2023年4月28日金曜日

2023年4月23日

 2023年4月23日 復活節第3主日礼拝説教要旨

「平和がある。平安がある。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 24:36-43節

 ウクライナ戦争も続き、私たちも先が見えず、不安な気持ちになります。私たちはいろいろな不安を抱えて生きています。

 イエスさまは弟子たちにその姿を現され、そして弟子たちの真ん中に立たれました。そしてイエスさまは弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われました。イエスさまの姿を見た弟子たちは恐れます。そして自分たちがイエスさまの亡霊を見ているのだと思いました。イエスさまが復活されたということを信じることはできませんでした。

 イエスさまのお弟子さんたちは、このときだけが不安であったということではなく、不安なことにいろいろと出くわします。ルカによる福音書8章22節以下に、「突風を静める」という表題のついた聖書の箇所があります。初代教会がいろいろな迫害を経験し、教会に集う人たちの不安が、イエスさまと弟子たちが乗っている舟が突風で沈みそうになる様子に表れているというふうに言われたりします。初代教会の人たちもなにかと不安でありました。

 よみがえられたイエスさまは弟子たちの前にその姿を現され、「あなたがたに平和があるように」と言われました。そして恐れおののいている弟子たちに、「なぜ、うろたえているのか」と言われ、弟子たちを落ち着くようにと諭されました。私たちも臆病な者ですから、いろいろなことで浮き足立ってしまい、こころを騒がせてしまいます。不安になってしまいます。

 「平和」という言葉は、ヘブライ語で「シャローム」という言葉です。「シャローム」は「平和」というだけでなく、もう少し広い意味をもつ言葉です。「救済」とか「健在」とか「順調」とか、そして「平安」です。神さまの平安がありますようにという意味の言葉です。私たちの教会の名前は、「平安教会」です。「皆様のうえに、神さまの平安がありますように」と記すたびに、わたしは平安教会の牧師として、「そうだよ。私たちは神さまの平安が満ちあふれた教会なのだ」と思います。

 「平和がある。平安がある」。イエスさまは私たちの教会の歩みを祝福してくださり、そして私たちに神さまの平安のうちに歩むことを告げ知らせてくださいます。「あなたがたに平和があるように」「あなたがたに平安があるように」「うろたえることなく、神さまを信じて歩みなさい」「神さまはいつもあなたと共にいてくださり、あなたを祝福してくださる」。

 イエスさまの招きに応えて、こころ平安に歩んでいきましょう。


2023年4月21日金曜日

2023年4月16日

 2023年4月16日 復活節第2主日礼拝説教要旨

「ディディモと呼ばれるトマス」 内山宏牧師

  ヨハネによる福音書 20:24-29節

 今日のみ言葉に「ディディモと呼ばれるトマス」が登場します。「ディディモ」とは「双子」という意味ですが、登場するのは一人だけです。

 古来よりこの物語から、トマスは「懐疑家」、「実証家」と言われます。しかし、私はこの理解に違和感を覚えます。トマスは11章と14章にも登場し、特に11章16節「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」という言葉は、冷めた人間の言葉ではありません。ある人は、この言葉を「死の哲学を感じさせる言葉」と捉え、納得できる死に方によって自分の人生を意義づけようとしたが、結局、彼も主を捨てて逃亡した弟子のひとりであり、失意の内に他の弟子たちと共にいることさえできず、さまよい歩いたのではないかと考えました。内に熱い思いを秘めながら、イエス様の十字架の出来事によって挫折し、大きな矛盾を抱えた人間トマスです。彼には他の弟子の「わたしたちは主を見た」という言葉も心に響かず、「あの方の手に釘の跡を見…この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」という挑戦的な言葉を吐くことしかできなかったのではないか。彼は「信じない」のではなく、「信じたくても、信じられない」のです。ここに「引き裂かれた人間トマス」がいます。彼の挑戦的な言葉に引き裂かれた人間の叫びを感じます。

 ここに、ユダヤ教の会堂から追放され、脱落者も出る厳しい状況にあったヨハネの教会が重ねられているかもしれません。また、新型コロナによって交わりが揺ぐという体験や、プーチン政権によるウクライナ侵攻によって尊い命が奪われ、人々が引き裂かれ、分断された世界を重ねることができるかもしれません。

 けれども、引き裂かれた人間トマスは、このまま捨て置かれることはありませんでした。深く傷つき、大きな愛を必要としたトマスのもとに復活の主は来られ、十字架の傷を差し出し、「私は、お前のためにもう一度あの十字架の苦痛を引き受けよう。」と言われたのだと思います。トマスの頑な心が解け、引き裂かれた人間トマスが復活の主によって回復された瞬間です。「傷ついた癒し人」として来てくださった復活の主によって、トマスは信じる世界へと連れ戻されました。福音書記者ヨハネにとって、トマスの双子のもう一人の姉妹兄弟とは他ならないヨハネの教会でありました。そして、私たちもまたトマスの姉妹兄弟となることがゆるされています。


