2020年6月17日水曜日

2020年6月14日

2020年6月14日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨
   「新しく生まれる」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 3:1-15節
 わたしが大学生をしていたときは、上野千鶴子などのフェミニストが活躍をしていた時代でしたので、聖書の読み方などについても、とても大きな影響を受けました。ちょっとおおげさな言い方になりますが、今日の聖書の言葉のように、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」というような感じのことであったような気がします。
 イエスさまは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と言われました。そして「わたしを信じることによって、人は永遠の命を得ることができる」と言われました。わたしを信じて、新しく生きるのか。それともいままでと同じように生きるのか。永遠の命を得るために、わたしのところにきて、新しく生きよう。そのようにイエスさまは言われました。
 イエスさまは根本的なことを問われたのに対して、ニコデモは小手先で信じようとしました。ニコデモはイエスさまのことを神さまのもとから来られた教師であることを知っていました。しかしニコデモは「夜」、イエスさまを訪ねてきました。半分はいままでの世の中に身を置いて、そして半分はイエスさまを信じてと言うように、ニコデモは小手先でイエスさまを信じようとしました。
 イエスさまが言われる「新しく生まれる」ということは、自分の力によって生きる生き方から、神さまにより頼む新しい生き方をするということです。人はうまくいっていると、あたかも自分の力で生きているかのように思ってしまうことがあります。わたしはこれだけ努力しているのだからうまくいって当然だ。わたしはわたしの力で生きている。しかしじっさい多くの大切なものは、神さまから与えられたものであったり、先人のつくってくれた社会的な保護であったりします。
 神さまが私たちに命を与えてくださり、私たちは生きているのだ。だから私たちはわかちあい助け合う、神さまが望まれる生き方をしたいと思う。イエスさまはそのように言われました。私たちは謙虚な思いになって、神さまにより頼む生き方をしたいと思います。神さまが私たちを愛してくださり、私たちを神さまの民として祝福してくださっています。神さまの愛のうちを、神さまにより頼んで歩んでいきましょう。

2020年6月7日

2020年6月7日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨
   「聖霊に守られて」 小笠原純牧師
     ヨハネによる福音書 14:8-17節
 ソニーの創業者の井深大は、日本基督教団富士見町教会で洗礼を受けたクリスチャンです。学生のときは早稲田大学の近くの友愛学舎というYMCAの寮に住んでいました。「たとえその人員はわずかで、その施設は乏しくとも、その運営はいかに楽しきものであり、その成果はいかに大であるかを考え、この理想を実現できる構想を種々心の中に描いてきた」(『東京通信工業設立趣意書』井深大起草)というのは、なんとなく教会的だなあと思います。
 「身の回りの人間的なちいさな問題を、自らの責任において引き受けることだけが、この苦境を乗り越える第一歩となる」という「小商いのすすめ」(平川克美)は、クリスチャンの歩みに似ています。「こつこつと福音の種を蒔き続ける」「自分のできる良いことを誠実に行っていく」。クリスチャンは「小さな良き業に励む」ということに尽きると、わたしは思っています。
 ペンテコステ、弟子たちに聖霊が降り、神さまのこと、イエスさまのことを宣べ伝え始めました。聖霊は私たちにも降り、私たちは聖霊に満たされて歩みます。聖霊に満たされるというのは、神さまが私たちの内におられるということです。よく考えてみると、それはなんともうれしいことです。神さまが私たちの内におられるのです。
 神さまが私たちの内におられるということは、神さまが人間を創造されたときに、もうすでに神さまがご計画なさっています。創世記2章7ー8節にはこうあります。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。人は神さまの息が宿ることによって生きる者となりました。まさに神の息である聖霊が宿ることによって、人は生きる者となったのです。
 聖霊に守られて、小さな良き業に励みましょう。神さまは私たちを豊かに祝福し、私たちに必要なものを備えてくださり、私たちを神の民として用いてくださいます。

