2023年6月30日金曜日

2023年6月25日

 2023年6月25日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨

 「神さまの愛がいっぱい。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 15:1-10節

 谷川嘉浩、朱喜哲、杉谷和哉の「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる」(さくら舎)という本を読みました。「『わからなさ』を抱えながら生きる方法を気鋭の哲学者たち、熱論」とあります。聖書を読んでいますと、どうもよくわからないとか、ちょっといまのわたしには信じられないというようなこともあるかと思います。わたしも長年聖書を読んでいますが、よくわからないこともあります。でも細かいところにとらわれるのではなく、よくわからない部分もあるけれども、でも全体として信じているというので良いと思います。「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる」というのは、まさに信仰の場面で発揮されるような気がします。

 百匹の羊のうち、一匹を見失ってしまった。九十九匹を野原に残して、見失った一匹を探し回るだろう。見つけることができたら、とってもうれしいだろう。その羊を担いで家に帰り、友だちや近所の人達を呼び集めて、「見失った一匹の羊が見つかったので、一緒に喜んでください」と言うだろう。神さまも同じように、神さまのところから離れてしまった一人の人が悔い改めて、神さまのところに帰ってきたら、とってもうれしいと思う。悔い改める必要のない九十九人の正しい人よりも、罪人が悔い改めたということのほうが、神さまにとってはとってもうれしいことだと思う。そのようにイエスさまは言われました。

 今日の聖書の箇所には、「喜」という感じが、何度も出てきます。喜びに満ちている聖書の箇所であるわけです。イエスさまはうれしいこと出来事を、一緒に喜ぶということは大切なことなのだと、私たちに言っておられます。

 自分だけがなんか損をしているのではないかというような思いになるときがあります。そして人を裁いてみたり、不平を言い出してみたりするのです。「わたしが野原に残されているのは、いかがなものか」「なんで見失った一匹の羊だけを、イエスさまは探し回るのか。わたしのことはかまってもらえないのか」。

 しかし私たちは「大きな喜びが天にある」「神の天使たちの間に喜びがある」、そうした出来事を共にしているということを思い起こして、神さまと一緒に、イエスさまと一緒に喜ぶものでありたいと思います。皮肉を言ったり、人を蔑んだりすることなく、神さまと一緒に、イエスさまと一緒に、喜ぶものでありたいと思います。


2023年6月23日金曜日

2023年6月18日

 2023年6月18日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨

「ただ信じなさい。そうすれば救われる」 

                小笠原純牧師

  ルカによる福音書 8:40-56節

 「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」は、二つの物語が一つの物語になったと言われています。

 私たちには「もうだめだ」と思えるときがあります。十二年間、出血が治まらなかった女性は、医者にかかり続けて、それでも治ることなく、お金も尽きてしまいました。女性は「もうだめだ」と思っていたのですが、最後に、イエスさまのところにやってきて、そしてイエスさまがいやしてくださったのです。会堂長のヤイロも「もうだめだ」と思っていました。一人娘が死にかけているのです。ヤイロもまたイエスさまのところにやってきました。しかしイエスさまが家に着く前に、一人娘が亡くなったということを使いの者から聞きました。ヤイロは「やっぱりだめだった」と思いました。しかしイエスさまは「だめだった」と思ったヤイロに、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と言われ、一人娘を生き返らせました。

 私たちには「だめだ」と思えるときがある。しかし私たちを救ってくださる確かな方がおられると、聖書は私たちに告げています。不安になったり、信じられなかったり、自分ではどうすることもできず、「だめだ」と思える出来事に出会うときが、私たちにはあるけれども、しかし私たちにはすがる方がおられるのだと、聖書は私たちに伝えています。私たちの命の源であり、私たちの救い主である主イエス・キリストが私たちを導いてくださると、聖書は私たちに伝えています。

 この「イエスの服に触れる女」の物語と、「ヤイロの娘」の物語は、十二年という数字が結び合わせた物語であるわけですが、しかしそれだけではなく、この二つの物語は「信仰」の物語であるのです。

