2023年8月26日土曜日

2023年8月20日

 2023年8月20日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨

「恥ずかしいことをしてしまった。」 小笠原純牧師

  マタイにによる福音書 21:18-32節

 9月1日は関東大震災から100年の日です。1923年、関東大震災のときに、朝鮮人が暴動を起こしているというデマを信じて、朝鮮人に対する虐殺事件がたくさん起こりました。今年こそ、東京都知事は「考え直して」、1923年の関東大震災で、虐殺された朝鮮人らを悼む式典への追悼文を送っていただきたいなあと思います。

 イエスさまはたとえ話をされました。二人の息子をもつ人がいて、兄の方に「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と言いました。すると兄は「いやです」と答えます。でも後で考え直してぶどう園に行って働きました。

 イエスさまは「後で考え直す」ということは大切なことだと言われます。人間ですからそのとき機嫌が悪いというようなこともあります。また体調がすぐれないということもあるかも知れません。元気な時であれば素直に応じることができることであっても、機嫌が悪かったり、体調がすぐれなかったりすると、意固地になってしまうというようなこともあります。出かけに夫と口論になり、いやな気持ちを抱えて、人に会いに行くと、その人が言った小さな冗談が気に障って、大きな口論になるというようなことも、人間ですからあるわけです。でもあとから冷静になって考えてみると、「ああ、やっぱり自分が悪かったなあ」と思えることもあります。

 祭司長や長老たちは「後で考え直す」ことができませんでした。徴税人や娼婦たちは、洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて悔い改めました。しかし祭司長や長老たちは、徴税人や娼婦たちが悔い改めた様子を見ても、彼らは「後で考え直して」、洗礼者ヨハネを信じることはできませんでした。

 しかし洗礼者ヨハネの呼びかけに、徴税人や娼婦たちが答えたように、私たちもまた悔い改めつつ歩んでいきたいと思います。私たちが神さまの前に誠実な歩みをしているときに、「やっぱりわたしも誠実な歩みでありたいよね」と思う人たちが増えてくるだろうと思います。そして私たちの世界も良い世界になると思います。

 イエスさまは私たちに「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と教えてくださいました。私たちは「御国がきますように」と信じて祈りたいと思います。神さまの義と平和とが満ちあふれる世界になりますようにと、信じて祈りたいと思います。よくないことやへんなこともしてしまう私たちですが、それでも「後で考え直して」、神さまの前に悔い改めて、神さまの平安のうちを歩んでいきたいと思います。


2023年8月19日土曜日

2023年8月13日

 2023年8月13日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨

「おごれる人も久しからず」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 12:35-48節

 「おごれる人も久しからず」は、平家物語の冒頭の一節です。近代外科学の開祖と言われるアンブロアズ・パレという人は、謙虚な人だったと言われています。パレが残した有名な言葉は「我、包帯し、神、これを癒やしたもう」という言葉です。「よくなりましたね」「はい、先生のおかげです」「いえ、私は包帯をしただけです。あなたを治したのは神さまですよ」。そのようにパレは患者に接していたようです。

 世の終わり・終末のときに備えてちゃんとしている忠実で賢い管理者である僕は、神さまから大きな祝福を受けるわけですが、そうではなくいいかげんなことをしている不忠実な管理者は、神さまから罰せられるのです。神さまは管理者である僕にいろいろなことをまかせているわけです。ある意味信頼されているのです。だからその信頼に応えなければならないのです。

 神さまから託された管理者として、してはいけないことというのは、「下男や女中を殴ったりしてはいけない」ということです。「下男や女中を殴ったりしてはいけない」というのは、結局、「謙虚になりなさい」ということなのです。力で人を支配しようとするのは、それは神さまの目からすると、それは異常なことなのです。自分のことを考えられないくらい高いところに置くからこそ、力で人を支配することができるのです。暴力的であったり、力で人を支配しようとすることを、神さまは強く戒められ、「謙虚になりなさい」と言われるのです。

 讃美歌1編の11番の「おごらず、てらわず へりくだりて わが主のみくらと ならせたまえ」という歌詞は、なかなか印象的な歌詞です。私たちクリスチャンは、「終末を見つめて、きちんと生きる」ということが大切です。周りの人々から誉めたたえられるような生き方でなくても、神さまとの関係を正しく保って、きちんと生きるのです。私たちは罪人ですから、正しく生きることはできないかも知れません。それでもやはり神さまの前に立つ一人の罪人として、きちんと生きるのです。世の終わり・終末に、神さまの前に立つということを、心に留めて、きちんと生きるのです。できなかったことはできなかったこととして、神さまにご報告し、だめだったことはだめだったと、神さまにご報告する。そして神さまに守られ、神さまに愛されて、人生を歩むことができた幸いを、心から感謝したいと思います。