2020年6月10日水曜日

2020年5月31日

2020年5月31日 聖霊降臨節第1主日礼拝説教要旨
   「私たちをつないでくださる聖霊」 小笠原純牧師
     ヨハネによる福音書 14:15-27節
 ペンテコステ、おめでとうございます。弟子たちが聖霊にみたされて、神さまのこと、イエスさまのことを宣べ伝え始め、教会がたてられるようになります。ですからペンテコステは教会の誕生日と言われます。私たちクリスチャンは聖霊に導かれて、聖霊の御守りのうちに歩んでいます。聖霊が私たちをつないでくださり、私たちの交わりを聖なるものとしてくださっています。
 「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」。そのようにイエスさまから言われると、とてもうれしいし、イエスさまが言われるようなことだったら、とってもいいよなあと思えます。でも一方で、自分のことはよく知っているわけで、そんなりっぱな人間でもないわたしが、そんな大きな恵みのうちに入れられていて良いのだろうかと思います。そんなに世の人と違うようにも思えないわたしなのに。
 そのような心配をする私たちに、イエスさまは「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」と言われました。あなたは曲がりになりにも、わたしの言葉を守ろうとして生きているではないか。
 私たちは心の弱い者ですから、イエスさまの御言葉を聞きながらも、すこしすると忘れてしまって、自分勝手な思いで生きていたりします。しかしそんな私たちにイエスさまは「大丈夫、あなたたちに聖霊が働くから」と言われます。【聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる】。あなたたちは聖霊によって、また思い直して、わたしの言葉を守って生きる力が与えられる。安心して歩みなさい。聖霊の導きによって、平和が与えられ、平安な気持ちになって、あなたたちは恐れず、歩んでいくことができる。
 「心を騒がせるな。おびえるな」と、イエスさまは言われます。弱い私たちですけれども、聖霊の力を信じて歩んでいきましょう。

2020年6月4日木曜日

2020年5月24日

2020年5月24日 復活節第7主日礼拝説教要旨
  「わたしの渇きをいやしてくださる方がおられる」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 7:32-39節
 新型感染症のためマスクをしている人が多いと思います。これからの季節、熱中症にも気をつけなければなりません。熱中症は自分が気づかないうちに、熱中症の状態になってしまいます。熱中症は、渇いていることに自分が気づかないのです。「渇いているのに気づかない」というのは、熱中症の場合だけでなく、人は自分の心の渇きということについても、なかなか気がつかないということがあります。
 ファリサイ派の人々や律法学者たち、ユダヤ人たちは、自分たちが渇いているということに気が付きませんでした。イエスさまから「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることができない」と言われ、そして彼ら自身も「イエスは遠くに逃げていくのか」というようなことを言っています。しかし同時に、彼らは「その言葉の意味はどういう意味なのか」と、イエスさまの言われた言葉が、すこし気になるということを言っています。ちょっと気になるのです。イエスさまの言葉を拒否しているにも関わらず、しかし彼らもまたイエスさまの言葉が気になるのです。それは彼ら自身が「渇いている」からでした。
 イエスさまは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言われました。イエスさまは「だれでも」と言われます。あなたはファリサイ派の人だからだめだとは言われない。あなたは律法学者だからだめだと言われない。もしあなたがた「わたしは渇いている」と気づいたのなら、「だれでも」わたしのところに来て飲みなさいと、イエスさまは言われました。「あなたの内から生きた水が川となって流れ出るような世界があるのだけれど、あなたはその世界に来ないか」。「あなた自身もあなたの周りの人々もみんな渇くことがない。あなた自身が神さまの良き泉となって、人々の渇きをいやすことができる。わたしのところに来て、永遠の命へ至る水を飲まないか」。イエスさまはそう言って、私たちを招いておられます。
 わたしの渇きをいやしてくださる方がおられます。イエスさまの招きに応えて、イエスさまを信じて歩んでいきましょう。