2016年11月28日月曜日

2016年11月13日

2016年11月13日 主日礼拝説教要旨
  「キリストに結ばれている」宇野稔牧師
  (フィリピの信徒への手紙1章1〜2節)
  パイオニア・オーシャン・ビュー(POV)教会交流礼拝

 姉妹教会としての歩みを始めるに当たり、5人のメンバーをPOV教会(アメリカ)よりお迎えすることが出来ました。心より歓迎し喜びいっぱいです。そういう意味で何故今朝はこのテキストでしょうか。
 この手紙はパウロの獄中からの喜びの通信と言われています。人間は幸福な時に喜ぶのは普通ですが、喜べない方が返っておかしいのです。しかし、喜ぶ事の出来ない時に喜ぶのは大変難しいのです。パウロは獄中でありしかも殉教を目前にして緊迫した状況にありました。にもかかわらず、この手紙には「喜び」という字が多くあります。
 ここで教えられるのは、喜びの根拠をどこに置いているのかということです。私たちはキリスト教を信仰しつつもその生活の根拠が自分であったり、この世のことであったりするのではないでしょうか。今日の箇所で「キリストの僕」パウロと「キリストに結ばれている」フィリピの教会という両者の関係がその喜びの内容なのです。 
 丁度、平安教会とPOV教会にもそのことが重なるのではないでしょうか。1節の「結ばれている」というのは「エン・クリスト」、即ち「キリストにある」であり、「キリストに出会う」と訳すと伝わりやすいのです。
 私たちはキリストに出会っているから「聖」なるものとされており、キリストによらなければ「聖」ではありません。この意味は立派というものではなく、「神のもの」なのです。私たちは能力や資格で結ばれているのではありません。私たちはキリストに結ばれて、教会に連なりそして、仲間となり友人となっているのです。人間的には弱く歪んだものです。しかしそういう私たちであるにもかかわらず、キリスト・イエスの十字架と復活に結ばれることによって「神のもの」とされたのです。これが原点です。苦しいときは励まし合い、感謝し、喜びあえるのはお互いがその原点をもっているからです。
 キリストに結ばれたものとして、広い大きな視野に立ち、共に歩き始めたのです。

2016年11月21日月曜日

2016年11月6日

2016年11月6日 聖徒の日・召天者記念礼拝説教要旨
  「生涯の日を数える」宇野稔牧師
  (詩篇90篇3〜12節)

 お名前が記されている669名の方を覚えての礼拝です。死は自然のことでありますが、12節には生涯の日を正しく数えるように教えて下さいとあります。しかし数えるとはどういう意味でしょうか。数えるとは必ず死があるということです。限界のある生涯を送るのは、どのように正しく数えていくのか、即ち、神の前にどのように生きて行くべきかなのです。故に、その知恵ある心を得させて下さいと要求されていると思うのです。
 しかしながら、人間の知恵とは賢くはありません。例えば、愛する人々の死を前にして、何故何故と問い続けてしまいます。こんなにも早くなら間違いではないですか、と。死と向き合う時、神の御業を現すべく生涯の日を数えて行かなくてはならないのに、主の御旨を正しく知るということは、中々わからないものです。しかし、一人の人生はその長短ではありません。この世に生きている、この世にいなくなっても生きている間に神の前にどう生きたかがものを云うのです。まさに、キリストに結ばれた者は、命なくとももの種であるということを教えられます。
 人は死んでも今なお語るということは本当です。私たちの生涯は罪と死の恐怖から救い出されました。このイエス・キリストの死が何のためだったのか、このことを正しく考える時に、その事自体が知恵ある心となるのです。十字架の死がこの罪と死の力を打ち破って私たちを救い上げて下さったのです。ですから、このことを信じ受け入れることが知恵ある心であり、<主を畏れる>ことは知恵の始めであるとあるように、主を畏れ主のなされる御業を受容することです。
 私たちは恵みにより救いにあずかっています。恵みにより生きているものは、命なくてももの種なのです。従って生きるにも死ぬるにも、この身に公然とキリストの御業が現れることを願うのが、おのが日を数えて生きる者の姿ではないかと思うのです。
 先に召された669名の兄弟姉妹の上に、主の豊かなお慰めをお祈りします。