 「おごらず、てらわず へりくだりて」、クリスチャンとしての良き人生を歩みましょう。


2023年8月11日金曜日

2023年8月6日

 2023年8月6日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨

 「隣人を自分のように愛しなさい。」 小笠原純牧師

   ルカによる福音書 10:25-42節

 ことしは平和聖日に、「戦争プロパガンダ展」を計画いたしました。私たちは過去の戦争を振り返りながら、自分たちが戦争に駆り出されて行くことのないようにしたいと思います。

 「わたしの隣人とはだれですか」という問いに対して、イエスさまは「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と、律法の専門家にたずねています。隣人の定義はどうだこうだということではなく、「人は隣人になる」のだと、イエスさまは言われます。「隣人はだれか」ではなく、「隣人になる」のだ。隣人とはそういうものだ。隣にいる困っている人が隣人で、その人をあなたが助けて、その人の隣人になるのだと、イエスさまは言われました。

 私たちは「永遠の命を受け継ぐためには」「隣人とは」「困っている人たちを助けたい」「世界の平和のために」というようなことを話しながら、実際は家族のなかで、「あいつ、どうよ」というようなことを繰り返します。

 マルタはマリアの態度がいやでした。イエスさまがお家にやってきたので、マルタはイエスさまをもてなすために一生懸命に働いています。しかしマリアはイエスさまの足もとに座って、イエスさまの話を聞いています。それでマルタは「あいつ、どうよ」と思います。そしてイエスさまに「なんとか言ってください」と頼みます。

 いいことをしていると思っているときには、人は人のことを裁きがちです。「あいつ、どうよ」と思います。「わたしが一生懸命に、イエスさまのおもてなしをするために働いているのに、『あいつ、どうよ』」。「わたしがこんなに世界平和のために一生懸命に働いているのに、『あいつ、どうよ』」。「わたしが一生懸命にイエスさまの話を聞いているのに、『あいつ、どうよ』」。

 イエスさまは「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。マルタがそうであったように、身の回りのことでも、私たちはついつい腹を立てて、自分の心の中を憎しみまみれにしてしまうことが多いです。「あいつ、どうよ」「どうして、あの人、あんなことしているの」。心の中がついつい憎しみや怒りに支配されてしまうということがあります。しかしイエスさまは「愛しなさい」と言われました。あなたは憎しみに支配されてしまっているけれど、でも大丈夫。わたしの愛をあげるから、あなたも愛するようになりなさい。

 神さまの愛に満たされて、平和を実現する人として、隣人を愛し、神の子として歩んでいきましょう。


2023年8月4日金曜日

2023年7月30日

 2023年7月30日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨

 「お調子者でごめんなさい」 小笠原純牧師

   ルカによる福音書 9:51-62節

 太宰治の『走れメロス』は、友人を人質において妹の結婚式に出席し、帰ってくるという話です。人生には「これをする前に、それをしておきたい」というようなことが起こるわけです。

 イエスさまの時代は世の終わり・終末ということを、みんなが身近に感じていました。あんまり悠長なことを言っている場合ではないので、「どっちにするんだ。どうするんだ」ということが激しく問われるわけです。

 イエスさまが弟子を選ばれたとき、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、どちらも「すぐに」、イエスさまについていくのです。イエスさまのお弟子さんたちは、いろいろな失敗をするわけですが、でもこの「すぐに」イエスさまについていったということは、とても良いことであったわけです。イエスさまの弟子たちは「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」「まず家族にいとまごいに行かせてください」とは言わないのです。

 人はどちらかというといさましい物語が好きです。「すべてを棄てて、イエスさまに従った」という物語にこころ引かれていきます。わたし自身もそうです。こころが踊るような信仰の話を聞くとうれしくなります。ですから「お家の人の介護をした人たちはだれですか」というようなことは、あまり気に留められてきませんでした。高齢化社会になって、「ケア」の大切さということが言われるようになっています。ケアというのは、家事、育児、介護、医療や看護というようなことです。

 「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った人も、まあなかなか調子の良い人であるわけです。いろいろなことを考え始めると、なかなかイエスさまに付き従うという決断をすることはできません。「イエスさまに付き従う」と言った後で、そのようにできない事情が出てくることもあるかも知れません。「すみません。従うことができませんでした」というようなこともあるかも知れません。

 先のことはよくわからないのですが、私たちは調子よく「イエスさまに従います」という思いも大切にしたいと思います。「お調子者でごめんなさい」。「すみません。ちょっとできませんでした」ということがあるかも知れません。

 私たちのことをすべて知ってくださり、そして私たちのことを愛してくださるイエスさまが、私たちを招いてくださっています。「わたしに従いなさい」との招きに応え、イエスさまにお委ねして歩んでいきたいと思います。