 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」「恐れることはない。ただ信じなさい」。イエス・キリストは「神さまを信じなさい」と、私たちを招いておられます。「ただ信じなさい。そうすれば救われる」。これはもう信仰とはそうとしか言いようがないのです。私たちが救われるのに、なにか理由があるわけではありません。なにかできるから救われるのでもないですし、なにかりっぱだから救われるのでもないのです。ただイエス・キリストを信じて、そして救われるのです。

 たとえ「もうだめだ」と思えることがあったとしても、神さまから見捨てられたのだとあなたが思ったとしても、神さまはあなたを愛しておられる。だから「神さまを信じなさい」。そのようにイエスさまは私たちを招いておられます。イエス・キリストの招きに応えて、神さまを信じて歩みましょう。


2023年6月16日金曜日

2023年6月11日

 2023年6月11日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨

「わがままばかりでごめんなさい」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 14:15-24節

 今日は花の日子どもの日で、ひさしぶりに子どもの教会との合同礼拝を行なうことができました。

 イエスさまは宴会を開く時に、人を招くのであれば、お返しをすることのできない人を招くのが良いと言われました。そうすれば神さまがむくいてくださるからです。そしてイエスさまは「大宴会」のたとえを話されました。ある人が盛大な宴会を開こうとして用意をしたけれども、招待していた人たちは、みな言い訳をして断ります。主人は怒って、貧しい人、体の不自由な人たちを招きます。それでもまだ席が埋まらないので、だれでもいいから連れてこいと、僕に言います。ただ以前招いた人は、もう二度と食事を共にするつもりはないと、主人は言いました。

 このたとえの主人というのは、神さまのことです。たとえを聞きながら、「神さま、そんなに怒らないでください」と思わないでもないわけですが、でも一生懸命に計画をして招いたのに、急に自分の都合だけで欠席だと言ってくるというのは、まあ腹の立つことだと思います。

 私たちも神さまから招きを受けているにも関わらず、その招きをないがしろにしているようなところがあります。「なんか面倒だ」「それは良いことかも知れないけれども、でもね。こっちの都合もあるわけだし」「畑を買ったので、いけません」「馬を買ったので、いけません」「羊を買ったので、いけません」「犬を買ったので、いけません」「買い物にいかなければならないので、いけません」「雨が降ったので、いけません」「あまりに天気が良いので、いけません」。

 しかしそうした自分勝手な私たちをそれでも招いてくださっている神さまがおられます。神さまから招かれているにも関わらず、わがままばかり言っている自分に気がつきたいと思います。神さまからいろいろな恵みをいただいているにも関わらず、それに気がつかないで、不平や不満を口にすることの多い自分に気がつきたいと思います。

 「わがままばかりでごめんさない」。そして正気に戻って、神さまに感謝するものでありたいと思います。神さまは私たちを愛してくださっています。私たちに命を与えてくださり、私たちに生きる力を与えてくださいます。神さまは私たちに良きものを備えてくださり、私たちが共に生きていく知恵を与えてくださいます。私たちがさみしいとき、私たちを慰めてくださいます。神さまが私たちともにいてくださいます。安心して、神さまにお委ねして歩んでいきましょう。


2023年6月10日土曜日

2023年6月4日

 2023 年 6 月 4 日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

「百花のさきがけ」 高田太牧師

  使徒言行録 9:3-20 節

 2015 年から同志社教会と梅花女子大学で働いています。以来、この両者の繋がりが、わたし達、会衆主義の伝統に連なる教会のための大切な遺産であると気付かされ続けて来て、これによって信仰を養われています。

 同志社の創立者、新島襄が死の間際に詠んだ有名な漢詩があります。「庭上の一寒梅、笑うて風雪を侵して開く。争わずまたつとめず、自ずから占む百花の魁」。この 2 年ほど前、1887 年 4 月 1 日に新島は月ヶ瀬に出かけています。「梅花の消息を問わんと欲し、今朝、俄に思い立って木津に来たる」というのです。なぜ梅も終わりのこの時期なのでしょうか。