2023年4月13日木曜日

2023年4月9日

 2023年4月9日 復活節第1主日礼拝説教要旨

「立ち上がる力を与えてくださるイエスさま」 

               小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 20:1-18節

 イースターおめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。今日は、教会に来られた方々に、イースターエッグをお配りいたします。野の花会の方々が作ってくださいました。

 ヨハネによる福音書は、マグダラのマリアのところに一番最初に、よみがえられたイエスさまがきてくださったと記しています。マグダラのマリアは、イエスさまを失い、悲しみで一杯でした。せめてイエスさまの葬りの準備をしたいと思ってお墓に行くと、イエスさまの遺体すら消えてしまっている。ただただもう泣くしかない。自分はもう何もできない。どうしたら良いのかわからない。この先どのようにして生きていけば良いのかもわからない。もう立っていることさえおぼつかない。そのようなときに、マグダラのマリアはよみがえられたイエスさまに出会います。そしてイエスさまはマグダラのマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われ、そしてマグダラのマリアは、イエスさまの言葉通り、自分の足で立ち、そしてイエスさまがよみがえられたことを、イエスさまのお弟子さんに伝えました。

 中島みゆきの『時代』は、1975年の曲です。中島みゆきが23歳のときの曲です。48年前の曲ですが、ずっと歌いつがれています。「今はこんなに悲しくて 涙もかれ果てて もう二度と笑顔には なれそうもないけど。そんな時代もあったねと いつか話せる日がくるわ」。もう自分の力ではもうどうしようもないと思えるときがあります。悲しくて、悲しくて、もう立ち上がることはできないのではないかと思うときがあります。

 しかし、イースターの出来事は、私たちに苦しいこと、つらいこと、悲しいことがあっても、よみがえられたイエスさまが私たちと共に歩んでくださり、私たちに立ち上がる力を与えてくださることを教えてくれます。

 悲しみの中にあるマグダラのマリアのところに、イエスさまは一番最初にやってきてくださり、「マリア」とその名前を呼んでくださいました。あたたかい声で、「マリア」と名前を呼んでくださり、マグダラのマリアに立ち上がる力を与えてくださいました。

 イースター、イエスさまが復活されて、私たちのところにきてくださいました。イエスさまと共に、希望をもって歩み始めたいと思います。


2023年4月8日土曜日

2023年4月2日

 2023年4月2日 受難節第6主日礼拝説教要旨

「声高らかに神さまを賛美して」 前川裕牧師

  ルカによる福音書 19:28-48節

  「棕櫚の主日」はイエスのエルサレム入城の場面を記念する場面です。人々がシュロ(ヤシ科の植物)の枝を持ってきて、イエスが通る道に敷いたとされます。このことは他の3つの福音書に記されていますが、ルカ福音書では言及されていません。おそらくルカは枝のエピソードを知っていたはずで、敢えて削除したようです。それはなぜでしょうか。

 枝を道に敷いてイエスを歓迎したのは、他の福音書によれば「大勢の群衆」「多くの人」でした。イエスに「ホサナ」と叫んだのもその人たちです。ところがルカ福音書では、「声高らかに賛美」したのは「弟子の群れ」でした。ルカ福音書の構成では、9章末から19章までイエス一行は長い旅をしています。その間に、イエスは多くの奇跡をなし、教えを語りました。弟子たちもまた、そこに忠実に付き従っていたのです。エルサレムに入城する際、弟子たちは「自分の見たあらゆる奇跡のこと」ゆえに喜びました。それは、自分たちが経験した、イエスによって生まれる新しい社会、いわば「神の国」の実現がいよいよ始まるという期待でもあったのでしょう。

 弟子たちの声には、「天には平和、いと高きところには栄光」というルカ独自のものがあります。ここからすぐ想起されるのは、ルカ2章において天使が羊飼いたちに語った「天には栄光、地には平和」という言葉でしょう。2章では天から、19章では地からと対照的な宣言がなされます。しかし19章で「地には平和」と語られていないことは、現実の状況を反映しています。弟子たちの賛美に対し、ファリサイ派から批判の声が上がります。またイエスはエルサレムへの嘆きを述べます。さらには神殿の境内から商人を追い出すのです。祭司長らはイエスへの敵意を高めていきます。地上の平和どころか、争いが渦巻いているのがエルサレムでした。

 ファリサイ派たちは、いわば「分かりやすい敵」です。ところで入城の際に熱狂的に迎えた弟子たちや群衆は、その後どうなったでしょうか。弟子たちはイエスのもとから逃げ去り、群衆はイエスを「十字架につけろ」と叫びました。それはたった1週間のあいだの出来事です。受難週は、人間の心がいかに変わりやすいものかをも告げ知らせています。私たちの心もまた同じ状態に陥りやすいものです。そのような私たちの内にある「分かりにくい敵」の姿を、受難週に、またイエスの十字架において改めて目に留めましょう。