2016年11月15日火曜日

2016年10月30日

2016年10月30日 主日礼拝説教要旨
  「神を愛し、人を愛しなさい」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書12章28〜34節)

 このテーマは教会の使命であります。平安教会ではバザーの週であり、使命を果たすために皆が祈りと共に励むのです。
 一人の律法学者が「最も大切な教えは何か」と尋ねた時、イエスは「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と答え、そして、「隣人を自分のように愛しなさい」と語られたのです。それに対して律法学者は「先生、おっしゃる通りです」と同意し、「あなたは神の国から遠くない」という言葉をもらっています。
 ここで考えさせられるのが、有限な存在である人間が永遠の存在である神を愛することが可能かどうかという点です。それは我々が「神を愛す」瞬間を生きる時があります。それを永遠の生命と呼ぶのだと思うのです。つまり、限りある人間が神との協働の中で神の永遠の生命の一部となるのです。その最も象徴的な行為が礼拝です。ロマ書12章1節でパウロが語っています。私たちのために生命をささげて下さったイエス・キリストのために私たちが自分をささげること、それが礼拝です。平安教会は140年の歴史を与えられています。これまで以上に自覚的に確実に「希望」をもって使命に生きるのです。
 さらにイエスの言葉は、「教会は礼拝さえ守ればよい」のではありません。神を愛すると同時に人を愛する事を求めておられます。これを解説したのがサマリア人の喩えです。そして最後に「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。答えはサマリア人です。
 隣人を愛することの根源は、相手の痛みに共感することです。同じように痛むことです。これこそ今日の教会の使命であると同寺に宣教の使命です。即ち、使命はどちらかだけになってしまっては教会の本質的な生命を失ってしまうのです。34節に「あなたは神の国から遠くなり」と律法学者に云われた意味は、知識として納得するのと神の国にはいるということは関係がないと示されたのです。神の国は知識の問題でなく、そこに入らなければならない。イエスが一つの決断を促された言葉です。

2016年11月8日火曜日

2016年10月23日

2016年10月23日 主日礼拝説教要旨
  「神のものは神に」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書12章12〜17節)

 この所は最後の論争物語です。ここからは力の戦いが始まります。その主題になったのが納税問題でした。ファリサイ派とヘロデ党は納税について考えを異にしていました。ファリサイ派は民族主義の強い人間でしたから、ローマに税金を支払うことを心よしとはしなかったのですが、ヘロデ派は逆にローマに税金を支払うべきだという立場だったのです。それ故にイエスはどちらの側の態度を示すのか、はっきりさせようとしたのです。
 それはイエスを自分たちの味方につけようと考えたのでなく、イエスを陥れるための証人として存在しているのです。イエスが「税金は皇帝に支払うべきだ」と云えば、ファリサイ派はユダヤ民族の裏切り者と呼んで人気を落とそうと考えていたのです。
 一方、「皇帝に払わなくてもよい、神に返すべきだ」と云えば、イエスをローマに対する反逆にを指導したと云うことで逮捕させるのです。どちらにしてもイエスの死につながる言葉尻を捉えようとする罠だったのです。
 絶対絶命のピンチの中でイエスは見事に切り返します。「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」でした。イエスの答えに彼らは驚き、それからは論争によって仕掛けることはなくなったのです。つまりイエスは先ほどの言葉によってこれを誰のものと考えているのか、という問い掛けだったのです。
 信仰をもっていると云いながら、世渡りの事のみを考えてお金を頼みとしているのがヘロデ派であり、神のことを語りながら人の事ばかり見ていたのがファリサイ派でした。「本当にこれを神のものと思うなら、どんなに危険でも神に返しなさい」と云われたのです。痛烈な批判であり、問い掛けでした。
 そして、この言葉は私達に向けてもチャレンジです。皇帝のものと考えてしまうのか、それとも皇帝の刻みの中になお神のものであると認めて行くことは、そこにもなお神の支配があり歴史の支配が神であることを信じることなのです。さらに、「あなたはわたしのものだ」と語りかけて下さっている言葉ではないでしょうか。「私は神のものだ」その思いで歩みましょう。