんな人もおらずただただ一人ぼっちで過ごすしかありません。しかしイエスは拒絶されながらも名前を聞くのです。名前はその人の人格であり、生き様なのです。鎖をちぎって生きようとする生命にイエスは語りかけているのです。しかし、その男は自分の名前を「レギオン」と言います。これは当時ユダヤ人を支配していたローマの軍隊の中で、数千人の兵士がいる部隊につけられていた名前でした。
 墓場につながれた人を病気以上に苦しめたのは、彼をいじめ、嫌がり、怖がった多くの人びとであったと思います。レギオン・軍隊のように大勢で力があり暴力的な人々に見えたことでしょう。私たちが生きている社会も、大多数と少数で別れてしまいます。自分が大多数の中にいる時、少数のことを気にしない時があるのではないでしょうか。生きている人間の方がよっぽど恐ろしい存在になる時があるのです。
 墓場につながれた男は、それまで関係のあった人たちからも差別を受け苦しめられていました。私たちも、気持ち悪いとか怖いという事だけで人を見るのではなく、イエスが名前を通して知ろうとしたような、人が持つ燃える生命を見つめるものでありたい。

2018年6月11日月曜日

2018年5月27日

2018年5月27日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨
「イエスの母」 金田義国牧師
  マルコによる福音書 3:31~35節
  ヨハネによる福音書 19:25~30節

私たちのプロテスタント教会はマリアをあまり大きく取り上げない癖があります。そこで今朝はマリアを中心に聖書から学びたいと思います。
私の心に焼き付くマリアの物語がふたつあります。一つ目は、プイと家出してしまったイエスにマリアが会いに来る場面です。イエスは一家を支える稼ぎ手であったことでしょう。しかしイエスは「神の御心を行うものは、誰でも私の兄弟姉妹であり母である」と言うのです。マリアはどれほどがっかりしたことでしょうか。ここにマリアの人間性を想像することが出来ます。
もう一つの場面はイエスの十字架のそばにマリアがいる場面です。ここではマリアの神性があります。第二次世界大戦の時、私は小学生でした。ある日母と電車に乗っていると、戦闘機が急降下してきて、「ダッ!ダッ!ダッ!ダッ!」と機銃射撃をしてきました。電車は急停車し、皆が大慌てで窓から外に逃げ出しました。すぐまた戦闘機が引き返してきました。その時、母は私に覆いかぶさり守ってくれました。「私は死んでも、この子には生きていてほしい。」この時「犠牲の母の姿」を教えられました。ローマの兵士たちが囲む中でマリアは「愛する息子を助けてやりたい」そう思ったでしょう。あれほどイエスを信じると言っていた弟子たちは逃げてしまいました。しかしマリアは、イエスが死ぬのを最後まで見守ったのでありました。ここにマリアの「犠牲の母の姿」を見ることが出来ます。すなわち、マリアは敗北と絶望を目の前にしながら「たたずむ勇気」を持っていたのです。
私たちはここから学びたい。人生には絶望や失望がある。その時マリアの「たたずむ勇気」を思い出しましょう。人生のどん底をじっと見つめましょう。十字架に耐える勇気です。そしてイースターが与えられるのです。それが復活の朝なのです。