 1878 年、大阪最初の女学校として梅花女学校が生まれました。その時代、女子の教育は必要と思われておらず、キリスト教への風も優しいものではありませんでした。それでも風雪を侵して、春を告げるべく花は開きました。この梅花学園の創立者は、浪花公会牧師の澤山保羅[ぽうろ]です。新島同様、アメリカに留学しましたが、英語の習得に苦労し、病に倒れることしばしばにして、私費留学で生活も貧しかったのでした。留学の 3 年目、公費留学扱いにしてもらえないかという願い出も却下され、目の前は真っ暗だったでしょう。ダマスコへの道で視力を失ったサウロの姿がこれに重なります。

 暗闇の中のサウロを訪ねたのはアナニアでしたが、澤山のアナニアは宣教師レビットでした。目からうろこが落ちました。なぜ自分がアメリカにいるのか、立身出世のためだと思えば暗闇であったその同じ状況が、まさに日本へのキリスト教伝道のための完全な備えであったと気付きました。澤山はパウロの名を自らのものとし、パウロのごとくに自給の道を行きました。しかしその精神が、京都と大阪の対立を生み出すこともありました。

 澤山の永眠は 1887 年 3 月 27 日、29 日に告別説教をしたのは新島でした。新島の月ヶ瀬行は葬儀の三日後です。「梅花の消息を尋ね」に行ったのです。まさに梅の終わりの時、月ヶ瀬の梅林に新島は澤山の姿を、そして梅花女学校の姿を重ねて祈ったのでしょう。その祈りこそが美しい漢詩を生み出したのではないでしょうか。

 百花のさきがけとして大阪に開いた梅花の自給の精神は、「必要なものは神与えたもう」の信仰です。会堂に関する幻を抱いておられるこの時に、わたしどもの教会の原点にあるこの精神をお伝えできたらと思いました。


2023年6月3日土曜日

2023年5月28日

 2023年5月28日 聖霊降臨節第1主日礼拝説教要旨

「良いものを与えてくださる神さま」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 11:1-13節

 ペンテコステ、おめでとうございます。

 弟子たちはイエスさまにお祈りを教えてほしいと言い、イエスさまは「主の祈り」を教えられ、神さまに熱心に祈ることの大切さを伝えられました。

 わたしが保育園で初めて園長として働くようになったとき、若い保育士の女性が、保育経験のないわたしに大切なことを教えてくれました。それは、「こどもが『これしてほしい』と言って、『あとでね』と応えた時は、かならずあとでそのことをしてあげてくださいね」ということです。こどもに頼まれたとき、「あとでね」と言うことがあるわけです。でも忘れてしまったりすることが出てきます。でもこどもは「あとでね」と言われたら、覚えていて「あとでしてくれるのだ」と思って、ずっと待っています。でも「あとでね」と言われても、それをあとで行うことがなければ、「あとでね」という言葉は、むなしい言葉になってしまいます。人に対する基本的な信頼感、言葉に対する基本的な信頼感が、成長の過程で失われていきます。どうせ願っても、その願いはかなえられることはないのだということが、幼児のこころのなかで、確かな気持ちとして残っていくわけです。

 イエスさまの時代の人たちも、「願いはかなえられないものなのだ」という思いを持っていた人たちがたくさんいただろうと思います。

 いろいろな悲しい出来事や苦しい出来事、つらい思いをすることがあっただろう。もうだれも信頼することができない。世の中にはたくさんの人がいるのだから、神さまだってわたしのことなど心配している暇はないに違いない。だから希望を持つなんてことは考えないで、ただただ一日が過ぎていけばそれでいいんだ。そんなふうにあなたたちは思っているかも知れない。でもそれはやっぱり違うよ。神さまはあなたのことを愛しておられるのだ。あなたのことを大切な一人として見ていてくださり、あなたのことを愛してくださっているのだ。だから神さまに願いなさい。神さまに祈りなさい。神さまが共にいてくださることを信じなさい。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。

 聖霊でもって私たちを祝福し、私たちを用いてくださる神さまがおられます。神さまにお委ねして、安心して歩んでいきましょう。